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源流なび Sorafull

倭人⑵周王朝に鬯草を貢す

 

 

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今回は倭人の居場所について考えてみたいと思います。

中国の史書倭人について記した有名なものといえば、漢書地理志の「楽浪海中、倭人あり」でしょうか。もしくは前回紹介した三国志の「漢のとき朝貢するものあり」や後漢書に書かれている漢倭奴国王の金印の記事とか。そのせいか私たちはなんとなく、漢の時代から中国は倭人の存在を知っていたと思っています。ところが、もしかするとそれより1000年も前から、倭人は中国の王朝と交流していた可能性があるのです。それを最初に指摘したのが九州王朝説を唱えた古田武彦氏です。

古田氏の説は教科書的な常識を覆す展開をするものが多く、歴史学界から非常に批判されました。ですがすべてを否定して遠ざけるにはもったいない、かなり面白い指摘が随所にあります。常識がゆえに誰もそれ以上追及することのなかったところを、心に生じた小さな疑問を封じることなく根気強く掘り続けていく、そんな研究者の情熱を感じます。

今回は倭人を記した可能性のある文献資料を含めて、三国志に記された倭国の見聞録までを、古田氏の説に沿って一気に辿ってみたいと思います。

史書の編纂された年代順よりも、出来事の順を優先して追っていきます。

f:id:sorafull:20190209100812j:plain①⑤の礼記、②③の尚書ともに儒教経書

礼記は主に礼についての古説を集め、前1世紀に整理し編集されました。古代の習俗、制度、宗教などについても知ることのできる文献。

 尚書は書、書経とも言い、史官の記録による中国最古の文献であり、王やそれを補佐した人たちの言動の記録です。歴史書であり、中国人の学問の指標ともいわれます。成立は前5~3世紀の可能性。

 

①東方、夷と曰う。被髪文身、火食せざる者有り。礼記、巻12》

東方の民を夷と呼んでいる。ざんばら髪で体には入墨。火を通さずにものを食べる。

 

②島夷、皮服す。尚書、冒頭》

東には島があって、皮の服を着た人たちが住んでいる。

古い注釈:海曲、之を島と謂う。その海曲、山有り。島に居るの夷。

後の注釈:島は是れ、海中の山。

 

③海隅、日を出だす。率俾そっぴせざるはなし。尚書、巻16》

周公の言葉「海の隅(彼方?)にある日の出るところの種族もまた、周の天子に対して臣服するようになった(貢献し礼を尽くすようになった)」

 

①は倭人以外の東夷(高句麗、東沃沮、濊、韓)としても考えられる記事ですが、②や③を見ると島、つまり海に囲まれた山であり、東の海の彼方で日の出るところに住む人々です。東夷のうちで島に住む者と解釈できそうです。周公については次に説明します。

 

※次の④の論衡、⑦の漢書後漢の時代に書かれました。編者は同時代の先輩、後輩。この二人についてはあとで詳しく紹介します。

 

 ④周の時、天下太平、越裳えっしょう白雉を献じ、倭人鬯草ちょうそうを貢す。《論衡、巻8儒増篇》

成王の時、越常、雉きじを献じ、倭人ちょうを貢す。《論衡、巻19恢国篇》

周の時代に越常(中国南部、ベトナムあたり)は白キジを献じ、倭人は鬯草という神に奉げる霊草を貢物とした。

 

暢も鬯草に同じ。周の第2代成王(前1042~1021年在位)の時とあります。

第1代武王は殷を倒して周王朝を確立後、まもなく亡くなります。

(補:前回記事の呉の太伯は武王の大叔父に当たります。末弟の息子に皇位を譲って正解だったのですね)

残された子が成王ですが、まだ幼いために武王の弟の周公が、成王の補佐として天下を統一し、周王朝の基礎を築いたといいます。それが武王の願いでもありました。

③の周公の言葉「海の彼方の日出るところの種族もまた、貢献してくるようになった」は、兄に託された周王朝をここまで拡大安定させ、成王に引き継ぐことができたという安堵と満足感を思わせます。周公はのちの孔子が憧れ尊敬した人物だそうです。

尚書では冒頭に出てきた②の島夷=遥か東の島の人たちが、終盤になると貢物をもってくるほどに、周は立派な国になったのだなと読み手は受け取ることができます。

鬯草を献じた倭人を中国大陸の江南地方の人だという説がありますが、周公の言葉からは、東の海の彼方の人たちというイメージが起こります。

 

⑤昧まいは東夷の楽なり、任は南蛮の楽なり。夷蛮の楽を大廟に納め‥礼記、巻14》

(儀式の最後には)東夷の楽である舞と、南蛮の楽である任の音楽を奏でよ‥

 

