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源流なび Sorafull

朱の国⑿十一面観音④室生寺

 

  

室生寺と龍穴

以前の記事「日本列島の誕生」で紹介しましたが、1400万年前に紀伊半島で起こった巨大噴火によって、火砕流が半島北部に流れ堆積したと推測され、特に最大の痕跡地が宇陀を中心とした東西28㎞、南北15㎞に広がる地域となります(室生火砕流堆積物)

愛知教育大学の星博幸氏らによると、この堆積物の流走方向の調査(帯磁率異方性の測定)の結果、火山は室生の南方(熊野)に位置していたと示唆されるとのこと。(JpGU-AGU JointMeeting2017より)

やはり西日本がフィリピン海プレートと衝突して起こった巨大カルデラ噴火によるようです。

 

室生の大野寺宇陀川沿いに建ち、役行者の開基といわれています。対岸の岸壁には13世紀に彫られた高さ14mの磨崖仏が。

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弥勒磨崖仏 Wikipediaより

 

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宇陀川の支流、室生川を遡ると室生山に至り、そこに室生寺が鎮座しています。

室生寺真言宗の寺院で別名、女人高野と言われますが、これは江戸時代になってからのこと。始まりは室生山の霊力の源と呼ばれる吉祥龍穴にあります。

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山奥にあるご神体の大きな龍穴。今は龍穴神社の奥宮となっています。

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巨大な岩盤の上を室生山の清水が流れていきます。

奈良時代末、桓武天皇が即位前に病に伏した時、ここで祈祷を行うと見事回復。この霊山の力を借りて国を守ろうと建てたのが室生寺です。当時絶大な権力をもっていた興福寺に建立を託しました。

間もなく最澄空海によって日本で密教が始まりました。すると霊山として名高い室生山に修行僧が集まるようになり、しだいに奈良仏教の興福寺と新興の密教の勢力争いが始まります。天台宗が建てた室生寺金堂には国宝の木彫りの仏像がひしめいていますが、実はこれら新旧勢力が祀り方を争った跡が残されているといいます。

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室生寺の金堂須弥壇 左端が十一面観音立像

本尊は中央の大きな釈迦如来像ですが、なんと本来は薬師如来像だったのです。前に並ぶ小ぶりの十二神将如来の光背、堂内の図柄が薬師如来のものであり、もとは薬師堂と呼ばれていたそうです。そして写真では後ろに四体しか見えませんが、右端にもう一体祀られています。ところが最初は三体であったようだと。天台宗の祀り方は中央に薬師如来、左手に十一面観音、右手に地蔵菩薩

(モノクロなのでわかりませんが、薬師如来の衣は朱色、十一面観音は全体が緑や朱色で鮮やかに彩られています。)

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十一面観音立像。カラー版は室生寺のホームページに。

これを後から興福寺勢力が自分たちの祀り方に変更。本尊を釈迦如来に変えて、文殊菩薩薬師如来を加えました。だからぎゅうぎゅう詰めなのですね。

このような争いをするほどに密教が室生を求めてやってきたのは、もしかすると水銀が目的だったのではないかという気がしないでもありません。

龍穴に住むと伝わる龍神は雨を掌り、現在の龍穴神社の祭神は高龗神。ですがこれは神様の変更があったとして、そもそも桓武天皇の平癒祈願に雨乞は無関係でしょう。菟田野(阿騎野)では飛鳥時代に宮廷行事として薬猟くすりがりが行われており、水銀の採れる場所の水や植物には特別な力(神仙の力)があると信じられていたようです。(現代でも武田、ツムラ、ロートなど製薬会社創業者を多く輩出した土地柄。)

室生の龍穴にはそういった霊力を頼みにしたのではないでしょうか。なので水銀と縁の深い密教では金堂に薬師如来を本尊として、十一面観音を祀ったと想像します。

 

また、「ムロ」とは古代では竪穴式住居や掘って作った室屋などを指しますので、これを朱の坑道とみることも可能かもしれません。

 

