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源流なび Sorafull

天女の羽衣と浦島伝説を結ぶ月の女神

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今回は丹波へ逃れていった月の女神の足跡を追ってみたいと思います。まずは丹後国風土記の伝承から。

 

天の羽衣伝説

奈具社

丹後国に比治の里がある。比治山の頂に「真名井」という泉があったが今は沼である。この泉に8人の天女が降りてきて水浴びをした。そこへ老夫婦が通りかかり、1人の天女の羽衣を隠してしまった。泉から上がった天女たちは羽衣を着て天に帰っていった。ひとりの天女を残して。老夫婦が天女に言った。「私たちには子がいない。どうか私の子になってくれないか」

天女は衣を返すよう懇願したが、老夫婦は衣を渡せば天に帰ってしまうだろうと言ってきかない。天女が言った。

「天の者は真実の心に従います。疑いの心をもっているのは人間でしょう」

衣を返された天女はそのまま老夫婦に付き従った。天女は酒造りに長け、それを一杯飲むと万病を癒した。やがてその家はたいそう豊かになり不自由もなくなった。

10年が過ぎたころ、老夫婦は天女に「私たちの子ではないから出て行ってくれ」と言った。天女は天を仰いで声を上げて泣き、地に伏して悲しみ嘆いた。

「私は自分の意志でここへ来たのではありません。あなた方が願ったからです。どうして急に嫌い憎んで捨てるのですか」

天女は涙を流しながら門の外へ出て呟いた。「長い間人間の世界に沈んでいたので、天に還る方法を忘れてしまった。知り合いもいなくてどこへ行けばよいかもわからない」そして嘆きの歌を詠んだ。

天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも

そこを立ち去って、荒塩の村から哭木なききの村へ、そして竹野たかのの郡舟木の里の奈具の村に行き着いた。「この場所でようやく私の心は穏やかになった(なぐしくなった)」と言ってこの村に留まり住んだ。この天女は奈具の社に鎮座しておられる豊宇加ノ女ノ命トヨウカノメノミコトである。

 

籠神社の奥宮・真名井神社

丹後国一之宮の籠この神社の北に、旧宮である真名井まない神社が鎮座しています。ここは火明ホアカリノ命が天孫降臨した地であり、このブログでは何度も出てきますが、徐福(=ホアカリ)の息子である五十猛(=海香語山)が移住した地です。香語山の息子が大和の初代大王、海村雲でしたね。籠神社宮司である海部家は香語山の直系子孫となります。

籠神社の伝承では始祖火明命が降臨する際に豊受トヨウケ大神とともに地上に降り、この大神を祭る場所として香語山が比治の真名井原に吉佐宮(古くは匏宮)を建てたそうです。籠神社の説明によると、豊受大神は五穀や養蚕を人々に伝えた衣食住の神といわれます。また別名を天御中主アメノミナカヌシ神、国常立クニトコタチ尊、御饌津ミケツ神、その顕現した神を豊宇気毘女神とも言います。食物を司るという類似性から宇迦之御魂ウカノミタマ、保食ウケモチ神などとも同神とされています。ただし丹後風土記にある天女、豊宇加ノ女神は豊受大神の属性の神ですが、伊勢下宮の主祭神豊受大神とは別神であり、御酒殿神として伊勢神宮の所管社に祀られているとのことです。

ここで天御中主アメノミナカヌシに注目してみます。この神は宇宙の中心の神、根源神とされ、道教的な存在です。丹後地方ではヤハウェのことだとも言われているそうです。徐福とともに来日した秦族は、秦に滅ぼされた斉国出身であり、その斉国の王族は消えたユダヤの十氏族のひとつとも言われています。なので徐福の伝えた道教にはユダヤ教の流れがあると。旧約聖書に出てくる食べ物に「マナ」というものがあり、イスラエルの民がエジプトを脱出した後に荒野で飢えた時、神が天から降らせた聖なる食べ物です。100万人の民が救われたそうです。

風土記に記されているのは、豊受大神が降臨した際、真名井を掘ってその水を水田や畑に注ぎ、五穀の種を蒔いたとあるので、この旧約聖書の「マナ」から来ている可能性もありますね。

 

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 天の真名井の水

 

籠神社の伝承では、豊鋤入姫(豊来入姫)が天照大神を大和の笠縫村からここ真名井原に遷し、吉佐宮で豊受大神とともに4年間お祀りしたそうです。元伊勢と呼ばれるところは他にも20数か所ありますが、このように天照大神豊受大神を同時にお祀りしていた宮というのはここだけです。

その後天照大神はヤマト姫(イクメ大王とヒバス姫の娘)によって伊勢の地に遷されました。それから480年後、豊受大神天照大神の食事を司る神として伊勢へと迎えられました。その後、吉佐宮は籠宮として現在の籠神社の場所に移転し、吉佐宮は真名井神社になったということです。現在、伊勢神宮内宮に天照大神が、下宮に豊受大神が祀られています。

