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源流なび Sorafull

纒向のヒミコと箸墓と

後漢書三国志の魏書に記された「卑弥呼」の話へと進めつつ、前方後円墳の芽生えともいえる纒向遺跡について紹介したいと思います。

磯城王朝8代クニクル大王の后、クニアレ姫は登美家出身の三輪山の姫巫女ヒメミコです(登美家は出雲事代主の分家)。娘の百襲モモソも後を継いで姫巫女となりました。三輪山の祭りは代々登美家、磯城家の姫君が司祭してきました。【2019.11月追記】「出雲王国とヤマト政権」ではモモソ姫は登美家分家の太田家の姫としています。

モモソ姫の人気はしだいに高まっていったそうです。繰り返しますが、当時はヒメ・ヒコ制といって政権者(ヒコ)と女司祭者(ヒメ)による祭政一致の時代です。これをマツリゴトといいます。

三輪山の西南にある鳥見とみ山(旧登美山)の山頂が聖地とされ、祭りの庭(霊畤れいじ)でした。三輪山にこもる太陽の女神を遥拝します。春と秋に行われる大祭には近畿の豪族だけでなく、大和から移住していった豪族たちも遠方から泊りがけで集まるようになりました。その時の宿泊施設が登美家領地の太田村、纒向まきむくにありました。太田村は代々三輪山祭祀をする出雲系姫巫女の住むところです。モモソ姫の神殿も建てられました。

※出雲の伝承では「巻向」の字を使っておられますが、ここでは「纒向」を使います。

豪族たちは地元の土器に土産物を入れて纒向に持参しました。近年見つかったこの遺跡からは、近江や東海、関東の土器が6割、瀬戸内や吉備のものが1割、その他山陰や北陸の土器も出土しています。九州系がほとんどないのが特徴ですね。

祭りには物部氏の方式が一部入っていたそうです。榊を根から抜き取って(幸の神)、枝に神獣鏡(物部の道教)を付けます。幸の神では鏡の丸い形は太陽の女神、木の根は男性のシンボル。男女の聖なる和合です。モモソ姫の兄、大彦は物部嫌いのために鏡はいっさい持たなかったそうですが、大和に残ったモモソ姫は物部と協調する道を選んでいったのかもしれません。

物部勢の大和侵攻による争乱のあと、モモソ姫の三輪山の大祭によってようやく大和は統一へと向かうことになります。オオヒビ大王や物部の武力よりも、モモソ姫の祭祀力、宗教力を支持する人々が多かったようです。その結果、第1次東征をした熊野系物部勢もしだいに磯城王朝にとりこまれていきました。

 

さて、出雲の伝承では、このモモソ姫が後漢書や魏書に書かれた1人目のヒミコだとしています。(卑弥呼は蔑字なのでヒミコとします)ヒメミコのメが省かれヒミコと聞き取り表記されたのだろうということです。いわゆるヤマタイ国の親魏和王のヒミコとは別人です。なので纒向がヤマタイ国でもありません。

中国からみれば、和国の政治は最終的には巫女の神託によって決まるので、その存在は「女王」とみなされるのでしょうが、和国ではあくまでヒメ・ヒコ制による祭政一致です。ただどちらかというとヒメのほうが民衆から尊敬されていたようで、これは母系家族という土台による影響もあったのかもしれません。

三国志の魏書を見てみましょう。

「神霊に通じた巫女で、人々を心服させた。年を取っても夫を持たず、弟がいてマツリゴトを補佐した。女王になってから直接会った人は少ない。侍女を千人かしずかせ、1人の男が食事の世話をし、内外を取り次いでいた。居室、宮殿、物見台、城柵を厳かに設け、常に武器を持った者が警護していた」

 

纒向遺跡は南北1.5㎞、東西2㎞の広大な面積をもちますが、1971年より発掘調査が始まったにもかかわらず、住宅地ゆえまだ2%ほどしか調査されていません。

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この遺跡は2世紀末から3世紀の初頭頃に誕生したとされています。通常の集落の様子はなく、初の都市、または首都として造られたのではないかとも言われています。巻向駅の近くには大型の建物群跡も現れました。3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて、中心となる建物は現代の3階建ての高さをもち、南北約20m×東西約12mもある高床式神殿です。すでに大陸の宮殿文化を取り入れています。柱穴も丸ではなく四角であったりと、どの面からみても日本初の非常に高度な技術を持った規格性の高い建造物であるようです。弥生から古墳時代にかけてもこのような遺跡は他に発見されていません。

