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源流なび Sorafull

朱の国 ⑻古代出雲の医学

 

 

 日本書紀に描かれたホムツワケ伝承をみてみましょう。

《 30歳になっても物言わぬホムツワケが、ある時クグイ(白鳥)が空を飛ぶのを見て「あれは何者か」と言われた。天皇は喜ばれ、クグイを捕えて献上せよと申され、鳥取造の祖が追いかけて出雲で捕らえた。》

古事記と同様、ホムツワケの治癒に出雲が絡んでいます。

谷川健一氏は古代出雲に白鳥に対する信仰や伝承があったとみておられます。また東北の安倍一族(出雲富家分家)にも白鳥信仰があったとし、その上に物部氏の持ち込んだ白鳥伝説が重なり融合したとのこと。

残念ながら出雲伝承に白鳥の話はありませんが、鳥居の中央の縦の木片は婿を表し「鳥」と呼びます。女性の象徴である鳥居に婿が飛んでくるように祈ったのだと。男性の種水を白で表すので白鳥?

そういえば出雲の中海周辺には今もコハクチョウが飛来します。

 

古代出雲の医学

古事記日本書紀尾張国風土記でホムツワケの病を治すのは出雲の神。出雲国風土記のアジスキタカヒコも大国主の祈願によって治りました。出雲では罹患しても治癒させる力があります。

日本の最古の薬物治療の記録がみられるのは、古事記因幡の白兎です。大国主が傷ついた兎を「蒲がまの穂」で治療しますが、これは「蒲黄」という生薬で今も傷口や火傷に使われています。

また、大国主が大火傷を負った時には赤貝と蛤の女神が遣わされ、ふたりの作った火傷薬で生き返りました。貝やカニから得られるキトサンは炎症を抑え、人工皮膚の材料にもなっています。鳥取には赤貝の殻と蛤の身をすり潰した火傷の伝承薬があるそうです。

風土記には大国主と少彦名が諸国を巡りながら温泉療法や酒造りを伝えたことが記され、日本書紀にはこの二神が天下を造られる際に、人民と家畜のために病気治癒の法を定め、また鳥獣や昆虫の災いを除くためのまじないの法を定めた、とあります。まじないとありますが、これは朱砂を使ったのでは?

出雲国風土記に記された草木112種のうち薬草は61種。朝廷にも納められていました。奈良時代の厚生省(典薬寮)は出雲臣が担当し、平安初期の最古の医薬書「大同類聚法」は出雲広貞、安倍真直らによって編纂され、出雲の神にまつわる薬や国造家に伝わるものが多数を占めているそうです。

崇神天皇の御代に大物主神が疫病を鎮めたことから、大神神社と荒御魂を祀る狭井神社で「鎮花祭」という祭祀を行うよう大宝律令に定められました。春の花びらが散る頃に活動する疫病神を祓い鎮める神事です。今も医療や製薬業の方が多く参列し、薬まつりとも呼ばれているそうです。

大阪で製薬会社が並ぶ道修町に鎮座する少彦名神社は江戸時代創建ですが、こちらも医薬の神さまとして信仰されています。1822年にコレラが流行した時には薬種商仲間で和漢薬の丸薬を作り、少彦名神社で祈願し無償で配布。効果が高かったといいます。古代中国の医薬と農業の神、新農炎帝も祀られています。

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今ではビルの谷間に鎮座する少彦名神社 

このように出雲族には医療に結びつく話が多いのに比べ、天孫族は占いや祈祷ばかり。そして疫病や祟りが起こるといつも出雲大神頼みで、大和政権には医療の力が描かれていません。徐福は道士だったので薬草には強いかと思われますが、物部には呪術的な印象しかないですし。

 

話を鉱毒に戻します。出雲の皇子アジスキタカヒコと物部の皇子ホムツワケの違いは、出雲のように朱砂そのものを利用していた時代と、火を使って水銀を精錬した時代の違いを区別して描いていると読めなくもありません。ただし日本での水銀精錬はおそらく6世紀以降ですのでホムツワケの話は時代も違い、後代に大和政権の象徴として挿入されたということになりそうですが。

 

運命の赤い糸

最後に古事記に描かれた、出雲と「赤」を結びつける話を紹介します。

崇神天皇の世に疫病が猛威をふるった際大物主神(出雲大神)天皇の夢の中で「大田田根子に我を祀らせよ」と告げました。現れた大田田根子が自分は大物主神と活玉依姫イクタマヨリヒメの子孫であると名乗ります。そして三輪山で大神を祭り、他の神々も社を定めて祀ると国は安らかになったと。この活玉依姫大物主神の馴れ初めがここで語られます。

《 大変美しい娘がいた。その娘のもとに、比類ないほど容姿や身なりの立派な若者が夜中に訪ねてくるようになった。互いに惹かれ合い、夜の間だけともに過ごすようになると、間もなく娘は子を身ごもった。娘の両親が怪しんで問い詰めた。娘が若者の素性はわからないと言うと、両親は次のように教えた。

赤土を床の前に撒き散らし、麻糸を針に通して殿方の衣の裾に刺しなさい」

娘はその通りにして、朝になって見てみると、麻糸は板戸の鍵穴を通り抜けて外へと出ていた。枕元の糸は、糸巻きに三巻だけ残っていた。糸を辿っていくと三輪山に至り、神の社に着いた。それでお腹の子は神の子であることを知った。

糸巻きに三巻だけ残っていたから、その地を名付けて三輪という。大田田根子は神みわの君、鴨の君らの祖である。》

出雲といえば縁結びの神さまで有名ですが、運命の赤い糸もここに始まるのかもしれませんね。

出雲伝承では大物主は事代主であり、妃は活玉依姫(別名・玉櫛姫、三島溝杭姫、勢夜蛇多良姫)。その娘がタタラ五十鈴姫で、大和へ移住した後、初代大和王の海村雲の后となります。記紀では神武天皇の后となったイスケ依姫にあたります。そのイスケ依姫の出自は次のように語られます。

《 三島溝杭の娘、勢夜蛇多良姫セヤダタラヒメは大変美しく麗しい娘だった。三輪の大物主神が見惚れてしまい、娘が厠で用を足す際に、丹塗りの矢に姿を変えて、娘のホトをぐさりと突き刺した。娘は驚いたけれどその矢を持って床のそばに置いておくと、矢はたちまち麗しい男に変わり、二人はすぐに契りを交わした。そして生まれたのがイスケ依姫である。》

大物主神=出雲大神と赤土、丹塗りの矢。そして病を治し疫病を鎮める力。それぞれのエピソードは物語に他なりませんが、作り手の中にある出雲大神に対するイメージが、ここに表現されているのだろうと思います。

 

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