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源流なび Sorafull

朱の国⒂失われた記憶と椿の花

 

 

朱のその後

日本の朱の文化については記紀で触れていないせいか、古代史の中でもほとんど取り上げてこられませんでした。記紀は8世紀初めに編纂されましたが、6~7世紀に最大の朱産地だった宇陀の朱の記憶がこの短期間で失われてしまうでしょうか。都はまだ大和にあります。あえて書かせなかったとしか思えません。理由は推測の域を出ませんが、中国史書に記録された邪馬台国のヒミコの存在を隠すために、朱にまつわること一切を封じてしまったのか、もしくは唐や新羅から国を守るために水銀の所在を隠す必要があったのかもしれません。

出雲伝承では古事記を書いたと伝わる柿本人麻呂が、宇陀で詠んだ歌があります。

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

軽皇子の遊猟に伴って、宇陀の阿騎野へ訪れた時の歌です。阿騎野は宮中行事の薬猟が行われていたところ。ほんの少し前までは日本一の朱産地でした。

「かぎろひ」とは冬の明け方に東の空が赤く染まり、太陽の光が射し始める様子です。

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軽皇子の父、草壁皇子は若くして亡くなりました。後継者争いで暗殺されたともいわれます。阿騎野は人麻呂にとって草壁皇子との思い出の地でもあります。傾く月に草壁皇子を、昇る朝日に軽皇子を重ねたようです。

この旅の中で数首詠まれていますが、人麻呂は「古いにしへ思ふ」と繰り返しています。阿騎野のかぎろひは、衰退してしまった朱産地と、皇子を失った寂寥の中に広がりつつあるのではないかと思えてきます。

※出雲伝承の斎木雲州氏によると、人麻呂が草壁皇子の挽歌を読んだ時、そこで持統天皇を初めて「天照らす日女の命」と呼び、その反歌として皇子を「夜渡る月の隠らく惜しも」と歌いました。この歌の影響で「日霊女貴ひるめむち」という太陽神が「天照らす大神」と呼ばれるようになったそうです。 

 

奈良時代の終わりには大和の水銀鉱床は枯渇し、朱砂採掘の中心地は伊勢(丹生水銀鉱山)へと移っていきました。

12世紀東大寺大仏殿が焼失し、再興された際の記録には「伊勢の国の住人の大中臣は、水銀二万両を以て法皇に貢したてまつる」とあります。水銀二万両は約700㎏。伊勢から大量の水銀が献上されています。

11世紀には日本から中国へ水銀を輸出していたことが、いくつかの記録に残されていますが、鎌倉から室町時代にかけて水銀生産は衰退し、江戸時代にはほぼゼロとなっていきました。朱座(朱を扱う商人の座)もありましたが、すべて中国産の輸入水銀から作られたものだったようです。国産の朱が枯渇するとともに、朱の文化は人々の記憶からも失われていったのでしょう。

江戸時代に人気があった「伊勢おしろい」は、室町時代から伊勢の射和いざわ(丹生村の隣村)で製造されました。水銀を塩とともに焼いて得られる白色の粉末です。ただし江戸時代には水銀は中国産になっていたようです。のちにシラミ取りや駆梅剤(梅毒の薬)としても用いられました。明治になると毒性が指摘され、姿を消してしまいます。

伊勢商人とはこの水銀を扱った丹生、射和の商人をいい、江戸時代に活躍。その代表が三井財閥となる三井家です。昔から朱は長者伝説と関連がありますね。

明治の文明開化をきっかけに新たな鉱山技術が取り入れられ、再開発が始まります。北海道において次々と朱の鉱床が発見され、昭和に入って見つかったイトムカ鉱山は日本最大の産出量を誇ります。その後、三重、奈良、和歌山、大分などの水銀鉱山が復活しました。

第二次大戦では水銀は軍艦の塗装や火薬の起爆剤などに使われ、それ以降薬品以外では蛍光灯、電池、体温計や血圧計、虫歯治療のアマルガムなど日常的に使用されました。ところが水俣病によって水銀の毒性が注目を集めたため、代替品を使う方向に変わっていき、目にすることもなくなってしまいました。

 

椿の記憶

「朱の国」も今回で最終回となりますが、最後に気になっていたことを書いてみたいと思います。

朱を辿っていると、何度も「椿」「海石榴ツバキ」の名が現れました。海石榴、海榴の漢字表記は7世紀隋の煬帝の詩にみられるそうです。遣隋使が献上したツバキを見て、海の向こうの石榴ザクロと名付けたという説も。ツバキとザクロは似ていますので。

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ザクロの花

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ヤブツバキの実

733年の出雲国風土記には「海榴を椿とも書く」と記されています。中国には「大椿ダイチン」という古い伝説の大木があり、人の8000年が春で、木の1年は32000年になるということから、長寿を祝って用いる言葉だそうです。

さて、出雲伝承で重要な社のひとつに、サルタ彦大神を祀る椿大神社があります。出雲族伊勢津彦)が伊勢に移住してそこに幸の神を遷したと伝わります。社家は宇治土公家で始祖が大田命(登美家分家)。豊来入姫を保護して建てたという椿岸神社も隣に鎮座。

初めは素敵な名前だなと思っていたのですが、三輪山の麓で交易拠点として海石榴市ツバイチ、ツバキチが栄えていたこと、そして豊後国風土記に記された大野の郡にも海石榴市があり、景行天皇が海石榴の木を武器にして土蜘蛛を征伐し血田と名付けた場所、かつ朱産地であったことなどから、ツバキと朱が関連があるのではないかと思い始めました。

椿大神社は水銀鉱床のそばにあり、奥宮は入道ヶ岳の頂上に鎮座。「入」の字が気になりますね。丹生⇒入。社伝では垂仁天皇の娘の大和姫の御神託によって「道別大神の社」として社殿が奉斎され、仁徳天皇の夢により「椿」の名がついたとのこと。

三輪山の麓に栄えた海石榴市桜井市金屋)には、今も観音堂が建っていて、長谷寺式の十一面観音の石仏が祀られています。古代、椿の林があったとも。

万葉集には三輪山の頂に椿の花が一面に咲いている様子が歌われ、神の籠る山に咲く花であり、霊木、聖なる木であったことがわかります。昔話には神意の示される木、霊魂の宿る木として描かれています。

また、不老長寿の伝説で有名な、800年生きたという八百比丘尼やおびくにについては何度か紹介していますが、全国各地に非常に多くの伝承が残っています。(出雲の事代主が亡くなったと伝わる洞窟前にも、八百比丘尼が祀られています。)

大筋としては、人魚の肉を食べた少女が年をとらず、出家して比丘尼となって全国を巡り、椿や松の木を植えていきます。やがて若狭で入定し、場所は小浜の空印寺であることが多いです。空印寺の比丘尼の石像は椿の花を手にしています。地元小浜では隣の勢村の高橋長者の娘と伝わっています。小浜といえば遠敷のすぐ隣です。朱の長者だったのかも。

柳田国男比丘尼の生誕を7世紀後半から8世紀初めとしており、水銀による鍍金が盛んに行われていった時期に重なりますね。八百比丘尼のお墓は、若狭彦神社で紹介した「鵜の瀬」にある白石神社近くにあり、椿の群生林もあるようです。

その鵜の瀬と水路で繋がるとされる東大寺二月堂のお水送りでは、十一面観音に椿の造り花を奉げます。本行の前に練行衆が別火坊で手作りします。(和紙は50年前から染色家の吉岡幸雄氏の工房で用意され、古代から続くベニバナと烏梅の染色法によって鮮やかな色に染められています)

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全国で椿の名がついた地名を探したところ、八百比丘尼伝承の残る地域のすぐそばであったり、水銀鉱山の近くや朱産地を思わせる地名(丹生、仁、赤、塩、入、碇、水金、白銀)と離れていないことが多いとわかりました。海辺や川に近いことも共通しています。(運搬のためか)

他にも出雲の賀茂家の当主である建津乃身の墓と伝わる椿井大塚山古墳京都府木津川市から、甕に入った10㎏の水銀朱が出土しています。

 