最後に大和盆地をざっくり見てみたいと思います。

 

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注)川は強調するため太くしています。
 

白洲氏が辿った十一面観音を祀るお寺を拾いあげてみました。(観音像は博物館に移されたものもあります)

まず富雄川。地図にはありませんが北に遡ると河内と大和の境に龍王山があり、そこが富雄川の水源です。龍王山は大阪側では交野山と呼ばれ、頂上には大きな磐座が祀られています。十一面観音は山岳信仰から峰伝いに平野へ降りてきたものだろうと白洲氏はいわれます。

交野といえばニギハヤヒが天から船で降りたという磐船神社がありますね。出雲伝承では第2次物部東征で物部イクメ垂仁天皇の軍勢が、生駒山から磐船神社付近にかけて陣取り、大和の軍勢と長く対峙したと伝わっています。それより100年ほど前の第1次物部東征では、熊野に上陸した物部軍を登美家分家の太田タネヒコ大田田根子八咫烏として敵軍を大和へと誘導しました。本家登美家は北方へ逃げ、一部は生駒山麓で防備を固め、登美ヶ丘の地名が残ったそうです。富雄川はもとは「登美の小河」と呼ばれていました。記紀にみられる神武天皇ニギハヤヒナガスネヒコ(登美彦)の話の舞台でしょう。

川下へ行くと法隆寺の周囲、斑鳩に十一面観音が集中しています。聖徳太子観音菩薩の化身であるとする信仰が平安初期に生まれたため、観音像が多く祀られたのかもしれません。

次に秋篠川ですが、地元の人はサイ川と呼ぶそうです。狭井川=幸川。秋篠寺の近くから銅鐸が複数出土していますので、古くは出雲系の人たちが住んでいたと思われます。唐招提寺薬師寺には複数の十一面観音が安置されていますが、ほとんど出所が不明だそうです。

 

白洲氏の「十一面観音巡礼」からいくつか紹介してきましたが、あくまで一部です。室生寺にしてもその周辺に十一面観音はたくさんお祀りされていますし、記事では触れていない地域もあります。

十一面観音が一番多いのはたしか三重県だったと白洲氏はいわれており、長谷信仰が伊勢にも行き渡っていたようです。

信州にも多く祀られ、日本アルプスなど水銀鉱山も多く、空海の名も残っています。著書では上田市塩田平が紹介されていますが、諏訪を目指した出雲の建御名方も、安曇野へ移住した安曇族も、実は朱産地へと導かれたのではないかとさえ思えてきます。

最古の十一面観音像が出土した熊野では、補陀落山寺や、安珍清姫伝説で有名な道成寺の本尊も十一面千手観音です。伝説の地元では清姫は真砂まなご長者の娘で、母は白蛇の化身だそう。「船木氏⑵」の記事で紹介しましたが、朱産地の長者伝説には「まなこ」「まなの」という名がたびたびみられます。

京都には六波羅蜜寺空也上人が造った十一面観音像が秘仏として祀られています。951年に京都に疫病が蔓延した際、鴨川の岸は遺体で溢れ、空也上人は自ら観音像を刻んで車に乗せ、引いて歩いては病人にお茶を与えたと伝わっています。

 

白洲氏は十一面観音を太古からの水の信仰に結びついたものとして捉えておられます。各地の清水寺に祀られていることからも、それは伺われます。一方で氏は十一面観音を辿るうちに浮かび上がる「太古からつづいた朱の道」があり「高野、吉野、宇陀、室生を結ぶ信仰のきずな」でもあるといい、朱と十一面観音に何らかの繋がりを感じておられることも確かです。

水辺に祀られていることが多いので、水信仰のようでもありますが、それは雨乞や水を鎮めるといったものではなく、水で浄める、禊ぎをする、祓う、といった性質なのではないかなと思い始めています。

 

次回は東大寺の十一面観音とお水取りについて。