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源流なび Sorafull

日曜美術館『疫病をこえて~人は何を描いてきたか』

 

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私事で失礼します。

今年に入ってから「朱の国」シリーズを書き始めていましたが、新型コロナウイルス感染症のニュースがしだいに増えてきたため、落ち着いてからにしようと投稿を控えておりました。ですが今なお先が見えない状況が続いていますので、いつまでも先送りにせずブログを再開することにしました。

辛いニュースに何度も心が折れそうになりますが、それでもこの時期をなんとか乗り越えようと多くの方が踏ん張っておられることと思います。一日も早く心穏やかな時間を取り戻せるよう願うばかりです。

 

私は先日、気分転換しよう!と普段あまり観ないYouTubeを開いて音楽の動画を探索しました。様々なジャンルの方たちの、仲間と遠隔セッションする姿が続々と投稿されています。オーケストラまであってびっくり。離れていても気持ちをひとつにできるって素晴らしいですね。できることを探して即行動する姿にも励まされるようで、聴いていくうちにいつもの自分を取り戻すことができました。

災害時など真っ先に自粛を迫られる文化やスポーツですが、私たちにどれだけ活力を与えてくれているのか忘れてはならないなと再認識。

この事態も長引くほどにストレスはつのります。特に家にいることで協力している方々は、興味あることをできる範囲で工夫しつつ、楽しむゆとりを持ち続けましょう!

 

 

疫病と美術

今回は古代史を離れ、4月19日に放送されたNHK日曜美術館「疫病をこえて~人は何を描いてきたか」を紹介したいと思います。

歴史を辿っていると、祖先たちが病や疫病に苦しまない時代はなかったことを思い知らされます。現代のような知識も医療もない時代に、どのように乗り越えてきたのか知りたいと思っていたところ、この番組が美術という切り口で紐解いてくれました。

番組前半は早稲田大学教授の山本聡美氏(「病と死」をテーマに中世日本美術を研究」)とのインタビュー、日本美術と疫病についてです。要約します。注)写真はこちらで用意したものです。

 

《 日本人は病と闘うというよりも、恐ろしいものとともに共生する方法を、祭や美術、音楽、和歌、祈りの言葉で生み出してきました。

 

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法隆寺金堂 釈迦三尊像

美術としては聖徳太子の病からの回復を願って造られた釈迦三尊像に始まり、12世紀末には「辟邪絵・天刑星」のように疫病そのものを描くようになりました。邪悪なものを退治する神様と、小さな鬼として描かれた疫病たちの絵です。

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 辟邪絵・天刑星

15世紀初めに天然痘が流行すると「融通念仏絵巻」が描かれました。念仏の仏事を行っている道場に鬼たち(疫病)が大勢押し寄せますが、やがて退散していく物語です。鬼もユーモラスに描かれ、仏の加護があることと、物語として終わりがあることへの安心感が得られます。これは恐怖の源に何があるかを可視化することで、しかもユーモラスに描くことによって恐怖を和らげる効果があり、人々の知恵と逞しさがみられます。(可視化は現代ではウイルスの画像など、正体を突き止めることでもある)

一方、12世紀に疫病や災害、内乱が続いた時、平清盛は美しい豪華なお経「平家納経」を作りました。美麗で精緻な絵を描くことで病と向き合おうとしたのです。描かれたものが美しいほど、その願いの大きさ、願わなければならない不安の大きさが見えてきます。

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平家納経

9世紀に始まった祇園祭も、美しく飾ったのは疫病神を封じておくためでした。

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過去の美術は災害や疫病に対しての心のケアを重視しました。神や仏に支えられる局面があり、美術がさらにそれをサポートしました。祈りが形になり、恐れが形として表されることの安心感があったのです。》

 

続いて司会の小野正嗣(作家、仏文学者)のコメントです。

《 闇が深いほど光は強く美しく目に映ります。大変な時の方が美しいもの、尊さ、希少さがビビッドに伝わってくることもあります。(略)

疫病を語る時に戦争の比喩を使うけれど、適切でしょうか。病も人間が作り出したもの。苦しむけれども我々と共にある。いかに向き合うか、戦うよりは向き合って生きていく、病という現実を受け止め、なおかつそれでも生きていくということではないでしょうか。》

【補足】疫病は農業が始まって以降現れたとされる。貯蔵庫の穀物を狙うネズミや家畜から動物由来の感染症が増え、集団が大きくなるほど拡大する。文明とともに疫病はある。

 

後半は國學院大學教授の小池寿子氏(死生観をテーマに中世の西洋美術を研究)とのインタビュー、西洋美術と疫病についてです。

《 14世紀のイタリア絵画をみると、死や病は神の罰だと考えられており、罪を悔い改めねばならない、といった絵を描いていました。

1348年以後、ヨーロッパにペストが大流行し、人口の3割が亡くなりました。後世の絵や書物がそれを書き記しています。

治まらない疫病に神への不信が起こり、偽預言者デマゴーグフェイクニュース、弱い者いじめユダヤ人陰謀説が流れた)が多発し政治的にも利用されました。

15世紀になってペストのピークが過ぎると、「死の舞踏」という絵が描かれました。

【補足】「死の舞踏」という寓話をもとにした一連の絵画や彫刻。実際に人々が半狂乱になって踊り狂うことが多くあり、1世紀の時を経て芸術として表された。

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詳細不詳 Wikipediaより ※番組で紹介されたものとは別の絵

