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源流なび Sorafull

【告発書】かぐや姫の物語に託されたもの⑴

個人的な話になりますが、少々お付き合いください。

私Sorafullは幼い頃より父から「藤原不比等フヒト」の名を繰り返し聞かされてきました。この人が日本の古代史における黒幕であり、史実を歪めてしまった、そして柿本人麿カキノモトヒトマロはそのすべてを知っていたがために殺されたのだ、と。

今でこそネット上には不比等の情報が見られますが、当時そんなことを言う人はほとんどおらず、私はそれが何なんだ、私たちの何に関わってくるんだというくらいにしか受けとめられず、不比等という言葉がトラウマのようになっていったのです。実際その話を聞くのが嫌で父を避けるようにすらなった時期もありました。一組の父と娘を引き離した藤原不比等という存在。

けれど人生は不思議なもので、ある時ふいに藤原不比等という言葉が自分の重大なキーワードのように突き刺さってきたのです。そこから手当たり次第に調べ始め、出雲の伝承に出会い、今に至ります。本当に歴史が歪められているのなら、私たちはこの先もずっと何かとても大事なものを見逃したままになってしまう…

残念ながらその時父はすでに病床にあり、私の言葉を理解するには時が経ちすぎていました。

出雲の伝承は、やはり藤原不比等がその時代を動かしていたことや、記紀編纂のトップであったこと、そして柿本人麿が古事記を書かされ、それゆえ幽閉されたことなどを伝えています。

当時、この歪められた日本の史書を後世に残すことに、憤りを覚えていた人は少なくなかったはずです。けれど声を挙げれば殺されてしまう。そんな中、ひとりの男性が密かに物語を書いて、未来の子孫に託したのではないかと斎木氏は言われます。記紀は史実を神話化し、さらに多くの虚偽が加えられていることを、後世の人に気づいてほしいという願いをこめて書かれたのが竹取物語であると。

今回は竹取物語にはどういったことが織り込まれているのかを紹介して、その後記紀の成立について書いていこうと思います。

 

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竹取物語

今は昔、竹取の翁おきなと呼ばれる人がいました。

名は讃岐造サヌキノミヤツコ。ある日、根元が光っている竹を見つけ近づくと、筒の中に3寸ほどの小さな幼子が座っていました。翁はその子を手の平に乗せて帰り、籠に入れて妻と大切に育てました。それからというもの、翁は竹の中に金貨を次々と見つけるようになり、ついに富豪となりました。

幼子はたった3ヶ月ほどで乙女へと成長しました。比べるものがないほどに美しい姿となり、家の中は光が満ち満ちています。翁は苦しい時もこの子を見れば心安らぎ、腹立たしいことがあっても心穏やかになりました。大人になった娘に名前をつけてもらおうと、三室戸忌部ミムロドノインベの秋田に頼み「なよ竹のかぐや姫」と決まりました。

かぐや姫の美しさに、世の男たちは身分の高い者も低いものもみんな恋に落ちました。そんな中、断られてもどうしても諦めない男たちが5人いました。かぐや姫は彼らに難題を与え、それらを持ってくることができるかどうかで愛情の深さを見分けたいと言いました。

五つの難題

石作イシヅクリの皇子 ⇒仏の御石の鉢

庫持クラモチの皇子 ⇒東の海の蓬莱山にある真珠の実のなる金の枝

左大臣・安倍御主人ミヌシ 唐土(中国)にある火ネズミの燃えない皮衣

大納言・大伴御行ミユキ ⇒龍の首の中にある五色に光る珠

中納言石上麻呂イソノカミマロタリ ⇒ツバメの持っている子安貝

 

5人はこの世にあるのかないのかわからないようなものを求めて、ある者は偽物を造り、ある者は命を失い、結局全員失敗に終わりました。

やがて5人の貴族を破滅に追いやったかぐや姫の噂が帝の耳にも入ります。帝は宮中女官の中臣房子を遣わしました。けれどかぐや姫は帝といえども頑なに会おうとしません。無理にでもというなら死ぬばかりですと答えます。

