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源流なび Sorafull

大嘗祭の儀式から見えてくるもの

明日11月10日には、台風で延期となっていた天皇陛下ご即位のパレード「祝賀御列の儀」が行われます。お天気にも恵まれそうですね。

先日の即位礼正殿の儀では、皇居に架かる虹が大きな話題となりました。激しく降り続いていた雨も、天皇皇后両陛下がお姿を現される直前には弱まり、雲の隙間から注ぐ光の下、儀式は粛々と行われていきました。まるで神々の祝福に包まれているかのような不思議な時間でしたね。

天皇陛下は学生の頃より水についての研究を続けておられ、水運に始まり「足りない水」から「多すぎる水」つまり水害の対策へとその研究の幅を広げてこられたそうです。10月の相次ぐ水害に、研究者としても心を痛めておられたでしょう。そんな中で行われた正殿の儀の、奇跡ともいえるひと時の晴れ間と虹は、令和の時代への希望を後押ししてくれたような気がします。代々語り継がれること、間違いありません。

 

さて、続く14、15日には大嘗祭「大嘗宮の儀」が予定されています。

大嘗祭とは即位した新天皇が行う新嘗祭です。全国から集まった農産物を神に供え、国の安寧と五穀豊穣を祈ります。天皇の一代一度の特別な儀式であり、その中心となるのが大嘗宮の儀。ようやく令和の大嘗宮も完成したようですが、ここでどのような儀式が行われるのか、これまで公にされたことはありませんでした。

今年の4月と10月に放送されたNHKスペシャル「日本人と天皇」の中で、その儀式が初めて再現されました。研究者の方々や平成の大嘗祭に関わった人たちへの取材を基にしています。

 

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令和の大嘗宮 Wikipediaより


写真の模型には大きな神殿が3つありますが、写真上方が主基殿(西)、左下が悠紀殿(東)です。

大嘗祭は戦国時代から200年ほど中断し、江戸時代中期に復活した時には簡素な小屋を建てて行っていたといいます。貞享4年の大嘗会調度図には主基殿と悠紀殿しかみられません。ふたつの神殿を囲む塀も、古代の村にありそうな細枝を束ねたような簡素なものです。昔は大嘗宮の建築期間は5日ほどだったそうで、今のような立派なものになるのは大正以降であり、長い歴史からみるとごく最近の変化です。

 

儀式は夕方から未明にかけて行われます。まず悠紀殿ゆきでん天皇が入ります。8m四方の内陣と呼ばれる部屋は、菜種油で灯しただけの薄暗さ。その時すでに神が降りてきているとのこと。

中央には神が休むための寝床が敷かれています。

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大嘗宮内部の図(宮内庁Wikipediaより

 

伊勢神宮の方角に神座しんざが置かれ、天皇天照大神とすべての神々と向き合うように、御座ぎょざ(90cm四方の畳)に座ります。

この部屋の中では2人の女官がお手伝いをします。天皇は各地から集められた食材を受け取り神に供えます。その年に収穫した米、粟、海産物、栗や干し柿などの果物で、これらは神饌しんせんと呼ばれます。饌は「け」とも読み、古語で食物を指し、神にお供えする食物の意で神饌=御饌みけ

神饌はお重のような箱に一品ずつ整然と納められ、神座と御座の間に並べられます。天皇はそれらを柏の葉でできた32のお皿に1時間半かけて丁寧に盛り付け、右手に並べていきます。それから伊勢神宮の方角に向かって拝礼し、御告文おつげぶみを読みあげます。

「伊勢の五十鈴の川上におわします天照大神。(略) もろもろの民を救わん。よりて今年新たに得たるところの新御物を奉る」

儀式を締めくくるのは直会なおらいと呼ばれる神との食事です。天皇は米、粟、酒を神と一緒に口にします。

この後、同じ儀式を主基殿すきでんでも行います。

 

ここで、出雲伝承をみてみましょう。

新王が跡を継ぐ際、「幸さいの神」の特別な収穫祭が秋に行われ、王宮横にユキの社スキの社が建てられました。

※幸の神については以下の記事に書いています。 

 

ユキの社の斎壇上には、矢を入れるゆきが祀られ、スキの社では田を耕すすきが祀られます。「靫」はその機能から女性の象徴という意味があり(男性である矢を納める)、幸の神三神の幸姫命サイヒメノミコトのご神体です。「鋤」は田(女性)を耕すという機能から男性の象徴とされ、クナト大神のご神体とされています。

