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源流なび Sorafull

2019-01-01から1年間の記事一覧

船木氏⑶伊雑宮と伊射波神社、ふたりの女神

出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を見てみましょう。 斎木氏と勝氏の伝承が多少違います。斎木氏はサホ姫が太陽の女神を伊勢へ避難させたとし、勝氏は大和姫です。斎木氏の著書の中には大和姫としている記述もあるので、ここでは大和姫の伝承を紹介します。 …

船木氏⑵大和姫と岩戸開き

大和姫の御巡幸 日本書紀では崇神天皇の時、宮中にお祀りした天照大神の勢いを畏れ、宮中から大和の笠縫村へ遷し、娘の豊鋤入姫に祀らせたとあります。御神宝の八咫鏡ですね。その後垂仁天皇の娘、大和(倭)姫が受け継いで、天照大神の鎮座地を探しながら伊…

船木氏⑴朱砂と製鉄と

伊勢と淡路島を結ぶ「太陽の道」に関わっていると思われる、船木氏の足跡を辿ります。まずは文献に記されたところから。 古事記で船木氏と関連のあるところを取り上げると、 ①神武天皇の皇子、神八井耳命は伊勢の船木の直らの祖。とあり、多氏と同祖となる神…

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡

地名というのは先人からの貴重な遺産。どのような地形、性質だったのかだけでなく宗教、職種、誰が関わっていたのか等々、多くの情報を未来へ伝え得るものですが、一旦変更されるとそれらの情報とともにあっけなく失われてしまいます。 国内の地名残存率を見…

太陽の道⑵松帆神社、伊弉諾神宮

ところで淡路島の伊勢久留麻神社は、伊勢の斎宮跡と舟木石上神社を結ぶとされる太陽の道(北緯34度32分)から僅かにずれていて(北緯34度31分)、実際には久留麻神社の真北1㎞に位置する松帆神社が太陽の道にぴったりと重なるんです。 創建が1399年なので古…

太陽の道⑴伊勢久留麻神社とイザナギ大神の道

淡路島へ行ってきました。 前々から気になっていた五斗長垣内ごっさかいと遺跡と舟木遺跡を目指します。1~3世紀の鉄器工房が現れたというかなり興味深い場所です。 その前に、前回記事の伊勢久留麻神社が近かったので、先にそちらを回ってみました。 東向…

オオタタネコと美具久留御魂神社

中西・秋津遺跡 先日、弥生時代前期最大の水田跡が見つかったとの報道がありました。奈良県御所市の中西・秋津遺跡です。 2009年から調査が始まっていたようで、当初は古墳時代前期(4世紀前後)最大級の祭祀集落跡として発表されました。当時の中心地であ…

弥彦神社と伊夜比咩神社

今回は頂いたコメントの紹介をさせて頂きます。 御所市の「くじら」 第1次物部東征で物部軍が熊野からヤマトに向けて侵攻する際に、記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も描かれていますが、出雲伝承では戦いはなかったと言われます。 記紀は物部軍が勝…

大嘗祭の儀式から見えてくるもの

明日11月10日には、台風で延期となっていた天皇陛下ご即位のパレード「祝賀御列の儀」が行われます。お天気にも恵まれそうですね。 先日の即位礼正殿の儀では、皇居に架かる虹が大きな話題となりました。激しく降り続いていた雨も、天皇皇后両陛下がお姿を現…

宮地嶽古墳⑹翁の舞と山の能。そして磯良舞

宮地嶽古墳の埋葬者は誰なのか、6回に渡り探ってきましたが、そろそろ今回でひと区切りとしたいと思います。 宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)を祀っていて(埋葬者?)、それは安曇氏であるという情報があるようです。磐井の孫というのは年代から可能性あり…

宮地嶽古墳⑸筑紫神楽舞とサルタ彦の苦悩

サルタ彦大神の七変化 「サルタ」とはドラビダ語で「突き出たもの、出っ張り」という意味で、猿とは無関係です。サルタ彦は象神のガネーシャなので鼻高彦とも呼ばれますが、山岳仏教の中でそれが天狗に変わってしまいました。(ガネーシャの鼻は男性の象徴。…

宮地嶽古墳⑷英彦山とサルタ彦大神

英彦山の神々を見ていきましょう。 地図は南北を反転させています。 英彦山神宮の主祭神は天忍穂耳命アメノオシホミミです。天照大神の御子なので日の子の山、日子山と呼ばれています。(のちに彦山⇒英彦山) 天忍穂耳命は高木神の娘、栲幡千々姫タクハタチ…

宮地嶽古墳⑶朝闇の筑紫舞

筑紫舞についてはこちらの記事に書いています。 筑紫舞宗家の西山村光寿斉さんは、昭和11年に宮地嶽古墳内で筑紫舞の奉納に立ち会っておられます。立ち会うというよりも、ある儀式のようなものを経ることで、筑紫舞伝承者として最後の段階へと進んでいくこと…

宮地嶽古墳⑵磐井と大彦、鞍手の伝承

大彦についての過去記事です。 出雲伝承には九州の情報がそれほどありません。なので独自の伝承がとても多い九州に踏み込んでいくと、道標なしには翻弄されてしまいそうだな、というのが正直な印象です。まだまだ未知の情報がありますし、現段階はひとつの答…

