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源流なび Sorafull

神在月の旅⑵ 古代王宮・神魂神社と森の中の王墓

パワースポットとして神社も人気ですが、太古のパワースポットは人工物のないところだったはず。磐座や神木すらないただの空間のこともあったでしょう。しだいに岩や木を神の降りる場、依り代として祀り、聖域に結界を張るためにしめ縄を用いたり鳥居のようにわかりやすい人工物を置いたわけです。

奈良の大神神社三輪山御神体であり、初めは山の麓に鳥居を建てただけの古い形だったようです。だんだんそれではもの足りなくて社殿が作られるようになった。「ここは聖域」という区切りが必要になったんですね。

建造物としての素晴らしさもそれぞれにありますが、太古の人々はそういったものを必要としないほどに、見えないものを感受する能力が研ぎ澄まされていたのだろうと思います。現代でもそういう方はおられますが、かなり特殊なことになっていますよね。何千年何万年前には決して特別なことではなかったのでしょう。

コミュニケーションも人だけではなく動植物、大地、海、星々と感応し合って暮らしていた、つながっていることを体感として当たり前に知っていた。やがてそこに物語が生まれ、人間と様々な精霊たちが紡ぎだす豊かな世界観が現れたのだと思います。個人で区切られた現実の中に生きる私たちとは、次元が違いますね。

ただし日本の神話、古事記に関しては人間界の出来事を意図的に神話という形をとって描いているので、また別の話のようです。けれどその源を遡ることができればきっと、古代の感性が息づく世界が開けてくると思います。

 

国宝・神魂神社

出雲王国初代の八耳王は王川(現意宇川)中流の神魂かもすの丘の王宮に住んでいたといいます。そこが各地の代表が集まる祭りの庭(王神庭おうかんば)でもありました。北に茶臼山(神名備山)を、東にクナト王の隠る大山を遙拝し、感謝と祈りを捧げます。

紀元前6世紀頃の王宮ってどのようなものだったのでしょうか。想像がつきませんが、実は伝承によると王宮の形がそのまま神社の本殿になったというのです。つまり今も神魂の丘に佇む神魂神社が、古代の王宮を表わしているのです。もちろん建て替えはされているでしょうが。

神魂神社は大社造りの最古(1346年)のものとして国宝に指定されています。出雲では多くが大社造りなので、今回の旅でも目にするのはたいていこの形でした。妻入りの屋根が愛らしくて好きになりました。

 

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森の中にひっそりと佇む鳥居と参道。ずっと眺めていたいような落ち着きがあります。

 

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趣ある自然石の手水舎です。ここから急な階段を登ると・・・・

 

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拝殿の奥に高床式の本殿が現れます。思わずかっこいい~!と感嘆してしまいました。ドイツの建築家ブルーノ・タウトは日本の歴史的な建築美を高く評価した人ですが、この神魂神社を古代木造建築の傑作として賞賛したそうです。

Sorafullはこれまで写真では知っていたのですが、実物を見たとき、その品格のある美しさに驚きました。それを説明する建築的知識がないことが残念です。最古だという価値以上に、神殿そのものの素晴らしさに感動します。

 

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雨よけのために階段の屋根は妻入りとなり、もとは王の住居なので階段は狭く右に寄っています。

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床下は9本柱です。中央が一番太い心御柱しんのみはしら。のちに大黒柱として民間に広まります。出雲大社神魂神社を真似て建てたようですよ。

 

庶民は竪穴式住居に住んでいたので、こんな高床式の住まいを見上げるだけでも王の威光を感じたでしょうね。

そしてこの境内自体にもなんともいえない雰囲気があって、神宿る庭と言われればそんな気にもなってしまいます。深閑とした中に、こちらを揺さぶる何かがありました。

出雲大社神魂神社も建物としては大きさが違うだけです。出雲大社では歴史的建築物を観たという満足感でしたが、神魂神社は何か大事なものに触れた感動です。これが空間に宿る何か、なのでしょうか。

 

実はイザナミイザナギの名前はこの神社から始まったのだそうです。3世紀半ば、物部王国に占領された東出雲王家は王宮を明け渡します。物部王朝は3代で終焉となり、王宮は住んでいた物部の秋上家から返還されますが、向家は辞退しました。秋上家は王宮を神社にして、出雲の幸の神を祭ろうと提案します。ただし神の名前は変えて、クナト大神をイザナギノ尊に、幸姫命をイザナミノ尊とし、神社は神魂神社と名付けられました。主祭神イザナミノ尊です。

この秋上家の祖である占領軍司令官の物部十千根の古墳が八雲町にあったのですが、秋上家の人々は出雲を占領した歴史を覚えていてほしくないという思いから、古墳をイザナミノ尊の墓としたそうです。 

伝承ではここで初めてイザナギイザナミの二柱の神が登場したということですが、それ以前から日本になんらかの言葉として存在していたという可能性はないのでしょうか。これはSorafullの「なんとなくそんな気がする」というだけのことなんですが。

凪と波のイメージは、まるで物質が粒子と波の両方の性質をもつという量子力学を思わせます。この世に初めて形あるものを生み出していったイザナギイザナミにふさわしすぎるネーミングだと思いませんか?

