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源流なび Sorafull

宮地嶽古墳⑵磐井と大彦、鞍手の伝承


大彦についての過去記事です。

 

出雲伝承には九州の情報がそれほどありません。なので独自の伝承がとても多い九州に踏み込んでいくと、道標なしには翻弄されてしまいそうだな、というのが正直な印象です。まだまだ未知の情報がありますし、現段階はひとつの答えを求めるよりも、出雲伝承の視点に立ちつつどういった歴史が見えてくるのかを探っていけたらと思っています。

 

前回は筑紫国造磐井は大彦の子孫であり、以前は大和で大王に仕えた朝廷側の国造なのか?というところで終わりましたが、もう少し丁寧に見てみたいと思います。

日本書紀にある毛野臣へのセリフの意図は、九州王朝勢力が存続しているのではなく、磐井はあくまで筑紫国造だと強調したかったともとれます。であれば本当は磐井は大彦の子孫ではなく、もと九州王朝の大王に通じる存在だったのを隠そうとしたということでしょうか。

まずは磐井と大彦の接点になるかと思われるところを、いくつか辿ってみます。 

 

岩戸山古墳

磐井が生前に築造したといわれる岩戸山古墳ですが、そこに接するようにして吉田大神宮が建っています。以前は墳丘上部に祀られていた伊勢社を遷したそうです。写真は跡地の石碑。

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祭神は大日孁貴尊オオヒルメムチ天照大神としないところが古さを感じます。伊勢社が祀られているのは、朝廷に反乱を起こしたとはいえ神武に連なる皇統の血筋だからでしょうか。(出雲伝承では磯城王朝の皇子)

大正11年には菅原道真(出雲王家子孫)が合祀されています。さらに石造猿田彦塔や大山咋命(クナト大神)を祀る松尾宮(出雲の酒の神)まであります。出雲の匂いがプンプンしますね。

吉田大神宮は大正時代に、古墳のくびれ部に接して建てられました。このくびれ部から後円部中心にかけて地下室があることが、平成9年の電気探査で確認されました。ここに磐井が埋葬されているのかどうかはわかりません。最近ピラミッドの内部を素粒子で透視する技術が日本でも開発されているので、そういった技術の進歩に期待しています。

 

安倍高丸

中世に書かれた八幡宮縁起の中で、仲哀天皇の腹心として安倍高丸助丸が記されています。それをもとにした石見神楽の「塵輪じんりん」という演目があります。要約します。

仲哀天皇の時、新羅国から数万の兵が豊浦宮に攻めてきました。天皇は5万の兵で迎え討ちますが、塵輪という鬼神が黒雲に乗ってきて人々を殺していきます。安倍高丸と助丸に門を守らせ、天皇が弓矢で退治。ところが流れ矢が天皇を傷つけてしまいました。

下関の忌宮神社にも同じ話が伝わっていますが、安倍高丸、助丸は討ち死にしたことになっています。筑紫国造始祖の田道命は仲哀天皇先代の成務天皇の時代なので、同族の安倍家が活躍していた?

日本書紀仲哀天皇の御代で安倍氏に関わると思われるところは、天皇皇后が山口から香椎宮へ向けて行幸中、出迎えた岡県主遠賀郡先祖の熊鰐ワニ阿閉アヘノ(相島)を献上したり、船が遠賀川河口で動かなくなった時に船長の伊賀彦を祝はふりとして祀らせると船が動いた高倉神社の由来)といった話があります。相島は古くは阿閉島といって、これは大彦の子孫の阿閉臣と同じ名です。また伊賀彦も大彦の子孫。伊賀にも高倉神社があり、市内には大彦を祀る伊賀国一之宮敢國アエクニ神社があります。福岡の高倉神社は毛利元就の三男、小早川隆景が再建しているらしく、毛利家は出雲王家富家の子孫です。大彦は富彦と自称するほど富家の祖先を崇敬していました。

大彦の子孫とされる7族‥安倍臣、膳臣、阿閉臣(阿敢臣)、沙沙城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣

岡県主の祖先熊鰐についてはわかりませんが、遠賀郡から相島までを支配していた豪族なのでしょう。単純にワニといえば出雲の気配が。出雲の宗像家といえば宗像三姉妹ですが、宗像家は三輪山の南方に移住したと伝承にあります。

