朱の国⑴生きている赤
私 Sorafullが出雲伝承に出会ったきっかけのひとつは辰砂しんしゃ(水銀の原鉱石である硫化水銀)の存在でした。
友人が「賢者の石」とも呼ばれる辰砂に興味をもち、歴史好きというわけでもないのに、大和と辰砂の関連については何度も私に話をしてくれました。なぜ現代の人に辰砂のことが伝わっていないのか不思議でならないと。
確かに古代豪族たちがなぜ山奥の不便で狭く、沼地ばかりの大和をこぞって狙ったのか、辰砂を除けば他に理由は思い当たりません。それが大和の水銀鉱脈を得るためだったのではないかと想定すると、神武や朝廷によって征伐された先住民「土蜘蛛」とは、辰砂に関わる人々の可能性が高まります。蜘蛛の字を分解すると「朱を知る虫」と読めなくもありません。古事記の著者はここにメッセージを込めているのかもしれない、と勝手に想像したのです。
さらに古事記では「土雲」と表記していることに違和感を覚え、「出雲」と漢字表記が似ているのは偶然だろうかと疑問を持ちました。
間もなく出雲伝承に出会い、そこに書かれていた王の風葬について目にした時、ドキリとしました。出雲王国の前~中期においては、王の遺体に水銀朱を注ぎ込み腐臭を防いだと記されていたのです。紀元前6~前3世紀頃といえば徐福が来日する前です。不老不死の薬として水銀に魅入られた始皇帝が徐福を派遣し、最初に出雲へ上陸したのはそこに理由があったのではないか‥‥。
けれど出雲伝承は水銀朱についてそれ以外のことを語っていません。むしろ製鉄族であったとことを強調されています。それでも「丹生」という地名や神社の近くに加茂川や賀茂神社など出雲系の存在がしばしばみられ、まったく無関係とはいえないのではないかと思うようになりました。
なので辰砂については出雲伝承ではなく、Sorafullの調査によるものですのでご注意ください。
辰砂の呼び名
辰砂(英Cinnabar)は中国の辰州で多く産出したことからこの名がつきました。Cinnabarの語源はペルシャ語で「龍の血」。
写真は中国産の辰砂ですが、このような結晶は日本ではほとんど見られません。三国志魏書に記された、魏から邪馬台国への贈り物に「真珠」とありますが、これはパールではなくこの宝石のような辰砂の結晶ではないかとみる説もあります。唐の医薬書に朱の別名として真珠とあるそうです。
辰砂の鉱石(徳島県若杉谷採集)淡路島日本遺産展資料より
日本で多いのは、写真のような岩石に染み込んだタイプです。
鉱物名は辰砂といいますが、化学用語としては硫化水銀、考古学では他の朱と区別するために水銀朱と呼ぶこともあります。
ややこしいのが、考古学において「朱」とは、
・水銀朱(硫化水銀=硫黄と水銀の化合物)⇒鮮紅色
・ベンガラ(酸化鉄)⇒やや茶色くくすんだ赤色
・鉛丹(酸化鉛)⇒黄みの強い赤色
この3つの赤色を指します。この中で水銀朱の赤は丹にと呼ばれました。ところが天平以降、人工物である鉛丹が壁画の塗料として使われるようになり、これもまた丹と呼ばれたためややこしいことになります。鉛丹の赤は黄と赤の中間のような色ですので判別しやすいですが、長い年月を経ると両者とも酸化して黒ずんでくるようです。
天平時代以前においては「朱」の区別が必要なのは水銀朱とベンガラになります。20世紀に入って化学分析が行われたことで、これらの判別はできるようになりました。最近では水銀朱の理化学的な分析によって、産地同定まで可能になってきています。
またベンガラの赤は古くは赭そほと言い、それに対して水銀朱の赤を真赭まそほ、と呼びました。つまり古代の人々にとって水銀朱の赤こそが正真正銘の赭そほだったのです。他にも赤土の中の真赤土、朱の中の真朱といったように。水銀朱はベンガラのようにどこでも採取できるわけではなく、貴重なものでした。