王や貴族、庶民らが死者と手をつなぎ話をしています。死者の教えを傾聴し、生きる知恵を学ぼうという姿勢です。恐れるのではなく向き合おうという新たなものの見方が起こり、その後イタリアのルネサンスが始まります。フィリッポ・リッピやボッティチェリの描いた聖母マリアは、それ以前の(宗教的)厳粛な硬さが消え、親しみやすく愛らしい人間らしい姿となっています。

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フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」(1465)妻をモデルとした。

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ボッティチェリ「ザクロの聖母」(1487)

苦難を経た時代の後だからこそ、ルネサンスは花開きました

人知の及ばない災いが起こった時、人間は思いがけない力を持ち得ます。次の活路を必ず見つけヒントを得る、そういう存在なのです。》

【補足】ルネサンスといえばミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチも外せません。

 

小野正嗣氏のコメント。

《 ペストが流行した時に、避難した人々が物語を語り合ってなぐさめようというのがデカメロンです(ボッカッチョ作、1348~1353年に書かれた)。疫病が芸術や文学作品を生み出す原動力になりました。

ルネサンスの文化は人間のもつポジティブな側面をより鮮明に力強く描き出しました。そこに行き着くまでには「死の舞踏」のような過程がなければ、人間の真の姿を考えられなかったでしょう。

人間は疫病に接した時に負の側面が放出されます。あらゆる醜いものが出尽くした時、すべてを見た上で人間とは何か、人間の美しい側面とは何か、それを伸ばすにはどうしたらいいか、ということに心は向かっていくのだと思います。

また過去の美術や文学作品(負の記憶、記録)に立ち返ることによって、間違った方向を軌道修正することができます。》

 

最後に今SNSで話題の「アマビエ」の話になりました。

疫病を防ぐというアマビエを描いて投稿、拡散していくのですが、妖怪ファンが火付け役のようです。一気にブームとなり、著名なクリエイター達も次々に投稿。厚生労働省の感染防止キャンペーンのキャラクターにまでなっています。

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アマビエの出現を伝える瓦版(京都大学付属図書館収蔵)Wikipediaより

アマビエとは江戸後期の瓦版(1846年)に描かれた不思議な存在です。肥後の国の海に現れ豊作と疫病の予言をし、私の姿を写して人々に見せなさいと言って去って行ったと書かれています。

ところが研究者によると、これは「アマビコ」(海彦、尼彦、天彦‥)の間違いではないかというのです。「越前国主記」や尾張の「青窓紀聞」に記された3本足の猿の姿の妖怪です。病と豊作の予言をし「私の姿を書き見る人は無病長寿、全国に広めよ」と告げています。アマビエより少し先に出現しているようです。

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尼彦の出現を伝える肉筆画 湯本豪一所蔵

幕末や明治のコレラ流行時にも、三本足の猿の姿がお守りとして売られました。つまりアマビコは疫病封じです。

 

また山本聡美氏によると江戸時代には「疱瘡絵」が病気から守ってくれるお守りとして広く用いられたそうです。(天然痘除け)

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絵柄はいろいろですが、魔除けの色である赤色が強調されています。赤一色で刷られた金太郎や達磨、鍾馗、獅子舞の絵や、他にも赤い玩具、置物、下着などで魔除けとしました。社会的に広く共有されているイメージに対する信頼感によって、それを身につけている限りは安全だという発想に繋がっていったのだろうとのことでした。

ちなみに疱瘡除けといえば西宮神社太夫もそうでした。百太夫とはサルタ彦大神が百の姿に変わって善人を守るという信仰からつけられた名前です。(出雲伝承)

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説明書きには「元来百太夫神は疱瘡に霊験のある神様と信じられ、江戸時代に流行した折には、八代将軍吉宗公もその病に伏した時、西宮の神主の進言により百太夫神のおふだを祀ったと伝えられています」とあります。

三本足の猿。幸の神三神のサルタ彦大神につなげるのは強引でしょうか‥‥。そもそも村を悪いものから守ってくれる「塞ぎる神」が道の神(幸の神)。サルタ彦大神は疫病神を祓ってくれる厄払い人形にも、田畑を守るカカシにも姿を変えています。古事記では、サルタ彦大神は伊勢の海で溺れ、3つの御魂となったとその最期は記されました。

アマビコが何者かはさておき、今も昔も社会で共有されるイメージ=お守りによって安心を得るというのは変わらないのですね。

以前の記事でホモ・サピエンスネアンデルタール人の違いを取り上げましたが、力の弱いサピエンスが絶滅の危機を何度もくぐり抜けて生き残ることができたのは、「集団を作って協力し合う特性」をもっていることと、「情報やイメージの共有ができた」ことにあるということでした。

音楽の遠隔セッションのように、離れていても協力し合う体制(技術)はこれからもっと発展していくでしょう。もちろんそこに情報やイメージの共有は必須です。世界全体がサピエンスとしての能力を発揮して、連帯して危機回避に取り組んでいく時代が始まりますように。