続いて神功皇后の御代では、新羅出兵前に吾瓮アヘノ海人に西の海に出させて国があるか確かめさせ、次に磯鹿シカの海人に見させた、とあって、津屋崎辺りと博多の海人(安曇族)を分けて描いたとすれば、阿閉、吾瓮ともに大彦系の安倍阿部に繋がるかも。

また安倍高丸を調べると、平安時代初期に征夷大将軍坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の首長と同名でした。蝦夷なので大彦勢でしょう。安倍高丸は悪路王として有名で、数多くの伝承が各地に残されています。安倍氏悪事の高丸、鬼、などと記され、その拠点は岩手県西磐井郡達谷窟たっこくのいわやだったそうで、ここで田村麿に討たれました。昔は「磐井の郷」とでも呼ばれたのでしょうか。

九州で仲哀天皇の腹心だった安倍高丸も、描かれたのは中世になってからなので、悪路王としての安倍高丸と何らかの関係があるのかもしれません。

※ネット上では藤高麿、助麿が安倍高丸、助丸のことであるとの情報が出ているのですが、その出典は見つかりません。

それから、詳しくはわかりませんが神社研究者の百嶋由一郎氏が、宮地嶽神社のもとの宮司は阿部氏だと言っておられたようで、現在の浄見氏とは違ったようです。

 

鞍手の伝承

物部氏ゆかりの遠賀川中流の旧鞍手郡は、とても興味深い話の宝庫です。その分ややこしいですが。

遠賀川周辺から鞍手にかけては剣神社、八剣神社が驚くほど密集しています。ざっくりまとめると剣はスサノオ、つまり徐福の布留御魂を祀り、八剣はヤマトタケルとミヤズ姫、草薙剣にまつわる伝承があって、後から熱田大明神を勧請したようです。

まず下地図の鞍手南方の六ヶ岳を見て頂くと、東の麓に劔神社、西の麓に六岳神社が鎮座しています。六ヶ岳は宗像三女神が最初に降臨した地と言われており、山頂に祀られていましたが、のちに六岳神社へ遷されます。劔神社のほうはもとは倉師大明神と呼ばれていたようで、ここにはイザナギイザナミに始まり十拳とつかの剣から生まれた神々が祀られています。宗像三女神スサノオの十拳剣から生まれていますね。

六ヶ岳南麓にはニギハヤヒ(天照国照彦火明櫛玉饒速日尊)を祀る天照神も鎮座しています。垂仁16年に笠木山に降臨したとのこと。

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次に北側の剣岳には、ヤマトタケル熊襲征伐で訪れた際に登ったという伝承があって、安閑天皇の御代になってから剣岳に八剣神社が建てられました。日本武尊、ミヤズ姫が祀られています。天智天皇の時代には草薙剣(叢雲剣)が盗まれる事件があり、途中この剣岳に置いてあったとか、古物神社に飛んできたなどといった伝説もあります。

時代順にみていきます。

劔神社直方市下新入)の由緒によると、筑紫国造田道命が成務天皇の時、筑紫物部を率いて神々を祀った神社であり、古くは倉師くらじ大明神と呼ばれました。もともとは六ヶ岳の東嶺に鎮座していたそうです。田道命の子孫である長田彦が神官を務めました。

倉師大明神は鞍手の名の由来という説もあり、高倉下タカクラジ(徐福の孫であり、香語山と大国主の孫の間に生まれた紀伊家の始祖)のことではないかと言われています。記紀では神武が熊野で倒れた時に布都御魂(剣)をもって現れ助けます。とはいえこれは8世紀初めに完成した話ですし、実際に物部東征の際に高倉下の子孫たちが物部を助けたわけではなく、紀の川で大彦勢と共に戦っています。

ただし先述の高倉神社も高倉下が祀られているという説もあるので、何か別の理由、例えば水軍の守り神とか、出雲王家と徐福に繋がる先祖を祀ったなどということであれば、あり得るでしょうか。

六ヶ岳神社の由緒は鞍手町によると、宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、成務天皇7年に室木里の里長、長田彦が六ヶ岳崎門山に神籬を営んだのが始まりということです。その後も子孫が長く神官を務めたといいます。どちらも長田彦ですね。