さらに辰砂には砂状、粉末状、岩石の状態があり、日本に多いとされる岩石状のものを朱石や辰砂鉱石、それが崩れて砂状になったものを朱砂しゅさ、丹砂たんさと呼ぶようです。粉末は杵と臼で細かく精製したもの。
ただし研究者によって使い分けが違うこともあるようで、松田壽男氏は辰砂と同じように朱砂という言葉を用いておられますし、朱と呼ぶ人もおられます。当ブログでも辰砂や朱砂などを使っていますが、朱色のイメージを保ちたいので、辰砂を朱、朱砂、水銀朱とし、ベンガラの場合はベンガラと表記したいと思います。
朱の研究者たち
先に数少ない朱の研究者の方々を紹介します。
すでに何度も書かせて頂いていますが、松田壽男氏は東洋史の研究者です。日本の古代の朱砂、水銀文化が忘れられ研究対象にもなっていない中、全国に残る朱の痕跡としての「丹生」という地名や神社、苗字を隈なく実地調査されました。東洋史が専門ですので、古代中国で水銀がいかに求められ使われていたかを熟知されていたからこそ、日本に僅かに残る朱の痕跡を見逃すことはできなかったのではないでしょうか。
一方、鉱床学の専門家である矢嶋澄策氏は、古代からの水銀鉱床を調べておられました。北海道のイトムカ水銀鉱山の発見者であり工場長を務めた方です。この二人が昭和30年に出会い、矢嶋氏は松田氏の各地で採取した試料を成分分析するという形で共同研究が始まります。人文科学と自然科学の協力が新たな分野の扉を開いたのです。それが松田氏の著作「丹生の研究」や「古代の朱」として記されました。
考古学では市毛勲氏の「朱の考古学」「朱丹の世界」を参考にしました。旧石器時代から使われてきた赤色顔料としてのベンガラや水銀朱について、総合的に知ることができます。
現・近畿大学理工学部教授の南武志氏は、水銀朱を理化学的に分析することで朱産地の同定を試みておられます。これによって古代の権力推移が見えてくるのではないかと、歴史的視点も持ち合わせておられます。論文がネット公開されていてありがたいです。
蒲池明弘氏はこのところよく紹介させてもらっていますが、2018年に「邪馬台国は「朱の王国」だった」を出版されました。最近この本に出会い、そこで南武志氏の研究も知って、松田氏たちの後を引き継ぐ方々の存在に安堵しつつ刺激を受けました。蒲池氏は邪馬台国に始まるビジネスとしての朱の歴史を説いておられます。朱の全体像を知るのにもってこいの本だと思います。
その他、大和の郷土史家、田中八郎氏の説も追々紹介しようと思います。
朱の採掘
朱は先の写真にあるような岩石の塊として多くみられましたが、それらが崩れて土壌の赤土となったり、川の底に堆積して水が赤く映っていたようです。縄文の頃はこの鮮烈な赤い風景を目にすることが、珍しいことではなかったのかもしれません。すでに採りつくされていたであろう江戸時代にも、青森県には朱色の風景が残っていたことが、橘南谿の「東遊記」に美しい描写で記録されています。
松田壽男氏も朱の坑道の中の様子を、何もかも紅ひといろの美しい別世界と述べ、その紅を『この世のものとは思われない赤』『絵具などでは比較にもならないような、深みと潤いに輝いている』『生きた色』と称賛しています。色そのものが生命感に溢れているようですね。
古代にタイムスリップして朱の風景をこの目で見てみたいものです。
他にも粘土脈や石英脈などの割れ目に岩石状に介在したり、下の写真のように岩石に嵌入して赤い糸のようにみられることもあります。
石灰岩に嵌入した辰砂を含む熱水脈(淡路島日本遺産展資料より)
蒲池明弘氏は朱石に走るこの赤い糸や網目模様を、まさしく土蜘蛛の吐き出す蜘蛛の糸ではないかと表現されています。記紀に記された先住民の土蜘蛛は、やはり朱の採掘民だったのでしょうか。
