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源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛⑻ 春日大社若宮と摩氣神社

 

今回、弓前文書を紹介しておりますが、このブログは出雲伝承を踏まえつつ古代史を探求していますので、私Sorafullのフィルターがかかることを避けられません。ですので興味をもたれた方は、前回記事でも紹介した原本を読んで頂くことをお勧めいたします。

弓前文書の神文は、継承者である池田秀穂氏の解読によると、現代でいうところの宇宙物理学を思わせるような内容で、この現象世界の成り立ちが示されており、私たちがイメージする古代の神様の話とは異なります。また神道の根幹ともいえる「祓い」についても解説されています。これらは弥生語という一音一義の独特な表現方法によって記され、少ない字数の中に重層的で哲学的な内容を込めることを可能にしているようです。中身も弥生語もかなり難しいですが、この世界観に触れるだけでもとても興味深いです。

こと歴史についてはいろいろな見方が生じると思います。池田秀穂氏はこれを伝えたのは倭人天族(旧石器時代に渡来、弥生時代には北九州を拠点とした海人族)としてとらえ、いわゆる神武東征は彼らが仕えた大王が遂行し、計算上で360年頃(誤差を数10年から100年とする)に行われたとして、その時の九州の大君景行天皇であり、大和に国を移したのは崇神天皇としています。これは弥生語で天皇の諡おくりな崩御後につけられる贈り名)を読み解いた結果が基になっているようです。東征後しばらくの期間、その王朝は九州と大和との二王朝制であったとも。(天の大君、国の大君という言葉が使われていることから、天が九州、国が大和としている)

そしてこの弓前文書の内容は、紀元前300年頃に凝結曾根コヤネから倭人天族が受けた口伝だとしています。池田氏はこのことを次のように考えておられます。

倭人天族の宇宙自然観は最初は2次元的な世界であったが、ある時から突然理論が発達し、言わば4次元の宇宙自然観へと進歩した。このことは弥生の初め頃、中津と弓前という天才的な霊能家が天族の中に現れ、さらに最高級の巫女さんを得て、自然哲理を語る宇宙霊との交信が可能になったためにハイレベルの自然神学が樹立した。その交信を仲介したのが凝結曾根コヤネという高級霊ではないか。そして記紀はこの難解な哲理を高天原という神話の枠に嵌めたのだと。倭人天族にとって神様とは「変化する大いなる自然の流れ=カムロミチ(神ながらの道)」であり、記紀のいうような神々ではないということです。

弓前文書には大陸からやってきた徐福に該当する人物は登場しませんが、神文の宇宙創成において「アマノィポアカリ」という言葉が出てきます。意味は太陽の炎コロナであり、宇宙で輝きだした太陽を現しています。徐福の和名、天照国照彦天火明命に重なりますね。

これを出雲伝承をふまえて考えると、徐福の渡来は紀元前218年であり、池田氏らの年代推定の誤差を考慮するとコヤネの時期と近いものになります。徐福の渡来によってもたらされた道教的宇宙観が、縄文より続く海人族の自然観と融合され飛躍的に発展した、と考えることもできそうな。

言語についてですが、日本語が大陸の言語とは異なることを考えれば、渡来人がもちこんだ言語が縄文語(下に注釈あり)と入れ替わったというのではなく、縄文語の中に他の言語が混入したとするのが自然です。日本語のベースはほとんどが縄文語であり、そこへ古事記万葉集で使われた弥生語の神の名、祓詞が混ざり、大和言葉となっていったと思われます。渡来人に占領されたり支配されたわけではなく、持ち込まれたものを吸収していったということでしょう。

【注釈】以前の記事で大野晋氏の研究を紹介しましたので、記事の概要を書いておきます。

「日本にはかなり古い時期からの南方系の音韻組織をもった言語があり、そこへ縄文晩期以降にタミル語(インド、ドラビダ人の言語)がかぶさった可能性が高い。かつてはウラル・アルタイ語系(ブリヤート人含む)が文法的には最も近いとされていたが、共通する語彙が少なすぎるという欠点があった。タミル語の文法はウラル・アルタイ語系である。つまり旧石器から縄文にかけて日本列島にやって来た言語は南方系、北方系、そしてタミル語であろう」

これを今回は弥生語に対して縄文語とします。★タミル語出雲族の母国語。

 

池田氏は神武東征については委細心得から、景行や崇神の時と推定されていますが、それは置いておいたとしても、最初に美山(三輪)の大君の姫神に神懸かりしてヒルメ大霊のご神託があった、ということですので、すでに九州から三輪へ大君が来ていたことになります。そこで受けたご神託に従って出雲、三輪、大和、伊勢、常陸へと宮を建て、進んでいくわけです。

