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源流なび Sorafull

古事記と日本書紀~ふたつの影法師⑵

 

 

斎木雲州著「古事記の編集室」「万葉歌の天才」を主に参照しますが、物語風に記されているところも多く、それが研究による推測であることも考慮し、そういった箇所は断定せずに紹介していきたいと思います。

 

天武天皇による帝紀の編集

天武10年(683年)に帝紀の編集が始まりました。12人の委員のうち半数は皇族で、残りは各豪族を代表する人物です。柿本人麿が当時仕えていた忍壁皇子も入っているので、稗田阿礼とされる人麿を目当てにしたと考えられます。豪族たちは以下になります。

 

安曇連稲敷(海部氏の子孫、海部王朝

難波連大形(出雲系大彦の子孫、磯城王朝

忌部首子人物部王朝時代の宮廷祭祀を司った、徐福2次渡来集団の古代氏族)

上毛野君三千(宇佐家ホムタ大王の親族、応神王朝

平群臣小首(武内宿祢の子孫、平群王朝

中臣連大嶋(宮廷祭祀を司る、忌部氏の競合相手)

この人選を見ると、天武天皇は各古代王朝についてほぼ正確な歴史を書こうとしていたかのようです。天武天皇が育ったのは海部氏の分家である安曇家であり、「大海人」皇子の名は海部からきています。この時の編集チームが国史を完成させていたら、ヤマト王朝初代大王は神武ではなく海村雲から始まることになっていたかもしれませんね。ただし物部王朝の子孫は選ばれていないので、物部東征については除外する予定だったのでしょう。

ところが編集作業は難航し、一旦休止となってしまいます。各王朝の子孫たちなのですから、王朝交代の争いについてはそれぞれの言い分もあるでしょうし、後世に残ることを考えれば、先祖のことを悪く書くことは避けたいところです。互いに事実から離れた有利な話を書いて提出したとすればまとめようもありませんよね。結局各氏族の提出したレポートだけが残されたようです。

 

持統天皇の撰善言司

天武天皇が亡くなると、サララ皇后(のちの持統天皇。父は天武の兄とされる天智天皇)が実権を持つようになります。刑部省長官の石上麻呂物部氏)を重用、さらに中臣鎌足の息子の藤原不比等刑部省判事に任命します。天武亡き後すぐに大津皇子が死刑となったり、サララ皇后の実子である草壁皇子が急死したりと不穏な事件が続きました。そして皇后は持統天皇として即位します。

持統天皇は即位直前に撰善言司よきことえらぶつかさという委員会を作ります。これは史話を良い話に変えて教訓的な説話集を作ることが目的です。つまり事実を捻じ曲げてでも聞こえのいい良い話に変えるということです。この委員に選ばれたのが伊予部馬飼です。(浦島太郎のもととなる話を書いた人。天女の羽衣伝説やかぐや姫の作者である可能性もあり)

このチームは間もなく解散となりましたが、その時提出されたレポートがのちに記紀に使われたといわれます。

 

藤原不比等による国史編纂始まる

鎌足の長男、定恵が635年に遣唐使とともに唐へ渡り広く学んで帰って来たことが、天武天皇帝紀編集のきっかけとなった可能性があります。これから東アジアで他国と渡り合うためにも、国史が必要であると。その大きなプロジェクトが頓挫したままになっていたのを、不比等が再び進めたようです。けれど持統天皇は撰善言司にみられるように、歴代王朝の熾烈な争いなどをそのまま記すことを拒み、不比等からの万世一系方式の提案を受け入れることで、国史の方針が決まったと考えられます。つまり、各王朝を連続したひとつの王朝として描き、できるだけ良い話となるように撰善言方式をとること

 

ここで不比等の血筋をみてみましょう。

父の鎌足は中臣家へ婿養子として入りました。なので中臣氏と藤原氏は別の家系です。鎌足の生誕地である上総の母の系図では先祖は出雲王の子孫、八井耳命ヤイミミノミコト。鹿島の豪族である父の先祖も八井耳命だといいます。

※八井耳命とは海村雲とタタラ五十鈴姫(事代主の娘)の御子、もしくは孫にあたります。伝承に2通り書いてあります。

太家の始祖でもあります。太臣家の臣は出雲王家親族のしるしです。つまり不比等太安万侶の先祖は同じということになります。両家は古くから親しかったようです。

中臣家は宮廷祭祀の家柄なので、鎌足天皇家に近づくために中臣家に婿として入ったとも考えられます。ところが息子、定恵や不比等はまた別の女性の子です。それが車持与志古娘であり、一説では不比等は天智帝の落とし子とも言われています。(この話はかぐや姫の記事で紹介しています)

このような血筋のこともあってか、不比等は出雲王国のことを国史に書くつもりだったと斎木氏は言います。だからこそ八井耳命の子孫であり出雲の歴史に詳しい太安万侶を選んだというのです。さらに九州大宰府に勤めていた可能性が高く、中国語がわかり中国の史書にも詳しく、漢文も書けるということであれば適任です。696年に安万侶の父の官位が突然上がっていますが、24年も前の壬申の乱での功績が理由です。この時から安万侶の新たな仕事が始まったのでしょうか。

