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源流なび Sorafull

邪馬台国の夢~ヒミコの恋

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今夜は皆既月食の赤い月 Blood moon ですね。しかも今月2度目の満月 Blue moon 。そして月と地球が最も近づく Super moon です。

日本でこの3つの現象が重なったのは約150年前、明治維新の直前だったそうです。国の仕組みが大転換しただけでなく、人々の意識が変わった時でもありました。今回もそんな大きな波がやってくるのでしょうか。

 

明治維新のように近い歴史であれば資料は豊富ですし、当時の感覚にも近づきやすいです。でも古代となると、私たちが知り得る歴史は本当に限られていて、その中であれこれと詮索するほかありません。点と点しか残されていないものを、人間はどうにか繋いでみたい衝動にかられます。「正解」という幻を追って。

このところ繰り返し感じるのは、私たちが今ここに生きているということは、遠い過去の(知り得ないことも)どのような出来事も「すべてが起きた」、その上に立っているんだな、ということです。善悪も清濁も正誤も超えて。

先人たちがどんな困難な時代をも懸命に駆け抜け、バトンを渡してくれた、それだけが確かなことかもしれません。

 

 

邪馬台国の時代、ヒミコとされた女性もこうして月を見上げ、王国の未来を案じていたのでしょうか。

神の声を降ろすといっても、発するのは自分。人々の暮らしから国の存亡まで、その言葉ひとつで決まってしまいます。モモソ姫の時も感じましたが、影響力があまりに強いということは、深い孤独と背中合わせだと思います。姫巫女として生まれながらに背負った使命を、彼女たちはどう受け止めていったのか、そんなことを考えるようになりました。

それでは前回に引き続き、宇佐家の伝承 を見ていきたいと思います。

神武天皇が率いる船軍は大分県の佐伯湾に入り、番匠川に駐留しようとしましたが、ウサ族海部の激しい抵抗により上陸できませんでした。そこで珍彦ウズヒコが間に入り、ウサ族の首長、ウサツ彦を説得。ウサ族の本拠地へと神武を迎えることになります。当時の宇佐家は東九州で最大の勢力を誇っていたそうです。

ウサ族は受け入れる条件として「天皇と侍臣には住居をもうけ食事は提供する。しかし軍兵のものまでは負担できないので、宇佐川の流域の宇佐平野を解放して屯田制とする」と申し出ました。屯田制とは中国で行われていたもので、軍の場合は兵に田地を与えて自給自足させること。すでにウサ族は中国の文化を取り入れていたことがわかります。

記紀では神武が宇佐の国に着くと、その国造の先祖、ウサツ彦とウサツ姫の2人が、一柱騰宮アシヒトツアガリノミヤ(宮殿の柱を片方は川の中に立て、もう一方は岸に立てて造ったもの)を造り大いにもてなしたということになっています。実際には上記のように平和のうちには行われていないと伝承されていますが。

古事記では「豊の国の宇沙」、日本書紀では「筑紫の国の宇佐」と書かれていて、「筑紫の日向」という表現に重なります。古くは筑紫を九州全土の総称として使っていたそうなので、そう考えると地理的におかしくはないですね。

次に神武軍が駐留した場所ですが、いくつか説があるようで、宇佐公康氏はその中で下の航空写真の拝田という地だろうと推測されています。ウサツ姫とウサツ彦の住居の場所も記しておきました。宇佐家も古代は母系家族制だったので、夫のウサツ彦は離れたところに住んでいたようです。

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さて、ここからが極秘口伝となります。

日本書紀を見ると、ウサツ彦が神武軍をもてなした後、ウサツ姫を侍臣(君主のそばに仕える家来)の天種子命アマノタネコノミコトに娶わせたとあります。つまり妻を差し出したということです。

ところが宇佐家伝承は違います。「ウサツ彦が帰順の意を表すために、妻のウサツ姫を天皇に差し出して寝所にはべらせた」というのです。当時の風習では最高の歓待であり、忠節を誓う儀礼だったそうです。少々複雑な気分になりますが。

さらにウサツ姫は天皇の胤たね(子)を宿し、ウサツ臣命を生みました。書紀が編纂された8世紀にはこの事実ははばかられ、宇佐家ではそれを隠すことにしたといいます。そして勅命によって妻のウサツ姫を侍臣の天種子命(架空の人物)に娶わせたと捏造した話を公表し、それが書紀に記されました。なんとも粋なネーミング‥‥。

