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源流なび Sorafull

神在月の旅⑶ 粟嶋神社と美保神社~父娘を結ぶ海

 

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風土記の頃の中海と周辺

 

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江戸時代中頃の埋め立てによって粟島は陸続きとなりました。現在の山陰本線もかつては海の中ですね。弓ヶ浜という名前は「夜見島」から変化したのでしょうか。

 

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米子水鳥公園から粟島を見ています。とても小さな島です。だから粟島?

中海の周辺には国内で見られる野鳥の種類の4割余りが飛来するそうですよ。コハクチョウはここを寝ぐらにしているとか。野鳥観察にはもってこいの場所ですね。

それでは、粟嶋神社へ向かいます。

 

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 もともとは山が御神体神奈備山)だったので、神殿は麓にあったそうです。今は山頂に建っています。

 

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明治時代に造られた187段の階段です。標高36m。かなり傾斜が急で、手すりがなかったら怖くて振り返ることができません!

 

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 少名彦命が祀られています。個人名は八重波津身、記紀では事代主です。昭和11年再建の本殿は大社造りで、縦削ぎの千木が小さく見えています。

 

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 本殿裏手からの眺望です。中海がすぐそこに。

 

伯耆国風土記逸文

相見の郡。郡役所の西北方面に余戸の里がある。そこに粟嶋がある。少日子の命が粟をお蒔きになった時、粟の実が稔って穂が垂れていた。穂に乗ると弾き飛ばされて常世の国までお渡りになった。それでその島は粟嶋という名が付いたのである。

 

出雲王家の伝承による事代主の最期をまとめます。

美保の埼で釣りをしている事代主のもとに、ホヒの息子タケヒナドリ(日本書紀の稲背脛イナセハギ)が諸手船に乗ってやって来た。「薗の長浜で八千矛様(大国主)が行方不明になったので一緒に探してください」そう言って事代主を船に乗せた。数隻の船で王の海を西に進んだが、そのまま行方不明となった。事代主の遺体は粟島の洞窟で発見された。餓死だった。大国主の遺体は猪目洞窟(島根半島出雲市)で発見されたが、同じく餓死だった。大国主を誘い出したのはホヒだという。

 

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階段下の広場に、万葉集(355番、生石村主真人の歌)の石碑が建っています。大国主と事代主が岩屋におられたことを歌っています。この志都の岩屋というのは麓の西側にある洞穴のことです。

 

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小暗い山道を少し不安になりながらもしばらく歩いていくと、

 

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静の岩屋が現れます。柵の向こうの洞穴は狭くて奥が見えません。鳥居には八百姫と書かれています。神社の説明によると、昔、若い娘が知らずに人魚の肉を食べてしまった。それは不老不死になるという肉で、娘は何年経っても娘のまま。世を儚んだ娘は尼さんになってこの洞穴に入り、物を食べないで死を待った。命が尽きた時、800歳になっていたので、八百比丘尼びくにと呼んで長寿の守り神として祀った、とあります。先ほどの石碑の和歌が続けて記されています。意味が繫がりませんね。

調べてみると八百比丘尼の伝説は各地にあるようで、福井県小浜が発祥のようです。尼さんとなって全国各地を巡礼した末に故郷の小浜の洞穴で入定したということです。もしかするとこの静の岩屋にも訪れ、ご祈祷をされたことから話が残ったのでしょうか。事代主の真相を隠しながら、似た話を持ってきたのかもしれません。

 

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岩屋の前には水鳥公園が広がります。ここはかつて海だったのですね。

波の音しかない暗い洞窟の中を想像すると、胸がつまります。副王として、夫として、父として、どれほど無念だったでしょう。

 

美保神社では毎年4月に青柴垣あおふしがき神事が行われます。中世末に事代主の子孫である太田正清が、事代主のことを忘れないようにと、古事記に添って儀式化したそうです。

  古事記 タケミカヅチはイザサ(稲佐)の小浜で大国主に国譲りを突き付けますが、大国主は息子の事代主に聞いてみてほしいと答えます。そこでタケミカヅチは天の鳥船とともに美保の岬へ向かい事代主に尋ねました。すると事代主は「この国は天つ神の御子に奉りましょう」と父に言葉をかけ、乗っていた船を足で踏んでひっくり返し、青柴垣(聖域)に向かって逆手をひとつ打つと、自ら水中にお隠れになりました。