もちろんその時代に現代の物理学が認識されているはずもなく、あるとすれば直観的に世界の成り立ちを感じ取っていたということです。見えない世界を感受して音として表現する。まさに言霊ですね。

 

 伝承では本殿の中は田の字にわかれていて、右回りに奥に進み、右奥が王夫妻の寝室だったとあり、神殿になってからはそこが神座だということです。ところが神社の説明では左回りで左奥に神座があるとしています。途中の立て替えで変わってしまったのでしょうか。

もうひとつ疑問があって、屋根の上で交差している千木(幸の神のX掛け印)の説明がややこしいのです。写真も字も不鮮明ですみません! 左の垂直に切られているのが縦削ぎ、右の水平のものが横削ぎと呼ばれています。

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通説では縦削ぎが男神、横削ぎが女神ということで千木をみれば男女神の区別がつくということになっているそうです。ところが伝承では縦削ぎが出雲系、横削ぎが九州物部系という違いだそうです。なので現在の神魂神社が横削ぎになっている理由は、王国滅亡後に住んだのが物部なので横削ぎに変化したと説明されています。

なるほど~と思いきや、伊勢神宮の内宮と外宮の説明が現在とは逆になっているんです。内宮は出雲→三輪の太陽神が遷座したので出雲系の縦削ぎ、外宮は九州系の月神豊受大神遷座したので横削ぎ、との説明なのですが、実際には縦横が逆なんですよね。これも長い年月の中で変化していったということなんでしょうか?

丹後の籠神社は主祭神が火明命で横削ぎ、奥の真名井神社豊受大神で縦削ぎ、なので混乱!よくわかりません。

 

余談ですが、受験生の息子にお守りを購入した際に、巫女さんが「合格祈願の御祈祷もなされていますが、これは勉学のお守りなので今回限りというのではなく、勉強を続けられている限りずっとお守りとして身に着けてもらってくださいね」と仰いました。お守りってその年限りだとばかり思っていましたし、それもなんだか使い捨てカイロみたいだなぁと感じていましたが、こんなふうに言って頂くと、より親身なものに思えますね。息子よ、生涯勉強~~! 

 

東出雲王墓

神魂神社の隣には淞南学園高校が建っています。神社前ですれ違う生徒たちはみんな体育会系の爽やかな挨拶をしてくれます。今はこの高校の校舎前に東出雲王墓があるんです。王墓へ行くには高校の敷地を少し歩かないといけないので、ひと言断りを入れたほうがいいと思います。

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光って見えにくいですが鳥居には出雲大神と書かれています。山道を少しいくと、

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東出雲歴代王の拝み墓(住まいに置くお墓)がひっそりと祀られています。縄文時代からのものです。

遺体は風葬のあと、熊野山の大岩の横に埋葬されます。その岩は磐座として崇拝されました。事代主もそのように埋葬されているそうです。

次回は事代主の最期の場となった粟島の洞窟を紹介します。

 

 

神在月の旅⑴ 出雲大社とかごめ歌

出雲大社では今、神在祭の真っ只中です。

でもこの神在祭と聞くたびにひっかかるものがありました。どうして神々が集うのが11月だけなんだろう。だって古代出雲王国時代には、各国の代表たちが集うのは春と秋の大祭なのだから、年に2度のはず。なのになぜ秋だけなんだろうと。

Wikipediaによると旧暦10月を指す「神無月」の語源として、出雲大社に全国の神が集まって会議するため出雲以外の地には神がいなくなるというのは中世以降の後付けであり、「神な月」ではなく「神の月」が元であろうと日本国語大辞典では説明されているそう。

そこで出雲の伝承を調べたところ、勝友彦著「山陰の名所旧跡」にありました。神在月とは龍蛇神が出雲に現れる月のことだそうです。なので神在祭。納得!

出雲族はインドで崇拝していたコブラに似た生き物を出雲の地で探し、海辺に打ち上げられるセグロウミヘビを龍蛇神として祀りました。沖縄あたりに住むこのヘビは、寒くなると対馬暖流にまぎれて山陰地方に流れてくるそうです。なのでセグロウミヘビが漂着する旧暦10月に龍蛇神をお迎えする神事が行われます。

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江戸時代に描かれた巻物

そして出雲以外で神無月と呼ばれるのは、もともと旧暦10月をかんなめづき(神嘗月)と言って神様に新米を捧げる月であったのが、漢字では神無月と書かれたために神がいなくなる月と誤解されたそうです。映画「千と千尋の神隠し」で八百万の神々が温泉に集まってくる場面が印象的でしたが、これも中世以降のイメージなのですね。ちょっぴり残念。

実際にお迎えするのは出雲族の崇拝する龍蛇神であり、打ち上げられたセグロウミヘビを捕まえミイラにして、龍神の依り代として祀られます。見た目はけっこう怖いです。

ちなみにこの神在祭で振る舞われる神在餅じんざいもち出雲弁ズーズー弁)で訛って「ぜんざい」と呼ばれるようになったとか。少し古い映画ですが「砂の器」の中でも出雲と東北のズーズー弁が殺人事件の大事な伏線として扱われていました。このズーズー弁は東北から北海道、そして離れた出雲と富山でも使われます。伝承では富山の旧射水郡に出雲の人が移住し、四隅突出墳を多く造ったとあります。

 

出雲大社の神在祭の少し前、11月20日から佐太神社(出雲半島の鹿島町)で神在祭が行われるということで、なんとか都合のつく20日に行ってみました。が、20日の夜に龍蛇神をお迎えするため、まだお祭りは始まっておらず龍蛇神にもお目にかかれずでした。主祭神はサルタヒコ大神です。3つの社殿の中央にいらっしゃいます。 

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出雲大社には何年か前に初めて参詣したのですが、なんというか、あっけないくらいに爽やかで驚きました。大きな公園に歴史的な建物がずどんと建っているような。もっと言えばテーマパーク的な明るさですね。勝手に古代出雲に抱いていたイメージ、厳かさ、幽玄さ、といったものが感じられなかったんです。どうしてだろうとずっと気になっていました。その後出雲の伝承に出会い、ここは王国が滅びた後に建てられたものであり、王宮があった場所でもなかったと知って腑に落ちました。やはりこういう体感というか、現地に行って感じることは大切なんだなと思います。

