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源流なび Sorafull

朱の国⒀聖武天皇とお水取り

 

 

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修二会の大松明 Wikipediaより

十一面観音を本尊とする東大寺の二月堂。毎年3月にお水取り(修二会しゅにえ)が行われます。十一面観音に自分たちの罪を懺悔し悔い改め、世界が平和になるよう祈る法要です。十一面悔過けかともいわれます。

お水取りの話に進む前に、東大寺を建立した聖武天皇について少し。

 

聖武天皇の御代(724~749年)は干ばつや飢饉、地震が続き、さらには天然痘が大流行して国民の3割にあたる100万人が亡くなったといわれています。

天然痘は日本では6世紀後半から流行がみられ、敏達天皇はおそらく罹患して崩御されたようです。同じ時期に蘇我馬子物部守屋も患ったと日本書紀は伝えています。その少し前、百済から仏教が伝来し、物部や中臣の神道を重んじる廃仏派と、蘇我の崇仏派の争いが起こりました。疫病流行は外来の宗教を受け入れたせいとして仏像を廃棄したり、それでも流行が収まらないと仏像を廃棄したせいだとなって、寺を建てる始末。用明天皇がようやく仏教採用を決めました。日本書紀では用明天皇天然痘崩御されたとありますが、出雲伝承では廃仏派によって殺されたとのこと。外来の宗教を取り入れるとはまさに命懸けです。

さて、聖武天皇用明天皇から14代のちの即位となります。父、文武天皇を幼くして亡くし、母(不比等の娘)は心を病んで長年会うこともなく育ちます。24歳で叔母の元正天皇から譲位され即位。政権を握っていた長屋王不比等の息子、藤原四兄弟の対立が続き長屋王は自害しますが、737年からの天然痘の大流行によって藤原四兄弟や政府高官たちも相次いで亡くなりました。

当時は天皇の徳がないと災いが続くといわれ、聖武天皇はそれを払拭しようと仏教に深く帰依し、国の安定を図ります。741年に全国に国分寺建立、743年には東大寺廬舎那仏造立の詔を発しました。

また災いから逃れるように遷都を繰り返しましたが反発も大きく、結局平城京に戻ってくることとなります。(平城京恭仁京難波京⇒紫香楽京⇒平城京

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東大寺廬舎那仏像 Wikipediaより

東大寺の大仏が完成したのは、娘の孝謙天皇に譲位してから3年後。鋳造による大仏としては今でも世界最大です。造立に関わった人数は延べ260万人、建造費は現代に換算すると4500億円を上回ると推定されています。752年に開かれた大仏開眼供養会は全国から1万数千人が集まり、海外からも楽人や舞人を招いての舞楽法要と、かつてない盛大な儀式となりました。

まもなく聖武上皇が亡くなると、この儀式で使われたものや上皇が身近に置いていた宝物を大仏に奉納し、正倉院宝物として封印されました。最近になって宝物を科学調査したところ、これまでシルクロードからの渡来品や中国のものがほとんどといわれていた宝物の実に9割以上が国産であったことが判明したのです。

内匠寮を置いて様々な職人のプロ集団を雇い、渡来品を真似て一流の工芸品を生み出すことに力を注いだと考えられます。ものづくり日本の始まりです。聖武天皇は唐の皇帝のような衣服を纏っていたようで、白村江の敗戦から唐に倣って権威を高めようとしたのでしょう。

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写真は先日亡くなられた染色家の吉岡幸雄氏が、正倉院宝物などの資料からできるだけ忠実に再現した伎楽の衣装です。鮮やかな彩りですがすべて草木染。大仏開眼供養会の東大寺伎楽を再現するプロジェクトで披露された衣装と面です。NHKBS放送「失われた色を求めて」よりお借りしました。

国に災害や疫病が次々と襲い掛かった時、仏教国として国家をまとめるだけでなく、常識を遥かに超えた金色の巨大廬舎那仏を造立したり、大イベントをきっかけに美術工芸や舞楽といった芸術面も飛躍的に発展させて国力を上げようとしたのでしょう。聖武天皇が大仏造立で発した詔には、「国民のみなが心をひとつにして協力すれば叶う」といった強い呼びかけがありました。「一本の草、一握りの土」でも造立を助けようという気持ちを求め、また役人は人民から無理やり取り立ててはいけないとも。かなり熱いリーダーだったような。

時代が下りますが、14世紀にヨーロッパでペストが大流行した後、被害が最大だったイタリアからルネサンスが湧きおこりました。中世から近代へ、大きな飛躍を遂げていきます。

