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源流なび Sorafull

平群王朝から蘇我王朝へ

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記紀ではこの系図のように、ホムタ大王(応神)の御子がオオサザキ大王(仁徳)ということになっていますが、出雲伝承はそこに血の繋がりはないといいます。

 

物部王朝が終わって次に現れたのが平群へぐり王朝です。

神功皇后と武内ソツ彦の三韓征服によって多くの年貢を得られるようになり和泉国に巨大古墳が次々と造られる時代に入ります。この時期、武内宿祢(大田根)の子孫たちが勢力を伸ばしていました。

武内臣ソツ彦⇨葛城氏

平群臣都久⇨平郡氏

紀臣角⇨紀氏

蘇我臣石河⇨蘇我氏

許勢臣小柄⇨許勢氏

奈良県生駒の平群地方に住んでいた平群ツク王は、分家にその地を任せて紀ノ川河口に移住し、三韓からの年貢を納める倉庫を紀伊国造家とともに管理しました。このツクの子孫が平群王朝を築いて、そこから和の五王が出たということです。

和の五王とは✽✽✽中国史書に登場する5世紀の5人の和王、讃、珍、済、興、武。この1文字で記された五王が誰なのか諸説あり。九州王朝の王とする説も。通説では履中、反正、允恭、安康、雄略とされる。ただし記紀の中に中国史書に対応するような記述がなく、結論が出ないままとなっている。

実際に三韓征服の功労者はソツ彦王だったのに、関係のない平群ツクが大王家となったことにソツ彦の子孫たちは不満を持っていて、たびたび反乱を繰り返したそうです。(年貢を納める倉庫を管理する中で、平群氏が財力を増していったのかもしれませんね)

出雲の伝承の中で明確に説明されてはいないのですが、こうなるとオオサザキ大王(仁徳)とは平群ツクのことと読めなくもありません。それならホムタ大王(応神)と親子でないことは明らかです。

ちなみに日本書紀の中で不思議な話が挿入されているので要約します。

 

『オオサザキノ尊が生まれた時、産屋にミミヅクが飛び込んできた。同じ日に武内宿祢の息子が生まれたが、そこにはミソサザイが飛び込んできた。それを知った応神天皇は、これは天からのおめでたい印だから、その鳥の名をとって互いに交換し、子どもの名前につけることにしようと仰った。そして太子の名は大鷦鷯オオサザキノ尊、武内宿祢の子は木菟ツクノ宿祢(平群臣の祖)といった。』

 

スズメ目のミソサザイという鳥は国内で最も小さい野鳥のひとつらしく、名前の由来をみると、古くはサザキといって小さい鳥の意味をもち、のちにサザイと変わり、さらに山の渓流(溝)のそばに生息することからミソが追加されミソサザイとなったといいます。どうして天皇にあえて「小さい鳥」という名をつけたのかわかりませんが、とりあえず「大」をつけてオオサザキとしているところが面白いですね。

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一方ミミヅクは木菟とも書きます。古くはツク(木菟)と言いました。フクロウ科のうち羽角=耳があるものを呼びます。漢名はウサギの耳をイメージしているのでしょうね。母方が豊国出身でしょうか。

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そしてこの話のポイントですが、前回の記事で、仲哀天皇と武内宿祢の誕生日が同じだったという話がありましたね。これを2人の立場が入れ替わったとする見方もでき、つまり神功皇后の夫は仲哀ではなく武内宿祢だったことを暗示していると。今回の話もそれに似ていて、実はオオサザキ大王とは平群ツクであることをここで示している、と読めないこともないような。

神武天皇以降、代々ひとつの男系でつながっていることを記紀は記したかったので、物部王朝や平群王朝、そして蘇我王朝などいくつもあってはならないですし、女系でつながっていることには意味がないのでしょう。

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北陸のオホド王

さて、和の五王のあと平群王朝は親族同士で争いが絶えず、近畿では評判が下がり、王家に年貢を納める人が減っていきました。重臣たちも平群王朝を見限り、北陸のオホド王に白羽の矢を立てます。このオホド王とは蘇我家の入り婿です。

記紀では武烈天皇が暴君であり、後継者もいなかったことから、応神天皇まで遡って5世孫であるオホド王を探し出したということになっています。(注)武烈天皇は意図的に暴君として記された可能性があります。

それでは蘇我氏のルーツから紹介します。

武内大田根の子孫、蘇我臣石河は河内の石川郡(羽曳野市)に地盤がありましたが、その後大和の蘇我川付近に移住しました。そして玉類の生産のため北陸方面に進出します。本家は越前国福井県)に移住し、三国国造に任命されました。他の分家も次々と北陸に移住し、加賀国(石川県)、越中国富山県)でも国造となっていきます。

北陸から越後にかけては大彦の子孫たちが豪族となっており、国造となったものも多く、彼らは「道ノ公きみ家」と呼ばれました。

大彦とは✽✽✽磯城王朝クニクル大王と登美家の姫の御子、事代主の子孫である。記紀ではナガスネヒコと書かれた。モモソ姫の兄、そして安倍家の始祖。第一次物部東征に敗れ東国へ追いやられ、子孫はクナト国(いわゆる邪馬台国の敵国である狗奴国のこと)を造る。大和政権とは対立し、蝦夷えみしと呼ばれた。

  以下の記事に詳しく紹介しています。

 