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委細心得から進路をまとめてみましたが、このことは見方を変えれば2度の物部東征があったという出雲伝承と重なります。出雲伝承が言うように、1度目は四国南岸を通って紀伊から大和へ、2度目は瀬戸内海を通っていったという内容と齟齬がありません。弓前文書には1度目の東征については記されていないので、中津弓前とは系統の違う者たちが行った可能性も。(1度目がホホデミの後裔である物部五瀬らで、2度目がイニエ王と豊玉姫とすると、イニエ王は中津弓前族に近い存在となる)

ただし2度目の東征は豊国物部連合国の豊玉姫(ヒミコ)に神懸かりがあったとしなければ出雲伝承の筋が通らないですね。三輪のヒメミコは代々登美家(事代主子孫)の娘たちなので。

注)池田氏、萩原氏は東遷して三輪に着いたとたんに再びヒルメ大霊の神勅があり、上にまとめた進路で珠を鎮め祀り、常陸へと向かったとしています。神武東征は1度という前提のようです。

 

さて、ここで再び春日大社の話をします。

祭神は武甕槌命経津主命天児屋根命姫神ですが、天児屋根命姫神の御子である天忍雲根命も若宮として祀られています。もともと母神の御殿内で水徳の神として祀られていましたが、平安期に洪水による飢饉が続いて疫病が流行った時、若宮の御霊威にすがろうと本宮と同じ規模!の神殿を建てて御神霊を迎えました。すると悪天候も治まり、そこからかの盛大な若宮おん祭りが始まったそうです。磯良の細男舞はその祭りの中で奉納されます。他に8人の巫女による八乙女舞の神楽もあるようです。

この天忍雲根命を祀る神社に摩氣神社があります。丹波南丹市園部町にあり、延喜式式内社名神大社(特に格が高い)とされました。今や時代劇、映画の撮影にたびたび使われるほどの風情あるところのようです。

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Wikipediaより摩氣神社

現在の祭神は大御饌津彦オオミケツヒコとなっていますが、これは天児屋根命の御子、天忍雲根命の別称であるということです。御饌の「饌ケ」とは食物の古語です。みけ⇒まけ

創祀年代は不明ですが奈良時代にはすでに祭祀が行われていたようです。しだいに荒廃していきますが白河天皇が神事祭礼の旧式を復興。17世紀には領主代々の祈願所となり、18世紀に火災によって焼失するも再興、近世まで摩氣郷11ヶ村の総鎮守(総氏神)と称されました。今でも古から続くお田植祭を行っているそうです。

「玄松子の記憶」というホームページより平成祭データに収録されている摩氣神社の由緒を参照させて頂きました。

それによると、皇孫に仕える天児屋根命は《皇孫の御食みけの水には現国の水に天津水あまつみずを加えて奉れ》と言って御子の天忍雲根命を天上に行かせました。命は夕方から翌朝まで一心に天津詔詞あまつのりとの太詔詞ふとのりとを申され、ようやく天八井あめのやいの水を乞い受けられ、天より下り天津水を奉りました。これによって《歴朝(代々の朝廷)大嘗祭に奉る悠紀・主基(神饌の新穀、酒科を献上する国郡)の大御酒を始め、皇孫命の大御食の水にはその天津水を奉る例となり》国民の五穀は豊かになりました。天忍雲根命は大御饌津彦命と称えられ、農業、食物主宰の神として祀られたといいます。

さらに次のような言い伝えも記されています。明治37、8年の時、日本兵満州の戦場ではぐれ飢餓にさ迷っていると、夢に老人が現れて兵士に粥を与え、帰る方角を指し示してくれたのでもとの軍に戻ることができた。その老人に名を訊ねたところ「我は丹波北向きの神なり」とのみ答えて姿を消した。丹波北向きの神はこの摩氣神社が唯一という。

 

最初の天津水の話にとてもよく似た話が丹波の籠神社に伝わっています。鎌倉時代に伊勢の外宮の神主によって書かれた書物によると、天村雲命はニニギノ命の命令によって天御中主神のもとに行き、天忍石の長井の水高天原で神々が使われる水)を汲んで琥珀の鉢に八盛りにし、天照大神の御饌としてお供えするように、また残った水は人間界の水に注ぎ軟らかくして、朝夕の御饌としてお供えするよう命じられました。天村雲命はこの水を日向の高千穂の御井(泉、井戸)に遷し、その後籠神社奥宮の天の真名井の泉に遷され、さらに雄略天皇の御代に伊勢外宮の豊受大神宮御井に遷されたということです。以来この霊水は皇大神宮豊受大神宮の朝夕の大御饌としてお供えされているとのこと。