前回の帝紀の編集が失敗に終わったことを踏まえて、不比等は外部に漏らさないように計画したことも考えられます。編集者を最小限にして秘密を守らせ、隠れた場所で作業をさせたと推測されます。

 

中央集権国家の誕生と人麿の監禁

696年、太政大臣として尊敬され人望の厚かった高市皇子が、大津皇子と同じく冤罪で死刑となり、翌年、持統天皇の孫である軽皇子が15歳で即位し文武天皇となりました。その4年後に大宝律令が定められ、日本は中央集権国家と変わりました。不比等は大納言として大宝律令の作成に関わっていますが、中心人物だったのでしょう。不比等は法律の制定、首都の建設、国史編纂という国家の基礎となる大事業を表に立たずに(天皇を楯にして)やり遂げ、驚くほど有能な人物と思えます。さらに娘たちを天皇家に嫁がせ、藤原家を外戚として着実に地固めしていくところなど、この人にはどんなビジョンが見えていたのだろうと思うと身震いしそうです。

 

707年に25歳の若さで文武天皇崩御され、母が元明天皇として即位します。翌年には不比等が右大臣に、石上麻呂(物部連麻呂)が左大臣になりました。この左大臣を味方に引き入れるために、不比等物部氏の祖、ニニギノ命(徐福)が九州に降臨する話を書くことになったのだろうということです。実際には徐福は筑後平野に上陸しましたが、日向王国を取り入れ「筑紫日向の高千穂の峰」に変わりました。その際に記紀製作に協力した豪族たちの祖も一緒に降臨することとなります。

 

斎木氏は柿本人麿の残したたくさんの和歌を解読し、この頃から監禁状態で古事記の執筆をさせられていたとしています。すでに太安万侶が始めていた編集作業に人麿も加わり、安万侶の監視のもと小治田の宮跡(飛鳥時代推古天皇の宮)にこもり、稗田阿礼として苦しい生活を強いられていたと。

例えば長歌「乞食人ほかひびとの詠」(万葉集3885、作者不記載)は、鹿と狩人を自分と不比等に重ね「偉い人が多くの弓矢を持って自分を捕えようと狙っている、すぐに殺されるだろう、と鹿が嘆いて言います。角は飾りに、耳は墨壺に、目は鏡に、毛は筆に、肉は膾なますに…老いた私の一生が7回栄誉に輝いた上に更に8回も栄誉に輝くようになるよと誉めそやすお偉い方よ、おだてたいならどんどんおだて下さいまし」と歌います。これは生活費を恵んでもらうために不比等の乞食になっていることを自虐的に表しているとし、そのタイトルが乞食の歌であるのは「古事記を書く乞食」と暗示しているからだと説かれています。

※和歌については「万葉歌の天才」に非常に詳しく書かれています。

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注)人丸と書かれていますが、これは平安期以降の表記です。

 ここで人麿について少し解説をしておきます。人麿の出自については前回のかぐや姫の記事で紹介しました。

『人麿の母親は漢アヤ氏の部民である綾部家の者でした。綾部家は「語らい家」(語り部の技術をもつ歴史に詳しい者)です。古事記序文に書かれた稗田阿礼ヒエダノアレですね。

実は人麿の父親が天武天皇と伝承では言われており、天武天皇の幼名が漢ノ皇子です。安曇家(海部氏の分家)に預けられて育ったので大海人オオアマノ皇子と呼ばれました。綾部人麿は大海人皇子の縁者に連れられて都へ行き、柿本家の養子となります。(柿本家は磯城王朝5代カエシネ大王の分家です。)人麿の母親の身分が低かったため、天武天皇は人麿が息子であることを伏せていたようです。』

人麿は幼少の頃より記憶力に優れ、天才が現れたと評判になるほどで、母が語りを詠み唱えるのを聞いてすぐに覚えてしまったそうです。柿本人麿となってからは、天武天皇の御子たちの舎人として働くことになり、また宮廷歌人としても大きく花開いていきます。仕事での功績はあったものの、出自が災いしたのか位階はほとんど上がらず、人麿はただ黙々と努力を続けます。また人麿は政府の在り方に疑問をもてば、それを歌に込めるという歌人としての自由さ、率直さも持っていました。慕っていた皇子の突然の死に対しては、我が身を守ることなく長大な挽歌を捧げました。このように飛びぬけて優秀で、芸術家的自由さと情熱を持ち、かつ歴史にも詳しいとなると、隠したいことの多い政府としては警戒するのは当然かもしれません。

 

史書には一切記されていない人麿を知るには、残された万葉集を辿るしかありません。Sorafullは残念ながら和歌には疎いので、歌聖と称えられた人麿の歌の素晴らしさをお伝えする力はありませんが、日本人の言葉に対する感受性を、この時代に一気に高めた存在なのではないかなと、そんな空気感はひしひしと感じています。その秀でた才能ゆえ政治に利用され潰されたのであれば、人麿の生まれながらに背負った宿命に底知れぬ悲しみを覚えます。

 

つづく