気になるところをつらつらと並べてみました。

朱は失われてしまっても、「椿」の中にその残り香が潜んでいるような、不思議な縁を感じています。

 

「朱の国」は思っていた以上に長編となりましたが、お付き合い下さった皆さま、ありがとうございました。

 

 

【追記】古代インドのワクチン

「みずかねの魔力」の記事で古代南インドのシッダ医学を紹介しました。アーユルヴェーダホメオパシーの起源といわれています。

熊本大学の免疫学講座のサイトで、アーユルヴェーダに書かれた古代の天然痘ワクチンについての記事を見つけましたので紹介します。

 

天然痘の始まりは3000年前のインドではないかといわれています。紀元前に書かれた古代インドの聖典であるアーユルヴェーダには、現代では「人痘」と呼ばれるワクチン法が記されています。

※ジェンナーの始めた「牛痘」は牛が罹る痘瘡(弱毒)から膿を取って人に摂取し、免疫を付ける方法です。

①前年の天然痘患者の膿を糸につけて1年乾燥させたものを用意しておく。

②摂取する場所(腕)を布でこすり、さらに針で撫でるようにして傷をつける。

③糸にガンジス川の水を湿らせ摂取部位につけ、包帯で固定し6時間置く。

これで終わりです。1年間膿を乾燥させるのは現代でいう不活化ワクチンで、ジェンナーのワクチンは生ワクチンです。不活化すると生ワクチンよりも効果は低いですが安全だそうです。

この人痘は中国でもやり方は違いますが1000年ほど前から行われ、日本に伝わったのは1744年。ジェンナーの牛痘は1796年に始まりました。実はジェンナーも子供の頃に人痘を受けていたそうですよ。

おそらく古代インドで始まった人痘が細々ながらも時間をかけて世界に広がり、そのアイデアから牛痘が生まれ、天然痘撲滅の時代を迎えることができたと思われます。実に3000年もの歳月を要したのです。

現代は進歩し続けるテクノロジーによってワクチン開発も短期間で可能となりました。2014年のエボラ出血熱の際にはウイルスのサンプル採取から遺伝情報のデータ公開までに1年かかっていたのが、新型コロナウイルスの遺伝情報はWHOへの報告から10日あまりで公表されています。この数年の間にも目覚ましい進歩がみられます。

今回、早ければ2年以内にワクチン接種が始まるといわれています。もちろん世界が情報を共有すれば、より安全で効果の高いものが得られるはず。すでに世界の大手製薬会社や大学、研究機関が垣根を越えての共同開発を始めており、100種類以上のワクチンが現れているそうです。日本の研究機関の中には、注射を使うことが難しい発展途上国でもワクチン接種が行えるようにと、点鼻薬での開発を進めているところもあるそうです。

人類のオープンで誠実な協力体制によって築いていく未来を、心から願っています。

 

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朱の国⒁遠敷明神とお水送り

 

 

福井県小浜市に鎮座する若狭国一宮、若狭彦神社は上下2社からなり、上社を若狭彦神社(小浜市龍前)、下社を若狭姫神社(小浜市遠敷)といいます。祭神はそれぞれ彦火火出見尊豊玉姫命。両宮を合せて遠敷おにゅう大明神とも呼ばれます。

ホホデミ尊は徐福が市杵島姫との間に九州でもうけた皇子。物部氏の祖。(出雲伝承)

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若狭彦神社 Wikipediaより

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若狭姫神社 Wikipediaより

社伝によると二神は遠敷郡下根来白石の里に現れ、その姿は唐人のようであったといいます。縁起では和銅7年9月(714)、白石の里に若狭彦神社を創建。翌霊亀元年9月(715)に現在の若狭彦神社に遷座。跡地は白石神社に。養老5年(721)には若狭姫神社を創建して豊玉姫分祀ししました。霊亀元年9月に元正天皇が即位しています。)

現在の祭事はほとんど下社の若狭姫神社で行われているそうです。しかも地名と同じ遠敷神社と呼ばれています。力関係がみえるような。

 

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出雲伝承では第2次物部東征の際、物部朝倉彦の軍勢が稲葉国、但馬国を経て東進。その中の一派は若狭の国を征服して、その地の豪族になったといいます。子孫が後世に一族の神社を建て、それが若狭彦神社であると。白石の里でしょうか。

社伝のいう唐人のような姿というのは、親魏和王ヒミコ(豊玉姫)を総将軍とする物部勢が、その装束も大陸の影響を受けていたからかもしれません。

松田壽男氏は若狭姫は若狭彦の妻神ではなく、大和朝廷の勢力がやってくる前から祀られていた神を変化させたとものとみています。最古期の遠敷明神とは遠敷郷を形成した氏族の女神であったと。立地からみても若狭姫神社はこの谷を支配するにふさわしい場所です。

遠敷は古くは小丹布と記したことや、平安時代東大寺要録には遠敷明神は小入明神とあることなどから、地名2字表記の際に遠敷へと変化したものであり、地質調査からも水銀を含有しかつての朱砂産地だったと考えられます。松田氏のいうように小丹生氏が丹生氏の一派であれば、遠敷明神とはニウツ姫す。

そこへ物部勢がやって来て遠敷川上流に祖神、彦火火出見尊を祀り、その後元正天皇の御代に若狭彦として大和政権の配下となります。より古くから祀られていた遠敷明神(ニウツ姫)を若狭姫と変えて、夫婦神のように祀ったことになります。養老4年(720)に成立した日本書紀によると、ホホデミの妻は竜宮の豊玉姫。若狭姫神社への分祀は翌年のことです。筋は通ります。

 

北川を挟んで対岸に丹生神社があり、松田氏は丹生氏と小丹生氏が対面して共存していた例とみています。丹生神社の祭神も彦火火出見尊となっていますが、これも大和政権によるニウツ姫からの変化でしょう。

 

お水送り

若狭彦神社から遠敷川を遡ったところに神宮寺があります。若狭彦神社の神願寺として元正天皇の勅願和銅7年(714)、泰澄(白山の開祖)の弟子によって創建されたと伝わっています。本尊は十一面観音でしたが地震で壊れ修理に出したところ、なんと千手観音になって戻ってきたそうです。

神宮寺では毎年3月2日に「お水送り」が行われます。送る先は東大寺二月堂の閼伽井。

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神宮寺の閼伽井屋 Wikipediaより

朝、川上にある下根来八幡宮から始まります。清めのお祓いのほか、赤土をお神酒で練り丸めたものを舐めるそうです。下根来では参列者にもこれとそっくりな赤い栃餅が配られます。すでに朱の気配が。

夕方、神宮寺に白装束の僧と山伏たちがホラ貝を吹きながら集まってきます。修二会は十一面観音(秘仏のため厨子)の前で行われます。大松明を振りまわす達蛇だったんの行もありますが、これは近年になってからとのこと。境内で大きな護摩焚きが行われたあと、閼伽井屋で汲んだ香水をもって2㎞川上の鵜の瀬の河原へと移動。参列者も手松明をもって後に続きます。火の大行列です。

二月堂閼伽井の水源となる鵜の瀬でも護摩焚きをし、やがて松明の火の海の中、神宮寺住職が送水文を読み上げ、香水を遠敷川へと流します。

やはりこちらも火祭りでしたね。

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遠敷川・鵜の瀬 Wikipediaより

 

水の正体

東大寺二月堂には3つの鎮守社があって、遠敷社、興成社、飯道社。この興成社というのは閼伽井のもととなった、岩を穿って飛び出た2羽の鵜を祀っています。社の説明によると、平安時代には「能く不死薬を取りて人に与え食わせしめ、長生の齢を保たしむ」という誓願を持つ菩薩として信仰されていた、とあります。水銀っぽいですね。2羽の鵜は丹生を意味するという説もあるらしいですよ。

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二月堂とお社 Wikipediaより この興成社のすぐ下に閼伽井屋があります

話が見えてきたと思いますが、遠敷明神から送られてきたのは朱砂、水銀だったのではないか、という推測ができそうなのです。大仏の鍍金には水銀が2t以上必要だったともいわれます。大和の朱砂は底を尽きかけていた時期であり、遠敷明神を始め各地から集めたと考えると、東大寺宇佐八幡宮が初めて分社した田向山八幡宮が鎮座していることもそこに理由があるのかもしれません。