破壊は進化への原動力にもなり得ることを教えられます。

 

修二会・お水取り・十一面悔過

さて、大仏開眼供養会の3ヶ月ほど前に、初めてのお水取りが行われました。お水取りを始めたのは実忠といわれ、東大寺の初代別当である良弁の一番弟子です。インド人という説も。

実忠が笠置山の龍穴で天人たちの行法を目にし、それを人の世界に持ち帰りたいと思ったことに始まります。(室生寺も龍穴でしたね)

その行法とは十一面観音への懺悔でした。二月堂の本尊は大観音と小観音(実忠が勧請した)の二体で、絶対秘仏のため誰も目にすることはできません。

お水取りは3月1日から14日間かけて行われます。法要には練行衆と呼ばれる「11名」の僧が選ばれ、本業の前の前業として別火坊にこもります。お水取りはその名とは違ってまるで火祭り。この別火坊では俗世間で使っている火から離れ、新しい火を火打石で作って生活し心身を浄めるそうです。古代出雲には神饌を作るために新たな火を作る火切り神事がありました。別火坊ではさらに「中臣の祓え」もあったりと神道の混在が明らかです。

3月1日になると火打石で最初の火を灯し、修二会が始まります。

私はドキュメンタリー映像でしか見たことはありませんので、実際に立ち合うのとは違うでしょうが、その印象は炎と音で巧みに演出された舞台芸術です。

蝋燭の灯をともした仄暗いお堂の中を、僧侶たちは「さしかけ」という木の沓くつを履いて駆け回り、床を踏み鳴らします。バリトンの声明しょうみょう(経文に節をつけたもの)に合わせて、沓音がセッションするかのようにリズムを刻んでいきます。鐘が荘厳な音色を響かせ、時にホラ貝の重奏が広がります。鈴の音も数珠をこすり合わせる音も絶妙なタイミングで合わさって、まさに和製オーケストラ。

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修二会の大松明 Wikipediaより

二月堂の表の舞台では、暗闇に燃え上がる松明たいまつの炎から火粉が爆ぜ、人々の喚声が繰り返し波のように起こります。修二会の終盤、お水取りの行われる12日にはこの松明もひときわ大きくなり、重さは70㎏に。11本同時に振る場面も。そしてお堂の中では燃え盛る大松明を持った火天と水天の激しい炎舞が繰り広げられます(達蛇だったんの行法)。迷いなくすべてを焼き尽くすようなその勢いに、日常のもやもやなど吹っ飛んでしまいそうです。

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東宝天平萌ゆ」の映像より 炎が白く映ってしまいました。

 

いにしえの火祭りといえば古代出雲ですが、火を巧みに使う姿は山岳信仰から修験道の流れを思わせます役行者の始めた三宝荒神は火の神)。十一面観音信仰がそれらと密接に関わっていることと繋がっているのでしょう。実忠が修業していた笠置山は鉱山かつ修験道の地でもありました。

この炎と音の饗宴は最初からすべて考え抜かれた演出なのか、それとも長い歴史の中で練り上げられていったのでしょうか。752年に始まって以来、一度も途絶えることなく続いてきた修二会は、東大寺ある限り続く「不退の行法」と呼ばれ、関わる人々の並々ならぬ気迫を感じます。

 

演出の説明ばかりに力が入ってしまいましたが、もうひとつの大事な法要、「お水取り」を忘れてはいけませんね。

修二会には全国の神々(1万数千とのことですが実際には600ほどの名が挙げられるそう)が招待されます。見事な神仏習合です。ところが初めての修二会の際に若狭の遠敷明神が釣りをしていて遅刻したため、そのお詫びとして十一面観音に閼伽水(香水、聖なる水)を献上することを約束します。すると2羽の鵜が岩を穿って飛び立ち、そこに霊泉が湧きました。これが二月堂そばの閼伽井あかい(若狭井)です。12日の深夜にこの閼伽井から香水を汲み、観音にお供えすることから「お水取り」と呼ばれるようになりました。そして若狭福井県小浜市の神宮寺)では毎年3月2日に「お水送り」が行われています。つまり若狭から二月堂の閼伽井へと水脈が繋がっていて、10日かけて届くというわけです。

全国1万数千という神々の中から、なぜ遠敷明神だけが「遅刻する」などというハプニングを起こしてこのように取り上げられ、1300年もの間途切れることなく続けてきたのか、不思議ですよね。そして「水」が主題のはずなのになぜか火祭り‥‥。

 

次回は若狭の遠敷明神について。