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西側の塀越しに出雲大社本殿を見る(1744年に造営)

もちろん現在の出雲大社の大きさには確かに威厳がありますし、その2倍の高さ(48m)だったというかつての高層神殿を想像すると度肝を抜かれます。でもそれもスカイツリーを見上げたときの驚きに似ているかもしれません。人がやってのけることへの驚嘆みたいな。

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 高層神殿模型

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2000年に見つかった三本柱(1248年造営)

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 鎌倉・室町時代の設計図

 

 

本殿の裏手には小さな素鵞社そがのやしろがあります。スサノオを祀っているということで結構有名みたいです。けれど伝承では違います。出雲王家に繋がる蘇我氏を祀ったということなんです。それに江戸時代になってから建てられた新しいもののようです。

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大国主の孫娘と徐福の息子との間にできた高倉下の子孫、紀伊国造家の子孫が蘇我氏であり、越前国の本家蘇我氏に婿入りした富(向)家の次男がオホド王、つまりのちの26代継体天皇ということです。出雲王家と北陸の蘇我家は婚姻関係をたびたび結んできたので親族なのです。

ここはさらりと流すわけにいかない重大な話なので、少し付け足しておきますが、25代武烈天皇に跡継ぎがいないことから15代応神天皇の代まで遡り、息子仁徳天皇の甥をたどって連れてきたのが継体天皇ということになっています。そして継体天皇の息子である欽明天皇が現在の皇室に繋がっているというのが通説です。

出雲王家によると、継体天皇は富家直系であり応神天皇の血筋ではありません。ここで天孫族である物部の男系は絶たれていることになります。ただし欽明天皇の母は武烈天皇の父である仁賢天皇の娘、手白香姫なので女系では繋がっています。蘇我氏飛鳥時代に別格扱いの権力を持ちましたが、それは継体天皇蘇我氏当主であった時の息子たちの子孫のようです。(手白香姫と結婚する時には蘇我氏の妻とは離婚しています)

ということは、今の皇室がこの継体天皇以降の男系で繋がっているとすれば、出雲王家の血筋ということになり・・・・とんでもない話になってしまうんです。

出雲の伝承では直接的には触れられていませんが、斎木雲州氏の著書「出雲と蘇我王国」というタイトルの意味がここにあるのかもしれません。

 

話を戻します。

もともと出雲大社(明治までは杵築きづき大社という)を建てたいと言いだしたのは、王国滅亡後に出雲国造となった徐福系ホヒ家の後裔です。701年に中央集権となり、それまでのように各地域の国造が支配する国家から、中央より任命された国司が政治を行うように変わり、国造の地位が落ちていきました。そこで国造は神社の神職に鞍替えすることを考えたのです。

両王家は出雲の神を祀ることを条件に資金を出しました。神門臣家は8代八千矛王(大国主)の遺体が祀られている竜山を拝む位置に建てるよう求めました。(竜山の北東すぐのところに大国主が幽閉された猪目洞窟があります)そして神門臣家が棟梁となり材木も神門川を流して運びました。向家は資金の多くを出したので社頭、経営者となります。716年に大社が完成する前には財筋たからすじのメンバーも勢揃いして、今後の運営の規則を作りました。どのような神事をするかなど「出雲と蘇我王国」に詳しく書かれています。

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これは航空写真ですが、大国主を祀る本殿のまわりに摂社がいくつも見えます。

筑紫社 ⇒ 宗像三女神の多岐津姫(大国主の后)

天前社 ⇒ キサカ姫(クナト王の妻、幸姫命の別名)

御向社 ⇒ もとは事代主だったのが変わっているそう

門神社 ⇒ 宇治から出雲に来たウマシウチノ宿祢命(額田部臣の祖)

れら出雲の神々を、背の高い塀が取り囲んでいます。

塀の外には渡来系の神々が。

釜社 ⇒ 中国の社稷神であるウカノミタマ神

氏社 ⇒ 天穂日ホヒ

まるで出雲国造たちが、塀の中に封じ込めた出雲の神々を見張っているかのようですね。

 

このようにして出雲大社は建てられたのですが、徐福系国造家はスサノオを祭神にしたいのが本音であり、それがのちのちまで尾をひきました。神仏習合や分離に翻弄されて祭神が大国主になったりスサノオになったりし、江戸時代にはスサノオ主祭神であるかのように読める漢文が鳥居に刻まれます。その後の立て替えの時期に国造家同士の権力争いを発端に素鵞社そがのやしろが建てられました。蘇我家のオホド王(継体天皇)を祀るという名目だったのですが、のちにこの字面を利用してスサノオへと変わっていったようです。1664年、神仏分離によって祭神は大国主にもどります。現在では主祭神大国主ですが、本殿後ろにスサノオが祀られていると思う人が多いようです。ややこしいですね。

 

最後に言葉遊びをしてみたいと思います。気軽に読んでくださいね。

本殿の背後には聖なる八雲山が、その左右に鶴山と亀山があります。これを見た時に思わず童謡の「かごめかごめ」を口ずさんでいました。

かごめかごめ

かごの中の鳥はいついつ出やる

夜明けの晩に鶴と亀がすべった

うしろの正面だあれ

この意味不明な童謡は、丹後海部氏の籠神社に由来する暗号唄と言われることもあるようです。宮司自らそう言われたという情報も流れているようですが真偽はわかりません。籠神社の神紋は籠目カゴメ紋です。カゴメ紋は六芒星ダビデの星とも言われ、ユダヤ教に由来します。

徐福が実はユダヤ10支族の一族出身ではないかという説もあります。ですが今回出雲のことを調べるうちに、この歌が出雲にも合うと感じるようになりました。

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籠目紋

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六芒星ダビデの星)      