幸の神三神とは出雲族の祖先神であり、クナト大神、幸姫命、サルタ彦大神。クナト大神と幸姫命はイザナギイザナミのモデルとなった夫婦神。息子がサルタ彦大神。幸の神は子孫繁栄の神とされ、縁結びと子宝の神でもあります。

ユキの社=矢を入れる靫ゆきを祀る=幸姫命

スキの社=田を耕す鋤すきを祀る=クナト大神

 

幸姫命は「田の女神」ともいわれ、子宝に恵まれることと田の実り(結実)が重ね合わされ、豊穣を祈ったということでしょう。

縄文時代土偶と呼ばれるものの多くは女神像であり、人々は安産や多産を祈願しました。祀ったあとには割って田畑に埋めたそうで、これも女性の生み出す力を信じて作物の実りを願いました。古事記にはオオゲツ姫という、体から食べ物を次々と生み出す女神が描かれています。オオゲツとは「大いなる食物」という意味です。しかもスサノオに殺された後には、体から五穀の種を生み出します。縄文の女神像に重なりますね。

ちなみにスサノオの后は櫛稲田姫ですが、出雲の初代主王である菅之八耳王スガノヤツミミの后が稲田姫です。実家は須賀にあったと。古事記ヤマタノオロチ神話にはこれらの名前が使われています。

 

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長野県棚畑遺跡「縄文のビーナスWikipediaより

 

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長野県中ッ原遺跡「仮面の女神茅野市ホームページよりお借りしました。

 

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青森県亀ヶ岡遺跡「遮光器土偶」(アラハバキ女神像)


最初の「縄文のビーナス」は縄文中期。2枚目の「仮面の女神」は縄文後期のもの。どちらも妊娠した女神像ですが、仮面の女神がなぜ逆三角の顔になっているかというと、古代の世界では逆三角形は女性の下腹のビーナスの丘、三角の丘を表していたからだそうです。上向きの三角形は男性の象徴となります。このふたつの三角が重なればいわゆる六芒星となり、男女和合を表しますユダヤ人だけのものではありません。古代の世界ではX印や十印も男女が重なる姿(和合)を示し、渦巻模様は妊娠を表すというように、ホモサピエンスの共通イメージ力というものが脳の機能に備わっているのかもしれませんね。

さて、3枚目の「遮光器土偶アラハバキ土女神像)」は縄文晩期~とされています。

斎木雲州氏によると縄文時代には素焼きの女神像が作られ、オオケツ姫と呼ばれ、多産を祈った後には砕いて畑に蒔くと豊作になると信じられていたといわれます。弥生時代になってからは東北人がアラハバキ土女神像を使っていたと。当時からこの名で呼ばれていたことが伝わっているそうです。(「出雲王国とヤマト政権」P. 255~に詳細が載っています)

須恵器で作られたアラハバキ女神像は頭上に灯火皿が付いていて、夜に出産する妊婦の足元に置かれたので出産土女神とも呼ばれました。閉じた大きな目が特徴的ですが、これは亡くなった母系祖先を表しているとのこと。イヌイットが使っていたゴーグルに似ていることから遮光器土偶と名付けられていますが、古代の人々の切なる思いを想像すると、土偶土人形)とは呼べなくなりますね。

 

話が逸れてしまいましたが、出雲王国の新王による特別の収穫祭の続きに戻ります。富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」から抜粋します。

新王はユキの社に入り、幸姫命の御心霊ととともに神酒を飲み、新米のご飯を召し上がる。中央には寝床が設けられ、二つの枕が置かれる。片方の枕には幸姫命が宿り、その横の枕に新王が寝る。そして新しい王の名が唱えられた時、先祖神の霊を身に受けて、神から新王と承認されたことになる。后はスキの社に入り、やはり同じ儀式を行う。それで神から王の后として承認され、新司祭者としての神威が強まったと考えられた。》

 

現在の大嘗宮の儀では、悠紀殿と主基殿で同じ儀式を天皇が行います。新米の収穫地として東日本の悠紀地方と西日本の主基地方の2ヶ所が選ばれることからも、東と西を分けなければならない理由は何だろうと考えてしまいます。

ところが出雲王国の場合は幸姫命とクナト王に対して、新王と后がそれぞれ結びの儀式を行い、祖先神に認めてもらうということになります。(后はマツリゴトの司祭者として大きな役割をもっていました。)