  青柴垣神事 1年間身を浄めた氏子代表の二人が当屋となり、神事の前日から断食をして神懸った状態になります。顔を白く化粧して事代主の神の化身となるのです。田楽踊りのササラ子が町中を「御解除おけどでござーい」と叫びながら事代主を探します。見つからないのでお葬式が出ることとなります。当屋は支えられながら、それぞれ青柴垣のある二隻の船に乗って港内を一周します。船では物悲しい神楽が演奏され、榊の囲いの中で秘儀が執り行われます。船が港に着くとアメノウズメやサルタ彦がお迎えに出て、当屋は神社に戻ってきます。死と再生の神事のようです。

 

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美保神社社殿 Wikipediaより 撮影Boss

さて、この美保神社というのは事代主の娘である美保須須美姫が父の霊を祀った場所なんです。母親であるヌナカワ姫は故郷の越の国に息子タケミナカタとともに帰ります。出雲族の半数の人たちが、秦族と共に住むことを拒んで故郷を後にしました。そんな中、事代主の娘は美保の関にひとり残ったのです。

美保須須美姫の住まいに市恵美須社が建てられ、事代主と美保津姫(ヌナカワ姫)が祀られました。全国に3385社あるえびす神社(事代主系)の総本社です。えびす神はもとは漁村で海幸の神として信仰されていたようですが、中世に七福神となって商売繁盛の神さまになり全国に広まりました。

(注)西宮神社は蛭子ひるこ系のえびす神社総本社です。蛭子はイザナミイザナギの最初の子で、不具だったために船で流されます。クナト王と幸姫命の子孫ということであれば事代主にも重なりますね。古事記で描かれる少名彦は海の向こうから船に乗ってやって来ます。

 

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別号二御前(事代主大神) Wikipediaより 撮影Boss

4世紀になって向家が市恵美須社の西側に美保神社を建てました。

向家は本殿に妻入りの屋根をあえてふたつ付けました(美保造り)。左手には事代主を、右手には美保須須美姫を美穂津姫の名前で祀ったのです。千木は左が出雲式の縦削ぎ、右が九州式の横削ぎです。これは物部の秋上家が王宮を神魂神社にして祭ってくれたことへの感謝の気持ちでした。また、出雲と九州系の人々が過去を越えて協力しようという表明でもあったそうです。

Sorafullは以前美保神社を訪れたことがあります。(その時の写真のデータが見つからず本当に残念です‥‥)出雲の歴史も何も知らない時期でしたが、いくつか回った神社の中でも特に心に残る場所でした。海辺の街も風情があって素敵でしたし、なにより海に向かう神殿が堂々としていて、風がとても心地よく流れる場所、そんな印象だったのです。

「出雲と蘇我王国」から引用します。

拝殿の柱列を見て、ギリシャパルテノン神殿を連想するのは、私だけではないであろう。この拝殿の側面はなんと開放的なことか。どこからでも人々が入れる。先住系の人でも、渡来系の人でも隔てなく受け入れている。これ以上に民族的に平等で、どこの人でも受け入れる形を示した神社建築は、日本では他にないであろう。

 

事代主の想いを娘が守り、そして子孫がそれを受け止め、さらに民族の悲しみを乗り越え本当の幸せへ向かうように未来へ指し示していく。出雲の人々の強さは、幸の神の大らかさ、精神的豊かさからきているのかもしれないなと思うのです。

幸の神は日本の最初の人格神ではありますが、絶対神ではなく祖先神の総称なので、イメージとしては愛する祖神おやがみ様という感じでしょうか。祖先たちに守られ、男女の聖なる結びによって子孫が繁栄することを祈る素朴な信仰です。ここに過去も現在も未来もひとつとなった心があります。

素朴ですが、生命を尊ぶという信仰はどの存在も大切にするということです。だから戦いは生まれません。生命を生み育てる女性を虐げることはありません。女尊男尊です。そして自他ともに大切なので人種や宗教の違いを超えることができます。

もちろん人だけでなくこの世のすべては神と同じように尊く、世界全体とともに生かされているという感謝が自然に育まれるのだろうと思います。根本にあるのは「私」を超えた全体の幸せを願うという大らかさです。これが縄文時代からこの国の人々が大切にしてきた信仰なのです。和の心の原点だと思いませんか。

 

最後にSorafullの希望的な推測を書きますね。

古代の地図が正確とはいえないでしょうが、もしかすると、もしかすると、美保須須美姫の住まいから遠く美保の海の彼方に粟島が見えていたのではないかと。父をひとりにはしない、そんな決意が伝わってくるような気がします。

事代主は父としては幸せだったのかもしれませんね。

 

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