蒲池明弘氏によると、宇佐八幡宮東大寺の協力表明をしたのは銅の素材提供、鋳造技術支援といわれているそうですが、八幡神の神輿が到着したのは大仏の鋳造が終わった直後でした。むしろアマルガム鍍金が始まるのに合わせて、朱や鍍金の技術提供のためにやってきたのではないかと。確かに二月堂の閼伽井から香水を汲む儀式には、手向山八幡宮の神主が参加しますし、若狭でも下根来八幡宮からお水送りの神事が始まります。修二会の中核の儀式に八幡宮が関わっていますね。それでもなぜ遠敷明神だけが特別扱いとなっているのかはわかりません。

続日本紀には初めて朱砂、水銀について記録されていますが、698年(文武天皇)に伊勢、常陸備前、伊予、日向国から朱砂を献上。713年(元正天皇)には伊勢国から水銀が献上されたとあります。すでに朱の採掘は大和から伊勢の丹生鉱山へと移行しているようです。これ以後平安から室町にかけては伊勢が最大の採掘地となります。そんな中、遠敷明神が取り上げられたのは、お水取りを始めた実忠と関係があるのでしょうか。出自や経歴がわからないとされる実忠ですが、神宮寺に滞在していたことがあると伝わっているそうです。

それとも水銀や十一面観音の始まりに関わっていると思われる先代の元正天皇? 即位前後に若狭へ勢力を伸ばし、その後白山で泰澄が初めて十一面観音を感得すると、間もなく美濃の養老で若返りの水を知って改元。続く長谷寺の徳道上人による十一面観音造立にも関わっています。

 

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八幡神の神輿が到着した転害門。毎年10月にここで転害会が行われる。 

 

さて、最初のお水取りは752年2月に行われ、鍍金作業は3月14日から始まりました。4月9日に大仏開眼法要会が行われ、その時にはまだ未完成だったので黄金の大仏ではありませんでした。聖武上皇が病床にあり、時期を早めたのではないかとも言われています。

蒲池氏は次のような説を紹介しています。火祭りとしてのお水取りは鍍金作業をシンボライズしたものだと。当時のやり方としては、金アマルガムを大仏に塗りつけた後、松明などの火をかざして水銀を気化させ除去していたと推定されているからです。「お水取り」とは、水銀と金アマルガムから水銀を取り除く作業ということになります。インド人ともいわれる実忠は、鍍金の技術に精通していたのかもしれません。

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※以前の記事で水分神とは水を分ける神ではなく、水銀朱から「水銀を分ける」水銀抽出技術のことであるという説を紹介しましたが、ここでもまた水銀を「水」とする表現がみられます。

鍍金作業では水銀の蒸気が出ますので、人体に被害が及びます。これによって死者が居住地のほうまで大量に出たという説もありますが、2013年に東京大学大気海洋研究所の行った当時の土壌分析の結果は、水銀は現代の環境基準より低い数値だったそうです。そもそも天然痘でたくさんの人が亡くなっているのに、大仏造立で甚大な被害が出れば本末転倒です。そこまでのことはなかったと思われますが、鍍金作業に関わった人たちには蒸気を吸ったことによる被害が出てもおかしくはありません。それまでの水銀精錬やアマルガム鍍金によって苦しむ人々がいることを知っていたからこそ、被害を抑えるために十一面観音に祈願したのでは。

世界を慈悲の光で遍く照らす黄金の大仏を誕生させたい。そのためには薬にも毒にもなる水銀の多面的な性質をうまくコントロールするほかありません。十一面観音が悪神から善神への変化を遂げ、また祟りの霊木から出現したように、水銀の毒性を祓い浄めてもらおうと十一面観音に懺悔する法要がお水取りであったと、そんな可能性もあるのかもしれません。

 

現代の感覚では水銀中毒を軽視することに違和感を覚えますが、今でさえ公害や薬害の問題は尽きません。日本では厳しく規制されているようにみえても、今後使用中止になる物質も出てくるでしょう。快適な生活を求める代償は、思わぬ形でやってきます。

 

縄文から弥生時代にかけて、私たちの祖先は朱の霊性を尊び、また暮らしに密着したものとして大切にしていました。けれどしだいに朱は権力の象徴と化し、やがて黄金を得るための水銀という価値ばかりが人の目をひくようになっていきました。

中世には水銀を原料とした伊勢おしろいが流行、戦時下には軍事用に水銀が必要とされましたが、近年水銀の有害性が強調されたために避けるべきものとなって、水銀さえも人々の記憶から消えていきました。

人間の必要に応じて姿を変える朱の魔力。この魔力に翻弄されないよう踏み留める役目も十一面観音は担っていたのかもしれません。

 

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朱の国⒀聖武天皇とお水取り

 

 

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修二会の大松明 Wikipediaより

十一面観音を本尊とする東大寺の二月堂。毎年3月にお水取り(修二会しゅにえ)が行われます。十一面観音に自分たちの罪を懺悔し悔い改め、世界が平和になるよう祈る法要です。十一面悔過けかともいわれます。

お水取りの話に進む前に、東大寺を建立した聖武天皇について少し。

 

聖武天皇の御代(724~749年)は干ばつや飢饉、地震が続き、さらには天然痘が大流行して国民の3割にあたる100万人が亡くなったといわれています。

天然痘は日本では6世紀後半から流行がみられ、敏達天皇はおそらく罹患して崩御されたようです。同じ時期に蘇我馬子物部守屋も患ったと日本書紀は伝えています。その少し前、百済から仏教が伝来し、物部や中臣の神道を重んじる廃仏派と、蘇我の崇仏派の争いが起こりました。疫病流行は外来の宗教を受け入れたせいとして仏像を廃棄したり、それでも流行が収まらないと仏像を廃棄したせいだとなって、寺を建てる始末。用明天皇がようやく仏教採用を決めました。日本書紀では用明天皇天然痘崩御されたとありますが、出雲伝承では廃仏派によって殺されたとのこと。外来の宗教を取り入れるとはまさに命懸けです。

さて、聖武天皇用明天皇から14代のちの即位となります。父、文武天皇を幼くして亡くし、母(不比等の娘)は心を病んで長年会うこともなく育ちます。24歳で叔母の元正天皇から譲位され即位。政権を握っていた長屋王不比等の息子、藤原四兄弟の対立が続き長屋王は自害しますが、737年からの天然痘の大流行によって藤原四兄弟や政府高官たちも相次いで亡くなりました。

当時は天皇の徳がないと災いが続くといわれ、聖武天皇はそれを払拭しようと仏教に深く帰依し、国の安定を図ります。741年に全国に国分寺建立、743年には東大寺廬舎那仏造立の詔を発しました。

また災いから逃れるように遷都を繰り返しましたが反発も大きく、結局平城京に戻ってくることとなります。(平城京恭仁京難波京⇒紫香楽京⇒平城京

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東大寺廬舎那仏像 Wikipediaより

東大寺の大仏が完成したのは、娘の孝謙天皇に譲位してから3年後。鋳造による大仏としては今でも世界最大です。造立に関わった人数は延べ260万人、建造費は現代に換算すると4500億円を上回ると推定されています。752年に開かれた大仏開眼供養会は全国から1万数千人が集まり、海外からも楽人や舞人を招いての舞楽法要と、かつてない盛大な儀式となりました。

まもなく聖武上皇が亡くなると、この儀式で使われたものや上皇が身近に置いていた宝物を大仏に奉納し、正倉院宝物として封印されました。最近になって宝物を科学調査したところ、これまでシルクロードからの渡来品や中国のものがほとんどといわれていた宝物の実に9割以上が国産であったことが判明したのです。

内匠寮を置いて様々な職人のプロ集団を雇い、渡来品を真似て一流の工芸品を生み出すことに力を注いだと考えられます。ものづくり日本の始まりです。聖武天皇は唐の皇帝のような衣服を纏っていたようで、白村江の敗戦から唐に倣って権威を高めようとしたのでしょう。