周公が亡くなった時、甥の成王は周公への恩とこれまでの功績を称え、周公の息子(魯公)に、天子を祀る礼式で代々祀り続けよと命じたのです。④の「越常白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」は成王の時と記されていますが、実際には周公に献じた可能性があり、そうであればこそ周公を祀る礼として、儀式の最後に東夷(倭人)と南蛮(越常)の楽を納めるという意義が生まれます。その場合、東夷は倭人を指していることになります。

(中国は自国を世界の中心として周囲の諸国を東夷、西戎、南蛮、北狄と東西南北に並べますが、ここでは東と南の音楽だけを納めます。後世の礼記の注釈には何故二方だけなのか議論されているようですが、倭人と越常の貢献という史実からきているからと考えれば納得です)

 

⑥蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。《山海経

山海経は周の戦国時代、前4~3世紀頃に書かれた最古の地理書ですが、伝説や神話のようなものも含まれています。「倭」という言葉がここで初めて使われており、見逃せません。蓋国とはのちの高句麗のあたりにあったようで、朝鮮半島の北半に位置すると思われます。鉅とは巨、大きいという意味で、燕の国です。最盛期には今の北京から北朝鮮との境まで東西に広がる大国です。(燕は前12世紀頃から前3世紀)

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Wikipediaより

 燕の南、朝鮮半島北半部に蓋国があり、その南に倭があったということになります。そして倭は燕に属していたと。地理的に燕の中にあるのではなく、服属関係を指しているようです。のちの三国志の韓伝にも三国時代には半島南岸に倭の地があったように書かれています。時代によって大きさは違えど、倭の領域は九州だけでなく朝鮮半島の南側まで含んでいたようです。

ではなぜ倭は、燕に属していたのか。

ここで時間をぐっと遡って、殷から周王朝への移行期に起こったドラマをのぞいてみましょう。

史記によると、殷王朝の最後の天子紂王が暴虐を極めたため、宰相の箕子キシが諫めますが紂王は聞かず、箕子の親しい友を殺してしまいました。箕子は絶望し狂った振りをして紂王から離れました。その後、周の武王が殷を滅ぼし周を建国、箕子は朝鮮を治めるよう封じられ箕子朝鮮を建国します。武王は人望ある箕子を尊んで臣(家来扱い)とはしませんでした。

漢書地理志・燕地によると、朝鮮にやって来た箕子は周辺の民に礼儀や田作、養蚕、機織りなどの技術を教え、中国の天子を尊ぶよう教化したといいます。それは東夷を教化したということになります。

後漢書の東夷列伝序文によると、中国の王朝が衰退するたびに東夷が盛んになって国内に侵入することも増えたようですが、周公の時に東夷と安定した関係となったとあります。箕子の教化の結果なのでしょう。倭人の貢献もそれによって始まった可能性があります。周の第2代成王の時(周公の時でもある)に箕子は都へのぼって拝謁しています。

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この地図がいつ頃かはわかりませんが、戦国時代には半島の北半部に蓋国があったようなので、箕子朝鮮が縮小していたことになります。箕子の時代、南側に倭人がいたとすれば、箕子の教化の影響を受けていたでしょう。周王朝への貢献は箕子朝鮮を介し、周の臣であった燕を通じて行われた可能性があります。箕子朝鮮⇒燕⇒周王朝

この関係が続いていたとすれば、山海経の「倭は燕に属す」という一文は、有り得たわけです。

ちなみに下の過去記事に、明刀銭が沖縄や広島、丹後でも出土していることを書きましたが、明刀銭とは春秋戦国時代燕で主に作られていた貨幣です。朝鮮半島の海岸や島嶼からの出土が多く、日本、朝鮮半島楽浪郡、中国本土を結ぶ交易の結節点にあたると考えられています。

 

「楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」《漢書・地理志、燕地》

漢の楽浪郡朝鮮半島)の海の向こうに倭人がいる。百余りの小国に分かれている。折々に(郡を通して)貢物をもってくるという。

 

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地図は3世紀のものなので、位置関係だけ見てください。楽浪の海の向こう、では曖昧ですね。でも朝鮮半島ではなく、海の中にあるということは明確になりました。倭人は半島の南側も自分たちの領域として生活していたけれど、その根拠地は海を越えたところにあるということが、感覚としてわかっていたのでしょう。この文章は漢書の「燕地」の項にあります。著者班固は、山海経に記された「倭は半島にあって燕に属す」という一文を読んだ上で、あえて「楽浪海中倭人あり」と書いています。漢書の序文にはこう記しています。

「先王(堯、舜、兎夏王朝始祖)以下の天子たち)の時代はすでに遠くなり、地名も何度も変わっている。その変遷を調べ、「詩経」「書経」や孔子の歴史書「春秋」を参照し、周末の戦国期や秦、漢といった現代の地名にまで及ぶことにした」