 

出雲の伝承

さて、ここで疑問が生じてきませんか。豊来入姫は月の女神を祭祀しており、天照大神ではありませんよね。月の女神が消えています。

出雲の伝承によると、太陽の女神を三輪山から遷したのは佐保姫とされています。前回のブログで紹介したように、佐保姫はイクメ王のもとを去って息子を連れて尾張へと逃げますが、その後、丹波国の海部家に誘われて、真名井神社で太陽の女神の信仰を広めたそうです。けれど間もなく月の女神も丹波へやって来て月神の信者が増えていきました。

佐保姫は志摩国へ行き、伊雑いぞうノ宮(祭神は天照大神)の社家、井沢登美ノ命の援助を受けて、伊勢の五十鈴川のほとりに内宮を建て、太陽の女神を祀ったといわれます。伊勢神宮の起源ですね。井沢登美ノ命は出雲の登美家出身のようです。

大和三輪山から天照大神御神体ともいえる伊勢神宮へと辿り着く何年もの間、太陽は隠れ世界は闇となったでしょう。そして伊勢において天照大神が復活した時、人々はようやく現れた太陽の光に安堵のため息をもらしたことでしょう。これが天の岩戸隠れの真相なのかもしれません。

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一方、月の女神を遷した豊来入姫については、斎木雲州氏と勝友彦氏で一部違いがあります。斎木氏は豊来入姫が丹波の海部氏から招かれて、真名井神社月神信仰を広め、月読ノ神は豊受ノ神と名を変えたといいます。そうであれば籠神社の言う、天照大神豊受大神を4年間お祀りしたという伝承と重なります。ただし豊受ノ神=月読ノ神なのかどうかは定かではありませんが。

勝氏は豊来入姫は大和の笠縫村から逃げて丹波竹野郡舟木里に奈具社を建て、月読ノ神を豊受ノ神の名で祀ったといわれます。そうであれば天の羽衣伝説の天女は月の女神を連れて逃げてきた豊来入姫であり、豊宇加ノ女ノ命は豊受大神ということになります。さらに豊来入姫はその後、与謝郡伊根の宇良社(浦島神社)へと移ったといいます。ここの社家は道主大王の子孫だそうです。(海部氏は丹波道主は海部氏の祖先としています)

豊来入姫は今度は伊勢の椿大神社つばきおおかみやしろに招かれて行くのですが、彼女を連れていったのが本庄村の島子シマコだそうです。この島子という人物、水ノ江の浦島子や筒川の島子(日下部の首らの先祖)とも呼ばれます。島子とは役職名のようで、世代には幅があります。ここで丹波国風土記に記された島子の伝説を要約しますね。

 

浦島太郎伝説

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浦島子

与謝の郡、日置の里に筒川の村がある。日下部の首らの先祖、筒川の島子という者がいた。いわゆる水ノ江の浦島ノ子のことである。これは前の国守、伊予部の馬養イヨベノウマカイの連が書いたものと同じ話である。

雄略天皇の御世(5世紀)、島子がひとり小舟に乗って釣りをしていた時、五色の亀を釣り上げた。亀は美しい乙女に変身した。神仙の乙女であった。乙女から結婚したいと望まれ島子は応じた。ふたりは海中の蓬莱山(神仙の世界)へと着いた。御殿は輝き、見たこともないほどに美しいところだった。門の前で7人の童子が現れ「この人は亀姫の夫だ」と言った。次に8人の童子が現れ同じことを言った。亀姫は童子らをスバル星とアメフリ星だと説明した。両親に歓待され、ご馳走を食べ美酒を飲み、神々の舞に酔った。3年が過ぎ、島子は父母を思い出して恋しくなった。姫は「永遠を約束したはずだったのに」とひどく嘆き悲しんだが、島子は帰ることを決意した。別れの時、姫は島子に美しい化粧箱を手渡した。

「私に再び会いたいと思うなら、この箱を決して開けないでください」

島子は筒川の里に戻って来た。知っている人は誰もいなかった。村人に尋ねると「水ノ江の浦島という人は海に出て行方不明になったと聞いています。300年前のことですが」と言う。島子は驚き悲しみ何日も過ぎた。島子は姫のことを偲び、ふいに手の中の化粧箱を開けてしまった。するとかぐわしい姫の姿が煙のように現れ、風とともに天へと舞い上がって消えていった。島子は2度と姫に逢えないことを悟り、涙に咽んで歩き回った。

 

この話を書いたという伊予部の馬養とは、四国伊予国の国造家子孫で、先祖は出雲の八井耳ノ命だと古事記に書かれています。事代主の子孫であり、また海部氏の血筋でもあるようです。馬養は689年に撰善言司よきことえらぶつかさという説話集を書く委員に選ばれ、のちに記紀の中にこの説話が入ってきます。彼は丹波国の国守をしたので、その地方の伝説をもとにして「浦島子」の話を書いたようです。「天の羽衣」もこの人が書いた可能性が高いといいます。時代が下りますが、平安時代に世に出た竹取物語も、実はこの人が書いたのではないかとも言われています。

