第1次物部東征~八咫烏と八岐大蛇
第1次物部東征で紀ノ川の名草軍に撃退された物部軍は、海路で熊野へ向かい、熊野川中流の中州に本拠地を置きました。
大和葛城ではすでに主力となる勢力はなく、出雲王家の分家である登美家は、次は物部が大和を統一するだろうと見越します。
出雲の伝承です。
登美家の大鴨建津乃身オオカモタテツノミは物部と共に政権を作ることを目的に、物部軍を熊野から大和へと案内します。物部氏はこれを「鳶トビの道案内」や「八咫烏ヤタガラスの道案内」と呼びました。八咫烏とは3本足のカラスを指し、中国の神話では三足烏と言われ、太陽に住むので太陽のシンボルとされます。登美家は三輪山の太陽神を崇めているので、建津乃身を八咫烏に例えたと言われています。熊野の人々は新宮市に八咫烏神社を建て、熊野大社など熊野三山では八咫烏を眷属神として祭り、建津乃身の子孫は京都の加茂神社で八咫烏神事を行っています。磯城登美家はこの建津乃身の時から正式に加茂家と呼ばれました。
神戸市にある弓弦羽神社のヤタガラス
日本サッカー協会のシンボルにもなっていますね。勝利へと導く守り神です。
物部軍は八咫烏の案内によって熊野山地を北上し、国栖くず→宇陀→墨坂→磐余いわれ(登美家の地盤)へと到着します。イワレ彦(神武天皇)という名はこの地名からつけられたようです。
日本書紀では墨坂を越えたのち、皇軍がナガスネ彦(大彦)と苦戦している時、突然金色の鵄トビが飛んできて天皇の弓の先にとまります。鵄は光り輝いてナガスネ彦の軍勢を幻惑します。トビとは登美トビ家でしょうか。
京都の賀茂神社(上賀茂神社、下鴨神社)では金鵄きんしと八咫烏は賀茂建角身カモタテツノミの化身とされています。
出雲の伝承によると、熊野から磐余に着くまで、戦いはなかったということです。記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も出てきます。そして物部軍が勝つたびに神武天皇は歌います。わざわざ戦いの場面を多く描き、天皇に何度も歌わせるのですから、書き手の意図が何かあるのではないかと深読みしたくなります。例えば、こんな歌があります。
「宇陀の高い山城で、鴫しぎを獲る罠を張った。ところが私が待っている鴫はかからず、大物のクジラがかかった」
鴫というのは川辺に住む鳥です。それを山に捕まえに来たら海の王者、クジラがかかったというのです。変ですよね。シギというのは磯城シキ王朝にかけているのかなと思えますが、クジラとは何を指しているのでしょう。古代朝鮮語で鷹をクチというのだとか、諸説ありますが、どれもすっきりしませんでした。そこで出雲の伝承から読み解くと、(これはSorafullの推測ですが)、八咫烏とは登美家です。登美家は事代主の子孫です。事代主は海の神、えびすでもあります。えびすは漁業の神としてのクジラのことでもあります。つまり出雲の事代主をクジラと例えたのではないかと。古事記が書かれた時代にクジラを現代と同じ意味で使っていたかどうか、検証しなければなりませんが。
【2019.12月追記】御所市に「櫛羅くじら」という地名があることがわかりました。以下の記事で紹介しました。
東征の続きに戻ります。磯城王朝の兵は北に移動しました。生駒山地で防備する者や、山城国の南部へ移住する者もいたようです。
175年頃、物部勢は大和入りすると、銅鐸を壊してまわり、代わりに銅鏡の祭祀を広めようとしました。また、登美家が手助けしたにもかかわらず、登美家の祭りの庭(霊畤)を占領し、三輪山祭祀を妨害しました。これは宗教戦争でもあったようです。大彦が物部と長く戦いを続けましたが、しだいに劣勢となり、大和の人々は銅鐸を地下に埋め、銅鐸文化は終わりました。183年頃、大彦は北へ退却します。大彦のその後については、下記の記事を参照してください。
