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源流なび Sorafull

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡

 

地名というのは先人からの貴重な遺産。どのような地形、性質だったのかだけでなく宗教、職種、誰が関わっていたのか等々、多くの情報を未来へ伝え得るものですが、一旦変更されるとそれらの情報とともにあっけなく失われてしまいます。

国内の地名残存率を見てみると、平均で4割。ところが淡路島は8割も残っているというのです。郡や郷だけでみると9.5割!さすが国生みの島ですね。

 

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今回訪ねた淡路島の五斗長垣内ごっさかいと遺跡の「ごっさ」も不思議な名前ですが、由来については残念ながらまだ腑に落ちる説に出会っていません。

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遺跡近くの棚田

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2004年、淡路市黒谷の五斗長ごっさ地区を台風が襲い、ため池が決壊して棚田が土砂に埋まってしまいました。50世帯、高齢化の進むこの地区では若い人がますます減って大きな痛手となりました。それでも立ち上がるしかないと復旧の工事を始めます。ところが土砂を取り除いていくと、水田の下から国内最大級の鉄器生産集落跡(1~2世紀)が現れたのです。

その後住民の方々は自分たちの手で遺跡の施設を整備したり、見学者への説明など地区活性化に向けて活動を続けておられます。施設内では地元食材の手料理でもてなすカフェ(土日のみ)も皆さんで運営され、ほっこりとした心地いい空間となっています。五斗長カレーを頂きましたが、地元産の甘い玉ねぎが丸ごと入っていて、辛さとのバランスが絶妙!とってもおいしかったです。

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播磨灘を見降ろして、広々とした気持ちのいい場所です。海に沈んでゆく夕日がきれいでしょうね。

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海岸から3㎞、標高200mの丘にあり、東西500m、南北50mほどの尾根の上に広がっています。

23棟の竪穴建物跡のうち12棟が鉄器を作る鍛冶作業場です。一番大きな建物では柱を10本使い、直径が10.5m。

100点を超える鉄器や、朝鮮半島製とされる板状鉄斧が出土しています。鉄器の中では鏃やじりが多いです。

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下の写真は一番大きな建物の復元です。中では地元の方による火起こしや鞴ふいごの体験会が行われていました。

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皮袋で風を送ります。

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遺跡入口にある施設では、現在洲本で開催されている「古代淡路島の海人と交流」という展覧会のサテライト展示として、舟木遺跡の一部展示が行われていました。一般の方はまだ舟木遺跡に入ることはできませんので、とても有難い情報です。

舟木遺跡が知られることとなったのは、昭和41年に近所の小学生が土器を発見したことに始まります。海岸から2㎞ほど、標高150~190mの丘に位置し、東西500m、南北800mという広さ。五斗長垣内遺跡の16倍になります。

こちらの遺跡からも大規模な鉄器工房跡が現れ、時期は五斗長垣内遺跡より少し遅く、2世紀後半から3世紀前半までの使用と推定されています。

五斗長垣内が1世紀半ばに現れ2世紀半ばに鉄器生産の最盛期を迎え(建物の巨大化)、間もなく交代するかのようにさらに大きな舟木遺跡が出現、3世紀前半には消滅しました。

出雲伝承の示す年代を考慮すると、五斗長垣内は倭国大乱(147~188年)の時期に重なります。ヒボコの播磨侵攻(150年頃~)、吉備と出雲の戦争(160年頃~)、第1次物部東征(165年頃~)。そしてより大規模な舟木が現れますが、第2次物部東征(246年頃~)が始まるととともに消滅しています。ここで戦乱があったというような痕跡は今のところないようで、捨てて移動した可能性が高いと思われます。

 

遺跡の中心付近には舟木石上神社が鎮座し、周辺から大型の器台型土器(祭祀用と推察)が出土しました。下写真のD地区と書かれた囲みの左下に石上神社とあります。

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淡路市教育委員会 平成30年度の舟木遺跡発掘調査現地説明会資料より