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写真は先日亡くなられた染色家の吉岡幸雄氏が、正倉院宝物などの資料からできるだけ忠実に再現した伎楽の衣装です。鮮やかな彩りですがすべて草木染。大仏開眼供養会の東大寺伎楽を再現するプロジェクトで披露された衣装と面です。NHKBS放送「失われた色を求めて」よりお借りしました。

国に災害や疫病が次々と襲い掛かった時、仏教国として国家をまとめるだけでなく、常識を遥かに超えた金色の巨大廬舎那仏を造立したり、大イベントをきっかけに美術工芸や舞楽といった芸術面も飛躍的に発展させて国力を上げようとしたのでしょう。聖武天皇が大仏造立で発した詔には、「国民のみなが心をひとつにして協力すれば叶う」といった強い呼びかけがありました。「一本の草、一握りの土」でも造立を助けようという気持ちを求め、また役人は人民から無理やり取り立ててはいけないとも。かなり熱いリーダーだったような。

時代が下りますが、14世紀にヨーロッパでペストが大流行した後、被害が最大だったイタリアからルネサンスが湧きおこりました。中世から近代へ、大きな飛躍を遂げていきます。

破壊は進化への原動力にもなり得ることを教えられます。

 

修二会・お水取り・十一面悔過

さて、大仏開眼供養会の3ヶ月ほど前に、初めてのお水取りが行われました。お水取りを始めたのは実忠といわれ、東大寺の初代別当である良弁の一番弟子です。インド人という説も。

実忠が笠置山の龍穴で天人たちの行法を目にし、それを人の世界に持ち帰りたいと思ったことに始まります。(室生寺も龍穴でしたね)

その行法とは十一面観音への懺悔でした。二月堂の本尊は大観音と小観音(実忠が勧請した)の二体で、絶対秘仏のため誰も目にすることはできません。

お水取りは3月1日から14日間かけて行われます。法要には練行衆と呼ばれる「11名」の僧が選ばれ、本業の前の前業として別火坊にこもります。お水取りはその名とは違ってまるで火祭り。この別火坊では俗世間で使っている火から離れ、新しい火を火打石で作って生活し心身を浄めるそうです。古代出雲には神饌を作るために新たな火を作る火切り神事がありました。別火坊ではさらに「中臣の祓え」もあったりと神道の混在が明らかです。

3月1日になると火打石で最初の火を灯し、修二会が始まります。

私はドキュメンタリー映像でしか見たことはありませんので、実際に立ち合うのとは違うでしょうが、その印象は炎と音で巧みに演出された舞台芸術です。

蝋燭の灯をともした仄暗いお堂の中を、僧侶たちは「さしかけ」という木の沓くつを履いて駆け回り、床を踏み鳴らします。バリトンの声明しょうみょう(経文に節をつけたもの)に合わせて、沓音がセッションするかのようにリズムを刻んでいきます。鐘が荘厳な音色を響かせ、時にホラ貝の重奏が広がります。鈴の音も数珠をこすり合わせる音も絶妙なタイミングで合わさって、まさに和製オーケストラ。

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修二会の大松明 Wikipediaより

二月堂の表の舞台では、暗闇に燃え上がる松明たいまつの炎から火粉が爆ぜ、人々の喚声が繰り返し波のように起こります。修二会の終盤、お水取りの行われる12日にはこの松明もひときわ大きくなり、重さは70㎏に。11本同時に振る場面も。そしてお堂の中では燃え盛る大松明を持った火天と水天の激しい炎舞が繰り広げられます(達蛇だったんの行法)。迷いなくすべてを焼き尽くすようなその勢いに、日常のもやもやなど吹っ飛んでしまいそうです。

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東宝天平萌ゆ」の映像より 炎が白く映ってしまいました。

 

いにしえの火祭りといえば古代出雲ですが、火を巧みに使う姿は山岳信仰から修験道の流れを思わせます役行者の始めた三宝荒神は火の神)。十一面観音信仰がそれらと密接に関わっていることと繋がっているのでしょう。実忠が修業していた笠置山は鉱山かつ修験道の地でもありました。

この炎と音の饗宴は最初からすべて考え抜かれた演出なのか、それとも長い歴史の中で練り上げられていったのでしょうか。752年に始まって以来、一度も途絶えることなく続いてきた修二会は、東大寺ある限り続く「不退の行法」と呼ばれ、関わる人々の並々ならぬ気迫を感じます。

 

演出の説明ばかりに力が入ってしまいましたが、もうひとつの大事な法要、「お水取り」を忘れてはいけませんね。

修二会には全国の神々(1万数千とのことですが実際には600ほどの名が挙げられるそう)が招待されます。見事な神仏習合です。ところが初めての修二会の際に若狭の遠敷明神が釣りをしていて遅刻したため、そのお詫びとして十一面観音に閼伽水(香水、聖なる水)を献上することを約束します。すると2羽の鵜が岩を穿って飛び立ち、そこに霊泉が湧きました。これが二月堂そばの閼伽井あかい(若狭井)です。12日の深夜にこの閼伽井から香水を汲み、観音にお供えすることから「お水取り」と呼ばれるようになりました。そして若狭福井県小浜市の神宮寺)では毎年3月2日に「お水送り」が行われています。つまり若狭から二月堂の閼伽井へと水脈が繋がっていて、10日かけて届くというわけです。

全国1万数千という神々の中から、なぜ遠敷明神だけが「遅刻する」などというハプニングを起こしてこのように取り上げられ、1300年もの間途切れることなく続けてきたのか、不思議ですよね。そして「水」が主題のはずなのになぜか火祭り‥‥。

 

次回は若狭の遠敷明神について。

 

 

 

朱の国⑿十一面観音④室生寺

 

  

室生寺と龍穴

以前の記事「日本列島の誕生」で紹介しましたが、1400万年前に紀伊半島で起こった巨大噴火によって、火砕流が半島北部に流れ堆積したと推測され、特に最大の痕跡地が宇陀を中心とした東西28㎞、南北15㎞に広がる地域となります(室生火砕流堆積物)

愛知教育大学の星博幸氏らによると、この堆積物の流走方向の調査(帯磁率異方性の測定)の結果、火山は室生の南方(熊野)に位置していたと示唆されるとのこと。(JpGU-AGU JointMeeting2017より)

やはり西日本がフィリピン海プレートと衝突して起こった巨大カルデラ噴火によるようです。

 

室生の大野寺宇陀川沿いに建ち、役行者の開基といわれています。対岸の岸壁には13世紀に彫られた高さ14mの磨崖仏が。

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弥勒磨崖仏 Wikipediaより

 

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宇陀川の支流、室生川を遡ると室生山に至り、そこに室生寺が鎮座しています。

室生寺真言宗の寺院で別名、女人高野と言われますが、これは江戸時代になってからのこと。始まりは室生山の霊力の源と呼ばれる吉祥龍穴にあります。

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山奥にあるご神体の大きな龍穴。今は龍穴神社の奥宮となっています。

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巨大な岩盤の上を室生山の清水が流れていきます。

奈良時代末、桓武天皇が即位前に病に伏した時、ここで祈祷を行うと見事回復。この霊山の力を借りて国を守ろうと建てたのが室生寺です。当時絶大な権力をもっていた興福寺に建立を託しました。

間もなく最澄空海によって日本で密教が始まりました。すると霊山として名高い室生山に修行僧が集まるようになり、しだいに奈良仏教の興福寺と新興の密教の勢力争いが始まります。天台宗が建てた室生寺金堂には国宝の木彫りの仏像がひしめいていますが、実はこれら新旧勢力が祀り方を争った跡が残されているといいます。

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室生寺の金堂須弥壇 左端が十一面観音立像

本尊は中央の大きな釈迦如来像ですが、なんと本来は薬師如来像だったのです。前に並ぶ小ぶりの十二神将如来の光背、堂内の図柄が薬師如来のものであり、もとは薬師堂と呼ばれていたそうです。そして写真では後ろに四体しか見えませんが、右端にもう一体祀られています。ところが最初は三体であったようだと。天台宗の祀り方は中央に薬師如来、左手に十一面観音、右手に地蔵菩薩