これを現代日本に置き換えると、明治や江戸時代の地理から調べるというのではなく、古墳から弥生時代にまで遡って諸外国を含む地理の変遷を調べ倒したということです。中国には文字があるからこそ、残された史書によって研究できたのですね。

実はこの「楽浪海中倭人あり」の一文は、文脈の最後にあたります。先ほど紹介した、箕子が朝鮮で民を教化したという話のあと、

「貴むべき哉、仁賢の化や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな」とあり、その後に「楽浪海中~」と続くのです。

仁賢の化や、は箕子の行った礼などを広める教化を指しています。そして孔子の言葉ですが、論語に同じ話があります。

「中国ではもはや〈道〉が行われない。もういっそのこと筏に乗って海に浮かび、海の彼方にいるという九夷の人たちのところへ行きたい」と。孔子は特に内面の仁(大まかに言えば愛、他者への思いやり)とそれを行動に現した礼(礼儀礼節、社会規範)を説きました。ここで言う道とは老子の説く道タオ(この世の真理)というよりは、人の生きる道に近いのかなと思います。

漢書では孔子の言葉の前に「東夷は天性柔順で蛮夷、西戎北狄とは異なる」といっています。ゆえに孔子は九夷に行きたいのだと。

九夷とは一般に九つの野蛮な族とされていますが、班固は東夷のこととして書いているように思えます。

そして孔子が筏に乗って海の向こうの九夷に行きたいと言ったことに対して、班固は「ゆえ有るかな(根拠があるのか)」、つまり孔子の言う地理的根拠は?と問いかけた後、 

「楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

と締めくくっているのです。海の向こうに倭人の住む島があるぞと。しかも孔子が尊敬する周公へ、定期的に貢献していたそうじゃないかと。

漢書地理志・燕地に記された一連の文脈を簡単にまとめます。

箕子は東夷を教化した⇒東夷だけは天性柔順⇒孔子は海を渡って九夷に行きたいと言った⇒楽浪海中に倭人あり、昔から天子への礼を現していたそうだ

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Wikipediaより。漢書(明代の版)

 

建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。後漢書・倭》

西暦57年、倭奴国の使者が後漢光武帝のもとへ貢物を奉げて挨拶に来た。使者は大夫と自称した。倭奴国倭国の一番南の地である。光武帝倭奴国王に印綬を賜った。

 

④の論衡(越常白雉を献じ、倭人鬯草を貢す)を書いた王充は、漢書を書いた班固より5歳上で、班固をとても可愛いがっていたといいます。(論衡30巻のうち最後の1巻は王充の自叙伝、班固も漢書の最後に自叙伝をつけています。)

共に太学(官僚を養成する最高学府)に通い親しかったわけですから、論衡と漢書に記された「倭人」は同じものを指すはずです。同時代に同じ太学で学び、同じ時期に史官となる飛びぬけて優秀な2人が、都の知識人たちに向けて中国の歴史を示しているのです。倭人が別ものであることはないでしょう。もし論衡の指す倭人が中国大陸の江南地方に住む者であったなら、江南の倭人と書くはずです。

さらに倭奴国から使者が来朝した57年には、王充は都の太学におり、班固は父の葬儀で郷里に帰っていたそうですが、その後明帝に見出されて中央で史官の道を歩みます。なので王充は実際に倭人を見た可能性があり、班固もこのニュースを知らないままということはないでしょう。しかも金印は滅多なことで与えられるものではなく、銅印から銀印、金メッキ印とあり、その上に金印があるのでまさにレア中のレア。それがこれまで所在のよくわからなかった倭人がやって来て、その王に与えられるのですから、かなりの話題性があったと思われます。

それから、⑦の漢書において「楽浪海中‥‥、歳時を以て来り、献見すと云う」の「と云う」の表現は、漢代の話ではなく過去のことを指しているわけで、つまり論衡に記された周の時代からの倭人の貢献を言っていると思われます。

「歳時を以て」というのは、倭人がいつも決まった頃にやって来るという意味があり、季節によって潮流や風向きが変わるので、航海の時期がだいたい決まってくるということなのかもしれません。

以上をまとめると、

④で周の時代に鬯草を貢いだ倭人

⑦の楽浪海中の倭人

⑧の57年に漢に来朝した倭人

これらは同じ人たちだという認識が、当時の中国の知識人にはあったと考えられます。鬯草を貢献した倭人は大陸の人ではなく、日本列島を拠点とした倭人であると、彼らは結論づけているのです。そして57年に金印を持って帰ったのは筑紫の倭人ということになります。

(筑紫の倭人に対して東鯷人と呼ばれる人たちがいます。追って紹介します)

 

倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為る。旧百余国あり。漢の時に朝見する者有り。三国志魏書・倭人

倭人は魏の帯方郡朝鮮半島)の東南の大海の中におり、山の多い島に国や村ができている。昔は百以上の国があった。漢の時代、朝見する者がいた。

 

ようやく三国志に到着です!