男女の和合と食物の実り(結実)を重ねて豊穣を祈る古代の収穫祭です。これならばふたつの神殿で同じ儀式をすることは理解しやすいです。

出雲王国の儀式の一部が現在の天皇家にも引き継がれているのだとすれば、いつしか女性(姫巫女ヒメミコ)の力が失われ男性優位の社会へ移行した結果、后の出番はなくなり、天皇がふたつの神殿で同じ儀式を行うことになったとも考えられそうです。

 

天村雲の霊水と神饌

さて、以前の記事で大嘗祭のもうひとつの起源にまつわる話を紹介しました。記事後半になります。 

 

記事の中では、春日大社や摩氣神社に祀られる天忍雲根命アメノオシクモネを、初代大和大王の天村雲命アメノムラクと同一人物ではないかという仮定で進めています。

丹後国風土記残欠や丹後の籠神社、摩氣神社の伝承には、天村雲命が天の水と地上の水を合わせて霊水とし、神饌を料理して奉ったことが記されています。また春秋に田を耕して稲種をまき、それを広めて人民が豊かになったと。天村雲命は水と農業、食物の神として崇められているようです。

それまで陸稲だったところに、大陸から水稲がもたらされ日本の国土は豊かになりましたが、紀元前200年頃に大陸から渡来した徐福(村雲の祖父)らの水稲技術が広まったことも大きな要因と考えられます。

※徐福は日本名でホアカリまたはニギハヤヒと名乗り、記紀ではニニギノ命やスサノオとして描かれています。

丹後の伝承の、天の水と地上の水を合わせるというところが、天孫族(天)と出雲王国(地)の連合国を大和に最初に築いたといわれる村雲らしいなと思いませんか。

 

古事記では出雲の国譲りの際、大国主が天神の使いのタケミカヅチ服従を示すためにご馳走を用意する場面が描かれます。新しく臼と杵を作り、新たな「火」を切り出して最高の食事を作ります。そして大国主はこの火を未来永劫焚き続けましょうと宣言します。

平安時代に編纂された「延喜式」によると、大嘗宮の儀において天皇が内陣に入る直前には、女官が臼と杵で粟をついたり(稲舂いなつき)、神饌の米ご飯、粟ご飯は切り火で起こした火で蒸されたものであったりと、出雲との繋がりが見られます。幸の神信仰では臼は女神で杵は男神、ついてできた餅は子宝と考えられ餅つきは神事として行われていました。

また出雲ではヒノキで作られた火切り臼と呼ばれる板の上で、杵を錐きりのように擦って火を起こし、その火で神に供える食事を作っていました。これを「火切り神事」といいます。ヒノキのヒは出雲王の霊を意味しています。

そしてこの火で炊いたご飯を一生食べる人が、出雲王の代理者となることを「火継ぎ神事」といいます。出雲王の御霊を受け継ぐという意味なのでしょう。

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大嘗祭用の臼と杵(宮内庁Wikipediaより

 

神武天皇のモデルのひとりと考えられる初代大和大王・天村雲の霊水と、古代出雲王の火(霊)。そして日本各地で収穫された食材。これらがひとつとなったものが、大嘗祭の神饌として供えられているのかもしれません。

出雲伝承によると紀元前200年頃、大国主と事代主を失った出雲の半数の人々が大和へ進出し、そこへ丹後から天村雲率いるハタ族が移住してきたため連合国を作ります。初代大王として村雲を迎え、その后は事代主の娘、タタラ五十鈴姫です。大王就任のお祝いに出雲王が銅剣を贈りましたが、それが三種の神器のひとつである村雲(叢雲)の剣。クナト王が日本に持ってきた矛を真似て作られたと。

 

これらの伝承を通して大嘗祭を見てみると、遠い祖先たちが遺してくれた大切なものがそこに詰まっているようです。出雲族の子孫繁栄の願いと、ハタ族(徐福の渡来集団)の五穀豊穣の祈り。そして民族の協力と和合。

それらは儀式の「形」として継承されてきただけではなく、二千年という長い時の中で、祖先を敬い子孫たちの繁栄と幸せを願う人々の想いによって今へと繋がることができたのだと思えてなりません。

21世紀に入り、この文明をもってしても抗えない自然の猛威を知ることが日常となった今、皇室を始め祖先たちの積み重ねてきた祈りの重みを、改めて感じています。

大嘗祭は皇室の行事とされていて、関心のない方には他人事になりがちですが(以前の私‥)、すべての国民の幸せを祈って行われる誠に有難く尊い儀式なのです。