(モノクロなのでわかりませんが、薬師如来の衣は朱色、十一面観音は全体が緑や朱色で鮮やかに彩られています。)

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十一面観音立像。カラー版は室生寺のホームページに。

これを後から興福寺勢力が自分たちの祀り方に変更。本尊を釈迦如来に変えて、文殊菩薩薬師如来を加えました。だからぎゅうぎゅう詰めなのですね。

このような争いをするほどに密教が室生を求めてやってきたのは、もしかすると水銀が目的だったのではないかという気がしないでもありません。

龍穴に住むと伝わる龍神は雨を掌り、現在の龍穴神社の祭神は高龗神。ですがこれは神様の変更があったとして、そもそも桓武天皇の平癒祈願に雨乞は無関係でしょう。菟田野(阿騎野)では飛鳥時代に宮廷行事として薬猟くすりがりが行われており、水銀の採れる場所の水や植物には特別な力(神仙の力)があると信じられていたようです。(現代でも武田、ツムラ、ロートなど製薬会社創業者を多く輩出した土地柄。)

室生の龍穴にはそういった霊力を頼みにしたのではないでしょうか。なので水銀と縁の深い密教では金堂に薬師如来を本尊として、十一面観音を祀ったと想像します。

 

また、「ムロ」とは古代では竪穴式住居や掘って作った室屋などを指しますので、これを朱の坑道とみることも可能かもしれません。

 

最後に大和盆地をざっくり見てみたいと思います。

 

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注)川は強調するため太くしています。
 

白洲氏が辿った十一面観音を祀るお寺を拾いあげてみました。(観音像は博物館に移されたものもあります)

まず富雄川。地図にはありませんが北に遡ると河内と大和の境に龍王山があり、そこが富雄川の水源です。龍王山は大阪側では交野山と呼ばれ、頂上には大きな磐座が祀られています。十一面観音は山岳信仰から峰伝いに平野へ降りてきたものだろうと白洲氏はいわれます。

交野といえばニギハヤヒが天から船で降りたという磐船神社がありますね。出雲伝承では第2次物部東征で物部イクメ垂仁天皇の軍勢が、生駒山から磐船神社付近にかけて陣取り、大和の軍勢と長く対峙したと伝わっています。それより100年ほど前の第1次物部東征では、熊野に上陸した物部軍を登美家分家の太田タネヒコ大田田根子八咫烏として敵軍を大和へと誘導しました。本家登美家は北方へ逃げ、一部は生駒山麓で防備を固め、登美ヶ丘の地名が残ったそうです。富雄川はもとは「登美の小河」と呼ばれていました。記紀にみられる神武天皇ニギハヤヒナガスネヒコ(登美彦)の話の舞台でしょう。

川下へ行くと法隆寺の周囲、斑鳩に十一面観音が集中しています。聖徳太子観音菩薩の化身であるとする信仰が平安初期に生まれたため、観音像が多く祀られたのかもしれません。

次に秋篠川ですが、地元の人はサイ川と呼ぶそうです。狭井川=幸川。秋篠寺の近くから銅鐸が複数出土していますので、古くは出雲系の人たちが住んでいたと思われます。唐招提寺薬師寺には複数の十一面観音が安置されていますが、ほとんど出所が不明だそうです。

 

白洲氏の「十一面観音巡礼」からいくつか紹介してきましたが、あくまで一部です。室生寺にしてもその周辺に十一面観音はたくさんお祀りされていますし、記事では触れていない地域もあります。

十一面観音が一番多いのはたしか三重県だったと白洲氏はいわれており、長谷信仰が伊勢にも行き渡っていたようです。

信州にも多く祀られ、日本アルプスなど水銀鉱山も多く、空海の名も残っています。著書では上田市塩田平が紹介されていますが、諏訪を目指した出雲の建御名方も、安曇野へ移住した安曇族も、実は朱産地へと導かれたのではないかとさえ思えてきます。

最古の十一面観音像が出土した熊野では、補陀落山寺や、安珍清姫伝説で有名な道成寺の本尊も十一面千手観音です。伝説の地元では清姫は真砂まなご長者の娘で、母は白蛇の化身だそう。「船木氏⑵」の記事で紹介しましたが、朱産地の長者伝説には「まなこ」「まなの」という名がたびたびみられます。

京都には六波羅蜜寺空也上人が造った十一面観音像が秘仏として祀られています。951年に京都に疫病が蔓延した際、鴨川の岸は遺体で溢れ、空也上人は自ら観音像を刻んで車に乗せ、引いて歩いては病人にお茶を与えたと伝わっています。

 

白洲氏は十一面観音を太古からの水の信仰に結びついたものとして捉えておられます。各地の清水寺に祀られていることからも、それは伺われます。一方で氏は十一面観音を辿るうちに浮かび上がる「太古からつづいた朱の道」があり「高野、吉野、宇陀、室生を結ぶ信仰のきずな」でもあるといい、朱と十一面観音に何らかの繋がりを感じておられることも確かです。

水辺に祀られていることが多いので、水信仰のようでもありますが、それは雨乞や水を鎮めるといったものではなく、水で浄める、禊ぎをする、祓う、といった性質なのではないかなと思い始めています。

 

次回は東大寺の十一面観音とお水取りについて。

 

  

 

 

 

朱の国⑾十一面観音③長谷寺

 

 

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祟りの霊木と磐座信仰

徳上上人に造像された長谷寺の十一面観音は、実は伝説をもった霊木から造られています。詳細は省きますが、今昔物語などいくつかの書物に記されている有名な霊木です。

継体天皇の頃(6世紀初め)に大洪水があり、近江高島から琵琶湖に流出した樟の大木が、祟りを呼ぶと畏れられながら何十年も大津の湖上に漂い、やがて大和の当麻へ、そして初瀬川へと辿り着き、徳道上人の祈願によって十一面観音として姿を現しました。祟りの大木が200年の時を経て災禍を鎮めるに至る、これも悪神から善神への変化ですね。

さらに徳道上人に夢のお告げがあったので、北の峯の岩を掘り起こしてその上に観音像を安置しました。北の峯とは長谷寺奥の院といわれる滝蔵神社の鎮座する滝蔵山。地主神の宿る山から運ばれた磐座と、伝説をもった霊木から造られた観音像は、日本古来の自然信仰が土台にあるようです。異国からやってきた新しい宗教を、このような伝説を取り入れながら融合させていったのでしょう。

また長谷寺の十一面観音には他の宗派にはない特徴があります。右手に錫杖を持っているのです。磐座の上に立ち錫杖を持つタイプは長谷型観音と呼ばれます。

錫杖しゃくじょうはお地蔵さまの持ち物。十一面観音は通常お地蔵さまと並んで祀られ、陰陽和合の相ともいわれるそうなので、長谷寺ではそのふたつが合体しているのかもしれません。錫杖を持つ意味は、地蔵菩薩と同じく地上に降りて衆生を救済して行脚する姿と説明されています。古くからの山岳信仰を取り入れた修験者も錫杖を持っていますよね。

 

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ここで地蔵菩薩について考えてみたいと思います。

日本では道の神(幸の神)と習合し、路傍に多くの石像が置かれました。そのため仏教ではありますが、古くからの民間信仰の一面が強いようです。また子供の守り神でもあります。

仏教の解説によると、地獄における苦しみから救済し、人々の苦難を身代わりとなって受けて救う菩薩とされています。まるで「祓え」ですね。大陸から仏教がやってきて、死後は極楽浄土か地獄かという思想が広まった時、人々がすがったのはこれまでの信仰体系であるというのは、なんとも皮肉な気がします。

谷戸貞彦著「七福神と聖天さん」によると、信州に「サイノカミ地蔵」と呼ばれるものがあり、幸の神が祀られていた所に地蔵菩薩の像が建てられたそうです。外側は幸の神の鉾の形になっていますが、後にお地蔵さまだけの姿になったと鎌倉時代になって僧侶が仏教を広めようとした時に、幸の神信仰を利用したと谷戸氏はいわれます。

