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源流なび Sorafull

朱の国⑽十一面観音②信仰のはじまり

 

 

日本で最古の十一面観音像は、紀伊那智山から出土した金銅十一面観音です。白鳳時代のものといわれています。那智の滝のすぐそば、飛瀧神社横の杉林で、仏具など数百点の遺品とともに見つかりました。埋められていたのは経塚信仰だろうと。飛瀧神社熊野那智大社の別宮ですが、本殿も拝殿もなく直接滝を拝みます。飛沫を浴びると延命長寿になるといわれているそうです。滝がご神体で祭神は大己貴命那智大社の祭神は花の窟神社から勧請した出雲の夫須美大神です。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/257847

 

法隆寺金銅壁画の十一面観音像も最古といわれていますが、出雲伝承では法隆寺建立年代は通説とは違ってもっと後代だということですので、ここでは省略します。(「飛鳥文化と宗教争乱」)

 

白山の十一面観音

十一面観音信仰を広めたのは、白山を開いた泰澄大師といわれています。養老元年4月(717年)に泰澄の夢に天女が現れ「早く来るべし」とのお告げがあり、九頭竜川を遡って白山の頂上、御前峰へ至ると池に九頭竜が現れ、十一面観音へと変化したとの伝承があります。白山比咩の本地が十一面観音菩薩つまり白山比咩とは十一面観音が顕現した姿と説明することで、神と仏を融合しました。

白山は日本古来の山岳信仰の地でしたが、泰澄の開山によって修験道白山信仰が広まりました。平安時代には御前峰から加賀、美濃、越前へと続く禅定道に三馬場が設けられ、現在は白山比咩神社、長滝白山神社、平泉白山神社となっています。

白山信仰は東北では「おしら様」「しらやま様」となって広まっていきました。

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白洲正子氏は美濃の重要文化財日吉神社の十一面観音を非常に高く評価しておられます。平安時代の11~12世紀に造られ、もとは日吉神社の白山宮に祀ってあったと考えられるそう。観音さまでありながら全く仏教臭がなく、日本の土から生まれ、祖先の血がかよっているように感じると。といって民芸ではなく、あくまで信仰の対象であり、さらには日本の神に仏が合体したその瞬間をとらえたといえよう、とも。

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日吉神社のホームページよりお借りしています

この像を見た時、幸姫命を思い浮かべました。なんともいえない素朴な美しさに、母なるもの、郷土、そして祖先神への敬愛のようなものを感じたのです。

白山比咩は別名を菊理媛くくりひめといいます。日本書紀の一書に一度だけちらりと出てくる神様で、出自はわかりません。黄泉の国でイザナギイザナミを仲直りさせたとして、縁結びの神ともいわれます。白洲氏は「くくる」とは本来「みそぎ」の意味であるといいます。縁結びに禊ぎとなると、ますます出雲の女神が重なります。ちなみに日吉大社山王信仰はサルタ彦大神を祀ります。

 

揖斐川のほとりに建つ日吉神社から川沿いに遡っていくと、谷汲山を経て越前大野まで、点々と十一面観音が祀られ、白山神社と交錯しているそうです。美濃の白山神社は小さな祠まで入れると3000以上もあるとか。

谷汲山には以前の記事「沈黙の皇子、アジスキタカヒコとホムツワケ」で紹介した、出雲のミカツ姫と夫神が祀られた花長上神社、花長下神社が鎮座しています。この辺りは朱砂地帯です。近くに谷汲山華厳寺があり、本尊は十一面観音。

日吉神社の南側にも赤坂という有数の朱砂地帯が。

また古代の美濃の中心地には名高い養老の滝があります。養老神社では白山の菊理媛を祀っています。

続日本紀には霊亀3年9月(717年)元正天皇が養老山を訪れ、泉で手足を洗うと皮膚が滑らかになり、痛いところを浸すとすぐに治まり、他の者も白髪が黒くなり、禿頭には毛が生え、目の悪いものは見えるようになったと伝わることから、年号を霊亀から養老へ改めたとあります。泰澄が十一面観音を感得した5ヶ月後のことです。のちに元正天皇が病に倒れた時には泰澄が呼ばれ平城宮で祈祷を行いました。

若返りの水というのは古くからの変若水おちみず信仰ともいえますが、記述の中に後漢光武帝の治世に病をすべて治す泉があったという話を加えているところをみると、辰砂や水銀の効能と考えてもよさそうな。

 

