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源流なび Sorafull

朱の国⒂失われた記憶と椿の花

 

 

朱のその後

日本の朱の文化については記紀で触れていないせいか、古代史の中でもほとんど取り上げてこられませんでした。記紀は8世紀初めに編纂されましたが、6~7世紀に最大の朱産地だった宇陀の朱の記憶がこの短期間で失われてしまうでしょうか。都はまだ大和にあります。あえて書かせなかったとしか思えません。理由は推測の域を出ませんが、中国史書に記録された邪馬台国のヒミコの存在を隠すために、朱にまつわること一切を封じてしまったのか、もしくは唐や新羅から国を守るために水銀の所在を隠す必要があったのかもしれません。

出雲伝承では古事記を書いたと伝わる柿本人麻呂が、宇陀で詠んだ歌があります。

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

軽皇子の遊猟に伴って、宇陀の阿騎野へ訪れた時の歌です。阿騎野は宮中行事の薬猟が行われていたところ。ほんの少し前までは日本一の朱産地でした。

「かぎろひ」とは冬の明け方に東の空が赤く染まり、太陽の光が射し始める様子です。

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軽皇子の父、草壁皇子は若くして亡くなりました。後継者争いで暗殺されたともいわれます。阿騎野は人麻呂にとって草壁皇子との思い出の地でもあります。傾く月に草壁皇子を、昇る朝日に軽皇子を重ねたようです。

この旅の中で数首詠まれていますが、人麻呂は「古いにしへ思ふ」と繰り返しています。阿騎野のかぎろひは、衰退してしまった朱産地と、皇子を失った寂寥の中に広がりつつあるのではないかと思えてきます。

※出雲伝承の斎木雲州氏によると、人麻呂が草壁皇子の挽歌を読んだ時、そこで持統天皇を初めて「天照らす日女の命」と呼び、その反歌として皇子を「夜渡る月の隠らく惜しも」と歌いました。この歌の影響で「日霊女貴ひるめむち」という太陽神が「天照らす大神」と呼ばれるようになったそうです。 

 

奈良時代の終わりには大和の水銀鉱床は枯渇し、朱砂採掘の中心地は伊勢(丹生水銀鉱山)へと移っていきました。

12世紀東大寺大仏殿が焼失し、再興された際の記録には「伊勢の国の住人の大中臣は、水銀二万両を以て法皇に貢したてまつる」とあります。水銀二万両は約700㎏。伊勢から大量の水銀が献上されています。

11世紀には日本から中国へ水銀を輸出していたことが、いくつかの記録に残されていますが、鎌倉から室町時代にかけて水銀生産は衰退し、江戸時代にはほぼゼロとなっていきました。朱座(朱を扱う商人の座)もありましたが、すべて中国産の輸入水銀から作られたものだったようです。国産の朱が枯渇するとともに、朱の文化は人々の記憶からも失われていったのでしょう。

江戸時代に人気があった「伊勢おしろい」は、室町時代から伊勢の射和いざわ(丹生村の隣村)で製造されました。水銀を塩とともに焼いて得られる白色の粉末です。ただし江戸時代には水銀は中国産になっていたようです。のちにシラミ取りや駆梅剤(梅毒の薬)としても用いられました。明治になると毒性が指摘され、姿を消してしまいます。

伊勢商人とはこの水銀を扱った丹生、射和の商人をいい、江戸時代に活躍。その代表が三井財閥となる三井家です。昔から朱は長者伝説と関連がありますね。

明治の文明開化をきっかけに新たな鉱山技術が取り入れられ、再開発が始まります。北海道において次々と朱の鉱床が発見され、昭和に入って見つかったイトムカ鉱山は日本最大の産出量を誇ります。その後、三重、奈良、和歌山、大分などの水銀鉱山が復活しました。

第二次大戦では水銀は軍艦の塗装や火薬の起爆剤などに使われ、それ以降薬品以外では蛍光灯、電池、体温計や血圧計、虫歯治療のアマルガムなど日常的に使用されました。ところが水俣病によって水銀の毒性が注目を集めたため、代替品を使う方向に変わっていき、目にすることもなくなってしまいました。

 

椿の記憶

「朱の国」も今回で最終回となりますが、最後に気になっていたことを書いてみたいと思います。

朱を辿っていると、何度も「椿」「海石榴ツバキ」の名が現れました。海石榴、海榴の漢字表記は7世紀隋の煬帝の詩にみられるそうです。遣隋使が献上したツバキを見て、海の向こうの石榴ザクロと名付けたという説も。ツバキとザクロは似ていますので。

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ザクロの花

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ヤブツバキの実

733年の出雲国風土記には「海榴を椿とも書く」と記されています。中国には「大椿ダイチン」という古い伝説の大木があり、人の8000年が春で、木の1年は32000年になるということから、長寿を祝って用いる言葉だそうです。

さて、出雲伝承で重要な社のひとつに、サルタ彦大神を祀る椿大神社があります。出雲族伊勢津彦)が伊勢に移住してそこに幸の神を遷したと伝わります。社家は宇治土公家で始祖が大田命(登美家分家)。豊来入姫を保護して建てたという椿岸神社も隣に鎮座。

初めは素敵な名前だなと思っていたのですが、三輪山の麓で交易拠点として海石榴市ツバイチ、ツバキチが栄えていたこと、そして豊後国風土記に記された大野の郡にも海石榴市があり、景行天皇が海石榴の木を武器にして土蜘蛛を征伐し血田と名付けた場所、かつ朱産地であったことなどから、ツバキと朱が関連があるのではないかと思い始めました。

