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源流なび Sorafull

朱の国⑹朱の女神、ニホツ姫とニウツ姫(後編)

 

 

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各地のニホ

上記の場所は地質調査の結果すべて水銀含有を認め、朱砂産地であったといえるそうです。

また現在は滋賀、淡路、高知の地名は地図上では消えていました。

ニホ、ニウの分布をざっと見ただけでも、出雲連合国と関連のある地域が多いという印象です。風土記や出雲伝承から、播磨国備前、淡路、四国は出雲と関わりが特に強いですし、山口県の仁保を調べてみると、周防国の一宮から四宮まで出雲系の神が祀られています。仁保周辺に鎮座する三宮の壁神社はアジスキタカヒコノ命と下照姫命(父は大国主)、四宮の田神社は大巳貴命、少彦名命猿田彦命を祭神としています。

高知の仁尾島は今は地名も島もみられませんが、物部川を遡って左岸に中州のように島があったようです。仁尾島の北側には加茂の地名がみられます。物部川というと、出雲伝承では第1次東征で物部軍が一時休憩した場所であり、河口近くの右岸には物部村があります。川の東には香我美の地名もあり、持参した鏡を持って住み着いた人たちもいたと考えられています。物部村近くの田村遺跡からは銅鐸と銅矛(物部)の両方が出土しています。先住の出雲族と共存したようですね。

大分の荷尾杵は出雲の気配はなかったのですが、4~5㎞北東に丹生山があり、ニホとニフ(丹生)が対面して存在していました。松田氏はこういう場所が他にもいくつも見られるといい、水銀鉱床でふたつの民が対面し、それぞれ共存して採取していたと考えられるそうです。豊後国風土記に記された「丹生の郷」もさらに北東へいったところに比定されています。

滋賀の邇保は、倭名抄に記された近江国野洲郡の邇保郷になります。現在の近江八幡市十王町~江頭町あたり。隣の加茂町には賀茂神社が鎮座しています。邇保郷を流れる日野川を上流に辿るとすぐに鏡山があります。山肌には水銀鉱染の土壌が見えるそうです。鏡山の朱砂が日野川に運ばれて河尻に堆積するのを採取したのだろうとのこと。

鏡山の山裾には大岩山古墳や広大な伊勢遺跡など、1世紀末から2世紀末までの弥生遺跡がいくつも見つかっています。当時この辺りでは小規模集落が散在する時代でしたが、突如として大型の祭祀空間をもつ大規模集落が現れたのです。青銅器の製造所もあり、全体でひとつの連合国を形成していた可能性があるといわれています。同時期に大岩山古墳に銅鐸(大型の見る銅鐸)が埋められました。

出雲伝承ではこの地は第1次物部東征後、大彦が大和から逃れてきて王国を築いたと伝わっています。ブログで何度も紹介していますが、大彦は記紀ナガスネヒコのモデル。磯城王朝の皇子であり出雲の富家の子孫で、物部の銅鏡を嫌い、銅鐸祭祀を復活させようとした人です。

 

爾保都比売伝承

ここで播磨国風土記に戻りたいと思います。爾保都比売伝承の発祥地を、松田氏は現在の神戸市北区山田町の丹生神社だと確信しておられます。丹生神社の鎮座する丹生たんじょう山とその周辺一帯は水銀を含有しており、古代朱砂産地だったようです。昔は神社を護持する丹生山明要寺が並んでいました。ここは比叡山系といわれることもありますが、松田氏が調査したところ高野山真言宗に間違いないそうです。そのため山の名が丹生となり、神社の名もニホからニフへと変化したと考えられます。

以前、船木氏の記事の中で、住吉大社神代記には播磨国賀茂郡の椅鹿山に大田田命大田田根子と御子の所領が9万8千余町あり、住吉大社に寄進したと記されていることを書きました。

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出雲の登美家分家の大田田根子大神神社の司祭者です。第1次物部東征の時代の人なので、2世紀には椅鹿山周辺が登美家の所領であったことになります。淡路島にも出雲の銅鐸や朱の付着した石器や木器が出土しており、倭国大乱及び物部東征以前、播磨から淡路島の一帯に出雲族の存在があったことを伺わせます。

播磨国風土記ではニホツ姫を「国を堅めし大神の子」と説明していると最初に紹介しました。その播磨国風土記の中で、

宍禾の郡「伊和の大神が国を作り堅め終えた後‥」

美囊の郡志染の里(丹生山の西隣)「大物主葦原志許が国を堅められた後に‥」

とあり、逸文では「国土を堅められた大神の御子である爾保都比売命」と書かれています。伊和大神、大物主、葦原志許(男)、すべて出雲王を指すので、逸文の大神も出雲王のことでしょう。つまりニホツ姫は出雲王の子と受け取れるのではないでしょうか。もちろんニホツ姫について出雲伝承ではみられませんが

ちなみに出雲国風土記では「天の下をお作りになった大神(大穴持の命)」という表現になります。

 

ニホとニフの使い分けを見てきましたが、松田氏は出雲の話には触れておられません。これはSorafullの解釈です。

 

地名の変化

松田氏の研究では、ニホ系とニフ系を別の集団とします。

ニホ系は仁保、邇保、丹穂、丹保、仁尾、荷尾。

ニフ系は丹生に始まり、二布、壬生、仁宇、仁歩。丹生氏から分かれた集団として大丹生、小丹生(=遠敷)。さらに丹生が「入」に転化して読みがシオとなり、塩と表記されたところもあります。入谷、入野、大塩、小塩、塩荘。

またニホ、ニフ系とは別にニイ系もあるようで、仁井田、仁井野、仁井山、仁田など。これが転化して新山、新田。

誤記としては丹生が舟生、遠敷が越敷に。

 

 

最後に「にほ」という言葉について。

松田氏は「にほ」とは朱砂が穂のように吹きだしている様子だといわれます。

大野晋氏は著書「日本語の起源」の中で、日本の古語「ni」は「土」を意味し、対応するタミル語は「nil-am」で「土、大地」とし、また日本語「Fö」は「穂、花」を意味し、対応するタミル語は「pū」で「花、穂」としています。土の穂、大地の花。

「Fö」は「ふぉ」と「ふぇ」の中間の音でしょうか。現代のハ行の子音は「h」ですが室町時代は「F」。奈良時代以前は「p」でしたので、「ぷぉ」と「ぷぇ」の中間音だったことになります。

出雲の邇弊姫はこの音からきている可能性も?

※大野氏のその後の著書「弥生文明と南インド」では日本の古語「丹穂」はタミル語の「稲積」と同じ意味と述べられています。興味のある方はP.224~を参考にしてください。

 

ちなみに「匂にほふ」は丹穂、丹秀が語源とされ、赤色が際立つ意味だけでなく「鮮やかに色づく」「内面の美しさが溢れ出て生き生きと輝く」という意味も含んでいます。視覚だけでなく、嗅覚にまで訴えかけるほどの美しさが「にほふ」なのです。

よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふが如く いま盛りなり

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高松塚古墳壁画 Wikipediaより

水銀朱は唇、頬、帯、裳(スカート)に使われています。700年頃。