宗像一族。そして宮地嶽古墳⑴

引き続き、N様より頂いたご質問に今回もチャレンジしてみたいと思います。 その前に、N様がご紹介下さった「海の民、宗像」という漫画がありまして、これは宗像市世界遺産登録推進室というところが編集しておられます。発行から2年後に見事登録されました!…

九州王朝説と出雲伝承

以前、N様より次のようなご質問を頂いておりました。 筑紫君一族と宗像一族、そして百済との繋がりはどうなっているのでしょうかと。磐井の乱の真相、継体天皇の没年における百済本記の真意、宮地嶽古墳の被葬者についても尋ねておられます。これらの質問は…

古代淡路島と平群王朝

皆さまから頂くコメントが、少しずつ手元に溜まり、何度も読み返しているうちに自分の中の情報やイメージと交錯し、思わぬ扉を開けることがあります。 今回はそのひとつを紹介させて頂きます。 T様は古代の淡路島の情報をよく教えて下さいます。その中で次の…

新刊「出雲王国とヤマト政権」と系図について

令和の時代がスタートしましたね。 上皇さまご夫妻のにこやかなお姿も少しだけ拝見でき、今も言葉に尽くせぬ感謝の想いが溢れます。 天皇皇后両陛下はこれまで以上に凛々しいご様子で、新たな時代の瑞々しさを感じずにはいられません。上皇さまご夫妻が繋い…

三種の神器~出雲伝承より

まもなく平成から令和へ、皇位継承の儀式「剣璽けんじ等承継の儀」が行われます。西欧風に言えばレガリアですね。まるでおとぎ話や映画のような厳かな儀式が2000年を超えて今に受け継がれている、そのことに深い神秘を感じてしまいます。 草薙剣くさなぎのつ…

夫婦像と祈り

天皇陛下の御退位が近づき、連日のように天皇皇后両陛下のご様子がテレビで報道されています。おふたりの寄り添うお姿を拝見するたびに、Sorafullの胸には道端に静かに佇む石造りの夫婦像が浮かびます。 上の写真は室町時代以降に信州や関東地方でたくさん作…

会稽東治の重み

会稽東治 ⇒ 東冶 三国志の各版本には、倭の位置を「その道里を計るに、当まさに会稽東治の東に在るべし」となっていますが、後漢書では「会稽東冶の東」と改定されています。その後の隋書、梁書は「会稽の東」、晋書は「会稽東冶の東」となっていて、三国志…

景初二年・ヒミコの決断

三国志の倭人伝には、邪馬壹国の女王が魏に初めて使者を送ったのは、景初二年と記されています。ところが後に景初三年の間違いとされ、今も一般的な見方となっているようです。 江戸時代以降、景初二年(238年)というのは魏と遼東の公孫淵が戦争中であるた…

東鯷人のゆくえ

漢の時代の歴史書である漢書と後漢書には、倭人と東鯷人について次のように書かれています。 漢書地理志、呉地「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」 漢書地理志、燕地「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す…

委面・異面・倭面土

前回の記事で、漢書の「楽浪海中倭人在り」に対して代々付けられた注を紹介しました。三国志の編者、陳寿の参照した漢書には、魏の如淳が付けた「墨の如く委面(入墨した顔)して、帯方東南万里に在り」という注が入っていたことになります。 陳寿は東夷伝序…

邪馬壹国から邪馬臺国へ⑵壹、委、倭

突然ですが、コンピューターは2進法の原理で成り立っていて、電気信号の on/off を1と0だけで使い分け、すべての情報を表現しているらしいです。詳しいことはわかりませんが、まるで陰陽の二元的世界の象徴みたいだなぁと思います。Yes/No、高/低、光/影…

邪馬壹国から邪馬臺国へ⑴

倭人の源流を探る中で、前回は古田武彦氏の書籍を参照しましたが、もうひとつ、非常に面白い古田説があります。 「三国志魏書の倭人伝に書かれているのは邪馬臺(台)国ではなく、邪馬壹国ヤマイコク、ヤマイッコクだ」 というものです。この説の存在は以前か…

倭人⑶東夷の舞

「昧まいは東夷の楽なり、任は南蛮の楽なり。東夷の楽を大廟に納め‥」《礼記、巻14》 倭人⑵でも紹介しましたが、周の第2代成王の補佐として王朝の基礎を築いたという周公が亡くなった時、成王が周公への恩とこれまでの功績を称え、天子を祀る礼式で代々祀り…

倭人⑵周王朝に鬯草を貢す

今回は倭人の居場所について考えてみたいと思います。 中国の史書で倭人について記した有名なものといえば、漢書地理志の「楽浪海中、倭人あり」でしょうか。もしくは前回紹介した三国志の「漢のとき朝貢するものあり」や後漢書に書かれている漢倭奴国王の金…

倭人⑴太伯の後と自称大夫

「SOMoSOMo」は、古代史を研究していた父のバトンを受け取る形で始まったと何度か書きましたが、今日は母の話を少し。 母は万葉集が好きで、故犬養孝氏(万葉学者)の万葉ハイキングへせっせと足を運んでいました。見向きもしなかった私に「あなたも中年にな…