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西宮えびす(西宮神社)⑵大国主西神社と百太夫神社

 

 

 

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東側の表大門。通称、赤門。十日えびすの福男選びはこの扉が開いたらスタートです。境内図の右下にありますね。前回載せたえびす宮の門は中央手前の南門になります。赤門のほうが立派ですが、実は海に面した南門のほうが表だったそうですよ。 

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推定室町初期以前に建立とされる境内を取り囲む塀は、現存最古の築地塀だそうです。資金もかなり潤沢だったのでしょうね。

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大国主西神社の謎

今は西宮神社境内摂社として祀られている大国主西神社です。境内の北西角にあたります。 

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拝殿の奥にまるで目隠しするかのような板塀に囲まれ、本殿がひっそりと佇んでいます。隙間から撮影させて頂きました。

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出雲の伝承によると大国主西神社は西宮神社の基となったようだということを前回の記事で紹介しました。ですがそんな大事な神様を、このような境内隅っこに追いやるとはどういうことなのでしょう。

 

谷戸貞彦著七福神と聖天さん」の中で、西宮神社について解説されています。

日本書紀にあるように、天照大神のお告げによって広田神社を建て、山背根子の娘・葉山姫に荒魂を祀らせ、さらに長田神社を建てて妹の長姫に事代主を祀らせました。天照大神は太陽の女神であり、そもそもは出雲の太陽神です。

広田、長田の両者の司祭者が姉妹であったことから、長姫の子孫がのちに事代主(向王家)の親戚である大国主(神門臣王家)の御神霊を広田神社の近くに祀り、同時に幸の神も祀った。それが西宮の基になるお社となったと考えられるということです。経緯については推測のようです。

ところで平安初期の延喜式神名帳には、大国主西神社は摂津国莵原郡にあるということが記されています。広田神社は摂津国武庫郡です。

武庫郡  広田神社、名次神社、伊和志豆神社、岡太神社

莵原郡  河内国魂神社、大国主西神社、保久良神社

広田神社のすぐ南に西宮神社があるのに、どうして郡が違うのか、不思議ですよね。このことが、大国主西神社の所在地をわからなくさせている原因のひとつなのです。

明治5年に広田神社と西宮神社は分離し、翌年、西宮神社大国主西神社と改称しますが、大国主西神社の由来がやはり不確定ということですぐに取り消されます。そして大国主西神社は社格をもたない神社として西宮神社の境内神社となりました。

社格をもたない神社。寂しげな佇まいはそのせいだったのですね。

 

西宮市史にもこのことは紙面を割いて取り上げられています。

大国主西神社の問題として、菟原郡にあるので西宮神社とは別物だとする説と、大国主西神社の後身が西宮神社であるという説が対立しているとし、

別物とする否定派は、①存在する郡が違う。②祭神はえびす神か蛭子神であって大国主ではない。

という理由をあげています。①に対しては菟原・武庫郡境界が現在とは違い、昔は現西宮神社の東方を走っていた(つまり現在の西宮神社も莵原郡に属することになる)という説を唱える人がいます。

西宮市史ではその可能性はあるという立場をとっています。地理的要因に加え、武庫郡菟原郡八部郡・有馬郡などすべての式内社が今日も残っている中で、なぜ大国主西神社だけが完全に消滅してしまったのかを考えると、相当早くに広田・南宮に吸収されたとみるべきではないか、そしてその西の呼称が西宮となったのではないか、という考えのようです。

そこで昔の地形を調べてみました。すると面白いことがわかったんです。弥生時代には広田神社の近くまで海が迫っていたらしく、下の地図にある大社小学校のまわりからは網漁に使うおもり(弥生式後期)がたくさん出土しています。

「西宮地名考」の著者である郷土史家、田岡香逸氏(1905‐1992)は、地形、土地の性状、地層、出土した遺物、そして地名と歴史を丹念に研究し、古代の西宮が入海であったことを導き出しています。

 

西宮市史「津門の入海推定復元図」を参照し、旧夙川を書き込んでみたものです。 細部は正確ではありません! 