椿大神社は水銀鉱床のそばにあり、奥宮は入道ヶ岳の頂上に鎮座。「入」の字が気になりますね。丹生⇒入。社伝では垂仁天皇の娘の大和姫の御神託によって「道別大神の社」として社殿が奉斎され、仁徳天皇の夢により「椿」の名がついたとのこと。

三輪山の麓に栄えた海石榴市桜井市金屋)には、今も観音堂が建っていて、長谷寺式の十一面観音の石仏が祀られています。古代、椿の林があったとも。

万葉集には三輪山の頂に椿の花が一面に咲いている様子が歌われ、神の籠る山に咲く花であり、霊木、聖なる木であったことがわかります。昔話には神意の示される木、霊魂の宿る木として描かれています。

また、不老長寿の伝説で有名な、800年生きたという八百比丘尼やおびくにについては何度か紹介していますが、全国各地に非常に多くの伝承が残っています。(出雲の事代主が亡くなったと伝わる洞窟前にも、八百比丘尼が祀られています。)

大筋としては、人魚の肉を食べた少女が年をとらず、出家して比丘尼となって全国を巡り、椿や松の木を植えていきます。やがて若狭で入定し、場所は小浜の空印寺であることが多いです。空印寺の比丘尼の石像は椿の花を手にしています。地元小浜では隣の勢村の高橋長者の娘と伝わっています。小浜といえば遠敷のすぐ隣です。朱の長者だったのかも。

柳田国男比丘尼の生誕を7世紀後半から8世紀初めとしており、水銀による鍍金が盛んに行われていった時期に重なりますね。八百比丘尼のお墓は、若狭彦神社で紹介した「鵜の瀬」にある白石神社近くにあり、椿の群生林もあるようです。

その鵜の瀬と水路で繋がるとされる東大寺二月堂のお水送りでは、十一面観音に椿の造り花を奉げます。本行の前に練行衆が別火坊で手作りします。(和紙は50年前から染色家の吉岡幸雄氏の工房で用意され、古代から続くベニバナと烏梅の染色法によって鮮やかな色に染められています)

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全国で椿の名がついた地名を探したところ、八百比丘尼伝承の残る地域のすぐそばであったり、水銀鉱山の近くや朱産地を思わせる地名(丹生、仁、赤、塩、入、碇、水金、白銀)と離れていないことが多いとわかりました。海辺や川に近いことも共通しています。(運搬のためか)

他にも出雲の賀茂家の当主である建津乃身の墓と伝わる椿井大塚山古墳京都府木津川市から、甕に入った10㎏の水銀朱が出土しています。

 

気になるところをつらつらと並べてみました。

朱は失われてしまっても、「椿」の中にその残り香が潜んでいるような、不思議な縁を感じています。

 

「朱の国」は思っていた以上に長編となりましたが、お付き合い下さった皆さま、ありがとうございました。

 

 

【追記】古代インドのワクチン

「みずかねの魔力」の記事で古代南インドのシッダ医学を紹介しました。アーユルヴェーダホメオパシーの起源といわれています。

熊本大学の免疫学講座のサイトで、アーユルヴェーダに書かれた古代の天然痘ワクチンについての記事を見つけましたので紹介します。

 

天然痘の始まりは3000年前のインドではないかといわれています。紀元前に書かれた古代インドの聖典であるアーユルヴェーダには、現代では「人痘」と呼ばれるワクチン法が記されています。

※ジェンナーの始めた「牛痘」は牛が罹る痘瘡(弱毒)から膿を取って人に摂取し、免疫を付ける方法です。

①前年の天然痘患者の膿を糸につけて1年乾燥させたものを用意しておく。

②摂取する場所(腕)を布でこすり、さらに針で撫でるようにして傷をつける。

③糸にガンジス川の水を湿らせ摂取部位につけ、包帯で固定し6時間置く。

これで終わりです。1年間膿を乾燥させるのは現代でいう不活化ワクチンで、ジェンナーのワクチンは生ワクチンです。不活化すると生ワクチンよりも効果は低いですが安全だそうです。

この人痘は中国でもやり方は違いますが1000年ほど前から行われ、日本に伝わったのは1744年。ジェンナーの牛痘は1796年に始まりました。実はジェンナーも子供の頃に人痘を受けていたそうですよ。

おそらく古代インドで始まった人痘が細々ながらも時間をかけて世界に広がり、そのアイデアから牛痘が生まれ、天然痘撲滅の時代を迎えることができたと思われます。実に3000年もの歳月を要したのです。

現代は進歩し続けるテクノロジーによってワクチン開発も短期間で可能となりました。2014年のエボラ出血熱の際にはウイルスのサンプル採取から遺伝情報のデータ公開までに1年かかっていたのが、新型コロナウイルスの遺伝情報はWHOへの報告から10日あまりで公表されています。この数年の間にも目覚ましい進歩がみられます。

今回、早ければ2年以内にワクチン接種が始まるといわれています。もちろん世界が情報を共有すれば、より安全で効果の高いものが得られるはず。すでに世界の大手製薬会社や大学、研究機関が垣根を越えての共同開発を始めており、100種類以上のワクチンが現れているそうです。日本の研究機関の中には、注射を使うことが難しい発展途上国でもワクチン接種が行えるようにと、点鼻薬での開発を進めているところもあるそうです。

人類のオープンで誠実な協力体制によって築いていく未来を、心から願っています。

 

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