SOMoSOMo

源流なび Sorafull

朱の国⑷みずかねの魔力

 

 

みずかね

岩の割れ目に鮮やかな赤い朱の塊があるだけでも目を引きますが、その表面に銀色に輝くものがコロコロと噴き出している様子には古代の人たちも驚いたことでしょう。流れるように形を変える水銀の姿は、まるで生きもののようです。また比重が大きいため鉄でも浮かせてしまいます。

水銀は常温では液体という特殊な金属。日本では古くは「みずかね」と呼んでいました。(金=こがね、銀=しろがね、鉄=くろがね、銅=あかがね)

f:id:sorafull:20200309100745j:plain

Wikipediaより


ここで化学の実験です。

赤い水銀朱(水銀と硫黄の化合物)を600度で熱すると硫黄が分離して水銀単体となります。次に水銀を300度で加熱すると赤い酸化水銀に変わります。さらに熱すると黒くなり、温度が下がると再び赤くなります。もう一度400度で加熱すると酸化水銀が分解され、再び水銀が現れます。

赤⇒銀⇒赤⇒黒⇒赤⇒銀

黒くなった時点で水銀は一度死んでしまったように見えますが、火を与えるとまた蘇ります。ただし途中の赤色は朱の「硫化水銀」ではなく「酸化水銀」ですが。

生き生きと輝く水銀が一度死んで、再び生命の赤色を経て蘇る、まるで死と再生を繰り返すかのような様子に、古代中国の人々は火の中で不死鳥のように蘇る姿を重ね、水銀を服用すれば不老不死を手にすることができると信じたのかもしれません。水銀の殺菌防腐作用にも効果を見出したと思われますが。

漢の時代以降、皇帝たちは水銀を手に入れることに力を尽くしました。権力を得た者が何よりほしいものが不老不死の薬だったことは、病に対して打つ手のない時代であれば当然かもしれません。

最も盛んになった唐の時代には、丹薬としてこれを飲み続けた皇帝たちが、水銀中毒で6人も亡くなったそうです。古くは秦の始皇帝(紀元前3世紀)も水銀中毒だったのではないかといわれています。

始皇帝は自身の陵墓に帝国の領土を再現して、そこに水銀の川が流れるように作っていたと史記に記されています。地下深くに埋められているので確認はできませんが、陵墓の土壌を調べたところ、中心部に向かって水銀濃度が上がったことから、史記の内容通りであろうと推測されています。だとすると何トンもの水銀が必要だったそうです。

始皇帝がこれほど水銀に執着していなかったら、道士徐福は日本へやって来ることはなかったかもしれませんね。

不老不死を求めた神仙思想は道教に取り入れられ、道教では朱や水銀を使って不老不死の仙薬(丹薬)を作ることを探求しました。これを錬丹術と言います。始皇帝の時代は仙薬は仙人が持っていると考えられていたため、東海の蓬莱山に住む仙人のもとへ徐福を向かわせました。次の前漢の時代には不死の薬を作る試みが始まり、唐代以後まで盛んになっていきます。

 

一方、日本書紀には神武天皇の不思議な魔術が描かれています。

宇陀に侵攻し先住民と戦っている中、夢に神が現れお告げがありました。天皇はお告げ通りに丹生の川上で神事を行うことにします。天の香具山の赤土で皿と壺を作ってお祀りし、そしてふたつの宣言をしました。

①「この皿で水無しに飴を作ることができれば、武器を使わずに勝てるだろう」

②「壺を川に沈め、もし魚が酔って葉っぱのように浮いて流れていくなら、この国を平定できるだろう」

もちろん両方成功するのですが、①は先ほどの化学の実験と同じく、水銀朱を加熱して飴のような水銀に変化させたのかもしれません。「武器を使わずに勝てる」という文句も、ニホツ姫やサルタ彦大神が「刀に血塗らずして敵を服従させる」と言った、朱を匂わせる話の中で使われてきましたね。

松田壽男氏は水無し飴とは、水銀と他の金属の合金であるアマルガム(後述)だろうといわれます。また②はこのアマルガムによって魚を麻痺させたとも。

 