★ 筑前国風土記逸文には西海道風土記の示すところに宗像大神は最初に崎門山に居られたとあり、鞍手町誌はこの崎門山は六ヶ岳の一峰と比定。地名辞書では宗像郡の北端にある鐘埼の古名としていますが、山とは言えないような。また宗像神社文安元年の縁起に「室貴六嶽御著きあり、則ち神輿村に着き給ひ、その後三所の霊地に御遷座あり」と記されています。筑前国風土記拾遺にも同じ内容と「六ヶ岳とは風土記にいう埼門山これなり」と付け足されています。

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下地図は直方市教育委員会より縄文時代遠賀川の地図をお借りしました。大きな入海だったようで、古墳時代にはもう少し狭まっていたのでしょうが、宗像三女神が降臨した六ヶ岳(339m)は水際に立つ山だったということになります。先述の高倉神社も海のそばとなりそうです。

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鞍手町誌、香月文書などについては谷川健一著「白鳥伝説」と福永晋三著「倭の興亡」同氏ブログ「神功皇后紀を読む会」を参照しています。

この両神社の神官を務めたという長田彦(小狭田彦)とは、香月カヅキ文書によるとニギハヤヒの御子、天照日尊と市杵島姫の間に生まれた子孫で、本名・常盤津彦命のことであるいいます。天照日尊の15世孫だそうです。徐福の子孫ですね。市杵島姫であれば物部系でしょう。(小狭田彦はオサダヒコと呼ばれますが、原本ではササダヒコとかなが付されているそうです。福永氏は旧香月領の笹田が拠点だったと。)

小狭田彦は田道命の子孫ということなので、小狭田彦が徐福の男系子孫であれば、大彦の子孫である田道命の家系と女系で結びついたということでしょうか。

月氏は勝木とも書かれ、祖は小狭田彦。孫が日本武尊熊襲退治で功があって香月君の号を許されたそう。「香月文書」とは六岳神社と十六神社の宮司柴田家に伝わる文書であり、新北の熱田神社にも写しがあると。「香月世譜」は井原家に伝わっており、これは貝原益軒の養子が香月牛山のまとめたものを書写したものだそうです。(福永)

香月文書の系譜には物部の名前がチラホラ見えるそうです。

以上のことから、成務天皇の時に市杵島姫の子孫である小狭田彦(物部系)宗像三女神の祭祀を始めており、それは第2次物部東征で大和へ進出した後に景行、成務天皇らが各地を平定していったという時期に重なります。出雲王家と宗像三姉妹が婚姻していた時代(紀元前2世紀)のずっと後の時代(4世紀初め~)になりますね。

それから前回も書きましたが、日本書紀に水沼君が宗像三女神を祀ったとあり、水沼君は旧事本紀では物部阿遅古アジコ連の末裔でしたので、この六ヶ岳で繋がりが見えてきました。水摩(水沼)の姓は鞍手郡鞍手町に集中しているそうです。旧事本紀によると物部阿遅古連は物部麁鹿火アラカイと従兄弟らしく、そうであれば磐井の乱の後、水沼君がこちらへ進出してきたのでしょうか。

 

次に香月文書によると、小狭田彦の娘、常磐津姫と日本武尊の間に生まれた御子、小磐削ノ御剣王が父とともに東征し駿河の焼津で軍功があったので、祖父の景行天皇から武部ノ臣の称をもらったとあります。(出雲伝承では景行、成務、仲哀天皇の事績のいくつかを架空のヤマトタケルのこととしていると伝えています)

日本書紀には日本武尊の子の子孫に武部君という名がみえます。また日本書紀景行13年に天皇日向国の御刀媛を妃として豊国別皇子をもうけ、日向国造の祖となったとあります。御剣王と御刀媛、親子みたいな名前ですね。香月氏葛城襲津彦の末裔でもあるらしく、出雲伝承では日向襲津彦のこと。どこかで繋がるのかなと。

香月家譜には「香月君が、東方に遠征した日本武尊の帰還を、香月の地で待っていた」とあるそうです。出雲伝承の「親魏和王の都」によると、景行大王の代になると、大和副王の加茂家には関東の国造家から多くの貢物が届いたけれど、大王家にはそれもなく、税も集まらず、軍に参加する豪族も少なかったといいます。景行大王は仕方なく自ら遠征に出掛け、まずは物部の旧支配地九州へと向かいました。ところが豊前国で后の八坂入姫が亡くなってしまい、勝山に行宮を建てて留まりお墓(綾塚古墳)を築きます。その地方は「京都みやこ郡」と呼ばれました。さらに祖父のイニエ王崇神の墓を日向国の生目に築いたそうです。九州平定を終え東国へ遠征した後、近江国の高穴穂宮に着きますが、結局大和へは帰れずに没したということです。主に景行大王の事績を辿らせたというヤマトタケルも大和には帰れずに、帰郷の想いを募らせる歌があの「大和は国のまほろば‥‥」(古事記)です。日本書紀では景行天皇が日向で詠んだとしています。鞍手の地で日本武尊の帰還を待っていたのは、共に戦った息子、御剣王でしょうか。