続いてその後です。

記紀では神武が宇佐に留まった期間が記されていませんが、伝承では4年留まったのち東遷を再開したといいます。その時、ウサツ姫は神武に付いていきます。筑紫国の岡田の宮に1年、安芸国広島県)の多祁理の宮に6年留まり巫女として奉仕しました。ウサツ姫は多祁理の宮に近い伊都岐島(厳島)にウサ族の母系祖神である市杵島姫命を奉斎したそうです。

やがて神武との間に御諸別命ミモロワケノミコトが生まれますが、それから間もなくウサツ姫は病気で命を落とします。1年後には神武も亡くなり、ウサツ姫を葬った伊都岐島の山上の岩屋に葬ったと言われています。厳島(宮島)の弥山ではないかとのことです。

驚きの伝承ですね。けれど宇佐氏はこのウサツ姫をヒミコだとは言っておられません。記紀が作為に富んだものであることを理解したうえで、ヒミコについて研究し、ヤマトトトヒモモソ姫の説を取り上げつつ、年代が合わないことを指摘されています。

ではここで、出雲の伝承を見ていきたいと思います。ウサツ姫を豊玉姫としています。要約します。

 

出雲伝承の中のヒミコ

魏書には2人の姫巫女を同一人物として記している。1人目が大和のモモソ姫で2人目が魏と国交した宇佐豊玉姫である。

阿多津姫を失った物部イニエ王は豊玉姫を后に迎え、都万王国と豊王国が連合国として成立し勢力を拡大した。豊玉姫は都万王国でも祭りを行い、民衆から大きな尊敬を得ていた。ふたりの間には豊彦と豊姫が生まれた。この2人は大和へ行ってから豊来入彦トヨキイリヒコと豊来入姫と呼ばれる。記紀では豊鋤スキ入彦、豊鋤入姫と変えている。

イニエ大王が第2次東征をすると聞いた物部の関係者たちは、今度こそ大和に物部王朝を造ろうと、大和や各地方から続々と都万国の西都原さいとばるに戻ってきた。イニエ大王は都万国、豊国、肥前国筑紫国の軍を束ねて東征の準備を進めていったが、その途中で亡くなった。神話で大山津見神が呪ったように、阿多津姫もイニエ王も花のように短命であった。

遺されたイクメ王子(阿多津姫の御子)が後継者となったがまだ若く、豊彦は少年だったので、豊玉姫が皇太后として東征の指揮をとることになった。

豊玉姫大和より先に魏と国交を開くことを計画し、自分がヤマト全体の王だと認めてもらおうとした。そのために都万国にいながらそのことを隠し、女王国がヤマト国(奈良ではなく日本全体を指す意味の)にあるかのように見せかけた。ヤマト国(いわゆるヤマタイ国)というのは豊玉姫の自称・日本と捉えなければわからなくなる。

大陸からの使いの者は、北部九州の伊都国の役所を通してしか女王国と関係を持つことはできなかった。伊都国の役人の言うことによって推測で都の位置を捉えたため、記述がおかしくなった。豊玉姫の策略である。

238年、魏への1度目の朝献。皇帝より親魏倭王に任命された。

大和磯城王朝はそれまで中国と外交を行ってきたので、豊玉姫はこれから磯城王朝を攻めるとは魏に言えず、敵はクヌ国(大彦の子孫)だと言い通した。

豊玉姫は物部軍の総指揮者として瀬戸内海を進み、安芸国に上陸し征服を開始したが、病に倒れ、多祁理の宮を建て養生した。イクメ王を新たな指揮官として先に進軍させ、吉備の海岸に宮(高島の宮)を建てて吉備王国征服に向け戦いを繰り広げた。

248年、豊玉姫は多祁理の宮で亡くなった。遺体は厳島に仮埋葬され、その後遺骨は宇佐に戻された。遺骨の一部は宇佐神宮の本殿の二ノ御殿の下に、ウサ王家の祖先とともに姫大神として祀られている。お墓は神宮の奥宮の山中に墳墓があると言われ、それではないか。

第2次東征は瀬戸内地方で8年以上続いた後、イクメ軍は楯津(白肩津)から上陸、河内国日下へと進軍し、イコマ山地にしばらく留まった。これがニギハヤヒ(物部の祖、徐福)が降臨した地といわれる由来である。

豊玉姫後継者は娘の豊姫だった。魏書に書かれた13歳の壱与トヨのことである。

 

下の地図は記紀による神武東征を示したもの。白肩の津より先は第1次東征とつなげていることがわかります。

 