次にについてですが、古事記では黄泉の国から戻ったイザナギ大神が禊ぎ払いしようと杖を投げ捨てた時、杖から現れた神が衝立船戸神ツキタツフナトノカミ日本書紀では黄泉の国から追いかけてきたイザナミ大神のほうへ杖を投げ、「ここより入ってはならぬ」と結界を張りました。その杖が岐神フナトノカミ(塞神サエノカミです。また一書では岐神の元の名を来名戸クナトの祖神サエノカミというとあります。サエノカミとは幸の神です。クナトの祖神さまといえば出雲のクナト大神。

錫杖には頭部に輪っかが複数ついていて、振ると音が鳴ります。これによって猛禽など外敵から身を守ることもできるそう。一種の結界でしょうか。

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地蔵菩薩十一面観音と夫婦のようにペアで祀られることから、男女の仲を取り持つ陰陽神ともいわれます。それは子孫繁栄、五穀豊穣をも含み、国土の平安を叶える存在となります。

縄文信仰として広く長く崇敬されてきたクナト大神と幸姫命の夫婦神が、仏教の中にうまく浸透した姿にほかならないと思えてきます。

また、「①起源」の記事で書きましたが、聖天像がガネーシャと十一面観音の和合の姿であることも、深いところで幸の神信仰に繋がるのでしょう。

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美濃では十一面観音は本地垂迹説で白山比咩と同体でしたが、伊勢へいくと天照大神となります。白洲氏は上代斎宮がこもりくの泊瀬に籠って、神聖な資格を得て伊勢へ向かったことから発生したのではないかといわれます。三輪山から太陽の女神を伊勢へと遷座したのは初代斎宮ですので。

本地垂迹説‥‥日本の神々とは実は様々な仏様が化身として現れた姿であるとするもの。神仏習合のための理論。

十一面観音は荒神、荒御魂に始まります。以前、船木氏⑶の記事で天照大神の荒御魂とは、出雲登美家の代々の姫巫女たちを指すのではないかと書きました。物部東征後の混乱を鎮めるため、大胆にも出雲の祭祀に敵である物部の銅鏡を取り入れる決断をしたモモソ姫や、太陽の女神を三輪山から伊勢へ避難させた代々の姫巫女たち。伊勢内宮の荒祭宮や西宮の廣田神社に祀られている荒御魂とは彼女たちを指し、実は十一面観音の中にもその姿を投影しているのかもしれないと思うようになりました。

白洲氏の言葉です。

《 十一面観音はたしかに仏教の仏には違いないが、ある時は白山比咩、またある時は天照大神、場合によっては悪魔にも龍神にも、山川草木にまでも成りかねない。そういう意味では八百万の神々の再来、もしくは集約されたものと見ることも出来よう。》

日本古来の信仰に異国からやってきた仏教が合わさる時、十一面観音は大切な日本の女神たち、姫巫女たちを包み込んで、人々の祈りを受け止める存在となっていったといえるのかもしれません。 

 

 

 

  

朱の国⑽十一面観音②信仰のはじまり

 

 

日本で最古の十一面観音像は、紀伊那智山から出土した金銅十一面観音です。白鳳時代のものといわれています。那智の滝のすぐそば、飛瀧神社横の杉林で、仏具など数百点の遺品とともに見つかりました。埋められていたのは経塚信仰だろうと。飛瀧神社熊野那智大社の別宮ですが、本殿も拝殿もなく直接滝を拝みます。飛沫を浴びると延命長寿になるといわれているそうです。滝がご神体で祭神は大己貴命那智大社の祭神は花の窟神社から勧請した出雲の夫須美大神です。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/257847

 

法隆寺金銅壁画の十一面観音像も最古といわれていますが、出雲伝承では法隆寺建立年代は通説とは違ってもっと後代だということですので、ここでは省略します。(「飛鳥文化と宗教争乱」)

 

白山の十一面観音

十一面観音信仰を広めたのは、白山を開いた泰澄大師といわれています。養老元年4月(717年)に泰澄の夢に天女が現れ「早く来るべし」とのお告げがあり、九頭竜川を遡って白山の頂上、御前峰へ至ると池に九頭竜が現れ、十一面観音へと変化したとの伝承があります。白山比咩の本地が十一面観音菩薩つまり白山比咩とは十一面観音が顕現した姿と説明することで、神と仏を融合しました。

白山は日本古来の山岳信仰の地でしたが、泰澄の開山によって修験道白山信仰が広まりました。平安時代には御前峰から加賀、美濃、越前へと続く禅定道に三馬場が設けられ、現在は白山比咩神社、長滝白山神社、平泉白山神社となっています。

白山信仰は東北では「おしら様」「しらやま様」となって広まっていきました。

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白洲正子氏は美濃の重要文化財日吉神社の十一面観音を非常に高く評価しておられます。平安時代の11~12世紀に造られ、もとは日吉神社の白山宮に祀ってあったと考えられるそう。観音さまでありながら全く仏教臭がなく、日本の土から生まれ、祖先の血がかよっているように感じると。といって民芸ではなく、あくまで信仰の対象であり、さらには日本の神に仏が合体したその瞬間をとらえたといえよう、とも。

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日吉神社のホームページよりお借りしています

この像を見た時、幸姫命を思い浮かべました。なんともいえない素朴な美しさに、母なるもの、郷土、そして祖先神への敬愛のようなものを感じたのです。

白山比咩は別名を菊理媛くくりひめといいます。日本書紀の一書に一度だけちらりと出てくる神様で、出自はわかりません。黄泉の国でイザナギイザナミを仲直りさせたとして、縁結びの神ともいわれます。白洲氏は「くくる」とは本来「みそぎ」の意味であるといいます。縁結びに禊ぎとなると、ますます出雲の女神が重なります。ちなみに日吉大社山王信仰はサルタ彦大神を祀ります。

 

揖斐川のほとりに建つ日吉神社から川沿いに遡っていくと、谷汲山を経て越前大野まで、点々と十一面観音が祀られ、白山神社と交錯しているそうです。美濃の白山神社は小さな祠まで入れると3000以上もあるとか。

谷汲山には以前の記事「沈黙の皇子、アジスキタカヒコとホムツワケ」で紹介した、出雲のミカツ姫と夫神が祀られた花長上神社、花長下神社が鎮座しています。この辺りは朱砂地帯です。近くに谷汲山華厳寺があり、本尊は十一面観音。

日吉神社の南側にも赤坂という有数の朱砂地帯が。

また古代の美濃の中心地には名高い養老の滝があります。養老神社では白山の菊理媛を祀っています。

続日本紀には霊亀3年9月(717年)元正天皇が養老山を訪れ、泉で手足を洗うと皮膚が滑らかになり、痛いところを浸すとすぐに治まり、他の者も白髪が黒くなり、禿頭には毛が生え、目の悪いものは見えるようになったと伝わることから、年号を霊亀から養老へ改めたとあります。泰澄が十一面観音を感得した5ヶ月後のことです。のちに元正天皇が病に倒れた時には泰澄が呼ばれ平城宮で祈祷を行いました。

若返りの水というのは古くからの変若水おちみず信仰ともいえますが、記述の中に後漢光武帝の治世に病をすべて治す泉があったという話を加えているところをみると、辰砂や水銀の効能と考えてもよさそうな。

 

三神の里、こもりくの泊瀬 

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長谷寺 Wikipediaより

長谷寺の十一面観音の話をする前に、この地の歴史を少し辿ってみたいと思います。

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大和川の上流で桜井市を流れるところを古くは初瀬川と呼んでいました。桜井駅から長谷寺駅までの8㎞ほどは長い谷となっています。初瀬泊瀬はつせ⇒はせ⇒長谷。

初瀬(泊瀬)は古くは三神の里と呼ばれ、初瀬川を神河かむかわといったそうです。

初瀬の枕詞は「隠国・こもりく」。三輪山奥の院ともいえる場所で、神の籠る里であり、大和姫はここに8年籠ったのちに伊勢へ向かいました倭姫命世記。付近には斎宮跡と伝わる場所もあって、まさに聖地。初瀬から伊勢へと通じる最も古い街道もそばにあります。