大和の高尾張村にいた尾張一族は、物部勢力に圧され、一部は紀伊国の高倉下の子孫と合流、残りは摂津三島へ。そこで尾張家と分かれた海家(海部氏)は先祖の地、丹波へと引きあげます。残りの尾張一族は伊勢湾岸へと移住し、熱田神宮を建て勢力を伸ばし、のちに尾張国と呼ばれるようになりました。
時代は遡りますが、ここでヤマタノオロチ伝説を紹介します。
高天原から追放されたスサノオは出雲の斐伊川に降り立った。上流の鳥上の山に老夫婦と泣いている少女がいた。老夫婦は大山津見の子のアシナヅチとテナヅチ、娘はクシナダヒメ(櫛名田姫、奇稲田姫)。もとは8人の娘がいたが毎年1人ずつ八岐大蛇ヤマタノオロチに食べられてしまい、この娘が最後の1人という。大蛇の目は赤く燃え、8つの頭と8つの尾を持ち、谷を8つと山の尾根を8つも渡るほどに大きく、腹からは赤い血を垂らしている。
スサノオは大蛇を退治するかわりに、この娘を嫁にもらうと約束をする。スサノオは娘を櫛に変えて髪に差すと、夫婦に8回醸した酒を造らせた。8つの門を立て、そこに酒を入れた8つの樽を置いた。大蛇が現れ酒を飲んで眠ったすきに、スサノオは十握剣とつかのつるぎで大蛇を斬り刻んだ。流れた血で川は赤く染まった。その時剣の刃が欠けたので見てみると、尾の中から大きな剣が出てきた。それが草薙剣くさなぎのつるぎである。スサノオはこれを天照大神に献上した。スサノオとクシナダヒメは出雲の須賀で暮らすことにした。その時に、
と歌を詠んだ。宮ができるとアシナヅチに「我が宮の長となれ」と言って、稲田のスガノヤツミミと名付けた。クシナダ姫はヤシマジヌミという御子を生んだ。6代孫がオオナムチノ命である。
以上は記紀を織り交ぜてまとめましたが、これでもかというほどに「8」の多いお話です。
それでは名前から見ていきましょう。八岐ヤマタは幸姫命の別名、八岐ヤチマタ姫。大蛇オロチは出雲の龍蛇神。老夫婦の名前はサルタ彦大神の別名、足男槌アシナヅチ、手男槌テナヅチと同じで、しかも父は大山津見(クナト大神)というので、ここで幸の神三神が揃いました。老夫婦が酒を造りますが、出雲王は酒の神でしたね。
クシナダヒメは出雲の初代オオナモチ、菅之八耳王スガノヤツミミの后である稲田姫のことでしょう。スサノオとクシナダ姫が住んだ須賀の地名もこの菅からとったのでしょうか。ヤシマジヌミは2代オオナモチ、八島士之身です。日本書紀ではサル彦八嶋篠とも書いています。
大蛇の姿は8つの支流をもつ斐伊川でしょう。砂鉄が出るので黒い川ですが、ここでは赤い川になっています。製鉄のタタラの炎の赤でしょうか。
スサノオは徐福です。徐福が出雲へ来た頃、星を拝むために山へ登った帰りに、出雲族が龍神(オロチ)を祭った斎の木のワラヘビを切って回ったそうで、出雲族と幾度も衝突したといいます。特に斐伊川上流の村で多く、「徐福が来た時、宗教戦争があった」と伝えられているそうです。
龍神信仰の出雲族にこのようなオロチ神を惨殺する話などあるはずもなく、ヤマタノオロチ伝説はのちの時代に創作されたものです。でも出雲ではこの話を神楽で上演し続けているところがあるそうで、なんとも不思議な現象です。
「八雲立つ出雲八重垣」の歌はスサノオのオロチ退治を前提とすれば「八雲断つ=出雲断つ」のほうが自然です。出雲八重垣は出雲王国の法律、出雲八重書きのこと? 妻籠というのが単に妻と籠るという意味なのか、何か裏の意味があるのでしょうか。柿本人麻呂の歌だとすれば、単純な解釈ですませるはずがないのでは。謎めいています。
