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源流なび Sorafull

訂正のお知らせ&安曇磯良と五十猛⑴

先日、NHKBS放送で「アメリカ  謎の古代遺跡」という番組があり、その中でアメリカ先住民であるプエブロ族を紹介していました。彼らはかつてスペインやアメリカによって、土地も言語も宗教も命も奪われたといいます。現在、ニューメキシコタオス・プエブロ世界遺産に登録されていますが、民族の歴史や祈りの場は今なお非公開です。写真は1000年以上前からプエブロ族が継続して住んでいる集落です。

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Wikipediaより タオス・プエブロ 撮影Bobak

彼らは過去に何が起こったかを代々口承で伝えています。それは自分たちが何者であるかを忘れないためだといいます。何者かということについて「私たちは祈りの役目をもっている」と答えていました。自分たちのためだけでなく、世界のために祈っていると。そして祈りの場は、先祖や大地と繋がりを感じる場であるとも。

祈りの役目といえば日本の天皇と同じですね。天皇のお仕事は本来、祭祀ですから。最近になって天皇陛下の激務がニュースになりましたが、実際は公的なお仕事の他に私たちの目に触れないところで、日々国民のために祈りを捧げておられるのです。元日の早朝より行われる四方拝では「この世で起こる様々な困難、苦しみは、必ず我が身を通過してください。すべてこの身が引き受けます」と天地四方の神々へ祈られます。私たちが新年に互いの幸せを祈っている時に、陛下はすべての苦しみを引き受けると祈っておられます。それが形だけではないことは、御公務の内容を知れば感じられると思います。

民の苦しみを陛下のお体を通して清め祓って頂くというのは、あの大祓詔おおはらえのことばと重なりませんか。祓戸四神の連携によって、すべての地上の罪や穢れは川から海へと持ち運ばれ、それを沖で呑み込んだ神は海底から地底へと吹き払い、それらを地底で受け取った神はいずこへか持ち去って浄化し消滅させて下さる。一神教の神様は人の犯した罪を裁き、許すという上下の関係ですが、八百万の神々は人が生きている以上生み出される罪や穢れ、自然の猛威による苦しみを身をもって引き受けてくれる包容力を感じます。その神々と直接繋がっているとされるのが天皇なのでしょう。

話が逸れましたが、プエブロ族もこの世の平和を祈ることを使命としていたようです。そんな人々が我欲に囚われた者たちにすべてを奪われてしまったのですから、人間の業の深さを思い知らされます。

現在プエブロ族の直系子孫は2500人ほどに減ってしまったそうですが、「(受け継いだものは)この血の中に流れている、それが誇りだ」と子孫の男性が噛みしめるように語っておられたのが印象的でした。

民族が迫害され、その歴史もろとも奪われてしまった時、残った者たちは命がけで密かに歴史や文化を子孫に伝えようとするものなのだなと改めて思いました。古代日本においても、出雲王族を初め、権力闘争に敗れた豪族たちの中にも、極秘伝として直系のものだけに伝承されてきたことがあったようです。今でこそ公にできる自由がありますが、昔であれば見つかればお家断絶ですよね。その極限状態の中で守り抜かれた伝承を、端から否定せず、是非とも専門家の方々に検証して頂きたいなと思います。

 

さて、今回はN様より、徐福のお墓はどこにあるのかというご質問を頂きました。N様は宮崎県の生目古墳へ行かれた折り、西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚はニニギと木花咲耶姫の墳墓という伝承があると聞かれたそうです。また佐賀県の金立山の徐福館では詳細なお話を伺ったそうですが、徐福の亡くなった場所やお墓についてはわからないとの事。さらに和歌山の徐福公園には徐福のお墓があったそうで、徐福は九州から出ていたのだろうかと疑問に思われたということでした。

出雲伝承の中で徐福のお墓について書かれているところを挙げてみます。

『出雲と大和のあけぼの』‥‥徐福は筑後平野で亡くなったという。だから吉野ヶ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大きい。紀州熊野に上陸したという話もあるが、その人は子孫だと考えられる。

