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源流なび Sorafull

弥彦神社と伊夜比咩神社

今回は頂いたコメントの紹介をさせて頂きます。

 

御所市の「くじら」 

第1次物部東征で物部軍が熊野からヤマトに向けて侵攻する際に、記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も描かれていますが、出雲伝承では戦いはなかったと言われます。

記紀は物部軍が勝利するたびに天皇に歌わせますが、その中のひとつにクジラが出てきます。

「宇陀の高い山城で、鴫しぎを獲る罠を張った。ところが私が待っている鴫はかからず、大物のクジラがかかった」

鴫というのは川辺に住む鳥です。それを山に捕まえに来たら海の王者、クジラがかかったというのです。シギというのは磯城シキ王朝にかけているとして、クジラとは何なのか。

例えば物部軍を先導した八咫烏とは出雲伝承によると登美家です。登美家は事代主の子孫。事代主は海の神、えびすでもあります。えびすは漁業の神としてのクジラのことでもあります。つまり出雲の事代主をクジラと例えたのではないかと考えました。この記事に対して、S様より葛城山の麓、御所市に櫛羅くじらという地名があります」と教えて頂きました。

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地図の葛城山東麓にある一言主神社(出雲伝承では一言主とは事代主のこと)の北方が櫛羅です。この地域は出雲から移住した加茂家(登美家)や高鴨家(神門臣家)が集まっています。火雷神社は高尾張村と呼ばれた村雲たちの地にあります。

また伝承によると金剛山は古くは高天たかまと呼ばれ、山の東に高天たかま村があったそうです。ここは出雲の神門臣家が祖先を葬る土地で、高天原たかあまはらと呼ばれる聖地だったと。現在は高天原の石碑が建っています。祖先神たちの住む天上界のモデルとも考えられます。

記紀に描かれた物語では、神武天皇は宇陀で土蜘蛛(土着の民)を征伐していきます。宇陀はここからは離れていますが、葛城の一言主神社境内には土蜘蛛塚が、高天原にある高天彦神社そばには蜘蛛屈と呼ばれる住居跡があり、物語のモデルとなっているのかもしれません。

つまり神武の歌は、ヤマトの磯城王朝(尾張家と登美家の連合国)を倒しに来たら、出雲の登美家(八咫烏)が罠にかかった、という意味を含んでいると考えられるのでは。

 

 

「英」という字

九州の霊山、英彦山。読みは「ヒコサン」です。

もともとは日の子(天照大神の御子)である天忍穂耳命主祭神としていたので日子山であったのが、彦山となり、18世紀に「英」の尊称を贈られ英彦山となりました。

M様はこの「英」の字を調べられたそうで、読みは「はなぶさ」「はな」であり、元来の意味は「美しい花」を表しているとのこと。つまりハナ+ヒコ=美しい(≒立派な)ハナの彦。やはりサルタ彦大神でしょうかと。

日の子とは、太陽の女神である幸の神の幸姫命の御子と考えればサルタ彦大神ですよね。そうであれば「英」という尊称を贈られたことは、天狗という後世のイメージとは違う本来のサルタ彦大神のお姿として祀られておられるようで、うれしくなります。

「英」には「ひいでる」といった意味もあり、突出して優れているイメージにも重なり、突き出た(サルタ)鼻のサルタ彦大神への尊称として相応しいなと思います。

 

 

弥彦神社の伊夜彦大神

日本には「三彦山」と呼ばれる山があり、英彦山雪彦山(兵庫)、弥彦山(新潟)です。どの山も修験道の霊山です。

N様は新潟の弥彦やひこをご神体とする弥彦いやひこ神社へ参拝されました。越後国一宮です。

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大鳥居(背後に弥彦山Wikipediaより

奥宮のある弥彦山の頂上には御神廟があって、天香山命妃神熟穂屋姫命が祀られているそうです。

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奥宮の御神廟

天香山命は徐福の長男である五十猛、のちの海香語山。穂屋姫は徐福と市杵島姫の娘であり、この異母兄妹のもとに村雲が生まれます。熟穂屋姫の「熟」は「ニギ」ハヤヒ(徐福)からきているのでしょうか。

N様が神職の方に祭神について伺ったところ、伊夜彦大神、大屋彦命、大彦命、高倉下命という別名があって、古事記の話にあるように神武東征の際に熊野で手助けした功績として、越の国に派遣された神様であるとのお話だったそうです。和歌山には天香具山神社や神倉神社があるけれど、過去の文献にはどのように記されていますかとのご質問でした。

出雲伝承で弥彦神社について目にしたことはありません。なので推測になることをご了承下さい。

 

まず物部東征で熊野で手助けしたのは記紀では高倉下となっていますが、時代が違うので子孫だとしても伝承にはありません。第2次物部東征の時に八咫烏と呼ばれた登美家の者が協力しています。

高倉下は香語山と大屋姫(大国主の孫)との間に生まれました。その後香語山は穂屋姫を妃として迎えます。紀国に移住したのは高倉下であり、その地に父を祀ったのでしょう。コメントには天香具山神社とありますが、和歌山では見つかりませんでした。五十猛(香語山、大屋彦)を祀る伊太木曽神社などがありますが、植樹をしていったのは高倉下のようです。