郷土史家の田中八郎氏によると、初瀬町の入口に「君殿の庄」と呼ばれた4支流の合流点があって、纏向や海拓榴ツバ市よりも古い時代の交易拠点だったそうです。そこが大字出雲であると。三神の里とはやはり出雲の幸の神三神でしょう。

君殿の庄⇒纏向(弥生末期)⇒海拓榴市(古墳時代~)


君殿の庄の東隣に長谷寺があり、さらに峠を越えると朱砂地帯の宇陀となります。この谷は大和盆地と宇陀を結ぶ重要な出入口であったようです。出口を君殿の庄とすれば、谷の入口となる海拓榴市は3つの川の合流点となっていて、大阪湾からの水路の終点です。山野辺の道、初瀬街道、磐余の道、山田道、横大路など複数の主要路の交錯する場所でもあり、古墳時代から飛鳥、藤原京における交易の拠点でした。商いだけでなく若い男女の歌垣が開かれたり、外国使節を迎える場、祭祀場、刑場でもあったようです。

万葉集には「海石榴市の八十の衢ちまた」と歌われています。衢とは分かれ道、岐路のこと。聖武天皇の御代に疫病が流行った時、道饗みちあえの祭祀を行ったと続日本紀にあります。これは都の四隅の道上で八衢やちまた比古、八衢比売、久那土の三柱の神を祀って悪いものが入らないよう守護を祈願する祭祀です。道の神(塞の神)でもある幸の神三神ですね。平安京では令制祭祀となっていますが、聖武天皇平城京だけでなく藤原京を囲む道の溝からも祭祀に使われたと思われる土器が出土しています。海石榴市が「八十の衢」と呼ばれたのは、三輪山の幸の神信仰からきていることがわかります。

 

次に峠を越えて宇陀を見てみましょう。朱砂採掘の中心地は宇陀の入谷(菟田野入谷)であり、丹生神社が鎮まっています。

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隣の菟田野大神には大神神社の奥宮といわれる神御子みわのみこ美牟須比売神が鎮座しています。祭神は神御子美牟須比女命ですが、タタラ五十鈴姫のことといわれています。今も大神神社の鎮花祭(疫病鎮め)には百合根が、夏には小豆が当社から奉納されているそうです。

ここを中心とした半径2キロの円周内が宇陀随一の朱砂採掘地で、特に神御子社から山に入ったところにある奥宮社と、阿蘇神社と嶽神社が点在する山林区域が鉱床の核心だそうです。
入谷は古くは丹生谷と記し、宇賀志村に属していました。記紀神武天皇とウカシ兄弟の話として描かれた宇陀の血原です。万葉集には、

大和の 宇陀の真赤土の さ丹つかば そこもか人の 我を言なさむ

と歌われています。松田壽男氏は「真赤土」は通常読まれる「真埴まはに」ではなく「真赭まそほ」と読むべきと指摘されています。赤土は赭(ベンガラ)を指し、真赭は水銀朱。埴では粘土の意味になってしまいます。

 

さて、このような歴史ある「こもりくの泊瀬」の長谷寺に、十一面観音が祀られることになりました。泰澄が白山を開いて10年ほど後のことです。

平安時代には観音巡礼として長谷詣はせもうでが流行し、海拓榴市は宿泊地となって栄えました。源氏物語枕草子蜻蛉日記にも描写されるほど、貴族の女性たちもこぞって詣でたようです。

 

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本尊 十一面観音立像

現在の本尊は16世紀に再興されたものです。もともとは徳道上人によって727年に造像されましたが、度重なる火事や災害によって何度も消失しており、元の姿を伺い知ることはできません。ただ二丈六尺あったというので、8mを超える観音像は圧倒的な存在感だったことでしょう。しかも大きな磐の上に立っています。

この観音像については次回に続きます。

 

 

 

朱の国⑼十一面観音①起源

 

 

日本の弥生末期から古墳時代にかけて、中国では朱砂、水銀を追い求めていました。徐福が渡来したのも始皇帝が不老不死の仙薬を強く求めたから。

弥生後期の権力者の施朱に中国産の朱が使われ、弥生末期の三国志魏書倭人伝には、日本の山に丹(朱)がでることが報告されています。大陸との間に朱を介した交易があったことは確かでしょう。

続く古墳時代の施朱の最盛期には国産の朱が使われており、日本は朱に溢れていたといえます。神功皇后三韓遠征に始まり、倭の五王の時代には朝鮮半島から鉄を仕入れ、河内に巨大古墳が次々と造られていきましたが、その元手となるのは朱の輸出だったのではないかとみる研究者もおられます。当時の朱の中心地は大和の宇陀です。

考古学の市毛勲氏によると、施朱の最盛期を含む4~5世紀は朱砂の採掘から精製まで丹生氏が掌握して大和政権に貢納。辰砂はそこで保管され、地方豪族に分配されていた。6世紀になると施朱の衰退とともに丹生氏はニウツ姫祭祀に従事し、朱砂管掌から離れ始めた。やがて朱砂採掘も律令官司制に組み込まれていった。つまり朱砂産出地の住民が税として政府に納めるようになった。と、この時期の流れを説明しています。

 

施朱から鍍金の時代へ

さらに市毛氏は、施朱の最盛期には朱砂と水銀が同じ鉱物であることは理解されていなかったが、5世紀後半になるとアマルガム鍍金法の普及によって朱砂を精錬すると水銀が得られることが理解され始めたといわれます。金環と呼ばれる金銅製耳飾りは一般の人でも身に着けることができたそうです。金環の大流行した6世紀半ばには施朱の風習が途絶えました。

6世紀前半には仏教公伝。その後推古天皇の命で606年に止利仏師によって金銅仏が造られ、これが記録上の最古の鍍金となります。

5世紀から6世紀へ移り変わる頃は、日本における価値観の大転換期だったのではないでしょうか。縄文、弥生、古墳時代へと連綿と続いていた朱砂そのものを重んじる精神性が、鍍金と仏教の伝来によって瞬く間に価値を失い、人々の関心は鍍金に必要な水銀へと向かい始めたようです。

 

ここで奈良の郷土史家、田中八郎氏の興味深い説を紹介します。

大和四所水分社は吉野、宇太、都祁、葛城とあり、これら水分みくまり神社は農業用水を配分する神さまとされていますが、田中氏は水ではなく「水銀の神さま」だといわれるのです。

実は松田壽男氏も水分神について指摘されており、古事記に「みくまり」と訓むよう注されるまでは、「みずわけ」と訓んでいただろうと説かれています。「分」には配る意味はなく、別、離の意味しかないからです。水分神社は古代大和に特有で、奈良盆地の南辺に集中していることから、分水嶺と同意の神であり、四つの水分神社大和朝廷の最初期の境域であったと。

一方田中氏は、水分とは水銀抽出技術のことであるといわれます。松田氏のいう「水を分ける」ではなく、こちらは「水銀を分け」て得ることを「みずわけ」と呼んだことになります。

そして古事記にみえる天之水分神国之水分神とは職掌名であり、王権から派遣した冶金技術者の支店長と、地元民の鉱石集荷担当の支店長を表しているのだと。水分事業は6世紀後半に始まり7世紀に拡大。神社となるのは東大寺の大仏完成後で、8世紀後半以降であろうといわれます。

水分神は丹生の神を追い出し、後継に居座ったということですが、先ほどの市毛氏の言われる、丹生氏が施朱の衰退とともに朱砂管掌から離れていった時期と重なりますね。

仏教を推進したのは蘇我氏ですので、水分事業のバックにいたのかもしれません。

朱砂から水銀を分けるには、朱砂を熱して水銀を気化し、その蒸気を冷やせば水銀が得られます。例えば蒸気を水中に導くと水銀は水中でコロコロと粒状になります。

 

鍍金が流行して、やがて東大寺の大仏造立へと至ります。そんな中、新たな信仰が生まれていました。それが十一面観音信仰です。白洲正子氏は著書「十一面観音巡礼」の中で、十一面観音と朱砂、水銀が結びついているのではないかと示唆されています。この本をベースにしながら、出雲との関係をみていこうと思います。

 

大田田根子と十一面観音 

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写真は奈良県桜井市聖林寺の国宝・十一面観音立像です(木心乾漆造)。やや男性的ですが、衣の波打つ襞が美しく、立ち姿には気品と威厳が溢れていますね。