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平安時代の和歌に、

「広田より 戸田へ渡る船もがな 浜のみたけへ ことずてもせむ」

と詠まれています。現在の地形では考えられませんよね。

西宮市環境保全課の語り部ノートにしのみや」に夙川の付け替え工事のことが書かれていて、その出所を探したところ、田岡氏に到達しました。それによると、夙川は昔、阪急夙川駅北の大井手町北側から東南に流れていたそうです。井手はもとは井出であり、谷口で灌漑用水の水源になる土地に名付けられるそうです。古い絵図には川に沿って細長い池があるそうで、旧河道の名残だということです。

平安末期ごろまでには東六甲の山肌から運ばれた土砂が入海をなかば埋めてしまいます。大阪湾の潮流は時計回りなので、波と川の運ぶ土砂によって砂州が作られ、その上にえびす神社は建っていたといいます。ところが神社を中心に発展してきた西宮の町に、暴れ川と呼ばれた夙川が氾濫して繰り返し水害が起こりました。そのため鎌倉時代中期以降に川の付け替え工事(堤防を作って河道を変える)が行われ、西宮神社の西を流れるようになり、その後さらに現在のようにまっすぐ南に下らせたということです。これは文献に記されているのではなく、実地調査から得られたものです。このような大工事ができるほど、当時の西宮神社は資金と権威を得ていたということですね。

※江戸時代の摂津名所図絵には武庫郡と莵原郡の堺は夙川とすると記されています。古くから郡の境界は峯通りや川筋によって決めていたようです。

 

また、常盤町の住宅街に一本松地蔵尊があり、そこには「史蹟、往古武庫莵原郡界傅説地」という石碑が並んで建っています。この一本松地蔵尊が昔から武庫郡菟原郡の境界だと言い伝えられているのです。大正時代に耕地整理のため道路を碁盤の目に整備しようとした時、地元の人々がどうしてもこの場所だけは残して迂回してほしいと要望し、今のように残されました。谷崎潤一郎の「細雪」にも登場します。

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お供えの花が瑞々しく、丁寧に管理されていることが窺われます。後ろに建つ古い石碑には一本松地蔵尊と刻まれ、裏には大正15年建立と記されています。

 

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 想像以上に堂々とはみ出しています。松はいつ頃からのものでしょうか。

実は他にも古い一本松の言い伝えが浜脇町や名次山にもあります。郡界ということは伝えられていませんが、これらを結ぶと西宮神社はきれいに菟原郡に入ります。ところが田岡氏によると、これは明治に起きた西宮神社大国主西神社改名の裏で、強引に作られたものではないかということなのです。郡界を松などで示すことはあり得ないそうです。そう言われてみればそうですが、言い伝えを途絶えさせないために、後世の者が石碑や地蔵尊とともに植えたということもないわけではないような‥‥。

その真偽は置いておいても、旧夙川の位置が変わっていったことはほぼ間違いないようですので、菟原郡にあったという大国主西神社と現在の西宮神社の位置が同じである可能性はでてきたということになりますね。

現在の夙川。西宮神社の西、香櫨園駅より北を向いて撮影。

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次に祭神の問題です。なぜ大国主は消えてしまったのか。

西宮市史はえびす神や蛭子神、百太夫神についても詳しく考察していますが、大国主西神社が消滅した理由として、この土地の発展が関わっていることを示唆しています。要約します。

津門あたりの地は平安中期以降急激に発展し、人々が諸方から集まることによって種々の信仰を持ち寄った。神々にいろいろな解釈が加えられ、旧来の神に付着せしめられるとき、旧来の神と新しい神々の信仰が並列され、進むうちに、ある種の神に対する人気ともいうべき信仰が特に進むことがあり、他の神々の信仰は忘れ去られてしまうものである、と。

これを踏まえて推測してみます。浜南宮の前身が大国主西神社だったとします。

古より広田神社には朝廷や貴族の崇敬が集まっていた。海側に別宮を建てることになった時、大国主西神社の勢いはすでに衰えており、しだいに広田・浜南宮に吸収されていった。(広田の祀る五座である八祖神が大国主を思わせます)

平安末期になると浜南宮のえびす神の人気が高まり、摂社であるにも関わらず本社広田と並ぶほどの存在となっていた。そのうちに入海がどんどん土砂で埋まっていき、広田は海から遠い奥まった山の中になってしまった。浜南宮のほうは船の往来もでき集落として発展しやすく、人々が各方面から集まってきた。漁業、海運だけでなく市場もでき商業の町として開ける兆しもみえてきた。次に紹介する百太夫を信仰する傀儡子くぐつたちによってえびす信仰は全国へと広まりつつあった。朝廷が衰えを見せ始めるとともに、民間でも愛されるえびす神は本社広田よりも力を持つに至った。もともとは摂社を指す西の宮という呼び名が、本社広田をも含めて呼ばれるようになっていた。

そして927年の延喜式神名帳に記された大国主や幸の神の名は、250年ほど経ったとき、この急成長する町から消えていた。

 

 

 太夫神社と傀儡子くぐつたち

出雲の伝承を見てみましょう。

広田神社の近くに大国主と幸の神を祀ったのち、幸の神が分けられて太夫神社として産所村に祀られました。百太夫サルタ彦大神が百のお姿に変わって善人を守るという話からつけられたそうです。