松田氏は記紀や風土記にみられる血原、血田、血浦といった地名はすべて水銀産地であり、朱の露頭や堆積を血で表していたのだといわれます。
例えば神武天皇が、大和の宇陀を統治していたウカシ兄弟を征伐する場面では、神武を討とうと企んだ兄が弟に裏切られ、自ら仕掛けた罠の押機で圧死します。その死体を斬ると、流れた血が踝くるぶしが埋まるほどに溢れたことから、そこを「宇陀の血原」と名付けたと。
景行天皇が豊後で土蜘蛛を討った際には、椿の木で椎(物を打つ道具)を作り敵を殺し、血が流れ踝まで浸かったので「血田」と呼ばれたと。
これら先住民への「誅殺」と称した残虐な行為が度々描かれていますが、蒲池氏は兄ウカシの圧死は、朱石をすり潰す光景を説話化したものではないかという解釈があることを紹介されています。宇陀の次の場面、忍坂でも土蜘蛛たちを「石鎚で撃つ」という表現があり、これも朱石を打ち砕き、磨り潰すための道具に見えると。確かに景行天皇の場合もわざわざ椿の木で椎を作って土蜘蛛を殺します。これらが朱の精製を表していると考えれば、多少ほっとしますね。出雲伝承では、神武が熊野から大和へ至る間に先住民との戦いはなかったと伝わっているそうです。
もうひとつ松田氏の興味深い指摘があります。神武が吉野へ入った時、国つ神の井氷鹿イヒカと名乗る尾の生えた人が、光る井の中から出てきます(吉野首の祖)。次に国つ神の石押分イシオシワクの子と名乗る尾の生えた人が、大きな岩を押分けて出てきました(吉野国巣の祖)。
前者は朱を採取する露天掘りの竪坑の採掘者であり、後者は横坑の採掘者であろうといわれます。
竪坑は壁面に自然水銀を汗のように噴き出していて、それが竪坑の底に溜まると光るわけです。イヒカの光る井とはこれではないかと。
自然水銀(weblio 鉱物図鑑より)
※朱の採取は初期には地表の露頭部から始まって、露天掘りの竪坑によって採掘していきます。竪坑が地下水位に達すると、湧水を除く技術がないためにその竪坑を廃棄し、別の場所を求めて移動したようです。
上記のような話の読み解きが正しかったとして、ではなぜそこまで隠さなければならなかったのかという疑問が残ります。
最後に最近のニュースを。
2018年、徳島県阿南市の若杉山遺跡で1~3世紀のトンネル状の朱の坑道跡(横坑)が発見されました。奥行14m、高さ0.7~0.9m。
これまでは奈良時代の横坑が最古とされていましたので、想像を遥かに超えて、朱の採掘技術は早くから進んでいたようです。
この地は明治から水井(由岐)水銀鉱山として稼働し、昭和には朱が枯渇したためマンガン鉱山として採掘されています。
若杉山遺跡の近くには加茂宮ノ前遺跡があり、同時代の朱の精製工房跡や、2000年前の鉄器工房跡、さらに縄文時代後期(3000~4000年前)の朱を精製する石杵と石臼が300点以上、朱石も大量に出土しています。(同時代の三重県天白遺跡、森添遺跡では数十点なので規模が違います)
若杉山遺跡出土の辰砂を叩き潰す石杵と石臼(兵庫県立考古博物館資料より)
どちらの遺跡も川沿いにあり、若杉山で採掘した朱砂を加茂宮ノ前遺跡まで船で運んで精製していたのでしょう。
那賀川の上流には仁宇、小仁宇(江戸時代には丹生)といった地名も残り、丹生谷と呼ばれています。丹生神社もありましたが現在は八幡神社に合祀。周辺には幸の谷も。
太龍寺では空海が修業したと伝わります。密教は水銀と密接ですね。
市毛勲著「朱丹の世界」を参照して、朱の四大鉱床群と丹生神社、丹生地名の濃密分布域を中央構造線とともに示してみました。
日本の朱産地の成り立ちについては前回の記事をご覧ください。