【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、この和歌は出雲族が作ったものであり、妻籠=婦女暴行を禁止する法律を制定し、これが出雲八重書きの中でも特に良い法律であると喜んだ歌であるということです。つまり一夫多婦を禁じた一夫一婦の掟だと。ただし有力豪族は他国と同盟を結ぶために一夫多婦は許されたそうです。
最後に剣について。大蛇の尾から出てきた草薙剣クサナギノツルギは三種の神器のひとつです。別名を天叢雲剣アマノムラクモノツルギといいます。記紀ではヤマトタケルの話の中で名称が突然変わります。もとは天叢雲剣です。さらにヤマトタケルはイズモタケルを討つ直前に、斐伊川で剣をこっそり交換しています。これも意味深ですね。
出雲の伝承では海村雲が初代大和の大王に就任したお祝いとして、出雲王家が天叢雲剣を贈ったと伝えられています。(記紀では村雲は神武に変えられました。)海王朝が終わって磯城王朝以後はこの剣を尾張家が持ち、磯城ッ彦系(登美家)大王には渡さなかったそうで、そのため磯城王朝では曲玉の首飾りを王位継承のシンボルとしたと言われています(曲玉の原石の産地である出雲王国は、古来より曲玉の首飾りを王族や連合国豪族のシンボルとしていました)。天叢雲剣は現在、尾張家の建てた熱田神宮のご神体となっています。三種の神器がバラバラに保管されている理由のひとつが、ここにあるのかもしれませんね。
和国大乱(147~188)の経過を出雲の伝承をもとにして簡単にまとめておきます。年代はおよそということで記します。
150年 ヒボコの勢力が播磨へ侵攻
大和の豪族同士の覇権争い始まる
160年 吉備のフトニ大王が出雲王国を攻撃(第1次出雲戦争)
165年 物部五瀬が東征を開始(第1次物部東征)
175年 物部勢の大和入り
183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却
中国史書による年代の正確さに驚きます。この大乱の後、和国の人々はともにヒミコを立てて王とした、とあります。
第9代大和の大王となったオオヒビ(第8代クニクル大王と物部の姫のもうけた御子)は物部勢と協調し、添上郡春日の宮で政治を行ったといいます。このクニクルとオオヒビの父子について、伝承の中に差異が見られます。
オオヒビは物部の血をもつというのは共通しているのですが、クニクルとクニアレ姫の御子であるとか、クニクルと物部の姫君の御子であるといいます。クニアレ姫は登美家出身なので、たぶんこれが間違いではないかと思います。そうだとすれば、クニクル大王はまずクニアレ姫との間に大彦とモモソ姫をもうけ、その後物部東征によって物部の2人の姫君を后とし、そのうちのひとりとの間にオオヒビをもうけ、他方の姫君との間に彦フツオシノマコトをもうけているようです。この彦フツオシノマコトが紀伊の高倉下の子孫である山下陰姫との間に武内大田根、いわゆる武内宿祢をもうけます。その息子たちがこの後大和を大きく動かしていきます。
出雲の伝承を調べるには大元出版からの書籍に限られますが、個人の出版社であるために編集や校正が大手の出版会社のようにはいかないのも無理はないと思われます。できるだけ斎木雲州氏の書籍を中心にしてまとめていますが、斎木氏の中でも年代や婚姻関係など統一されていない記述がいくつか見られます。また王家以外の出雲旧家の古老たちからも伝承を集めているために、書籍によってどうしてもバラつきが生まれます。今後そのあたりを検証する必要もあるかと思いますが、まずは出雲の伝承による歴史の大きな流れをつかみたいと思っていますので、ご了承ください。