〈注〉下図は縮図ではなく大まかに位置関係を示したスケッチです。

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建物の周りは柱列で囲まれていたようで、柵などで遮蔽された場所と考えられています。魏書に描かれた様子と同じですね。

ベニバナやバジルの菜園、桃園もあったようです。なんだか素敵です。さらに運河も整備されていた可能性があるといいます。水を用いた禊の場や水洗トイレの機能まで備えていました。

✽余談✽ モモソ姫だから桃というわけではないですが、遺跡から桃の種が2千個以上も出たことが話題になりました。中国でも桃は邪気を祓って不老長寿を叶えるといわれます。日本ではイザナギが黄泉の国で雷に襲われた時に桃の実を投げて助かります。桃太郎は鬼退治に行きます。出雲の遺跡では桃の種の入った甕が十文字(X印)に5個並んで発掘されました。魔除けのためだといわれます。種ではなく実に威力があるようです。桃は女性のホト(女陰)を表します。ホトの呪力ですね。

 魏書のいう「弟がマツリゴトを補佐した」というのは、ヒメ・ヒコ制のヒコのことでしょうか。オオヒビであれば異母弟です。世話をした男というのは伝承では登美家9代当主のオオタタネコ大田田根子)です。太田の地名の由来となった人です。魏書がヒミコの弟と世話をした男を同一人物として書いているようには思えないのですが、伝承では同一として扱っているようです。

オオタタネコはのちに三輪山の男性司祭者、大神神社の初代神主といわれます。

【2019年11月追記】オオタタネコは「親魏和王の都」では登美家9代当主としていますが、「出雲王国とヤマト政権」では登美家分家の太田家としています。モモソ姫も太田家の姫であると伝わり、オオタタネコの姉ではないかと。

記紀ではヒミコについて全く触れません。男の王ではなく姫巫女が戦乱を治めたとか、親魏倭王という魏の属国であったことなど、のちの日本国としては隠しておきたい内容です。なので日本書紀ではモモソ姫がヒミコではないとするためなのか、夫がいたことにしています。相手は三輪山の神さま、大物主(出雲事代主の神霊)ですが。こんなお話です。

倭迹迹日百襲姫ヤマトトトヒモモソヒメ大物主神の妻になった。夫はいつも夜にだけやってくる。妻が「あなたのお姿を明るいところで見たい」と願うと「明日の朝、櫛箱に入っていよう。けれど驚かないでほしい」と夫は言った。朝になって櫛箱を開けると小さなオロチが入っていた。妻が驚いて叫ぶと、オロチは恥じて人の姿となった。怒った夫は三輪山へ飛んで帰ってしまった。妻は悔い、どすんと座り込んだ。そのとき箸でホト(女陰)をついて死んでしまった。それで大市に葬った。その墓を箸墓という。

この奇妙な話によって箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓とされ、今は宮内庁が管理をしています。ヤマタイ国のヒミコの墓として騒がれたことがありましたが、年代がそれよりは新しいとの見方が強いです。

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箸中大池より撮影

全長が280mもある日本最古の大型古墳で、周濠をもち、段築構造(階段状のピラミッド構造)をとっていて水面から上(後円部で30mの高さ)はすべて人工的な盛り土です。自然の山をもとにはしていないのです。表面は葺石がなされていて、墳丘の石はなんと大阪産らしく、日本書紀にも大阪から運んだことが記されています。後円部からは楯築由来の特殊器台や特殊壺の後期のものと、特殊器台から派生した最古の円筒埴輪が出土しました。

ところが勝友彦著「親魏和王の都」では箸墓は大和姫のものだとしています。墓は出雲の土師ハジ氏が造ったので土師墓と呼んだそうです。大和姫はモモソ姫より少し後の人です。第2次物部東征のあと、登美家の大和姫は三輪山の太陽の女神を避難させるためにいったん丹後国真名井神社(元伊勢)へ、そして伊勢の五十鈴宮(伊勢神宮内宮)を創建してそこに祀ったといわれます。出雲の向王家の血筋なので向津姫ムカツヒメとも呼ばれていたそうです。日本書紀ではモモソ姫の名前の前にヤマトトトヒと付け足して、大和姫とモモソ姫をつないでいるようにも見えますね。迹迹日の迹という字は「あと、足跡」という意味があります。

モモソ姫のお墓は登美家が造っていた纒向の初期の古墳の中にあるだろうと言われています。有力なのは纒向石塚古墳。3世紀初頭に造られた全長100mほどの最古級の前方後円墳ですが、残念なことに第二次大戦で高射砲の陣地を置くために、墳丘の上部が高さ8mぶんほど削りとられてしまったそうです。周濠からは楯築由来の弧帯文様が彫られた弧文円板という祭祀用品が出土しています。