北陸における蘇我系国造家と道ノ公系国造家はしだいに婚姻関係を結ぶようになり、両者ともに出雲の向家とも親族でした。さらに近江国の額田国造家や美濃の三野ノ前国造家とも親戚関係にあり、これら国造家たちが北陸方面に「蘇我・道連合王国」として結びついていたそうです。

そんな中、富家(向家)にオホドノ御子(次男、彦太)が生まれます。ということですので、記紀のいうように応神天皇の5世孫ではありません。

オホド王は越前国、三国国造家の蘇我刀自、振姫の婿となりました。大きな船を造って日本海交易を広げて財力を高め、北陸方面の中心人物となっていきます。旧出雲王家出身のため、関東の出雲系国造たちとも結びつきが強まり、そして北陸の蘇我・道連合王国の代表的存在でもあり、オホド王の勢力は大和平群王朝に匹敵するほどになっていたそうです。

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それがちょうど平群王朝の衰退期と重なって、次の大王としてオホド王に白羽の矢が立ったのです。

※オホド大王(継体)については斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」に詳しく書かれています。

 

蘇我王朝の始まり

蘇我振姫と離婚したオホド大王(継体)は、平群王朝オケ大王(仁賢)の娘である手白香姫を后とします。どちらの女性も武内宿祢の血筋ですね。蘇我振姫との間にはすでに2人の御子があり、のちにカナヒ大王(安閑)オシタテ大王(宣化)を名乗ります。手白香姫との間にはヒロニワ大王(欽明)をもうけますので、2つの系統の勢力が生まれてしまいました。飛鳥時代天皇家を凌ぐ権力をもった蘇我氏は、カナヒ大王の子孫です。【2019.5.21.訂正】この一文は削除します。

新しい樟葉くすはの宮河内国交野かたの郡樟葉(大阪府枚方市)に造られました。ここは旧出雲王国の領地のあったところに近く、三島氏など親しい豪族もいたようです。近江国尾張国の豪族たちも姫を嫁がせ、ますます勢力を強めていきました。これが現在に繋がる蘇我王朝の始まりです。即位した年は扶桑略記によると507年、大王はすでに58歳でした。

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足羽山(福井県)の継体天皇像 Wikipediaより 撮影立花左近

 

オホド大王は大和で玉類(勾玉や管玉)の生産に力を入れました。北陸からは緑色凝灰岩を、越後からはヒスイを、出雲からは碧玉(メノウ)を、下総からは琥珀を、奈良の蘇我里に大量に運ばせました。蘇我里の南方には忌部氏が住んで玉造りを始め、今は忌部町となっています。蘇我町からは曽我玉造遺跡が発掘され、数十万点の玉造りの遺物が出土しています。蘇我氏の揺るぎない財力源ですね。

 

時代が下りますが、飛鳥時代蘇我の本家を滅ぼしたのは中臣鎌足です。そして記紀製作の中心人物は息子の藤原不比等だと言われています。父が謀ったことが後世に残ることを恐れ、蘇我氏のことは極力隠す方針で記紀を創るように命じたといいます。日本の名家である蘇我氏を隠すということは、始祖・高倉下(初代ヤマト大王・海村雲の弟)以降の系図を曖昧にしていくことになります。高倉下の子孫、武内宿祢についても数百年も生きたとして、いかにも架空の存在として描いています。武内宿祢の子孫たちの関係も曖昧にされました。

古代出雲王国に始まり、徐福の渡来、海王朝、磯城王朝、卑弥呼月神、物部王朝、平群王朝、蘇我王朝と、あまりに多くの歴史が伏せられたまま今に至ります。

 

 

 さて、ここまで出雲王国のことを追って記事を重ねてきましたが、今なお、Sorafullはとても重大な事実を前にして、少々戸惑っております。

出雲の伝承の通り、継体天皇が今の天皇家の始まりであるとするならば、万世一系の男系始祖は出雲王家の向家に遡るということになります。継体天皇は向家次男。向家は事代主の家系であり、初代は菅ノ八耳王です。

縄文時代から続く最古の王国出雲は、繰り返す争いの果てに滅亡、やがて意図的に神話の中に閉じ込められ、歴史からも人々の記憶の中からも消えてしまいました。それから1300年の時を越えて荒神谷遺跡が出現し、古代出雲王国の存在は一部では認められつつあるとはいえ、多くの人の意識の中に「出雲王国」はないに等しいというのが現状だと思います。

そうでありながら、実は出雲王家の血脈が今も日本の皇統として続いているというのです。私たち国民が無意識のうちに慕う天皇家の中に。

結局は人間の作為など、この世を動かす目に見えぬ力には端っから太刀打ちできないのではないかと思えてきます。人の思惑を超えた大きな流れの中に、私たちは存在しているのかもしれないと、そんな畏れさえ感じてしまいます。

 

《補足》

ここであえて説明が必要かどうかわかりませんが、Sorafullはどの血筋に対しても敬意を払っており、こうでなければ困るというような意図は持っておりません。皇室がどのような血筋であろうとも、現在の両陛下を敬い、いつもその在り方に心を打たれている国民のひとりです。たとえ出雲の伝承のように皇統がそうであったとしても、それ以前からこの国土にもたらされた様々なDNAが混ざり合い受け継がれていることが事実であり、それがこの国の自然な姿だと感じています。

多様性という土台の上に心をひとつにしていこうとする、その完成形が皇室という存在なのではないかなと思います。