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源流なび Sorafull

太陽の道⑵松帆神社、伊弉諾神宮

 

 

ところで淡路島の伊勢久留麻神社は、伊勢の斎宮跡と舟木石上神社を結ぶとされる太陽の道(北緯34度32分)から僅かにずれていて(北緯34度31分)、実際には久留麻神社の真北1㎞に位置する松帆神社が太陽の道にぴったりと重なるんです。

創建が1399年なので古代の信仰とは関係ないと思っていたのですが、実は不思議な縁があったことをT様に教えて頂きました。今回の旅ではこちらへは行かず、残念!

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楠木正成と松帆神社

楠木正成は富田林の美具久留御魂神社(下水分社)、千早赤坂村の建水分神社(上水分社)等を氏神として崇敬していました。千早赤阪村金剛山の西側ですが、東麓にはかつて出雲族の高天村がありました。

楠木公は湊川の戦いで自害する直前、守護神としていた八幡大神の御璽(文殊のようなもの)を家臣の吉川弥六に託します。弥六たちは敵陣を突破してなんとか淡路島へ渡り、楠木村(現在の淡路市楠本)の山中に小さな祠を建てたそうです。ところがそのすぐ南には彼らの氏神様と同じ来馬大明神・久留麻神社が。神のお導きと思わずにはいられなかったでしょう。それから60年経ったのち、幡山に幡山八幡宮として遷座、創建され、それが現在の松帆神社ということです。

神社からは昭和の初めに、名刀「菊一文字」が発見されました。後鳥羽上皇が自ら焼入れをされたといわれる十六弁の菊紋入り小太刀です。吉川弥六の末裔吉川家には「菊一文字は落ち延びた家臣で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」という口伝もあるそうで、楠木公が後醍醐天皇より恩賞として賜った太刀の可能性も‥‥。

松帆神社ブログには、現在地への遷座に尽力したのが正井将監(本名・菊池能平)であると書かれていて、祖父は九州肥後国の菊池家。祖父も湊川の戦い南朝側として参戦し、敗戦後は九州へ単身戻ることができたけれど、何故か孫は淡路島へ。

出雲伝承では楠木正成も菊池家も出身は出雲忍者(出雲散家)であり、両家は親戚同士だといいます。(菊池家は筑紫舞と繋がりがありそうな「山の能」を継承していたことを、以前の記事で紹介しました。)

松帆神社は太陽の道の上にあって三輪山の真西に位置し、山頂とはたった25mの誤差しかないことをT様はGPSで確認しておられます。鬼門は神戸の湊川神社楠木正成殉節の地)~京都であると。

正井将監が楠木公と親戚かつ出雲忍者の家系ということにも頷けてしまいそうです。

 

 淡路島のイザナギ大神

以前の記事でも古代淡路島についてT様の情報をもとに紹介しました。 

 

多賀に鎮座する淡路国一宮、伊弉諾神宮は、イザナギ大神が余生を過ごした幽宮かくれみやだとされています。ところが淡路島北端にある石屋いわや神社そばの洞窟(恵比須神社奥の岩樟神社)こそが元幽宮だという説もあるんです。

なんだか大国主や事代主が幽閉されたという出雲の岩屋を思い出してしまいます。(この海辺の洞窟は現在では奥行が3mですが、昔は52mもあったそうです。岩屋城を築城する時に削られたとのこと)

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石屋神社は崇神天皇の御代に三対山の頂上に創建され(築城の際に南方に遷座)、祭神は国常立尊イザナギ尊、イザナミ尊。

成務天皇は石屋神社の分霊を祀れと勅命をだし、対岸の明石に岩屋神社が創建されました。主祭神イザナギ尊。

神功皇后三韓征伐の際に、明石からわざわざ三対山の山頂へ登って戦勝祈願したといいます。

松帆神社裏手にある知賀地神社にはイザナギ尊、イザナミ尊が北向きで古い祭祀方法で祀られているそうです。真北に岩屋神社、真南に伊勢久留麻神社。これはT様によると神霊結界だそうです。

また、神戸市垂水の五色塚古墳(400年頃築造と推定される)の円墳から中心軸を見通した先が、明らかに対岸の三対山を意識した作りだとT様は指摘されています。被葬者はわかっていません。