この浦島子の話、神仙や蓬莱山というモチーフに道教を感じます。童子らのことをスバル星などというところも、道教の星信仰を思わせますよね。童子らは徐福が連れて来た海童たちに重なりますし。筒川のツツというのは古語で星のことを指し、星川の意味になります。筒川中流に宇良神社(浦島神社)が鎮座しています。祭神は浦島子明神と月読ノ命です。

日本書紀の雄略紀22年に「浦島子が船に乗って釣りをしていた。まったく釣れなかったが最後に大亀を釣った。それが女に変わり、妻とした。二人は海中に入り蓬莱山に着いて、仙人の世界を巡り見た」とあります。この年、伊勢神宮に外宮が建てられ、豊受ノ神が祭られたそうです。

また山城国風土記逸文、桂の里に「月読ノ尊が天照大神の命令を受けて、豊葦原の中つ国に天降り保食ウケモチノ神のもとにやってきた」とあります。

話をまとめると、宇良神社の神主だった島子が、月読ノ命の御神霊を伊勢へと運び、外宮で月読神を祀り奉仕を続けました。歳月が過ぎ、老齢となった島子が筒川村に帰ってくると、もう誰も知っている人はいなかった、という島子の体験を物語に変えたということのようです。

浦島太郎の竜宮城の話は古事記の海幸山幸神話と重なります。山幸が出会ったのは豊玉姫であり、島子が出会ったのは豊玉姫の娘である豊姫が守っていた月の女神ですので、ふたつの話が似ているのは作者の意図であったように思えます。伊予部馬養と柿本人麻呂は同時代に生きた人です。丹波の伝承を描いた物語を、人麻呂が海部と物部の関係の例え話として取り入れたのかもしれません。

 

籠神社のホームページなどでは豊受大神月神を関連づけるような記事は見当たらないのですが、籠神社発行の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」を読み直してみるとありました!

豊受大神はその御神格の中に月神としての一面も持っておられ、真名井神社の昔の例祭が9月15日の満月の日に行われたこともその反映と思われる。

イコールではないものの、月神を隠すためか豊受大神の中に埋没させたのかもしれません。

もうひとつ加えると、太陽神をお天道様といいますが、月神は「お陰の神様」とも呼ばれていました。月の明かりで夜道も照らされます。それで月神に感謝して「お陰様で」と言うようになったそうです。真名井神社では豊受ノ神を「御蔭みかげの神」とも呼んだそうです。江戸時代に伊勢への参拝がとても流行しましたが、これを「おかげ参り」と呼びました。願いごとをするのではなく、日々守って下さっている大神様への感謝を伝えるためのお参りだったそうです。伊勢神宮では内宮よりも先に外宮のお祭りを行うというしきたりが古代よりあって、おかげ参りの際にも先に外宮の豊受大神様へ参拝する習慣があるそうです。さらに伊勢神宮だけでなく豊受大神の故郷である真名井神社まで参拝者が押し寄せたということです。伊勢神宮天照大神よりも豊受大神のほうが優先されているみたいですね。

 

勝氏の伝承では豊来入姫が奈具社から宇良社へ行き、そこから島子に連れられて伊勢の椿大神社へと移ったとありますが、この島子は浦島子の物語とは別人で、豊来入姫の時代の宇良社神主の島子ということなのでしょう。物語では重ね合わせているかもしれませんが。

それから最初に紹介した天の羽衣伝説の比治山の真名井と、吉佐宮の比治の真名井原というよく似た名のふたつの場所の意味はわかりませんでした。比治山から吉佐宮へ月の女神が遷ったと考えるのが自然だとは思いますが。勝氏と斎木氏の伝承を合わせればそういうことになります。比治山の真名井⇨奈具社⇨宇良社⇨吉佐宮⇨伊勢

 

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さて、羽衣伝説の天女を、追われ逃げ惑う豊来入姫だとすると、この女性もまた重く数奇な宿命を背負ったひとりの姫巫女として胸に迫ります。そして浦島子の物語の中で、姫が愛した人に手渡した玉手箱には、姫巫女という宿命ではなく、豊姫自身の切なる想い、魂が込められていたように思うのです。だから開けないでほしかった。ずっと愛しい人のそばにいたかった。けれど豊姫の想いはあっけなく空へと立ち消えていきました。

物語の作者はこれを天女がようやく天へと還っていったと表したかったのか、それともこの先に待ち構える豊姫の最期を暗示しているのか。どちらにしても、この国から消えてしまった月の女神は、今もなお還る場所を探して彷徨っているような気がします。

 

次回は豊来入姫が記紀でどのように描かれているのか、そして姫のその後を辿りたいと思います。