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このふたつの伝承を比べると、イニエ大王の亡くなった場所や豊玉姫の子どもたちのことに違いはありますが、月の女神の姫巫女が大王と結ばれ子をもうけ、東征に随伴したのち多祁理の宮で病に倒れ厳島に葬られたという話はぴったり重なります。

イニエ大王の亡くなった時期については、ヒミコと魏のやりとりを見ると、そこに大王の存在が全く見えないので、交渉を始める前に亡くなったと思われます。なので出雲伝承の通り、イニエは九州から外に出ることはなかったのでしょう。

宇佐家の伝承による第2子御諸別命は時代が少し後の人です。この2人の御子については著書の中で説明されていますが、複雑な話になるのでここでは省略します。

 

 

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厳島神社  大鳥居

豊玉姫=ヒミコのことを古事記では竜宮の乙姫として描き、史実を海幸山幸神話の中に埋め込んだと考えられます。下の系図は登場人物に重なる人を入れてみました。イニエ王が阿多津姫の次にヒミコと結婚したことは系図では世代を代えてあります。豊彦の数代後の子孫が応神天皇。宇佐家伝承でも神武の子孫が応神です。皇孫ということで繋がっています。

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そして山幸彦が物部、兄の海幸彦が海部という構成になっていて、実際に徐福(ニギハヤヒ)の息子たちの関係と同じです。海幸彦に山幸彦が勝つという神話は、物部東征によって海部(初代大和王朝)は都から追われて丹後へと引き上げ、大和に物部王朝ができたことと重なります。(海部氏の籠神社側はそれを逆として、ホホデミが海部出身だとしています)

神話豊玉姫は、竜宮にやって来た「妖しいほどに麗しい」山幸彦(天つ神の御子)にひと目で恋に落ち、3年間の蜜月を過ごします。けれどやるべきことを思い出した山幸彦は地上に帰る決意をします。彼の苦悩する姿を見た豊玉姫は父に相談し、お土産にと霊珠(潮満珠潮干珠)を渡します。それによって山幸彦は兄を支配下に置くことができました。その時姫は身ごもっていました。地上に出て生んだ子を姫は山幸彦に差し出して、竜宮へと帰ってゆきます。その子の御子はのちに東征をして神武天皇となりました。

また姫が出産する時に、元の国の姿になると言って大きなワニに変化したことは、宇佐の豊玉姫が出雲系の姫の血筋であることを示しているようです。宇佐家の伝承にもあったように、宗像三女神の市杵島姫をウサ族の母系祖神としています。宗像は出雲の分家でしたね。

山幸彦と別れたあとに豊玉姫が送った歌。

「赤だまは 緒さへ光れど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり」

赤く輝く珠は緒まで美しく光るけれど、真っ白な真珠のような貴方の姿こそ、さらに清らに貴いことです。(赤は女性、白は男性を表します)

山幸彦が答えた歌。

「沖つ鳥 鴨どく島に わがゐねし いもは忘れじ 世のことごとに」 

沖から飛び来る鴨の宿る島で、私が誘ってともに寝た愛しい貴女を忘れない。この世の果てるまでも。

 

 

さて、今回は一気にドラマチックな話を辿りました。

これまで想像していたヒミコからはかなりかけ離れていて、まさか東征の総指揮者だったとは意外というほかありません。

強国の魏と渡り合う度量をもち、戦術に長け、実行力も備えた女性。出雲の伝承にあるように、ヒミコはこれまでの大和のに君臨するのではなく、日本という国全体を描くことができていたのだとすれば、そのスケールにただならぬものを感じます。

ですが、月と繋がり精霊の声を聴き、宇宙と一体となる優れたシャーマンと、武力に頼って他国を制覇しようとする野心がいまひとつ重ならないのです。

Sorafullの個人的な空想の中では、時代の波に翻弄されたひとりの女性シャーマンという話ではなく、すべてはヒミコの恋だった、そんな風に思っていたいのです。古事記の作者のように。

夫を失った時、東征はすでに止めることができないところまで進んでいた。そしてヒミコにはやり遂げる力がある。イニエ王の抱いた夢を、形にしたかった。そうやってふたりの想いを遂げたかった。清濁を越えて。

けれど多祁理の宮で病に倒れた時、ヒミコは実は安堵したのではないかな、とも思ったりもして。

いつも以上にセンチメンタルなのは、今夜の赤い月のせいでしょうか。