SOMoSOMo

源流なび Sorafull

安曇族のこと

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穂高連峰

 

いくつかご質問を頂いておりましたが、なかなかお答えすることができず申し訳なく思っております。

古い時代のことですので仮説、推測の中で語られることが前提としてあり、すでに様々な説が提示されています。そんな中で当ブログでは、主に出雲伝承を肯定的に捉えた時に見えてくる古代史を辿っております。その上でご質問にお答えすることになりますので、限られた範囲であることと、あくまでSorafullの見解となりますこと、ご理解ください。

 

N様より信州安曇野穂高神社に祀られる安曇族についてご質問を頂きました。安曇族といえば″SOMoSOMo″の始まりから繰り返し書かせて頂いており、推論を取り混ぜつつ熱く語ってきております。過去の記事に沿って大まかに振り返ってみたいと思います。 

 

安曇野市穂高神社

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神船「穂高丸」

 

御船祭についてはこちらをご参照ください。

安曇野のお船祭り - 安曇野市公式ホームページ

 

″SOMoSOMo″は筑紫舞に始まり、そして君が代の「君」を巡る旅へと続きました。

紀元前から博多湾周辺を治めていた安曇族の王こそが、君が代に歌われた「君」であり、志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです。また我が国最古の舞踊、筑紫舞において極秘伝として最重要とされる「浮神(磯良舞、細男舞、鞨鼓舞)」のモデル、安曇磯良は正史には現れませんが、その存在は古代史において非常に重要な王であると確信しています。

記事の中で、安曇族は古代中国においては「倭人」と呼ばれた人たちだったのではないかという仮説も書きました。また徐福を日本へ連れてきた海人族かもしれないことや、いくつかの系図から徐福の血筋と関わりがあるとみえ、姻族の可能性が高いとも書きました。つまり古来より北九州を根拠地とする海洋民族がいて、大陸との交易を自在に行い、そのうちに徐福渡来と関わることで親族となっていったという見方です。古代においては航海を掌握する者こそが権力を握るともいえ、徐福は古代日本の海人族である安曇族、宗像族(出雲系)を真っ先に手中に収めたと思われます。

そして安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、出雲伝承の伝える徐福の息子、五十猛(のちの香語山)に繋がっていきました。実際、丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。一方物部氏とは非常に近い存在でした。武力の物部氏と航海を司る安曇族が協力して九州を支配していたようです。海部氏も物部氏もどちらも徐福の直系です。

出雲伝承では、徐福の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます。

新撰姓氏録によると、安曇氏は海神・綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後とあります。ワタツミ信仰が海童たちのものであるなら、安曇族が九州古来の倭人であるとするのは難しいですね。3000年前から中国で倭人と呼ばれていた人々の中に、ある時期から安曇族が含まれたという見方なら可能かもしれませんが。(中国史書に記された「倭人」という存在を無視することができず、しつこく拘っています‥‥)

 

君が代については以下の記事に。

 

五十猛との関連を追った記事。 

 

さて、安曇族は2~3世紀の物部東征とともに大和へ進出。やがて物部の力が衰退して神功皇后の時代になると、安曇氏も新権力のもとで朝廷に服従する側にまわったと考えられます。綿津見三神住吉三神という呼び名に変わったことがそれを象徴しているように思います。

安曇氏は朝廷に仕えながら各地の海人族を統率していましたが、401年に安曇連浜子が天皇暗殺を謀った罪によりその地位を追われます。律令時代には天皇の食事を司る内膳司長官を務め、また660年頃に安曇比羅夫が水軍を率いて百済救援へ向かい、白村江の戦いで戦死。その後安曇氏は中央から消えていきました。(平安時代遣唐使船がたびたび遭難したのは、古の海人族の技術や智慧が伝承されなくなっていったこともあるのかな、などと思ってしまいます)

 

このように安曇族が北九州から全国へと移住していった時期は、物部東征後のことと思われます。ではなぜ海人族が安曇野という奥深い山地へと移住したのでしょうか

ひとつの理由としては、その周辺が水銀を有した朱砂地帯であったからでしょう。海人族は船を造るために材木だけでなく辰砂(朱、硫化水銀)や鉄、銅などの鉱物にも詳しく、冶金術をもっていたと考えられます。穂高見命の別名は宇都志日金析命とあり、金カネの字があてられています。

「丹生の研究」の松田壽男氏によると、安曇野の北側では丹生ノ子ニウノミ、西南の日本アルプスでは焼岳、大丹生岳、御岳、そして南側の入山の土壌を調査したところ、いずれも高い水銀含有率を認めたそうです。穂高神社の奥宮は上高地梓川明神池の畔にありますが、焼岳のすぐそばです。

穂高神社奥宮 

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上高地梓川の明神池

上高地の名は「神垣内」からきているそうですよ。


下の記事では安曇野への移住と、出雲族との関わりを示唆するたつの子太郎伝承を紹介しました。これは児童文学作家の松谷みよ子氏が、松本から安曇野にかけて残る古代の開拓伝説を後世に残すために、まとめて物語としたものです。

松本盆地は3~4世紀までは大きな湖でしたが、安曇族が湖の水を日本海へと流して開拓したと思われます。平安初期から記録されている安曇平の歴史書には、大昔の開拓として記されているので、安曇族の移住は物部東征後から4、5世紀頃の間でしょうか。

 

安曇磯良と五十猛については以下のシリーズに詳しく書きました。

 

 安曇族が君が代に歌われた時代からの変遷についてまとめた記事はこちらに。