古墳の形を見ると石塚古墳は箸墓に比べ前方部の割合が小さいですね。写真右下ピンクの囲み、これも大まかですが参考までに。

魂の再生を願って、後円部を子宮、前方部を産道とする説もあるようです。

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 北西の勝山古墳の周濠からは鮮やかな朱塗りの板切れがたくさん出土しました。祭祀に使ったあとに割って穢れを落とし廃棄したともいわれています。ここ纒向でも出雲や吉備と同じように辰砂(朱)を葬儀に使っていたのですね。

【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、箸墓古墳はモモソ姫の墓としています。年代測定は土器に付着した炭化物を調べており、土器は古墳ができた後に持ち込まれたと考えられるからということです。また斎木氏も「古事記の編集室」でひと言触れておられるのですが、この古墳は江戸中期までは円墳(径150m)だったといいます。このことは「出雲王国とヤマト政権」P.314~に詳しく説明されています。

 

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前方後円墳古墳時代が300年も続いた後、6世紀になると大豪族、蘇我氏の台頭とともに突如方墳が現れます。そして蘇我氏は仏教を日本に広め、日本初の寺院を建立します。この新たな風によって古墳時代は終焉を迎え、中央集権化とともに寺院建築の時代へと突入していきます。豪族や大王といった地方の権威のための前方後円墳ではなく、これからは大国と並ぶために仏教を取り入れた新しい国へと転換しようとしたのです。

 

モモソ姫のこと

和国大乱を治めたモモソ姫とは、その時代の中でどのような存在だったのか、ますます気になります。長い争いにうんざりした人々が、神の声を求めていたという状況があったのだとしても、モモソ姫を信頼する理由はなんだったのか。武力でも制御できない民衆の心をつかむ魅力とは? そして何より物部の野心をも鎮火していったモモソ姫の力とは何なのか、このところずっと考えていました。

以前イメージしていたヒミコは、大昔のシャーマン的呪術力で民衆を先導したといったベタなものでした。ところが今モモソ姫を思って浮かんでくるのは、出雲王国のことなんです。

そもそも出雲は武力ではなく、言葉で国を治めました。昔は言葉で説得することを「言向ことむけ」と言ったそうです。「言向ける家」の意味からムケ(向)王家と呼ばれ、それがムカイ王家の由来です。その王国は権力ではなく同じ信仰によって結ばれていました。初代王の名は八耳王。豪族たちの意見によく耳を傾けたからといいます。記紀風土記には主王と副王が各地を巡り、病を治す方法を教え、温泉を開き、酒造りを広め、百姓たちには鳥獣や虫の災いを防ぐまじないを教え、国造りをしていった様子が描かれています。出雲では玉造りや製鉄の交易によって国を豊かにしました。そして異民族の脅威においても戦うのではなく融合するという選択をしました。

春秋の大祭では王の后が司祭者となりました。王の政治と后の祭祀によって国をまとめていったのです。これはヤマトでも引き継がれ、初代大王海村雲とタタラ五十鈴姫に始まり、8代クニクル大王の姫君、モモソ姫へと受け継がれました。王国誕生から700年を超えて続く精神的文化です。和国大乱という混乱に陥ったとき、かつての宗像三姉妹がそうであったように、モモソ姫はこの国の歩んできた歴史の最前線に立って、そして母系家族制の頂点ともいえる民衆の母として、自身に与えられた使命を全うしたのでしょう。そしてモモソ姫を拠り所とする人々を目の当たりにした物部軍は、この脈々と続いてきた出雲と大和の信仰心に支えられた文化に敬意を払うほかなかったと、そんな風に思えてきました。第2次大戦後、アメリカが昭和天皇を処罰せず象徴という立場に置き換えることで事を治めたように。その1800年も前にすでにこの国は、信仰と一体となった王家を尊び心の拠り所とする民族となっていたのかもしれません。

700年代に作為的な国史が編纂された時でさえ、出雲を抹殺せず神話という形に変え、さらに大国主を讃える言葉がそこかしこに滲み出ていることを見れば、政治史以上に、この国の人々が大切にしてきたものが浮かび上がります。

日本は無宗教の国と言われます。それは既存の宗教の枠に入らない、無意識化するほどの長きにわたる精神文化がすでに根付いているからかもしれません。これが縄文時代から続くこの国の、目に見えない信仰ではないかと思うのです。