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兵庫県最大の前方後円墳(復元)です。

上~中段の葺石は淡路島北東岸産と推定されています。日本書紀にも神功皇后の時、亡き仲哀天皇のお墓を作ると偽って、皇后と敵対する皇子らが島の石を運ばせたとあります。

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前方部から淡路島を望む写真ですが、三対山を向いているようですね。

このように崇神天皇の時代から(本来は垂仁天皇でしょう)淡路島北端が重視されていて、第2次物部東征後に淡路島へ遷され祀られた、物部の祖霊神ではない偉大なる(畏れ多い)存在があったのだと思われます。

日本書紀では崇神天皇の御代に、疫病の流行や百姓が反逆したりと国が治まらなくなったので、天皇天照大神(幸姫命)を豊鋤入姫に託して大和の笠縫村に遷し、大物主神(事代主)は大田田根子に祀らせ、大和大国魂神(香語山ー村雲)は市磯長尾市に祀らせることにしたとあります。美具久留御魂神社も崇神天皇大国主命をここに祀らせたのが始まりといいます。

物部東征後、大和方面で祀られていた神々を新朝廷のもと、それぞれの子孫たちに祀らせたということになります。

 

さて、最後は淡路国一宮、伊弉諾神です。鳥居は阪神淡路大震災で倒壊したため再建されました。

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表神門。

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拝殿。Wikipediaより

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中門とその奥にご本殿。
実はずっと禁足地であったイザナギ大神の神陵が、この本殿の下にあるといわれています。明治時代に墳丘を覆うように整地し、その上に本殿を移築したのだと。本殿の床下には墳丘に使われていた数十個の石が格納されています。

T様によると、もともとご神体は円墳で、その前段に本殿が営まれる古い形態の神社だったそうです。明治政府は千数百年にわたって絶対禁足地として守られてきた古墳を破壊して完全な更地にし、石室、石棺を白日の下に曝し学術調査?が行われ、石棺内部には2体のご遺体を認めたと伝承されているとのこと。ご遺体はその後どうなったのでしょうか。そしてその方々は誰なのでしょう。

出雲伝承ではイザナギ大神とはクナト大神のことです。とはいえここにご遺体があったとは考えられません。出雲王家に繋がる方なのでしょうか。

 

この写真は伊弉諾神宮の宮司さんが専門家に計測を依頼して作られた「陽の道しるべ」の石碑です。伊弉諾神宮が中心となっています。

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冬至の日の出の方角を見ると熊野那智大社の大瀧とされていますが、碑文に説明されている「南への角度28度30分」だとすると那智大社ではなく花窟はなのいわや神社がその方角にあたります。日本書紀にはイザナミ尊を紀伊国の熊野の有馬に埋葬し、土地の人が花を供えて祀ったと記され、それが花窟神社とされています。

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中島尚彦氏のサイト「日本とユダヤのハーモニー」を拝見したところ、この角度をさらに正確に調べると、伊弉諾神宮の奥宮ともいわれる岩上神社(巨石信仰)から花窟神社(巨石信仰)への角度にほぼ重なるのだそうです。出雲族の女神を祀る花窟神社のことは少し前の記事「弥彦神社と伊夜比咩神社」で書きましたが、ここから出雲の女神を那智大社へ勧請しています。

夏至冬至ともに朝日を参拝する方角は、出雲族の信仰が伺えます。

 

T様は飛鳥宮を中央に、真東は伊勢内宮(幸姫命/天照大神)、真西は伊弉諾神宮(クナト大神?)にあることから、人為的なものを感じると。このラインは北緯34度27分(飛鳥宮は34度28分)。距離的にも飛鳥宮がほぼ中央にありますね。

もうひとつ、伊勢の佐那神社もこのライン上にあるんです。北緯34度28分。佐那神社は天の岩戸を開いた手力男の神を祀る船木氏の神社といわれます。

一方、淡路島の舟木石上神社は伊勢の斎宮跡とを結ぶ太陽の道(北緯34度32分)にあります。

伊勢と淡路島を結ぶふたつの太陽の道に、船木氏が関わっているのかも。

船木氏は大田田命の子孫。初代大神神社の男性司祭者、大田田根子(太田タネヒコ)です。

次回、舟木遺跡、五斗長垣内遺跡を紹介しながら、舟木氏について考えていきたいと思います。

 

T様、今回もたくさんの貴重な情報を教えて頂きありがとうございました。私の理解不足、見当違いなどありましたらご連絡下さい。