黒い太枠が遺跡の範囲で、黄色や青のかなり小さな長方形が平成27~30年度に調査された場所です。2m幅の溝(調査区)を何ヶ所か定めて発掘します。

平成29年度のわずかな調査区域だけで104点の鉄器が出土し、五斗長垣内遺跡の規模と出土数から考えると、今後どれだけの発見があるのか予想できないほどです。ところが来年度は調査書の作成のため発掘作業はお休みだそうで、全体像が見えてくるのはかなり先のことになりそうですね。

※上の地図には記されていませんが、平成3~6年に調査された区域も少しあります。

下の写真は航空レーザー測量による三次元立体地図です。B地区とD地区を拡大して、竪穴建物の位置と絵画土器が出土した場所を示しています。D地区の南尾根が祭祀場だった可能性が高いそうです。書き込まれてはいませんが、D地区の西側の丘に舟木石上神社があります。

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同資料より

 

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平成27年度以降に発見した鉄器以外の主なものは、

中国鏡片(中国南部産の材料を使用した後漢鏡)

絵画土器、器台型土器(祭祀用と推測される)

他地域からの搬入土器(河内、但馬、丹波方面)

鍛冶工房跡

鉄製の漁具

塩土器、イイダコ壺(発掘状況からみて祀りで使われた様子)

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この鉄製ヤスは、弥生時代としては北部九州と山陰地域で少数の出土例があるのみで、他地域では極めて稀な鉄器だそうです。山陰では青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡など、近年鉄器の出土が増えていますが、青谷上寺地遺跡からは上の写真と同じような逆刺かえしがついたヤス、釣針が出土しています。海の民による何らかの交流があったのでしょう。

これらの遺跡も最盛期は淡路島と同じく200年頃となります。

出雲伝承では奥出雲は良質の砂鉄が採れ、ウメガイと呼ばれた両刃の小刀が豪族達に人気だったそうです。他にはフトニ大王が占領した吉備や、ヒボコが狙った播磨からも砂鉄が豊富に採れたといいます。淡路島には野ダタラの跡もないようなので、鉄の加工を行う鍛冶場として機能していたのかもしれません。

 

舟木石上神社

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電柱の左下の小さな看板に「石上神社」とあります。カーナビでは表示されなかったので、この交差点を見落とすと辿りつけません。

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三輪山の真西に鎮座する舟木石上神社です。鳥居の左脇には女人禁制を示す碑が建っていて、女性は右手の小道を進んで稲荷神社からの参拝となります。

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出雲伝承では太陽信仰の司祭者は古来より女性(姫巫女)であり、男性となったのは3世紀半の大田田根子(太田タネヒコ)からです。

ここからは同行者に撮影をお願いしました。

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ご神体の磐座です。その下の空間に小さな祠が祀られています。

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人為的に支え石が置かれているようにも見えます。祠は南向き。

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磐座の右手にまわり横から見ると、下写真のように大きな割れ目があって、ホト岩(女神岩)であることがわかります。ここがちょうど東を向いています。

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祠の背後にはたくさんの巨石が。

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写真では影になってわかりにくいですが、ふたつの巨石が三角の空間を作り(ホト岩)、中に小さめの石が置かれています。人為的なものであれば児玉石=子神石かもしれません。子宝を願って祀られるものです。

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小ぶりの三角の立石のまわりに御幣がたくさん立てられています。ここは鳥居から入ってご神体の磐座に向かい左手になります。

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横から見るとお祀りされていることがわかります。

地元の方は荒神さんと呼ぶそうです。出雲の竜神は怖い顔をしているので荒神とも呼ばれるようになり、それを役の行者が全国に広めました。もとは幸の神(幸神)です。

 

「舟木」という地名にもなった、古代に造船や住吉大社神官として活躍した船木氏について、次回辿ります。