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龍鱗枠(亀甲紋)

カゴメ紋というのは六角形の亀甲紋でもあり、出雲の紋の龍鱗枠(六角形)と同じです。籠かごといえば王の遺体を竹の籠に入れて風葬にします。あ、今気づきましたが籠という字は竹に龍ですね・・・・。籠もるとも読みますし。王の霊が宿る神名備山かんなびやまの「なびる」とは籠もるの古語です。竹籠に納めた王の遺体を風葬にして遺骨を山に埋葬し、その山に籠もる王の霊を遙拝したということです。

続けます。鶴と亀というのは実は男女を表わし、鶴が男性の象徴、亀は女性の象徴なのです。すべるが「統べる」であればひとつにまとめる、統合する、という意味になります。幸の神のXかけ印、男女の聖なる和合ですね。それは生命の誕生、再生の意味でもあります。

籠の中の鳥というのが出雲大社塀の中の神々を指し、闇の時代が終わり、夜明け前の最後の夜、聖なる和合によって再生が起こることを暗示しているともとれませんか。さらに出雲国風土記によると神門臣家(大国主)の名前の由来は神門を奉ったからとされ、これは鳥居のことのようです。「サルタ彦大神と竜」によると最初は2本の門柱のみ(出雲の生馬神社)であったところにしめ縄を渡し(大神神社)のちには横木となった。門であればそれだけでいいところが、さらに真ん中に短い縦の木を加え鳥とした。とは万葉歌では婿を表わし、女系家族の家には夜になると婿がくる。男女の和合は神聖でおめでたいこと。これが鳥居の由来としています。

そしてうしろの正面(=素鵞社)は誰なのか。伝承では蘇我継体天皇ですが、この唄を作ったのがどの時代かによっても変わってきそうですね。徐福や徐福の信仰する神々なのか、出雲の神々なのか。結局どのような解釈も可能で、それほどに日本で封じられてきた存在が多いということなのでしょう。

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 もうすぐ龍蛇様が到着する稲佐浜

 

 

 

隠された物部王国VSヤマト王国の誕生

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 筑後一宮、高良大社久留米市高良山)の祭神である高良玉垂命コウラタマタレノミコトとは誰なのか。古代史界では謎の存在であるようです。

九州王朝説の古賀達也氏によると、4~6世紀の九州王朝の都が筑後地方にあり、この高良玉垂命は天子の称号で歴代倭王であるとしています。さらに玉垂命の最後の末裔とされる稲員イナカズ家の家系図があり、初代玉垂命とは物部保連ヤスツラであると記されています。また高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡だと、穏やかではないことが書かれているそうです。

古賀氏は2008年に自身のホームページの中で「天孫降臨以来の倭王物部氏であったとは考えにくい」とし、これらの文書がうまく理解できないと書かれています。その後どういった見解になっておられるのかまだ探せていませんが、九州王朝を研究されている方でも、物部氏という存在はそれほど見えにくいものなのかと驚きました。

出雲の伝承では筑紫は2世紀まで物部王国だったそうです。蘇我氏出身の推古天皇(在位593~628年)が587年に蘇我物部宗家を滅ぼしたことを気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡に経津主フツヌシの神(物部の祭神。徐福の元の名である徐市ジョフツからきているよう)を鎮めるための社を建てました。その地を物部の郷といったそうですが、記紀に物部のことが書かれなかったことから忘れられていったといいます。

高良玉垂命は4~6世紀なので、大和への東征に参入しなかった物部の一派がその後も筑後に残っていたということでしょう。

古田武彦氏の九州王朝説では7世紀まで太宰府を首都とする王朝があり、白村江の戦いに敗北したのち大和王朝によって滅ぼされたといいます。この大和王朝とは九州王朝の分家であり、1~2世紀の神武東征によって近畿に勢力を移した王朝だとしています。

出雲の伝承によると、2世紀半ばに筑紫の物部軍が大和を侵略するため四国の南岸を通り紀伊熊野に上陸したのが第1次物部東征であり、続いて3世紀半ばの卑弥呼の時代に、物部と豊国の連合国が瀬戸内海から大和へ攻め込んだのが第2次物部東征であるとしています。記紀はこの2度の東征をひとつにまとめ、神武という架空の人物を描いているようです。

さて、物部東征の話に入る前に、大和の大王たちの話をしておかなければなりません。

 

向(富)王家を継ぐ者たち

出雲7代主王の天之冬衣と田心姫の娘、高照姫は徐福との間に五十猛をもうけます。注)出雲伝承には高照姫を8代主王八千矛と多岐津姫の娘とする場合もあります。

【2019.5.18 改定】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」より高照姫は神門臣家の八千矛王の娘と示されましたので、変更致します。下の系図も改定しました。

徐福が秦に帰国したのち五十猛は成人し大屋姫大国主・八千矛の孫娘)と結婚し、息子高倉下タカクラジが生まれます。高倉下はのちに和歌山の紀ノ川下流へ移住して、徐福の持ち帰った竹や梅などの植林を行います。木の国⇒紀伊の国⇒紀伊国造紀伊家へと発展してゆきます。子孫には武内宿祢タケシウチノスクネがいます。

五十猛はその後、母や秦族を連れて丹波国に移住し、海香語山アマノカゴヤと名乗ります。そしてニギハヤヒ(徐福)と市杵島姫の娘である穂屋姫と結婚し海村雲アマノムラクをもうけます。海家はのちに海部氏と名乗り、現在の丹後の籠神社宮司です。(国宝海部氏の系図の継承者)

記紀では「天」村雲と変えています。

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一方、事代主の息子奇日方クシヒカタはまず母の実家である摂津三島へ出雲人たちと移住します。