『親魏和王の都』‥‥徐福は筑紫国を支配する王となり、吉野ヶ里で没したと伝わる。すなわち徐福が住んだ所は、吉野ヶ里であった。

徐福伝説は北は青森から南は鹿児島まで、海沿いにたくさん残されています。出雲伝承では出雲と佐賀以外の話は伝わっていないということのようです。もちろん徐福が実際にその他の場所へ訪れていてもおかしくはないと思いますが、亡くなったのは筑後平野ということです。

 

ここで再び過去記事の訂正です。 

この記事の中で海部氏の勘注系図と出雲伝承による系図の一部を載せましたが、火明命の息子である可美真手ウマシマデノ穂穂出見ホホデミは同一人物と考えられると書いておりました。以前紹介したoyasumipon様のブログでご指摘を受け確認したところ、同一人物というのは早計であったと気づきましたので訂正させて頂きます。

海部氏の系図と、次に出雲伝承の系図です。火明命はニギハヤヒと同一人物です。

(注意)出雲の系図は富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」で示された系図等に沿って改定致しました。2019.5.18.

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勘注系図日本書紀にみられるウマシマデは古事記ではウマシマジ旧事本紀ではウマシマミと記されており、物部氏、穗積氏、采女氏らの祖といわれます。そしてウマシマデの母親(登美屋姫または御炊屋姫)については、出雲伝承以外はすべて長脛彦(登美屋彦)の妹だとしています。父親はニギハヤヒとされ、記紀以外は出雲伝承を含め火明命とニギハヤヒは同一人物としています。

しかし出雲伝承によると、長脛彦とは大彦のことであり、2世紀後半の磯城王朝クニクル大王の御子です。徐福(ニギハヤヒ)は紀元前3世紀末に来日しているので時代がまったく違います。つまり出雲伝承に従えば、古事記に書かれた話に日本書紀旧事本紀も海部氏勘注系図も倣ったことになります。そして出雲伝承では火明命と市杵島姫の御子であるホホデミ物部氏の祖としているので、ウマシマデとはホホデミの後裔を表していると考えられます。

ちなみに第2次物部東征で活躍した武内タケシウチノ宿祢の弟がウマシウチノ宿祢といいますが、この人が日向から四国南岸を通って紀伊国に上陸した経路が第1次物部東征に似ているので、記紀の作者はこの第1次東征において物部五瀬が戦死した後の指揮者としてウマシマデという架空の名前を使ったのではないかと斎木氏は言われています。ウマシウチからウマシマジ

 

もう一点付け加えておきたいのですが、下の系図は斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」の巻末に掲載されているものをもとにして以前作成した、事代主を中心とした一部の系図です。文中には『向家伝承などによる出雲王家と親族の系図』と説明があります。(横の繋がりを記した系図が載っているのはこの本のみ)

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系図では香語山(五十猛)の母、高照姫は出雲の7代主王と宗像家田心姫の娘となっていますが、実は伝承の中では大国主と多岐津姫との娘であると頻繁に書かれているのです。

「出雲と大和のあけぼの」ではP.84に『向家(7代主王の血筋)で生まれ海部家に輿入れした高照姫』と書かれていたり、また海部氏の系図に詳しい丹後の郷土史家の話としてP.71に『奥津島姫(田心姫)はホアカリノ命の奥方の母君』とあって上の系図と噛み合います。ところがP.47には『大国主の姫君、高照姫』と他の著書と同じように書かれているところもあって、いったいどっちなんだと悩ましいところです。ちなみに海部氏の勘注系図では高照姫は多岐津姫と大己貴オオナムチの娘とされています。ややこしいです。ここも古事記に倣って変更したということでしょうか。高照姫の出身は向家、神門臣家のふたつの伝承があるということをここで付け加えさせて頂きます。

【2019.5.18 訂正】

富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」が大元出版より発行され、本文及び巻末の系図に、高照姫は神門臣家の大国主と多岐津姫の娘と記されております。今後は当ブログでもそのようにさせて頂きます。また海御蔭と神八井耳も変更されていましたので、併せて変更致します。

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さて、系図絡みでもう一点、前々からとても気になっていることがありました。海部氏の勘注系図と安曇氏の系図にみられる武位起命タケイタテなる人物が誰なのか。徐福が出雲でもうけた息子、五十猛ではないのか、という疑問です。

