SOMoSOMo

源流なび Sorafull

朱の国⒁遠敷明神とお水送り

 

 

福井県小浜市に鎮座する若狭国一宮、若狭彦神社は上下2社からなり、上社を若狭彦神社(小浜市龍前)、下社を若狭姫神社(小浜市遠敷)といいます。祭神はそれぞれ彦火火出見尊豊玉姫命。両宮を合せて遠敷おにゅう大明神とも呼ばれます。

ホホデミ尊は徐福が市杵島姫との間に九州でもうけた皇子。物部氏の祖。(出雲伝承)

f:id:sorafull:20200418102837j:plain

若狭彦神社 Wikipediaより

f:id:sorafull:20200418102906j:plain

若狭姫神社 Wikipediaより

社伝によると二神は遠敷郡下根来白石の里に現れ、その姿は唐人のようであったといいます。縁起では和銅7年9月(714)、白石の里に若狭彦神社を創建。翌霊亀元年9月(715)に現在の若狭彦神社に遷座。跡地は白石神社に。養老5年(721)には若狭姫神社を創建して豊玉姫分祀ししました。霊亀元年9月に元正天皇が即位しています。)

現在の祭事はほとんど下社の若狭姫神社で行われているそうです。しかも地名と同じ遠敷神社と呼ばれています。力関係がみえるような。

 

f:id:sorafull:20200426114454p:plain


出雲伝承では第2次物部東征の際、物部朝倉彦の軍勢が稲葉国、但馬国を経て東進。その中の一派は若狭の国を征服して、その地の豪族になったといいます。子孫が後世に一族の神社を建て、それが若狭彦神社であると。白石の里でしょうか。

社伝のいう唐人のような姿というのは、親魏和王ヒミコ(豊玉姫)を総将軍とする物部勢が、その装束も大陸の影響を受けていたからかもしれません。

松田壽男氏は若狭姫は若狭彦の妻神ではなく、大和朝廷の勢力がやってくる前から祀られていた神を変化させたとものとみています。最古期の遠敷明神とは遠敷郷を形成した氏族の女神であったと。立地からみても若狭姫神社はこの谷を支配するにふさわしい場所です。

遠敷は古くは小丹布と記したことや、平安時代東大寺要録には遠敷明神は小入明神とあることなどから、地名2字表記の際に遠敷へと変化したものであり、地質調査からも水銀を含有しかつての朱砂産地だったと考えられます。松田氏のいうように小丹生氏が丹生氏の一派であれば、遠敷明神とはニウツ姫す。

そこへ物部勢がやって来て遠敷川上流に祖神、彦火火出見尊を祀り、その後元正天皇の御代に若狭彦として大和政権の配下となります。より古くから祀られていた遠敷明神(ニウツ姫)を若狭姫と変えて、夫婦神のように祀ったことになります。養老4年(720)に成立した日本書紀によると、ホホデミの妻は竜宮の豊玉姫。若狭姫神社への分祀は翌年のことです。筋は通ります。

 

北川を挟んで対岸に丹生神社があり、松田氏は丹生氏と小丹生氏が対面して共存していた例とみています。丹生神社の祭神も彦火火出見尊となっていますが、これも大和政権によるニウツ姫からの変化でしょう。

 

お水送り

若狭彦神社から遠敷川を遡ったところに神宮寺があります。若狭彦神社の神願寺として元正天皇の勅願和銅7年(714)、泰澄(白山の開祖)の弟子によって創建されたと伝わっています。本尊は十一面観音でしたが地震で壊れ修理に出したところ、なんと千手観音になって戻ってきたそうです。

神宮寺では毎年3月2日に「お水送り」が行われます。送る先は東大寺二月堂の閼伽井。

f:id:sorafull:20200426104031j:plain

神宮寺の閼伽井屋 Wikipediaより

朝、川上にある下根来八幡宮から始まります。清めのお祓いのほか、赤土をお神酒で練り丸めたものを舐めるそうです。下根来では参列者にもこれとそっくりな赤い栃餅が配られます。すでに朱の気配が。

夕方、神宮寺に白装束の僧と山伏たちがホラ貝を吹きながら集まってきます。修二会は十一面観音(秘仏のため厨子)の前で行われます。大松明を振りまわす達蛇だったんの行もありますが、これは近年になってからとのこと。境内で大きな護摩焚きが行われたあと、閼伽井屋で汲んだ香水をもって2㎞川上の鵜の瀬の河原へと移動。参列者も手松明をもって後に続きます。火の大行列です。

二月堂閼伽井の水源となる鵜の瀬でも護摩焚きをし、やがて松明の火の海の中、神宮寺住職が送水文を読み上げ、香水を遠敷川へと流します。

やはりこちらも火祭りでしたね。

f:id:sorafull:20200426104540j:plain

遠敷川・鵜の瀬 Wikipediaより

 