母、玉櫛姫(活玉依姫)は有力な豪族三島家出身だったので、出雲は摂津や瀬戸内の島々、伊予とも繋がりました。玉櫛姫は実家に戻ると水田開発を指導し、川の水を分けて溝(水路)を作り、両脇を板で囲んで杭を打ち込んだといいます。三島溝杭ミゾクイ姫とも呼ばれ、灌漑の神として崇められました。

クシヒカタはやがて奈良地方に王国を作ろうと考え、摂津の人たちも大勢連れて葛城カヅラギ地方、現在の御所市付近へ移住します(のちにカツラギに変わります。)当時奈良盆地の中央は沼地だったので、住めるところではなかったようです。

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クシヒカタは登美家を名乗ります。出雲では富をトビと発音し、そこから登美の漢字に変えたそうです。また神をカモと発音したことから登美家は葛城のカモ家とも呼ばれ、しだいに鴨の字に変わったそうです。やがて葛城から磯城方面に移り磯城登美家とも呼ばれました。

富家⇒分家の登美家=鴨家(加茂家)=磯城登美家

クシヒカタは出雲の人々も呼び集めて開拓し、タタラ製鉄をこの地に広めました。葛城川の左岸に屋敷を構え、父の八重波津見(事代主)を祀る鴨都波カモツバ神社を建てます。その西方に登美家の分家が住んで女性が代々サルタ彦大神を祀ったので猿女サルメと呼ばれました。その南方に一言主ヒトコトヌシ神社ができました。一言主とは悪事も善事もこの神の一言で決まると言われ、事代主が主祭神です。古事記では雄略天皇を震え上がらせた神として上下関係を示していますが、日本書紀では対等の関係に変わっています。

クシヒカタの妹はタタラ五十鈴姫と呼ばれました。タタラは製鉄法の名前であり、イスズは川砂鉄をすくいとる意味のユスギが変化した言葉であるとか、五十(たくさん)の鈴(銅鐸)という意味だともいわれます。のちに初代ヤマト王、海村雲の后となる人です。(記紀では神武天皇の后です。)

一部の出雲人は伊勢国に移住し、幸の神を椿大神社つばきおおかみやしろに移したそうです。伊勢で最も古い社で、サルタ彦大神を祀っています。伊勢津彦が移したそうですが、この伊勢津彦とは勝友彦著「山陰の名所旧跡」では神門臣家の多岐都彦のことと書かれ、斎木雲州氏の著書では向家の子孫のように記され、よくわかりません。

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注意: 青い囲みはおおよその磯城地方と葛城地方を指したものなので正確ではありません。

神門臣家を継ぐ者たち

八千矛(大国主)と多岐津姫の孫多岐都彦はクシヒカタを頼って家来を連れて葛城へ移住します。葛城川の上流に住んで高鴨家と呼ばれます。父味鋤高彦アジスキタカヒコや叔母の下照姫、夫のアメノワカ彦(建葉槌)を高鴨神社に祀りました。近くには御歳ミトシ神社があり、高照姫を祀っています。

多岐都彦の妹大屋姫も息子の高倉下とともに葛城に移住しました。高倉下はそこから紀伊へ。

 

海村雲の葛城進出

紀元前2世紀、香語山の後を継いだ海村雲アマノムラク丹波からヤマトを目指します。数千人の武装したハタ族とともに船で琵琶湖を進み、宇治川から木津川を通って葛城山麓に到着したといいます。その後数年かけて1万人ほどの丹波の人々が移住し、先住の出雲勢よりも優勢になったそうです。

村雲はクシヒカタの村の北西にある笛吹に宮を建てました。そこは高尾張村とも呼ばれ、村雲の家系は尾張とも呼ばれるようになりました。笛吹の地に建てた火雷ホノイカヅチ神社や天の香具山に、父の香語山を祀りました。子孫は笛吹連むらじと呼ばれましたが、この時は陶塤(中国の土笛)ではなく竹笛だったそうです。

ここで出雲勢との戦いはなく、尾張家は登美家とともに製鉄を行ったといいます。それでも登美家はハタ族に押され三輪山方面の磯城に移り、クシヒカタは磯城地方の首長となります。そして事代主、幸の神、太陽の女神(幸姫命)を三輪山に祀りました。

クシヒカタは天日方奇日方と呼ばれます。天の奇しき力を持つ日(太陽)を祭る人、という意味です。

妹のタタラ五十鈴姫三輪山の太陽神を祀る最初の女司祭者、姫巫女ヒメミコとなります。三輪山の西北に出雲屋敷と呼ばれる斎宮を建てました。タタラ五十鈴姫は葛城の人々から、三輪山の女神のように崇められたそうです。

三輪山の名の由来は、出雲の伊和の大神が酒造りを教えたという言い伝えがあり、酒を入れるカメをミワと呼んだことにあるそうです。

村雲はこのタタラ五十鈴姫を后に迎え、ヤマト国の王権を確立しました。出雲と丹波連合王国の誕生です。ただし王国といっても大和地方とその周辺を支配するのみでした。村雲はのちに記紀では海でなく天村雲と書かれ、天孫降臨に結びつけられます。

海王朝では代々登美家と磯城家から后を迎えることとなり、2代目沼川耳王はタタラ五十鈴姫の妹五十鈴依姫を、3代目玉手看王はクシヒカタの娘渟名底仲姫を迎え、3代目からは海家よりも出雲王家の血が濃くなった磯城王朝と言われました。出雲王国とも親しい関係でした。

