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源流なび Sorafull

朱の国⑶ベンガラから水銀朱へ(後編)

 

 

今回は考古学や朱の成分分析の研究を参照していますので、いつも以上に細かい話になりそうです‥‥。

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ざっと年代順にしてみましたが、それぞれ幅のあるものですので大まかに見て下さい。(出雲族の渡来は3500年前と伝承されています)

 

施朱以外で日本における最古の朱の遺物としては、4500年ほど前の奈良県丹生川上村、宮の平遺跡で出土した朱の付着した石皿です。この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになります。

「朱の国⑴」で紹介した徳島の加茂宮ノ前遺跡や三重の天白遺跡、森添遺跡はそれより1000年ほど後となります。

縄文晩期になると東北の遮光器土偶と呼ばれるアラハバキ土女神像にも朱が塗られました。亀ヶ岡式土器は朱やベンガラで彩色しています。アラハバキ出雲族の信仰

縄文時代には土器は朱で色付けされていたのが、弥生時代になるとベンガラになり、朱は埋葬に使われるように変わっていったと南武志氏近畿大学理工学部教授)は指摘しています。※南氏は1990年代より、朱の遺物から得られた朱産地の同定を理化学的に行っておられます。

南氏は市毛氏の示された福岡県の山鹿貝塚の施朱については触れておられず、吉野ヶ里遺跡以降の調査となります。

南氏によると、弥生中期の吉野ヶ里遺跡で朱の使用が確認され、その後西日本各地(博多湾周辺、出雲西谷、楯築など)で多量の朱を用いた墳墓が散在し、これは遺体の防腐目的よりも権力の誇示のためと思われ、古墳時代に入っても続いていくことから朱が権力の推移と密接に関係しているのではないかと。

そこで紀元前後から4世紀頃までの古墳に使われた朱の産地を調べたところ、次のような結果になったそうです。

・1~2世紀頃は地域の王墓に中国産が使われる

・3世紀は中国と日本の混在もしくは国産に移行

古墳時代が始まった3世紀後半から国産に限定

古墳時代以前は国産よりも中国産を使うことでより権威を示すことができたのでしょう。遥か彼方の大国と交易しているのですからね。

ちなみに中国産の朱を使っていたのは福岡の井原鑓溝遺跡や春日立石遺跡、出雲の西谷3号墳、鳥取の紙子谷門上谷1号墳、丹後の大風呂南遺跡、福井の小羽山30号墳、徳島の萩原遺跡。ほとんど日本海沿岸で古代から栄えていた地域です。これらの周辺の遺跡では同じ時代でも国産の朱が使われているそうです。

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西谷3号墳の墳丘上に再現された棺の底。朱が敷き詰められていた。

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また出雲の西谷3号墳に先立つ関わりの深い吉備の楯築遺跡では、棺の底に30㎏もの朱が敷き詰められていましたが、いくつかの産地の混合朱の可能性が高いそうです。

西谷と楯築古墳についてはここに書きました。 

 

興味深いのは上記福岡や出雲、鳥取、丹後で使用された朱が、中国の陜西省産であるらしく、この地域の青銅溝鉱山は秦時代に開発されていたといいます。また近くの秦嶺山地の水銀鉱床は始皇帝の住んでいた長安の近くにあります。南氏とともに調査された鉱床学の島崎英彦氏によると、ここから漢水という川を下って揚子江に出れば日本まで容易に達するのだそうです。弥生後期の北九州や山陰地方の豪族との交易品として、ここから辰砂が運ばれたのではないかと。

後漢書には57年に倭奴国の使者が洛陽の光武帝のもとに挨拶に来たと記されていますが、洛陽からさらに西に360㎞で長安。洛陽にも漢水の支流が来ているので、簡単に揚子江に出ます。こんな遠い地へどうやって倭奴国の使者は辿りついたのかと思っていましたが、朱の交易があったのだとすれば現実味が増しますね。

弥生時代の大陸との交易品が朱であったとは。三国志魏書に記されたヒミコ以前の話ですから、驚きです。

   

施朱の流行

施朱は古墳時代に入ったとたん一気に最盛期を迎え、北方系施朱の風習があった地域以外の各地で5世紀末まで続きました。3世紀後半から5世紀末までは全葬墓数に対して施朱を行っているのは100%です。弥生時代は1~2割ほど。出雲伝承のいう、徐福を祖とする物部東征後に朱のブームが到来しています。ここにも出雲大和勢力と九州勢力の文化の違いがあるようです。

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桜井茶臼山古墳の石室(「あかい奈良」vol.52より。橿原考古学研究所提供写真の朱色強調加工写真)

写真は奈良の桜井茶臼山古墳の石室ですが、赤を強調して当時の再現を試みた加工写真をお借りしました。およそ200㎏の朱を使ったと推定され、国内で断トツの大量の施朱となります。3世紀末~4世紀初めの築造で、施朱の最盛期の先駆けですね。

出雲伝承では被葬者は太田タネヒコ大田田根子と2代後の賀茂田田彦、ふたつの言い伝えがあります。けれど太田タネヒコは三国志魏書に記されたヒミコ(モモソ姫)の身の回りの世話をした人物だと伝承は云っているので、時代が100年ほど前になってしまいます。なので賀茂田田彦では。

この人は東出雲王家最後の王、富大田彦(のちの野見宿祢の子孫です。賀茂王家の養子に入り12代当主となりました。第1次物部東征の時の当主が太田タネヒコであり、第2次物部東征の時が賀茂田田彦。磯城王朝が破れ物部王朝となった時の初代大和副王です。

景行天皇が遠征に出ている間は賀茂家が大和の代理王家であったらしく、しだいに物部王は大和に入れなくなっていったとのこと。大和での実権は賀茂家が握っていたことになります。

 

出雲伝承に添ってみてみると、縄文時代に細々と始まっていた水銀朱による施朱が、徐福が築いた吉野ヶ里遺跡から本格的に始まり各地に広まりました。次第に朱は権力の象徴となっていきます

そして第2次物部東征後、物部王が地方遠征に出ている間に大和で実権を握ることとなった賀茂田田彦が、自身の墓に国内最大の施朱を行ったということになります。想像をたくましくすれば、景行天皇が水銀鉱脈を得ようと地方の土蜘蛛征伐をしている間に、賀茂家は大和の朱を搔き集め蓄えていった、なんてこともあるのかも。南氏によると、桜井茶臼山古墳の朱はすべて大和水銀鉱山出土朱であり、200㎏であれば数年から数十年かけて集めたものと考えられるそうです。賀茂家の財力と執念を感じます。

※調査対象となった国内の鉱山は奈良県大和水銀鉱山徳島県水井鉱山、三重県丹生鉱山です。

 

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天理市立黒塚古墳展示館の石室レプリカ Wikipediaより

木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。

すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41㎏の水銀朱が納められていました。こちらは大和水銀鉱山出土朱です。
 

  

参考文献及びサイト

市毛勲著「朱丹の世界」「朱の考古学」

岸本文男著「中国史にみる水銀鉱」1983.地質ニュース351号

南武志 他供著論文「硫黄同位体分析による西日本日本海沿岸の弥生時代後期から古墳時代の墳墓における朱の産地同定の試み」2013.地球化学47号

同著「同位体分析法を組み合わせた桜井茶臼山古墳出土朱の産地同定」2013

同著「遺跡出土朱の起源」2008.地学雑誌

同著「日本における辰砂鉱山鉱石のイオウ同位体比分析」

同著「三元素同位体比分析法を組み合わせた遺跡出土朱の産地同定の試み」

島崎英彦著「随筆、古代辰砂の故郷」2009.資源地質