また伝承では熊野には先住の出雲族がいて、幸の神信仰を持っていたといいます。神倉神社花の窟いわや神社も幸の神の女神を祀っていました。倉は御袋(子宮)を意味します。どちらも巨大な磐座がご神体です。割れ目のある岩を御袋岩、ほと岩、女神岩、琴引岩などと呼びます。

神倉神社のゴトビキ岩は、南出雲にある日本一大きな御袋岩「琴引コトビキ岩」と同じ名前を付けたといわれます。岩の下から銅鐸も出土しています。男神が琴(女性)を引くようなイメージから琴引岩と呼ばれたとのこと。

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神倉神社のゴトビキ岩

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花の窟神社・七里御浜から見たご神体の巨岩  Wikipediaより

もともとは出雲族の信仰でしたが、のちに神倉神社は熊野速玉神社の摂社に、花の窟神社の女神は熊野那智大社に勧請されました。

 

さて、弥彦神社ですが、香語山や高倉下が祀られているといわれても繋がりが見つかりません。別名の中に大彦がありますので、こちらなら頷けるのです。

出雲の富家の親族である大彦の子孫は北陸で勢力を持ち、若狭、加賀、越国の国造家になっています。国造の支配領域がはっきりとはわかりませんが、弥彦神社であれば越後の高志深江国造(大彦の子孫、ソツ鳴海の後裔)と思われます。弥彦神社の社家は明治まで高橋氏で、大彦の子孫の高橋氏でしょうか。

万葉集には伊夜日子、9世紀の続日本後紀には伊夜比古神と記されていたのが、17世紀以降の縁起には祭神が天香山や高倉下となっているようですので、もともとは伊夜彦神だったのが後に変化したという可能性も。伊夜彦神がどのような神さまなのかはわかりませんが、山そのものがご神体というところに、原初の古代信仰を感じます。

ちなみに弥彦神社の分布をみると、北海道から東北、北陸に集中しています。

それから弥彦神社では珍しく鎮魂祭が行われており、石上神宮物部神社と関係があるように見えます。ところがなぜか11月の年1回ではなく、4月と11月の年2回行われます。出雲の春と秋の大祭のようですね。

もうひとつ気になるのが、神社で参拝する際、通常は2拍手ですが、4拍手するところがあって、出雲大社宇佐神宮弥彦神社の3社となっています。

 

最後に、石川県の能登島にある延喜式内社、伊夜比咩いやひめ神社で行われている火祭りのことに触れておきたいと思います。

7月のオスズミ祭りでは、年に一度、越後の国を作った伊夜彦神がここを訪れ、巨大な松明の火に降臨するといわれています。つまり夫婦の逢瀬です。

男衆が手に持った燃え盛る藁の松明を振り回し、合図とともに30mもある大松明に火をつけていきます。その火柱は10㎞離れた場所からも見えるほどだそう。やがて大松明は倒れ、その方角によって豊作豊漁を占います。また大松明の先に付けられた御幣を取った者に、幸運が訪れると信じられています。(御幣とは出雲伝承では男性の種水を意味します。)

実は先に紹介した熊野の神倉神社でも、御燈祭りという火祭りが行われます。こちらは旧正月のお祭りで、姫初めを意味するそうです。社の前に男神の象徴である大松明があり、男衆は争うようにしてその火を自分の松明に移します。火は男性の種水です。彼らは松明の火で女神のゴトビキ岩を叩き(種まきの意味)、それから数百段ある石段を火を掲げて駆け下りていきます。男神と女神の和合を祝うお祭りなのです。

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御燈祭りの様子 Wikipediaより
 

 熊野の那智大社にも火祭りがあり、これは花の窟神社から夫須美フスミ大神を勧請したことに始まるそうです。夫須美大神とは幸の神の女神で子宝の神様ということです。

長野には野沢温泉村道祖神祭りという幸の神信仰の「とんど焼き」の巨大版といった火祭りが続いています。道祖神祭りという名ですがサイノカミとも呼ばれ、神様は八衢ヤチマタ彦と八衢姫の夫婦神。クナト大神と幸姫命ですね。小正月に向けて2日かけて大きな社殿を作り、祭り当日はそれに火をつけようとする松明をもった村人たちと、防ごうとする厄年の男衆のまさに命懸けの戦いが行われます。

このように古くからの火祭りは出雲に起原があることが伺えます。

けれど能登の伊夜比咩神社の祭神は大屋津姫となっています。大屋津姫(大屋姫)といえば出雲の八千矛王(大国主)の孫であり、香語山の后(いわゆる正室)。弥彦神社に香語山と妃の穂屋姫が祀られるようになってから、あえてここに大屋津姫を祀ったのか、それとも最初から?

伊夜比咩神社は加宜かが国造家の領域にあって、大彦の子孫、ソツ鳴海の後裔です。弥彦神社はおそらく高志深江国造家の領域で、こちらもソツ鳴海の後裔となります。ここにふたつの神社の繋がりがあるのかなと、今はこの辺りで留めておきたいと思います。

 

ご質問へのお返事がいつも遅くなってしまい、申し訳ございません。コメントを送って下さる皆さまには大変感謝しております。今回もありがとうございました。

次回に続きます。