古代日本は母系家族制なので、生まれた子どもたちは母の実家で育ちます。なのでDNAだけでなく、女性側の文化の影響が強くなりますね。

三輪山の祭祀も出雲王国と同じく代々の王の后が司祭者となり、その姫巫女の人気が王国を牽引する力となってゆきます。宗教と政治が一体となったマツリゴトです。いわゆるヒメ・ヒコ制であり、政治家のヒコよりも司祭者のヒメのほうが尊敬されたようです。

【2019.5.18.改定】「出雲王国とヤマト政権」の系図等に沿って、高照姫及び海御蔭、神八井耳を変更致しました。

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 参考文献

「「新・古代学」古田武彦とともに第4集より、九州王朝の築後遷宮」古賀達也

「山陰の名所旧跡」勝友彦

  

 

 

筑紫王国のニギハヤヒ

古代出雲の伝承については主に、

「出雲と大和のあけぼの」斎木雲州

「出雲と蘇我王国」斎木雲州

古事記の編集室」斎木雲州

親魏倭王の都」勝友彦

「サルタ彦大神と竜」谷戸貞彦

「お伽噺とモデル」斎木雲州

「事代主の伊豆建国」谷日佐彦

といった大元出版の書籍から紹介しています。他の書籍はその都度紹介していくつもりです。

これらの本を読んでいくと、どうしてここまで細かいことが伝わっているのかと不思議に思います。でもそのせいで納得がいくのは確かです。読んでみるとわかりますが、たとえば地名の由来、神社の由来など本当に詳細に書かれていて、出来事とのつながりがあり腑に落ちるのです。

勝友彦氏が著書の中で書かれていますが、出雲王国が滅んだあとに秘密結社の情報機関ができ、富家に大事件の真相を知らせる仕組みになっていたそうです。国の史書は権力者側に偏ってしまいますが、富家の歴史記録は公平で正確であったと。大元出版の本はこの記録に基づいて書かれているそうです。そういえば富家は王国時代からマツリゴトの会議の記録などを取り続けてきた家系ですものね。

欲を言えばこの記録や伝承の部分と、後代における解釈や考察をきっちり分けて記して頂けるとより有難いと思います。そこが混ざってしまうとこの先の時代で変容してしまう怖れがあり、たとえ意味がわからなくても伝わっているままの形はそれとして残していく、ということが大切に思えます。出雲のこの貴重な伝承を未来にしっかりと受け渡すためにも、そういった本の出版を強く願います。

 

徐福の和名を解いてみる

徐福は丹波では火明ホアカリ、九州では饒速日ニギハヤヒと名乗ります。日本書紀では天照国照彦火明命櫛玉饒速日命と別人物として記されています。尾張氏物部氏系図を記した旧事本紀や、国宝である海部氏の勘注系図では天照国照彦火明櫛玉饒速日命という長い名も記されています。日本書紀はこの長い名前をふたつに分けたわけです。けれどこの系図が国宝になるということは、実は暗黙の了解のもとにホアカリとニギハヤヒが同一人物であり、なおかつ天皇家と同祖であると認めているのではないかと思えてきます。

日本書紀ではタカミムスヒ神の娘、拷幡千千姫タクハタチヂヒメがオシホミミノ尊との間にホアカリとニニギを生んだといいます。

古事記ではタカミムスヒ(高木神)の娘、万幡豊秋津師姫ヨロズハタトヨアキズシヒメがオシホミミノ命の子、ホアカリとニニギを生みます。

記紀ではニギハヤヒ(徐福)をニニギと変え、ホアカリと2人の兄弟として描かれていますが、実は同一人物であったということになりますね。記紀はホアカリのその後には触れず、ニニギの話を進めます。ニニギの曾孫が神武です。そして神武が東征して大和を平定する際に出会ったのがニギハヤヒとなっています。ややこしいです。このニギハヤヒはニニギより前に大和に降臨したことになっており、しかも同じ天孫族ということです。そしてのちの物部の祖でもあると。つまりこれらの登場人物はすべて徐福の一人芝居みたいなものですね・・・・。時系列も人物もバラバラにされています。

もし徐福の存在を消したかったのであれば、そもそもこんなややこしい話にしなくてもいいと思いませんか。徐福の名前は出したくないけれど、日本の歴史をまったく根拠のないものにはしたくなかった、という中途半端な意図でしょうか。それとも怨念を恐れての苦渋の選択だったのか。どちらにしてもこの神話の謎解きは、出雲の伝承を正しいとするならば、絡まった糸がスルスルと解けていくように思えます。

ちなみに出雲の伝承では記紀の編集者たちについても話が及び、天武天皇物部氏以外の各王朝の子孫たちを選んで編集員として集めていたそうで、この時点では真実に近い史実を記す方針であったようだとしています。ですが記紀の作成は難航し、天武天皇の死後、后の持統天皇に引き継がれ、この時権力を強めていた藤原不比等中臣鎌足の息子)が、女帝の意向と豪族たちの思惑を織り交ぜながら編集を進めていったということです。

 

高木神とは

徐福が二度目の渡来時に連れてきた母、タクハタチヂ姫は古事記では高木神の娘として描かれています。古事記の冒頭を紹介します。

天と地が初めて現れたとき、高天の原に最初に姿を見せたのは天御中主アメノミナカヌシの神です。次が高御産巣日タカミムスヒの神、次が神産巣日カムムスヒの神。この三柱の神はみな独り神(性別がない)で、いつのまにか姿を隠されました。

アメノミナカヌシ神道教的な神であり、宇宙の中心となる神、根源の神です。タカミムスヒ神天孫降臨の際には高木神と記されます。徐福たち、つまり第三の渡来民である大陸からの神です。カムムスヒ神は出雲の神魂カモス神社の名の由来でもあり、記紀ではスクナヒコの親神とされており、出雲族の信仰する幸の神、つまり第二の渡来民たちの神です。神魂カモス神社は元々幸の神を祭り、夫婦神が多くの神々を生んだことから結びの神と言われました。むすびのムスは「生む」の古語です。