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籠神社奥宮、真名井の水


もうひとつ、丹後国風土記残欠から「田造の郷」を要約します。

天村雲命と天道姫(村雲の母、高照姫)が豊受大神を祀り、新嘗の準備を始めたところ、井戸の水が変わって神饌を用意することができません。それを泥ひじの真名井と呼びました。そこで天道姫が占いによって天香語山命に矢を放たせて、矢の着いた清いところに大神を移して祀りました。この東南三里ほどの所に霊泉が湧き出たので、天村雲命がその泉水を泥の真名井に注ぎ、荒れ水をやわらげました。その泉を真名井と呼びました。真名井の水を匏ひさごに入れて神に差し上げ、神饌を料理して永く大神に供えました。春秋に田を耕し稲種を撒き、四方の村に広めた結果、人民が豊かになりました。

以上3つの話を紹介しましたが、摩氣神社の天忍雲根命が天の水を持ち降り、地上の水と合わせたものを皇孫の御饌の水とし、そして国民の五穀が豊かになったという話と、籠神社や風土記に伝わる天村雲命が天の水を持ち降り、人間界の水と合わせて豊受大神に供え、農業が広まり人民が豊かになったという話は同じ内容といっていいでしょう。しかも今話題の大嘗祭の起源にまつわる話ですね。

また摩氣神社の言い伝えにあった北向きの神というのは、摩氣神社社殿が北を向いていることによるらしく、これを地図で見てみると、その社殿の向いた彼方には、海部氏の勘注系図に伝わる「天火明命と后神が降臨した冠島」が位置していました。冠島は籠神社の海の奥宮とも呼ばれ、もとは息津嶋だったのですが、701年の大地震によって一夜にして沈んだとの言い伝えがあり、二峯だけが海面に頭を出して残り、そのひとつが冠島と呼ばれています。神祠があるようです。(冠島の周辺は近年ダイバー達の間で海底遺跡があるとして話題になっているそうですよ。専門家は自然現象だろうとみて調査はされていません)

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ただしグーグルアースで社殿の向きを見ると、微妙に北北西に傾いており、それでいくと籠神社、真名井神社の方向を向いていることになります。どちらにしても摩氣神社の天忍雲根命は村雲の祖父母が降臨した地を向いているようです。偶然‥‥?

春日大社の若宮、天忍雲根命も水徳の神として祀られ、名前も似ていますね。名前繋がりでいくと、村雲の息子で尾張氏の祖となったのが天忍人オシヒト命です。この天忍雲根命と天村雲命、同一人物の可能性はないでしょうか。

仮説ではありますが、天忍雲根命が村雲であったとすれば、父である天児屋根命とは香語山・五十猛となります。弓前文書の凝結曾根コヤネ池田氏のいうように霊的な存在としての名であるとすれば、親子というよりもその族の信仰対象であるかもしれません。少しゆるめの解釈として、徐福が大陸から持ち込んだ信仰が香語山、村雲へと伝承されていったとみることもできます。そこに池田氏のいう倭人天族(海人族)との融合があったとは考えられないでしょうか。その場合、可能性が高いのは安曇族だと思います。

香語山もしくは村雲と安曇族の娘との婚姻があり、九州に残った血筋が中津・弓前の一族となっていった。(安曇の男系とは別系統になります)そして丹後では大和国造、尾張氏へと繋がる系統が生まれていった。物部は徐福の後裔だけれども母系始祖が市杵島姫なのでまた別の系統になります。徐福の持ち込んだ信仰が配偶者の信仰の影響を受け、微妙に表現の仕方が変わっていったという可能性も。

そうであれば、古代日本の代表的海人族には徐福の血が流れていることになりますね。宗像、海部、安曇。古代は陸路よりも海路のほうがスピーディーかつ安全だったので、これを制することは大事だったでしょう。余談ですが、血縁によって地盤を揺るぎないものにしてゆくやり方は、藤原不比等が娘たちを皇室に送り込んでいったこととそっくりですね。

 

現在のSorafullの空想の中では五十猛と倭人海人族(安曇族)との間にできた子が磯良だったのでは‥‥? などと展開しておりますが、そこまで限定しなくても村雲は大和の初代大王ですので、どの時点かで親族になっていれば、志賀の神は皇神すめかみと称えられてもおかしくはありません。

春日若宮おん祭で奉納される磯良の細男舞。ここにどんな意味が潜んでいるのでしょうか。