三神の里、こもりくの泊瀬 

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長谷寺 Wikipediaより

長谷寺の十一面観音の話をする前に、この地の歴史を少し辿ってみたいと思います。

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大和川の上流で桜井市を流れるところを古くは初瀬川と呼んでいました。桜井駅から長谷寺駅までの8㎞ほどは長い谷となっています。初瀬泊瀬はつせ⇒はせ⇒長谷。

初瀬(泊瀬)は古くは三神の里と呼ばれ、初瀬川を神河かむかわといったそうです。

初瀬の枕詞は「隠国・こもりく」。三輪山奥の院ともいえる場所で、神の籠る里であり、大和姫はここに8年籠ったのちに伊勢へ向かいました倭姫命世記。付近には斎宮跡と伝わる場所もあって、まさに聖地。初瀬から伊勢へと通じる最も古い街道もそばにあります。

郷土史家の田中八郎氏によると、初瀬町の入口に「君殿の庄」と呼ばれた4支流の合流点があって、纏向や海拓榴ツバ市よりも古い時代の交易拠点だったそうです。そこが大字出雲であると。三神の里とはやはり出雲の幸の神三神でしょう。

君殿の庄⇒纏向(弥生末期)⇒海拓榴市(古墳時代~)


君殿の庄の東隣に長谷寺があり、さらに峠を越えると朱砂地帯の宇陀となります。この谷は大和盆地と宇陀を結ぶ重要な出入口であったようです。出口を君殿の庄とすれば、谷の入口となる海拓榴市は3つの川の合流点となっていて、大阪湾からの水路の終点です。山野辺の道、初瀬街道、磐余の道、山田道、横大路など複数の主要路の交錯する場所でもあり、古墳時代から飛鳥、藤原京における交易の拠点でした。商いだけでなく若い男女の歌垣が開かれたり、外国使節を迎える場、祭祀場、刑場でもあったようです。

万葉集には「海石榴市の八十の衢ちまた」と歌われています。衢とは分かれ道、岐路のこと。聖武天皇の御代に疫病が流行った時、道饗みちあえの祭祀を行ったと続日本紀にあります。これは都の四隅の道上で八衢やちまた比古、八衢比売、久那土の三柱の神を祀って悪いものが入らないよう守護を祈願する祭祀です。道の神(塞の神)でもある幸の神三神ですね。平安京では令制祭祀となっていますが、聖武天皇平城京だけでなく藤原京を囲む道の溝からも祭祀に使われたと思われる土器が出土しています。海石榴市が「八十の衢」と呼ばれたのは、三輪山の幸の神信仰からきていることがわかります。

 

次に峠を越えて宇陀を見てみましょう。朱砂採掘の中心地は宇陀の入谷(菟田野入谷)であり、丹生神社が鎮まっています。

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隣の菟田野大神には大神神社の奥宮といわれる神御子みわのみこ美牟須比売神が鎮座しています。祭神は神御子美牟須比女命ですが、タタラ五十鈴姫のことといわれています。今も大神神社の鎮花祭(疫病鎮め)には百合根が、夏には小豆が当社から奉納されているそうです。

ここを中心とした半径2キロの円周内が宇陀随一の朱砂採掘地で、特に神御子社から山に入ったところにある奥宮社と、阿蘇神社と嶽神社が点在する山林区域が鉱床の核心だそうです。
入谷は古くは丹生谷と記し、宇賀志村に属していました。記紀神武天皇とウカシ兄弟の話として描かれた宇陀の血原です。万葉集には、

大和の 宇陀の真赤土の さ丹つかば そこもか人の 我を言なさむ

と歌われています。松田壽男氏は「真赤土」は通常読まれる「真埴まはに」ではなく「真赭まそほ」と読むべきと指摘されています。赤土は赭(ベンガラ)を指し、真赭は水銀朱。埴では粘土の意味になってしまいます。

 

さて、このような歴史ある「こもりくの泊瀬」の長谷寺に、十一面観音が祀られることになりました。泰澄が白山を開いて10年ほど後のことです。

平安時代には観音巡礼として長谷詣はせもうでが流行し、海拓榴市は宿泊地となって栄えました。源氏物語枕草子蜻蛉日記にも描写されるほど、貴族の女性たちもこぞって詣でたようです。

 

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本尊 十一面観音立像

現在の本尊は16世紀に再興されたものです。もともとは徳道上人によって727年に造像されましたが、度重なる火事や災害によって何度も消失しており、元の姿を伺い知ることはできません。ただ二丈六尺あったというので、8mを超える観音像は圧倒的な存在感だったことでしょう。しかも大きな磐の上に立っています。

この観音像については次回に続きます。