※幸の神は船玉さんとも呼ばれ、漁船の帆柱の下などに祀られたそうです。このご神体はサイコロであることが多いのは「サイ」の発音にちなんでいて、船の運命を左右すると言われているそうです。

下の地図に現在の産所町を囲んでみました。このどこかにあったようです。

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江戸後期には西宮神社境内に移されます。

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説明書には芸能の神様と書かれています。平安末期、産所村(散所とも書く)には傀儡子くぐつと呼ばれる芸能集団が住んでおり、神社の雑用を務めながら人形を操り巡業していました。そしてえびす様の人形を使って御神徳を説いてまわり、えびす信仰を全国に広めていったので「えびすかき」とも呼ばれるようになりました。彼らは百太夫神を祖先神として崇敬したということです。この人形操りが江戸後期以降、淡路島の人形浄瑠璃や大阪の文楽へと変遷し、いつのまにかこの産所村から傀儡師たちは消えていったそうです。

このような人々は室町以降、散所の民と呼ばれます。水陸交通の要地や有力な社寺のもとに住み、雑事を請け負うことで免税されるなど特権を与えられました。その中に傀儡子を生業とするものもいて、西宮では彼らがえびす信仰と結びついたのだろうと言われています。室町時代には神社のために飛脚などもしていた記録があり、独自のネットワークをもっていたと思われます。

 

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この神札は江戸時代のものですが、百太夫大神の名前の前に「道君」と書かれています。この意味が後世の人にはわからず、西宮の神主、道君房どうくんぼうという老翁になり、えびす様の神霊を慰めるために人形操りをしたというお話が作られました。ちなみにこの道君房が「でくのぼう」になり、人形のことを木偶でくと呼ぶようになったということです。

ところで、幸の神は道の神とも呼ばれました。出雲伝承では百太夫大神がサルタ彦大神ですので、道君とは「どうくん」ではなく「みちのきみ」ですね。

神札の下半分に串団子が描かれています。これは1月5日の百太夫神社祭でお供えされる、人形にみたてた五色の団子なんだそうです。

 

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この写真は神社境内のおかめ茶屋さんで頂いたみたらし団子です。ちゃんと5個になっていますね。お茶とセットで200円。お団子もおいしかったですが、添えられたお茶が香ばしく、疲れた体に沁みました。

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藤の花の季節にまた来てみたいです。

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 店内に飾られていた立派なお多福さま!源流は出雲の幸姫命です。

 

さて、西宮市史の中に面白い記事がありました。

大江匡房(1041ー1111)の「傀儡子記」「遊女記」に傀儡子のことが書かれていて、西宮との関連はみられないものの、「遊女たちが南は住吉神社、西は広田神社に自分にお客がつくことを祈り、特に百大夫すなわち道祖神につかえ、人形を百、千も作って奉り」といった記述があります。そしていわゆるジプシーのような暮らしぶりを伝えています。太夫は古くは大夫たいふと呼ばれたようです。

つまり百太夫道祖神であり、たくさんの人形を作って捧げることから百太夫の名が出たと考えられるということです。道祖神というと中国のものなので、本来は縄文信仰である幸の神、道の神、岐ちまたの神のことです。サルタ彦大神が村の入口や分かれ道(岐)、村境に立って人々を守ってくれるという信仰です。出雲伝承では百太夫はサルタ彦大神が百のお姿になって善人を守ってくれるという言い伝えだそうですが、傀儡子たちがたくさんの人形を作る目的はサルタ彦大神に守ってもらうという意味合いがあるようですね。彼らは出雲と関わりがあるのでしょうか。

市史によると扶桑略記道祖神の祭のことが記されているようで、941年9月、《木を刻んで男女を作り相対せしめ、衣冠をあらわし、丹彩をぬり、臍下に陰陽を刻し、その前に机をすえ、坏器をおいて供物をし、子供たちが幣帛や香花を供えて拝み、岐神ふなとのかみと言い、御霊と称したという》とあります。男女の陰陽和合に岐の神、クナトの大神といった幸の神信仰がそのまま表されていますね。

市史の見解では、仏教の影響で平安初期になって神像を作るようになり、民間にも及んでのちに道祖神像作りが生じたとしています。また陰陽の威力によって、外来の邪神悪霊を追い払うことは人形を作る以前よりあり、それまでは陰陽形のみを作って交差点や村境に置いたのであろうということです。

 

次回は「あらえびすさん」と呼ばれた沖ノ戎とえびす信仰について紹介します。