帝はこっそりと翁の家に立ち寄ることを計画しました。家に入ると中は光が満ちていて、そこに座る清らかな女性の美しさに帝は驚かれました。そのまま宮中へ連れていこうとする帝にかぐや姫は「私がこの国に生まれた人間ならば陛下の思う通りになるでしょう。けれどそうではない私を連れていくことはできません」と答え、姫は影のように消えてしまいました。やはり普通の人間ではなかったと諦めた帝ですが、それでもかぐや姫を想い続け、後宮の女たちには会おうともしません。歌を詠んではかぐや姫のもとへと送る帝の想いに、姫もしだいに返歌を詠んで心を開いていきました。

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3年が過ぎて春になると、かぐや姫は月を眺めては涙をこぼすようになりました。7月の十五夜、翁が心配して問いただすと「月を眺めていると、この世の営みが儚いものと感じられるのです」と答えます。

8月15日が近づいたある日、かぐや姫は激しく泣いて、そしてようやく言いました。「私は月の都の者です。昔の契り(約束)があってこちらの世界にやって来ました。けれど満月の夜に迎えが来ると知らせがありました。お二人が嘆かれることを思うと悲しくて、ずっと思い悩んでいたのです

このことを知った帝は翁たちの悲しみを慮って、少将の高野大国タカノノオオクニに姫の保護を命じました。15日の夜には2千人の弓矢を持った者たちが翁の家の回りを取り囲みました。

かぐや姫は動揺する翁に言いました。「月の者はとても美しく、年をとらず思い悩むこともありません。そんなところへ帰ってゆくのは楽しいことではありません。私は年を取ったお二人の面倒をみれないことが辛いのです」

やがて真夜中を迎えると、辺りが昼のように明るく輝きました。空から美しい衣装をまとった天人たちが雲に乗って降りてきます。構えていた役人たちはみな魔物に憑りつかれたように戦意を失い、ただぼうっと天人たちを見ることしかできません。王と思われる者が降りてきて翁に礼を言うと、「お前たちにはすでに金貨をたくさん与えている。姫は罪を犯した。その償いのためにこの汚い世界へと送った。その償いの期間が終わったので迎えに来たのだ」と言いました。

天人のひとりがかぐや姫に、壺に入った不死の薬をなめさせました。そして羽衣をかけようとするとかぐや姫は振り払い、「これを着ると人間らしい心を失ってしまうのでしょう。その前に残しておきたいものがあります」と言って、静かに帝に宛てて手紙を書きました。ここを去ることの悲しみと、帝の申し出を断ったのは自分のこのような煩わしい身の上のためであり、無礼な者と思われることが心残りですと。そして「今はもうこれまでと思い、天の羽衣を着ます。あなたのことをしみじみと思い出しております」と歌を詠み、手紙と不死の薬の入った壺を持って中将へと渡し帝へ献上しました。その途端、天人に羽衣を着せられ、かぐや姫は翁への愛しさも悲しみも失って、飛ぶ車に乗ると天へと昇っていきました。

翁たちは力が抜けて病気になり、寝込んでしまいました。帝は心を揺さぶられ何をする気も失せ、その手紙と不死の薬を天に最も近い山で燃やすように命じました。かぐや姫に会えずして、不死の薬が何の役に立つのかと。

調石笠ツキノイワカサ駿河の国へ行って一番高い山に登り、頂上で手紙と薬に火を付けました。その煙は今もまだ雲の中に立ち昇っていると言い伝えられています。兵士たちを多数連れて登った山は「富士の山」と名付けられました。 

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登場人物

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古事記の中にイクメ大王の妃、加具夜カグヤ姫が出てきます。系図を書くと上のようになります。磯城王朝や物部は付け足しています。