水の正体

東大寺二月堂には3つの鎮守社があって、遠敷社、興成社、飯道社。この興成社というのは閼伽井のもととなった、岩を穿って飛び出た2羽の鵜を祀っています。社の説明によると、平安時代には「能く不死薬を取りて人に与え食わせしめ、長生の齢を保たしむ」という誓願を持つ菩薩として信仰されていた、とあります。水銀っぽいですね。2羽の鵜は丹生を意味するという説もあるらしいですよ。

f:id:sorafull:20200426102749j:plain

二月堂とお社 Wikipediaより この興成社のすぐ下に閼伽井屋があります

話が見えてきたと思いますが、遠敷明神から送られてきたのは朱砂、水銀だったのではないか、という推測ができそうなのです。大仏の鍍金には水銀が2t以上必要だったともいわれます。大和の朱砂は底を尽きかけていた時期であり、遠敷明神を始め各地から集めたと考えると、東大寺宇佐八幡宮が初めて分社した田向山八幡宮が鎮座していることもそこに理由があるのかもしれません。

蒲池明弘氏によると、宇佐八幡宮東大寺の協力表明をしたのは銅の素材提供、鋳造技術支援といわれているそうですが、八幡神の神輿が到着したのは大仏の鋳造が終わった直後でした。むしろアマルガム鍍金が始まるのに合わせて、朱や鍍金の技術提供のためにやってきたのではないかと。確かに二月堂の閼伽井から香水を汲む儀式には、手向山八幡宮の神主が参加しますし、若狭でも下根来八幡宮からお水送りの神事が始まります。修二会の中核の儀式に八幡宮が関わっていますね。それでもなぜ遠敷明神だけが特別扱いとなっているのかはわかりません。

続日本紀には初めて朱砂、水銀について記録されていますが、698年(文武天皇)に伊勢、常陸備前、伊予、日向国から朱砂を献上。713年(元正天皇)には伊勢国から水銀が献上されたとあります。すでに朱の採掘は大和から伊勢の丹生鉱山へと移行しているようです。これ以後平安から室町にかけては伊勢が最大の採掘地となります。そんな中、遠敷明神が取り上げられたのは、お水取りを始めた実忠と関係があるのでしょうか。出自や経歴がわからないとされる実忠ですが、神宮寺に滞在していたことがあると伝わっているそうです。

それとも水銀や十一面観音の始まりに関わっていると思われる先代の元正天皇? 即位前後に若狭へ勢力を伸ばし、その後白山で泰澄が初めて十一面観音を感得すると、間もなく美濃の養老で若返りの水を知って改元。続く長谷寺の徳道上人による十一面観音造立にも関わっています。

 

f:id:sorafull:20200426102421j:plain

八幡神の神輿が到着した転害門。毎年10月にここで転害会が行われる。 

 

さて、最初のお水取りは752年2月に行われ、鍍金作業は3月14日から始まりました。4月9日に大仏開眼法要会が行われ、その時にはまだ未完成だったので黄金の大仏ではありませんでした。聖武上皇が病床にあり、時期を早めたのではないかとも言われています。

蒲池氏は次のような説を紹介しています。火祭りとしてのお水取りは鍍金作業をシンボライズしたものだと。当時のやり方としては、金アマルガムを大仏に塗りつけた後、松明などの火をかざして水銀を気化させ除去していたと推定されているからです。「お水取り」とは、水銀と金アマルガムから水銀を取り除く作業ということになります。インド人ともいわれる実忠は、鍍金の技術に精通していたのかもしれません。

f:id:sorafull:20200422151827j:plain

 

※以前の記事で水分神とは水を分ける神ではなく、水銀朱から「水銀を分ける」水銀抽出技術のことであるという説を紹介しましたが、ここでもまた水銀を「水」とする表現がみられます。

鍍金作業では水銀の蒸気が出ますので、人体に被害が及びます。これによって死者が居住地のほうまで大量に出たという説もありますが、2013年に東京大学大気海洋研究所の行った当時の土壌分析の結果は、水銀は現代の環境基準より低い数値だったそうです。そもそも天然痘でたくさんの人が亡くなっているのに、大仏造立で甚大な被害が出れば本末転倒です。そこまでのことはなかったと思われますが、鍍金作業に関わった人たちには蒸気を吸ったことによる被害が出てもおかしくはありません。それまでの水銀精錬やアマルガム鍍金によって苦しむ人々がいることを知っていたからこそ、被害を抑えるために十一面観音に祈願したのでは。

世界を慈悲の光で遍く照らす黄金の大仏を誕生させたい。そのためには薬にも毒にもなる水銀の多面的な性質をうまくコントロールするほかありません。十一面観音が悪神から善神への変化を遂げ、また祟りの霊木から出現したように、水銀の毒性を祓い浄めてもらおうと十一面観音に懺悔する法要がお水取りであったと、そんな可能性もあるのかもしれません。

 

現代の感覚では水銀中毒を軽視することに違和感を覚えますが、今でさえ公害や薬害の問題は尽きません。日本では厳しく規制されているようにみえても、今後使用中止になる物質も出てくるでしょう。快適な生活を求める代償は、思わぬ形でやってきます。

 

縄文から弥生時代にかけて、私たちの祖先は朱の霊性を尊び、また暮らしに密着したものとして大切にしていました。けれどしだいに朱は権力の象徴と化し、やがて黄金を得るための水銀という価値ばかりが人の目をひくようになっていきました。

中世には水銀を原料とした伊勢おしろいが流行、戦時下には軍事用に水銀が必要とされましたが、近年水銀の有害性が強調されたために避けるべきものとなって、水銀さえも人々の記憶から消えていきました。

人間の必要に応じて姿を変える朱の魔力。この魔力に翻弄されないよう踏み留める役目も十一面観音は担っていたのかもしれません。

 

f:id:sorafull:20200513100344j:plain