香月文書の続きを要約すると、日本武尊4世孫に加那川彦王がいて、新北の神主になったとあり、金川家の始祖であるようです。この金川とは剣岳麓に建つ熱田神社宮司家です。神社由緒によると、景行27年に日本武尊がこの地に立ち寄ったことに始まり、鎌倉時代になって尾張国の熱田大明神を勧請したとのこと。宮司家に伝わる古文書があるそうですが公表はされていません。ネット上ではその内容として、磐井は大彦の血を引く筑紫国造であるとか、鞍橋クラジノ君は金川家の祖先であり、葛子の弟という情報も見られます。鞍手町誌によると金川家の家譜には「闇路公」という字も見られるとあります。

筑紫国造鞍橋君とは日本書紀の欽明15年(554)に弓の名手として記されている人です。大和朝廷軍として百済救援に向かい、百済の王子を助けたことで褒めたたえられています。

まとめると、葛子の親族の鞍橋君が金川家の系図にみられ、磐井の乱から27年後の欽明天皇の御代で大和朝廷軍として活躍したということになります。なので磐井が金川家の姫と婚姻関係にあった可能性があります。田道命と小狭田彦の家系は親戚間で婚姻が続いていたのかもしれません。

 

香月文書に戻ります。小狭田彦の子孫、加那川彦王金川家始祖)は新北、室木の神官を任ぜられ、それとは別に孫の大満子は香月本家を継ぎ香月君となりました。大満子は養嗣子(跡継ぎのための養子)として倭男人を迎えますが、この人は磐井の乱において朝廷側の物部麁鹿火を助けて戦ったそうです。つまり香月君は朝廷側についたのです。親戚内での分裂ということになります。また磐井の子、北磐津が許しを乞うたので、倭男人が憐れんで奴僕としたとも書かれています。北磐津は金川家の伝承には現れないようなので、また別の母を持つのでしょう。

かなりややこしくなってきましたが、あと少しです。

鞍橋君は金川家の血筋を持ち、先祖はニギハヤヒと市杵島姫であり、なおかつ日本武尊(おそらく景行天皇)の子孫です。葛子については可能性はありますが断定できません。また香月は勝木とも書くそうで、宮地嶽神社の祀る勝村、勝頼大明神の勝と関係があるのかも。そして景行天皇の血筋であれば物部。藤大臣(物部)とも繋がります。

勝村大神=藤高麿

勝頼大神=藤助麿

ヤマトタケルの東国遠征での香月君の軍功と、神功皇后三韓征服で軍功があったという藤大臣を重ねているとか。

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)で安曇氏を祀っていると言われているそうですが、今回調べた鞍手の神社や小狭田彦の家系の伝承に従えば、香月家の血筋の者とは考えられないでしょうか。そうなると物部王朝の後継者となり、安曇氏とはまたちょっと違ってきますが。

  

最後に大彦の子孫、安倍宗任アベムネトウについて少し。

時代が下りますが、前九年の役(~1062年)で源氏に敗北した陸奥国安倍宗任は、その抜きんでた才覚によって死罪にするのは惜しいと源頼義親子が朝廷から貰い受け、伊予⇒太宰府⇒宗像郡の大島へと流され、そこで宗像氏のもとで日朝日宋貿易を手伝い活躍したそうです。子孫には肥前の水軍、松浦党を起こした者や、宗像大宮司神職についた者もいて、宗像地方に安倍や阿部姓が多いのは宗任の子孫の可能性もあるようです。宮地嶽神社の元宮司といわれる阿部氏もそうなのでしょうか。それとも筑紫国造田道命以後の時代でしょうか。

九州北東部は古来より出雲分家の宗像家だけでなく、筑紫国造田道命、東北の安倍氏など大彦の子孫の繋がりが濃いことが見えてきました。これまで九州においては安曇族の阿部、安倍ととらえてきたところをもう一度確認する必要がありそうです。

 

次回、いよいよ筑紫舞に迫ります。