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海部氏の系図には五十猛という人物は見られません。

出雲伝承では射楯イタテ神は火明命の息子、五十猛イソタケからきていると説明しています。射楯神を祀る神社でも五十猛神のことと説明しています。

「出雲と大和のあけぼの」では、五十はイとも発音し、イタケ⇒イタテに変わっているとあります。「猛」は「建」の字に変えることが多いそうです。イタテからイダテ、イタチにも派生しました。因達の神を信仰した伊達氏はローマ法王に宛てた書状の中でローマ字でイタチ藩と書かれていたそうです。

また、よく名前の前に「武」とつきますが、これは将軍を意味する称号です。ブと読まれるのを避けるために「建」の字を使うこともあるそうです。なのでヤマトタケル日本武尊、倭建命)は個人名ではなく将軍という職名となりますね。

話を戻しますが、武位起命の「武」を除けば名はイタテとなります。イタテは五十猛のことでもあります。だとすると、勘注系図新撰姓氏録の安曇氏の系図にみられる武位起命は五十猛の可能性がでてきます。つまり何が言いたいのかというと、海部氏と安曇氏の系図の中に五十猛がいることになり、それが安曇氏の祀る安曇磯良博多湾志賀島を本拠地とする海人族の王。漢倭奴国王印が出土した地です。)と呼ばれる人物なのではないかという推測です。国歌「君が代」の君として讃えられ、筑紫舞の謎を解き明かすキーパーソンであり、日本の古代史上、最重要人物のひとりであるにも関わらず記紀には記されなかった人物。このブログの初期に海人族たちのつながりを調べる中でも、この安曇磯良と五十猛が重なってしまうという不思議な現象が起きました。

けれど出雲伝承の中には五十猛が九州にいたとする内容は伝わっておらず、出雲で生まれ丹波の王となり、大和や紀伊に祀られたということのみです。であればどうして九州筑紫神社で筑紫の国魂、白日別神と並んで(もしくは同神として)祀られているのでしょうか。

上記の記事にも書きましたが、筑後国風土記に筑紫神の話があり、昔この地に麁猛ラクタケキ神がいて通行人の半分を殺したため、占いをしてこの荒ぶる神を筑紫神として祀ったということです。「麁」とは荒々しいという意味で、音はソです。部首は鹿ですね。暗号として読めば麁猛でソタケ⇒イソタケ? 志賀島の鹿⇒イソラ? そうだとすれば筑紫神は五十猛となり、磯良でもあり‥‥。深読みしすぎでしょうか。

出雲伝承によれば筑紫国の名の由来は、徐福の息子の時代に筑前筑後を支配し、その頃の勢力圏を築秦国と称し、音が変化して筑紫国となったといいます。(古くは筑紫をチクシと言いました。)筑紫の神が徐福の息子であったとすれば無理がありません。もちろん伝承の通りであれば、筑紫の神は徐福の九州での息子(ホホデミ)というのが最も無理がありませんが。

他にも九州北部には五十猛神を祀る神社はたくさんあります。

さらに木の国(紀伊国)は九州から移っていったという経緯が宇佐国造家や和歌山の名草戸畔子孫に伝承されており、また紀伊国造の故地が筑紫神社後ろの基山であり、日本植樹発祥の地とされていることも、ますます紀伊の木の神、植樹の神である五十猛と結びつきます。

さらに先ほどの射楯神(五十猛神)は船玉神でもあり、船の守り神です。船といえば海人族の王、安曇磯良。別名、磯武良イソタケラ。五十猛イソタケと音がそっくりですね。神功皇后三韓併合の際、海中に住むという安曇磯良(精霊?)を呼び出し、龍神から干珠満珠を借りてこさせ、皇后は無事に三韓を平定して帰還したという伝承があります。磯良は三韓併合の守護神であり水先案内人です。こういった話は和布刈神社、風浪宮、高良大社和多都美神社などでも伝えられています。また播磨国風土記には因達イダテの里の名の由来として、神功皇后三韓併合に向かう時、船先に祀ったイタテ神がこの里に鎮座されたからとあります。こうなると磯良と五十猛はぴったりと重なりますね。

次回、さらに安曇氏と五十猛の関係に迫ります。