薬としての朱と水銀

水銀には無機水銀と有機水銀があり、毒性が強いのは有機水銀です。水俣病の原因となったメチル水銀や、一昔前に使われた農薬や消毒薬の赤チンなどがあります。

硫化水銀は無機水銀であり、ほとんど無害なのですが、水銀朱を蒸留する際の蒸気が有害となります。水銀鉱山で長く採掘している人は朱からのガスを少しずつ吸うことで骨ガラミ(骨うずき)のような症状が出るそうです。ですが硫化水銀は適量用いるには薬として働き、中医学では最上級の薬です。体だけでなく精神にも効能があるといいます。これを極めれば不老不死を求める道士の奥義、秘術としての仙薬(丹薬)です。

三国志魏書の倭人伝には、倭人が朱丹を身体に塗っていると記されています。魔除けだったのだろうと考えられています。他にも家屋や船の防腐剤、防水剤としても使われ、作物の防虫剤、また器物の朱塗りや衣服の染料にもなり、鏡の研磨剤としても重宝されました。古代には金よりも価値のある鉱物だったのかもしれません。

また中世に流行した伊勢おしろいと呼ばれた水銀の白粉も、シミやソバカスを取り除くとして人気がありました。のちにノミやシラミの駆除、梅毒の薬としても使われました。

  

シッダ医学と水銀

硫化水銀を薬としたもうひとつの古い流れがあります。南インドの伝統医学であるシッダ医学です。ほとんど知られていませんが、北インドアーユルヴェーダ医学やドイツ発祥のホメオパシーの起源といわれます。今も続いています。

佐藤任著「南インドの伝統医学」によると、シッダ医学は薬として金属や鉱物を使用するのが特徴で、中でも水銀と硫黄を重視し、特に水銀を基本鉱物としています。化学と冶金です。「医師は錬金術師の息子である」という格言があるそうです。

水銀を精錬して変性処理し、無毒の金属灰を作り、他の薬種と微量に調合して薬物を作ります。無毒の原子化された灰は同化吸収されやすいのだそう。

シッダ医学は病の予防と治療を行いますが、目指すところは不死の身体を作ることで、医薬と瞑想(ヨーガ)によって生きたまま解脱(悟りを開く)することを目標としています。これって密教ですね。中国にインド密教を伝えた僧はここで学んだそうですよ。なので空海の即身成仏(この身のまま悟りを開いて仏となること)はこれが元ではないかと佐藤氏はいわれます。確かに空海は水銀鉱脈と切り離せません。護摩焚きの灰って本来は薬だった?

 

実はシッダ医学は南インドタミル語圏に伝わってきたもので、発祥についてはいくつか説がありますが、言語学者たちの見解としては、地中海方面から移動してきたドラビダ語族が南インドに定住してシッダ医学を伝えたとしています。つまり出雲族の起源とされるドラビダ人です。ドラビダ人はインダス文明を築いた民族ではないかといわれています。

これまで何度も紹介しましたが、国語学者大野晋氏は、日本語の起源がドラビダのタミル語にもあると指摘しています。また和歌の形態の由来もタミル語の古代詩以外には見当たらないそうです。その古代詩の中に歌われた占いが、万葉人の歌った辻占と同じものでした。(タミルには紀元前2世紀から400年にわたって詩を集めたサンガムという古代詩集があります。)

詳しくはこちらの記事にあります。 

 

シッダ医学は有史以前から伝わっていた最古のインド医学とされ、口伝で伝承されてきたものが11世紀頃にタミル語で記されました。ほとんどが韻文形式で伝えられているそうです。佐藤氏は『韻文自体は平易だが、理解し難い、想像力に富んだ両義性の言語が使用されている』といわれます。なので解読が大変困難で、近年ようやく英訳されたとのこと。

出雲族が紀元前6~前3世紀には行っていたという、王の遺体に朱を注ぎ入れて死臭を防いでから風葬にするという儀式は、もしかするとドラビダ人の知識を持っていたからなのでしょうか。※徐福の渡来は紀元前218年。弥生中期の吉野ヶ里に始まる施朱よりも前のことになります。錬丹術よりも早いですね。

アーユルヴェーダの起源といわれるシッダ医学がいつから始まったのかはわかりませんが、中国の仙薬の流行はインドからきている可能性もありそうです。

 