「帯方の東南大海の中」となり、位置の精度が上がりました。

この3世紀に書かれた三国志も、もちろん過去の歴史書を参照しています。古くから繰り返し記載されてきたけれど所在がよくわからなかったあの人たち、東の海の彼方、日出るところの島夷、周代に鬯草を貢献した倭人、そして漢代に光武帝のもとへ朝見しに来たあの倭人とは、帯方郡の東南の大海の中にいたのですよ!昔から言われてきたように、山の多い島に国や村を作っていましたよ!と言っているわけです。そして魏の時代には実際に使者が倭国を訪問したので、倭人についてこのように詳しく知ることができました、という報告の意味を持っているのです。

三国志東夷伝の中で倭人伝の文字数が半端なく多いのは、ようやくわかったあの倭人の国、という思いが込められているのかもしれません。またほかの国の場合は「高句麗は~に在り」「韓は~」と国の位置から始まるのに対し、倭人伝だけが「倭人は~」と始まります。史書の中で代々「倭人」として言い伝えられてきた存在を、ここでもあえて過去に倣って「あの倭人」として記したのでしょう。だから倭人伝なのです。

 

さて、大変長くなりましたが、最後に前回記事の疑問、倭人は呉の「太伯の後」について。

魏略に書かれていた「(倭人が)自らを太伯の後という」の一文を、三国志を書いた陳寿はあえて「自称大夫」と訂正しているようだという話でしたね。

古田氏によると、大夫というのは「卿、大夫、士」という統治階級の三分法のひとつであり、これは夏、殷、周において使われたものでした。秦や漢以降も官名の一部としては残っていて、「~大夫」といった使い方はされたようです。ただし周以前の三分法ではなかったと。そして陳寿のいた西晋時代になると、県邑の長や士豪の俗称になっていたそうです。倭国の場合、三分法に置き換えると親魏倭王となったヒミコは卿、その第一の重臣「難升米」らは「大夫難升米」を名乗っているので、卿と大夫の関係性は周以前の階級を引き継いだものと、陳寿は考えただろうと推測されます。陳寿の時代にはすでに消えていた遠い周代の文化が、今も倭国で生きている、その驚きは大きかったでしょう。

「古より以来、使者が中国へ来る時は、みな自らを大夫という」

古より以来、というのはたった200年ほど前の西暦57年の倭奴国の朝見を指すのではなく、周の時代の交流から倭人は大夫という身分名を使い続けていることを指し、「使者はみな大夫という」の「みな」は、魏へやって来た使者たちや、そのひと昔前の後漢への朝見を含めての「みな」なのでしょう。

3世紀の魏の時代になっても大夫と名乗る倭人への驚きが、歴代の文献に記された周王朝建国以来の繋がりを確信させたのではないかと思います。鬯草を貢献した倭人とは彼らだったのだと。尚書礼記史記、論衡、漢書、そしてそれらを成立させるために必要だった、失われしあまたの文献の上に立つ三国志の重みを、「古より以来」のこの一言に感じます。

魏略が倭人を呉の末裔と書いたことに対して、いやいや、倭人周に貢献した人たちであり、その文化を受け継いでいるのだよと、そこを強調したのかもしれません。

もちろん、太伯の後と言った人が実際いたかもしれないのでは?という疑問は残ります。そこで簡単な図にまとめてみました。

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倭人は紀元前1000年頃にはすでに周の歴史の中に記録されています。もし当時から呉の王家血筋、親戚筋であったり、呉の民(越族)だけれど故郷を離れた人だとしたら、鬯草を献じる倭人の説明にそれが付け足されていてもおかしくないように思います。周公の世代からすれば祖父の代に太伯がいるわけです。まだ存命かもしれません。倭人はこう名乗るでしょう。我々は太伯の親戚、もしくは太伯虞仲の築いた呉の人であると。

そして最も可能性の高いと思われる、前5世紀以降に呉の滅亡によって倭国へ渡来してきた人たちの末裔が、魏の使者に出自を語ったとするならば、それは倭人と融合せずにいた呉の人か(700年の歳月を経ていますが可能性はあります)、倭人と融合してきた人たちといえるでしょう。遠い先祖が呉からやって来て、倭人とともに暮らしているのだと。

三国志陳寿がこのように考えたかどうかはわかりませんが、やはり本来の倭人は東の海の彼方の島夷、楽浪海中、東南大海の倭人です。呉から渡来してきた人もいるけれど、「倭人とは太伯の後(呉の末裔)である」という表現を使うわけにはいかないように思います。

 

参考図書:古田武彦著「倭人伝を徹底して読む」「邪馬一国への道標」「よみがえる九州王朝」