タカミムスヒ神はいつもアマテラスとともにいて指示を出します。天孫降臨神話におけるほぼ最高司令官のような存在なのです。一方カムムスヒ神は出雲神話に現れ、出雲の神々の母的な存在で、大国主を何度も助けます。

この三柱の神は日本創世神話の最初に現れる重要な神(造化三神)として描かれますが、この背景を知るまでは立場などがよくわかりませんでした。これですっきりしませんか? 記紀の土台の構造がここに見えてきます。

そしてこのブログの最初に紹介した九州に古来から伝わる筑紫舞の伝承者、菊邑検校が言った「信仰しているのは高木神だけです」という言葉から、彼らは北九州に栄えた徐福(ニギハヤヒ)の末裔たちということが見えてきます。つまり物部氏ですね。物部氏はのちに蘇我氏に滅ぼされますので、検校が蘇我にまつわる舞だけはタブーのように教えなかったというのも納得です。しかもこの蘇我氏とは出雲王家の出身なので、なんとも切ない歴史の繰り返しです。

 

ニギハヤヒの上陸地

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徐福の集団はまず伊万里湾に入り、一部の人たちがそこに住み着いたそうです。波多や福を使った地名が残っています。さらに南にあるという平野を目指し、有明海にまわって筑後川下流浮盃から上陸します。地図では内陸ですが、昔はその辺りまで海岸でした。上陸地をどこにするか占い、盃を浮かべ流れ着いたところに決めたといわれます。徐福は上陸するとすぐに井戸を掘らせたようで、今も民家に残されています。

徐福たちは立山に登って星を拝みました。金立神社に金立大権現として祀られています。連れてきた海童たちは故郷に帰ることはできず、海童神の供養碑が建てられています。出雲にも海童神社がありましたね。西の天山のほうにも広がり、徐福たちが拝んだ山は天という字が当てられました。築紫野市にも天拝山や天山(現宮地岳)があります。麓には童男丱女船繋石や高木神社があります。

徐福はニギハヤヒと名乗って筑後川流域で勢力を増し、息子である彦火火出見ヒコホホデミ(五十猛の異母弟)の頃には筑後筑前地方を支配したそうで、その辺りを築秦国ちくしんこくと名付けました。筑紫国ちくしこくの由来です。

ニギハヤヒ吉野ヶ里に大きな環濠集落を築いたと考えられています。発掘された当初は紀元3世紀のものとされ、邪馬台国だと騒がれましたが、年代測定のやり直しにより紀元前3~2世紀頃のものと変更され、邪馬台国の可能性は消え、徐福の時代に合うことがわかりました。

 

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この遺跡は周囲に柵と二重の堀をめぐらせた大規模な環濠集落です。徐福の出身地臨淄の古城の防御構造にとても似ているそうです。吉野ヶ里からは遺骨を納める甕棺が二千基以上出ていて、山東省出土のものと同じタイプだそうです。また銅剣や鋳型工具も出土しており、秦時代のものといわれています。

ニギハヤヒの子孫が物部となったので、この築秦国を物部王国とします。出雲王国では連合国に銅鐸や銅剣、鉄剣を配りましたが、物部王国では銅矛や銅戈を各地の豪族たちに配りました。ニギハヤヒの頃には出雲にも贈られていたようで、中広型銅矛が荒神谷遺跡から出土しています。北九州の先住の出雲族とも混血していったそうです。

 

戦いの始まるとき

弥生時代の遺跡から出土する人骨には、戦いの跡が残されています。頭部がなかったり、傷つけられた跡があったり。これらは縄文時代の人骨にはほとんどみられないそうです。つまり弥生時代は戦いの始まった時でもあるのです。青銅器、鉄器は祭祀用や生活の道具から武器へと変わります。この吉野ヶ里遺跡をみても敵の襲撃を防ぐための構造となっています。徐福に代表される第三の渡来人は多くの新しい技術や文化を伝えてくれた反面、戦いという火種も持ち込みました。

でももし平和な縄文時代がずっと続いていたなら、日本は今のように存続しただろうかとも思います。たとえば超大国の唐が朝鮮半島倭国を狙っていたのは明らかです。そのとき弥生時代の変革を日本が経ていなければ、この国を守り通せたでしょうか・・・・。

歴史というのは見る立場、得た情報によっていかようにも映ります。出雲側から見れば徐福の渡来は痛み以外の何ものでもないと思います。主王、副王を暗殺された上に、3世紀には物部王国と豊国の連合軍の東征によって出雲王国は滅びます。(三国志魏書に記された卑弥呼の時代です。)

けれど歴史の最前線ともいえる今、私たちがこの日本に生きているということは、それらすべての出来事の上に立っているのです。プラスもマイナスも、過去の出来事に対してどのような評価をしようとも、そのすべての変遷の先に今の私たちが存在しています。

Sorafullは若い頃、筑紫舞を伝え続ける人たちの存在に心が震えました。そして今、出雲の封じられた歴史を世に問いかけようとしている方々に共感します。どちらもこの国の、そして自分の大切なルーツだからです。

自由な現代において、これまで歪められ伏せられてきたことは、そろそろ表に出してやるほうがいいのではないかなと思います。それは自分のルーツを知るという素直な欲求でもありますから。

 

 

 

徐福と牛頭天王・蘇民将来そして宗像三女神

【2019年9月改編】

始皇帝の築いた秦国の滅亡後、100年ほど経ってから司馬遷が記した史記の秦始皇本紀に、徐福のことが書かれています。

紀元前210年、蓬莱島へ不老不死の仙薬を探しに行ったけれど、得られずに帰ってきた徐福が言いました。「薬を手に入れることは可能なのですが、いつも大鮫に苦しめられて島に着くことができません。弓の名手を連れ、弩ど(強い弓)で仕留めましょう」