鍍金めっき

次は薬ではなく鍍金術について。

鍍金とは水銀と金アマルガム(合金)にして仏像などに塗り、火で熱して水銀を蒸発させ金メッキすることです。メッキは外来語ではなく、滅金めっきんからきています。水銀に金を混ぜると金が溶けて消えてしまうように見えるからだとか。

アマルガム精錬法について》

アマルガムとは水銀と金、銀、銅など他の金属と混合した合金をいいます。金などの原鉱石は混ざり物がほとんどであり、それを粉末にして水銀を加えると金だけを選んで吸収した形となります(金アマルガム)。これを火にかけて水銀を蒸発させると金だけが残って鍍金メッキができます。東大寺の大仏(752年)には2t以上の水銀が使われたという見方もあり、水銀蒸気による健康被害も案じられますが、これについてはまた改めて。

 

鍍金の歴史を探ってみました。少々ややこしいですので興味ある方の参考になれば。

【補足】鍍金の歴史

最古の記録としては、3500年前のメソポタミア北部のアッシリアで錫メッキが行われています。鉄製品の劣化防止や装飾として、融点が低く塗りやすい錫を用いていたよう。

エジプトではツタンカーメン王の頃(3300年ほど前)には金メッキされたものがありますが、鍍金ではなく金の薄膜を被せています。

水銀アマルガム法による金メッキは、紀元前6~前3世紀のイラン系騎馬遊牧民族スキタイから始まったといわれています。黒海北岸から南ロシアの草原地帯に栄えました。スキタイの工芸品は戦う鳥獣の姿を躍動的に表現していることが特徴で、銅に鍍金したものが多くみられます。

またスキタイの前、前16~前6世紀にイラン南西部でルリスタンという騎馬民族の国があり、彼らも動物を模した金属製品を作っていました。スキタイはこの文化を受け継いだとみられています。(インターネット公開文化講座「掌(てのひら)の骨董」)

ルリスタンはメソポタミアのそばにあり、もしかするとスキタイの鍍金の萌芽はメソポタミアに由来するのかもしれません。

中国でも2500年前に青銅器に金メッキをした記録があるそうですが、これも金の薄膜を貼ったもの。

前4世紀頃から中央ユーラシアで勢力を強めていった騎馬遊牧民匈奴きょうどに、スキタイの文化が受け継がれており鍍金されたものが多くありますが、金板を貼ったもの、アマルガム法で鍍金されたものが混在しているようです。

また前5~前2世紀頃、現在の雲南省てんがありました。その石寨山遺跡から鍍金された青銅器が多数出土。農耕民の国なのになぜか動物の闘争や尖がり帽の騎馬武人を表現しており、スキタイ系のものといわれています。ただし鍍金はアマルガム法かどうか説明はありません。

それにしても雲南省からスキタイはかなり遠いですよね。ところがこの時代、西南シルクロードというものがあったらしく、四川省雲南省ミャンマー~インドを結んでいたそうなのです。司馬遷史記列伝によると前122年に張騫が大夏(現アフガニスタンに赴いて帰国した時、大夏には蜀や邛(現四川省の産物がすでに運ばれていたことや、インドには蜀の商人の店があったことを伝えています。(宍戸茂著「西南シルクロード紀行」)

f:id:sorafull:20200401095602p:plain

という流れがあったのかも。

また史記の封禅書には錬丹術の始祖である李少君が武帝に、辰砂を黄金に変化させる話をしたことが記されています。武帝の在位は前141~87年。武帝の時代にはアマルガム鍍金の話が伝わっていたことは確かです。始皇帝が亡くなって100年ほどのこと。

1世紀には仏教がインドから中国に伝わり、3世紀ごろ青銅の仏像に鍍金が施されるようになります。

日本では5~6世紀に渡来品の鍍金製品がたくさん出土しています。日本でも5世紀後半にはアマルガム法として「辰砂を製錬すると水銀が得られる」ことが理解されていたということです。(市毛勲著「朱丹の世界」)

 

参考文献及びサイト

佐藤任著「南インドの伝統医学」

宍戸茂著「西南シルクロード紀行」

インターネット公開文化講座「掌(てのひら)の骨董」