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源流なび Sorafull

委面・異面・倭面土

 

 

前回の記事で、漢書「楽浪海中倭人在り」に対して代々付けられた注を紹介しました。三国志の編者、陳寿の参照した漢書には、魏の如淳が付けた「墨の如く委面(入墨した顔)して、帯方東南万里に在り」という注が入っていたことになります。

陳寿東夷伝序文に、中国の軍が朝鮮半島北半部の東海岸まで出て来た時に東の大海を臨み「長老説くに、異面の人有り、日の出ずる所に近し」としています。これは如淳の「委面」を受けての文章であるようです。長老とは如淳、もしくは古からの伝承者たちのことでしょうか。そして日の出ずる所とは、尚書の中で周公の言葉として出てきましたね。中国では倭人のことを表現する言葉となっているようです。

歴代史書にはそれらを結ぶ縦糸がいくつもあって、それに気づかず部分だけを読んでも編者の意図はつかめないのだなと、今回の勉強で繰り返し思います。すべてを読み込むのは遥かな道のりですが…。

さて、後漢書には107年に倭国王帥升が奴隷を献じて謁見を願ってきたと書かれていますが、唐代の翰苑の注には後漢書からの引用として「倭面上国王帥升」とあり、11世紀の通典・北宋では「倭面土国王帥升」とあって、他にも似た記述が存在しており、ややこしいことになっています。後漢書の原本にそう記されていたのかは不明で、後代の解釈によって付け加えられた可能性もあると思いますが、いずれにせよ倭面土国が何を指しているか調べてみました。

倭面土国をヤマトと強引に読ませる説もあるようですが、前回も紹介した説文解字の研究者である張莉氏は、漢字には必ず意味するところがあるということで、倭面土を「委面」として捉え、顔に入墨をした倭人を示していると言われます。「土」は顔料で入墨の意味となり「奴」の置き換えだと。

※ 古代中国には、うねうねと曲がる意味を表す「ゐい」という音が先にあって、それを蛇の様子と重ね合わせたのが「委蛇(ゐい、ゐだ)」という語ではないかと張氏は言われます。同義語として「委佗、委委」などがあります。「委曲」という語も中国では曲がりくねる意味です。なので古代の人にとっては「委」という文字からうねうねと曲がったイメージが連想され、倭人は委蛇のような入墨をしていると認識していたのではないかということです。光武帝の金印の蛇紐は、この辺りに理由があるのかも。

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委奴、委面、異面、倭面土。こうして並べると、入墨という繋がりが見えてきませんか。

 

ところがやっかいなことに、出雲伝承では倭国王帥升とは、大和のクニオシヒト大王とされているので、そうなるとヤマトの男性が入墨をしていたのか???

今のところそれについての明らかな資料を得ていません。出雲伝承の中では入墨について触れておられませんし、徐福の系統は中国からの渡来なので、刑罰である入墨をするとは思えません。これまで調べてきた中で、大和の支配層と入墨は結びつきませんでした。

古事記では神武東征後に、大和のイスケヨリ姫が九州から来た大久米命の目尻に入れた鋭い入墨を見て「どうしてそのような入墨をしているのか」と不思議に思うシーンが描かれ、大和では黥面自体が珍しいのか、大久米命の入墨が珍しいのかわかりません。

日本書紀には履中天皇の代に(倭の五王のひとりとされている)、反乱に加担した安曇連浜子に対して黥面の刑を科しています。これも目の縁に入れたようで、安曇目と呼ばれます。もともと海人族は入墨を風習としています。3世紀の三国志では男は皆、黥面文身であると記されているのに5世紀には刑罰となっています。この間に支配者が入れ替わった可能性があります。大和朝廷が九州の旧勢力を服属したことによって、彼らの風習を中国に倣って罰として貶めたのではないでしょうか。もし大和の支配層に黥面の風習があったなら、それを刑罰にまでするようなことにはならないと思うのです。

国立民族歴史博物館考古研究部(1999年当時)設楽博己氏の報告によると、縄文の黥面土隅から弥生の黥面絵画への変遷について調べたところ、3世紀に特徴的な鯨面絵画が近畿地方だけ空白となっているそうで、早ければ紀元前1世紀頃から、この辺りでは黥面から離れていく方向性ができていたのではないかということです。(黥面埴輪は少し出土しているようですが。)黥面からの離脱は中国の墨刑を支配層が知ったことによるのかもしれないと。

入墨 の文化は近代までアイヌや沖縄地方にみられ、黥面土偶が本州の広範囲から出土していることから、縄文の風習だったと思われます。弥生から古墳時代には記紀によると安曇、久米、蝦夷といった大和以外の人々の風習として描かれています。

三国志倭人伝と設楽氏の報告を鑑みれば、3世紀には地域による違いが表れているように思えます。設楽氏は邪馬台国大和説のようですが、中国では周代から墨刑は存在しており、(その前の殷は民族が違って入墨をしていたようで、前王朝を倒した周はそれを刑罰としたのかも)、倭人は墨刑を知っていても黥面文身を辞めず、3世紀になっても続いていたということなので、三国志に描かれた地域(いわゆる邪馬台国)が近畿の大和というのでは無理があるように思います。

出雲伝承では3世紀に九州の物部豊連合国が東征し、イクメ大王(垂仁天皇)が大和に物部王朝を開きます。ですが実際には物部は大和の権力をしっかりと握ることはできず、景行天皇は九州や東国へ遠征に出かけっぱなしで、留守の間は大和の副支配者である登美家(出雲王家分家)が治めていたといいます。そして景行天皇は大和に帰ることもないままに崩御。続く成務天皇は何の事績もないままいつの間にか崩御され、物部王朝は3代で終わりを迎えました。物部の風習が大和に根付く間もないですね。

その後は成務天皇の后である神功皇后記紀では仲哀天皇の后)の三韓併合という華々しい活躍があり、それを応神天皇が引き継いだものの統率力はなく、平群王朝へ交代したといいます。倭の五王は大和の平群王朝ということなので、九州から東征してきた人たちではありません(伝承では武内宿祢の子孫です。)黥面文身が刑罰となるのが応神天皇倭の五王の頃からであれば、九州からの勢力が失墜した時期と重なり、出雲伝承に沿っていると思われます。

 

設楽氏の研究の中で、出雲の加茂岩倉遺跡から出土した29号銅鐸の紐に人の顔が描かれていて、黥面だろうと判別されていますが、出雲伝承ではクナト大神の顔を示していると伝わっているようです。実際その顔は老人の皺のような線をシンプルに描いていて、入墨というのは難しいのではないかなと思います。一方、出雲伝承の「サルタ彦大神と竜」のP.82に、岡山の上東遺跡出土の幸の神土器が紹介されており、そこにクナト大神の顔に皺をたくさん入れて描かれているとの説明がありますが、絵だけを見ればこれは設楽氏のいう2~4世紀に特徴的な鯨面絵画と思われます。

入墨という切り口で時代や集団を辿っていくと、面白い結果が導き出されるのではないかなと思います

下図は絵の特徴だけを手書きでざっと写したものですのでご了承ください。

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