徐福の長男、海香語山の子孫、竹野姫がオオヒビ大王の妻となり、その孫の大筒木垂根王の娘がカグヤ姫となっています。大和の初代大王、海村雲が父の香語山を奈良の山に祭り、その山の名前が香具山です。カグヤ姫の名前の由来もここにあるのでしょうか。

筒木は竹に似ています。海部氏の籠神社の名前は、始祖である火明命(≒ホホデミ)が竹で編んだ籠に乗って龍宮へ行ったことに由来するといいます。そして大筒木垂根王の弟が讃岐垂根王であり、竹取の翁の名前は讃岐の造ミヤツコです。ただしカグヤ姫は実在の人ではないと伝承されているようです。

物語はまずイクメ大王の時代に注目させています。かぐや姫は月の世界の人。月の女神ですね。ということは、豊玉姫と物部イニエ王の娘、豊来入姫と結びつきます。丹後国風土記にある「天女の羽衣」には、実は大和から逃げて来た豊来入姫が、丹後の奈具社に落ち着いたことが描かれているようだと以前紹介しました。奈具社は竹野郡にあり、豊宇加ノ神が祀られています。この話の中では天女の羽衣を奪った老夫婦が、天女のおかげでお金持ちになると天女を追い出し、天女は天に帰ることもできず奈具社に落ち着くことになっています。かぐや姫とは真逆の話です。斎木氏はこの「天女の羽衣」も「浦の島子」の話を書いた伊予部馬飼イヨベノウマカイではないかと言われます。そして「かぐや姫」もこの人が書いた可能性が高いと。

伊予部馬飼についてはこの記事に詳しく書いています。

 

馬飼は四国の伊予国国造家子孫であり、先祖は出雲の八井耳ノ命だと古事記に書かれています。事代主と海部氏の両方の血筋のようです。馬飼は689年に持統天皇によって撰善言司よきことえらぶつかさという委員に選ばれます。何をする機関かというと、史話を良い教訓になる話に変えて善言という説話集を作るところです。つまり歴史を曲げてでも聞こえの良い話にしてしまうということです。この委員になったのは他に調老人ツキノオキナという大学頭(官吏養成所の長官)がいました。この名前、先ほど出てきましたね。富士山で手紙と不死の薬を焼いた人、調石笠ツキノイワカサです。

この撰善言司は委員たちが内容にうんざりして間もなく解散しました。でもこの時作られた説話が、のちに記紀に使われることになります。

その後、馬飼は丹後守となりその任期中に、浦神社の島子の実話を基にして「浦の島子」というおとぎ話を書いたといわれています。

★☆雄略天皇の時代に宇良神社の島子が豊受の神(月神)を伊勢外宮に移して奉仕した。彼が老年になって故郷に帰ってくると、知人はみな他界しており、村人からは異国の人だと思われたという実話。

 

かぐや姫の物語はイクメ大王の時代を意識させながら、もうひとつの時代の実在の人物たちを描いていきます。それが難題を与えられた5人の貴族たちです。まずは日本書紀持統天皇10年(696年)の記事を見てください。

「右大臣・丹比真人タジヒノマヒトに朝廷の下級職員(舎人とねり)を120人私用に使わせる。大納言・安倍御主人大伴御行には80人ずつ、石上麻呂藤原不比等には50人ずつ使わせる。」

 

石作イシヅクリの皇子⇒石作氏は丹比氏と同族⇒丹比真人

庫持クラモチの皇子⇒車持与志古娘の息子がのちの右大臣・藤原不比等

左大臣・安倍御主人ミヌシ⇒大納言・安倍御主人

大納言・大伴御行ミユキ⇒大納言・大伴御行

中納言石上麻呂イソノカミマロタリ⇒のちの左大臣石上麻呂(物部連麻呂)

 

つまりこの5人の貴族は持統天皇の時代の人たちなのです。

長くなりましたので、次回、彼らがどのように描かれたのかを見ていきましょう。