左手には蓮華を活けた花瓶を持っているのですが、この写真にはなぜかありません。聖林寺のホームページで詳しく見ることができます。760年代に造られたという説が有力とのこと。

この観音像はもとは三輪山大神神社の神宮寺として奈良時代に建てられた大神おおみわ(のちの大御輪寺)の本尊でした。大神寺は初め、成務天皇大田田根子を祀ったと伝えられ、のちに十一面観音が合祀されたということになります。そして明治の廃仏毀釈を逃れるために聖林寺に移され、間もなく岡倉天心フェノロサ秘仏の禁を解いて保護しました。

大御輪寺は神仏分離令によって、大神神社の摂社、大直禰子おおたたねこ神社となりました。社殿は大御輪寺の本堂を使用しています。

繰り返しになりますが、日本書紀では大田田根子は大物主の子孫であり、崇神天皇の世に疫病が大流行した際、三輪山の大物主を祀ることによって疫病を鎮めたとされる人物です。

 

十一面観音の起源

白洲正子著「十一面観音巡礼」には、後藤大用氏の「観世音菩薩の研究」に記された十一面観音の出自が紹介されています。引用します。

《 生れは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、ひと度怒る時は霹靂の矢をもって人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養を行ったのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じて行った。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に千眼を有し、二臂、四臂、八臂など、様々の形象で表された。日本古来の考え方からすれば、荒御魂を和御魂に変じたのが十一面観音ということになり‥ 》

ここではバラモン教となっていますが、ヒンズー教の多面神からきているという説のほうが多くみられます。

バラモン教は、インドへ侵攻しドラビダ人を奴隷化したアーリア人が広めた宗教。バラモン教が衰退するとそれまでインドにあった土着の信仰が復活してヒンズー教となりました。その土着の宗教とはインダス文明に源があるともいわれ、出雲族の信仰する幸の神と起源が同じことになります。

 

観音像の宝冠の上には仏面、菩薩面、忿怒面、牙出面、暴悪大笑面といった柔和な面と荒々しく厳しい面とが混在しています。

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写真は滋賀県向源寺(渡岸寺)の十一面観音の頭部です。(平安初期)

忿怒面は悪を戒め、牙出面とは一見怖そうですが実は行いの清らかな者を励まします。暴悪大笑面は悪行への怒りが極まり大笑いによって悪を滅するそうで、憤怒を超えた姿が表されています。写真では背面になります。

白洲氏は平安初期の仏師は「仏像を作ることが修業であり、信仰の証でもあった」と記しています。

作り手の側を想像してみると、一体の観音像にこれだけの表情をもたせるということは、突き詰めれば作者が己の内面に向き合う行いであったように思えます。人間の内面に潜む悪(弱さ)を見つめ、認め、それをもがくようにして滅していく。そうした末に現れた観音像に人々が信仰心を持って出会った時、観音さまは人々の揺れ動く心に寄り添い、励まし、そして厳しさをもって仏道へと導く存在となったのでしょう。

 

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あまりに美しいお姿なので、全身像も。「湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿」と白洲氏は讃えておられます。

 

さて、先の引用をみると、観音はもとは荒神であり山の神ということです。白洲氏は経験上、十一面観音は必ず山に近い所や山岳信仰と関係のある寺に祀ってあるといわれます。

これらのことから浮かんでくるのは、出雲の幸の神三神です。クナト大神は山の神。出雲の竜神やサルタ彦大神は荒神と呼ばれました。

そして葛木系賀茂家の子孫、役行者修験道の開祖、634-701伝)は幸の神三神を三宝荒神(幸神)として祀りました。三宝荒神三面六臂で、悪を罰する憤怒の表情をもった火の神。

また「霹靂へきれきの矢」とありますが、霹靂とは落雷。出雲では雷神は竜神の荒御魂であるそうです。

 

もうひとつ荒神と同体とされるのが、密教歓喜天かんぎてん=聖天しょうてんです。聖天の前身は象神ガネーシャ。出雲伝承ではガネーシャはサルタ彦大神です。(インドでも村々の辻にガネーシャ像が祀ってあるそうで、道の神に通じますね)

白洲氏によると、最初に聖天が日本に請来されたのは空海(774~835年)の時で、高野山の奥深くに秘められていましたが、鎌倉時代になって世に現れ始め、それから4、500年経ってようやく一般化しました。なぜこれほど時間がかかったのか。

奈良の興福寺旧蔵の聖天像は、象頭神と十一面観音が抱き合っています。(「十一面観音巡礼」に掲載)

これは観音さまの和合の姿であり、しかも相手は象頭神となると日本ではなかなか受け入れがたいですね。このタイプは非常に稀なものらしく、多くは歓喜双身天といって象の男女神が抱擁する姿となっています。空海が請来したのは歓喜双身天とされ、現在京都の山崎聖天にあるものではないかという説も。)

下の写真は埼玉の妻沼聖天山歓喜院)所蔵の錫杖頭にみられる歓喜双身天。秘仏本尊であり、数十年に一度公開されるそう。聖天宮に祀られていますが、本坊には本尊十一面観音が祀られています。聖天院では十一面観音を本堂に祀り、聖天像を秘仏とするところが多いそうです。聖天は十一面観音の化身と説明されることもあります。

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そもそもヒンズー教では宇宙と人間は同一であるとし、男女の和合は宇宙との合一の境地、つまり解脱(悟り)へ通じるものとされています。ネパールには男女の神が抱き合うミトゥナ像があり、インドでは体の右半分が男神シバ、左半分が妃神パールバティという男女一体像になっています。一般の人々にとっては、解脱というよりも縁結びと子孫繁栄を願う神さまでもあったのでしょう。

それが仏教になるとガネーシャをもとは悪神とし、十一面観音が自らの肉体を与えることでガネーシャ歓喜を得て善神へと転じたということになります。女神の性の力が悪を善へ導くという思想のようです。これも慈悲ということでしょうか。やはり多神教の大らかさは仏教の中では堅苦しくなるような。

ちなみに興福寺旧蔵の双身像は、十一面観音の宝冠の後ろに龍を抱いています。これを水の神とみるか、出雲の竜神か。

妻沼聖天の紋章は二股大根の交差紋で、これは夫婦和合を表します。他の聖天院にもみられますが、出雲の富王家が建てた富神社の神紋も大根の交差紋です。もとは銅剣の交差紋(X印は男女和合)だったのを、後に目立たないように大根に変えたとのこと。どうして大根かと不思議だったのですが、ガネーシャの牙(男性の象徴)がネパールでは小刀に、中国では大根に変わり、それが日本に入って来たそうで、どちらももとはガネーシャだったことになります。またインドではガネーシャのお祭りでモーダカ(歓喜団)というお饅頭を供えます。日本の最中の起源。聖天院でも供えますが、形が巾着と似ていることから巾着の置物(宝袋)として飾られるようになりました。

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浅草の待乳山聖天の神紋

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生駒の宝山寺。巾着と大根の組み合わせは子宝に恵まれそうですね。

聖天については谷戸貞彦著「七福神と聖天さん」に詳しく書かれています。

 

「悪を追い払い善へと化す」力をもった十一面観音。時には疫病の出た町の中を、観音像を車に乗せて練り歩いたそうです。崇神天皇の御代に大流行した疫病を鎮めた三輪山の司祭、大田田根子を祀る神社に十一面観音が祀られていることをみても、疫病と観音信仰には繋がりがあるようです。

あくまで仏教ではありますが、これは仏教よりもずっと古くからこの国に続いていた「祓え」なのではないかと思えてきます。人々の穢れを我が身や人形に受け、そして神にゆだねて流し去ってもらう。古代、諸国を放浪する傀儡子たちの舞や、そして天皇の祈りである、身を差し出して国や民の穢れを祓う尊い行為です。

サルタ彦神の厄払い人形や百太夫信仰にも同じ意味がありますね。

祓えについてはこの記事に。

 

参考文献

田中八郎「大和誕生と水銀」

白洲正子「十一面観音巡礼」

谷戸貞彦「七福神と聖天さん」