始皇帝はこの大鮫を退治しに海に出ますが見つからず、その後しばらくして病死します。

また史記の淮南衡山列伝によると同じ年、帰ってきた徐福が言うには「海で神に出会いましたが、始皇帝の礼が少ないため薬を渡すことはできないと言われました。童男童女と五穀の種と技術者たちを連れてくれば叶うそうです」と。問答の途中で神は徐福を連れて蓬莱島へ至り、そこには銅色で龍の形をした使者がいて天に昇って輝いていた、といいます。始皇帝は喜んで男女3千人と五穀の種と様々な専門技術者を与えました。再び出発した徐福は平原と広沢(沼地)のある国を得て王となり、戻ってはこなかったと記されています。

 

古代臨淄のDNA  

2000年に中国科学院遺伝子研究所の王瀝氏と、東京大学の植田信太郎氏、国立遺伝学研究所の斎藤成也氏らの共同研究によって、古代中国の人骨のミトコンドリアDNAが分析されました。山東半島臨淄りんし(徐福の出身地である斉の都があったところ)に住む集団の3つの時代における比較です。

⑴2500年前の春秋時代

⑵2000年前の前漢末期の時代

⑶現代

結果はそれぞれ異なる集団であったことがわかりました。

⑴はヨーロッパ人

⑵は中央アジア

⑶は東アジア人

に近いそうです。徐福は⑴の時代にあたります。ミトコンドリアDNAは母方の遺伝系統を見るものなので、核DNAのように詳細なことはわかりません。それと一部の人骨なので必ずしも徐福がヨーロッパ系だったとは限りません。ただこの3つの時代を見た時に、中国では民族の移動など大きな変遷があったということです。

気になるのは斉国が八神を信仰していたとあり、八神とは史記の封禅書によると天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主とあって天主はユダヤの信仰に基づくと斎木雲州氏は記しています。兵主は蚩尤しゆうという武の神を祀り、日本各地の兵主神社で祀られているようです。

蚩尤とは中国神話に登場し、三皇五帝の1人、炎帝神農氏の子孫とされ、黄帝に反発し戦って討たれます。牛頭を持ち角があったといわれます。日本では神仏習合神道スサノオ(徐福)と習合した牛頭天王ごずてんのう(京都祇園社の祭神)ととても似ています。

 

牛頭天王蘇民将来

牛頭天王の由来を辿ると、アーリア人の信仰していたインドラ神に遡ります。雷神であり闘いの神です。バラモン教が成立すると神々の中心的な存在となりますが、やがて神々から見放された挙句に父を殺し、放浪の旅に出て大蛇退治もします。スサノオにそっくりですね。ヒンズー教になると人気は下がり天界から追放されたりもします。ヒンズー教インダス文明アーリア人がインドを占領する前のドラビダ人の文明)の影響が強いからです。そして仏教ではインドの祇園精舎(釈迦が説法をした場所)の守護神であり武塔神とも呼ばれます。のちに中国で道教の影響も受けました。蚩尤でしょうか。日本の記述では平安末期の伊呂波字類抄という辞典の中で、武塔神牛頭天王であり、インドの北の九相国の吉祥園の城主と書かれています。

869年に日本で疫病が流行り、疫病神である牛頭天王スサノオ)の祟りとされ、封じるために祀られたのが祇園祭の起こりです。

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祇園牛頭天王御縁起によると、この牛頭天王の后は八大龍王の1柱の三女であり、しかも龍宮へ赴いて出会うのです。なんだかこれまで見てきた話と重なります。宗像三姉妹でしょうか。

さらにこの旅の途中で牛頭天王にとある兄弟が関わります。裕福な弟は宿を貸すことはせず、のちに牛頭天王に復讐されます。貧乏な兄である蘇民将来は宿を貸してご飯をふるまったので、願い事がすべて叶うという牛玉を授かり、裕福になったとあります。如意宝珠や潮干珠潮満珠みたいです。

蘇民将来伝説は備後国風土記にも記されていて、そこでは武塔神が私は速スサノオであると自称しています。(「速」はニギハヤヒからきているようで徐福を指します)

インドラ神⇒武塔神⇒蚩尤⇒牛頭天王スサノオ

こうして見ると、日本には西から東へとアーリア、ドラビダ、中国の文化が歴史とともに流れついていますね。

備後国風土記では武塔神が「疫病が発生しても蘇民将来の子孫であると宣言して茅の輪を腰につければ災いを免れる」と告げましたが、これが茅の輪くぐりや蘇民将来のお札の由来のようです。

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記紀で描かれたスサノオは徐福(ホアカリ、ニギハヤヒ)のことですが、スサノオという名前の由来について出雲王家の子孫である斎木雲州氏によると、徐福の故郷に残った徐福一族は蘇州にも移住して発展し、そのことから蘇州の漢字を逆にして州蘇=スサとなり、スサの男でスサノオという名前を作ったと言われています。ですが蘇の読みはソかスなので、スソノオ、ススノオからスサノオに変化したとみるのでしょう。

また富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、蘇民将来の「蘇」はイスラエルの「ス」を意味し、中国江蘇省や蘇州などもユダヤ人に由来するとして、蘇民とはユダヤ人の子孫を示すということです。そういえばユダヤ人のイエスを耶蘇と表記しますよね。

「将来」とは「~から来た人」の意味があって、つまり蘇民将来ユダヤ人のハタ族のことだと言われているそうです。

徐福の故郷である斉国の王族はユダヤ人の末裔と言われ、「徐」は斉の王族の徐氏に由来すると言われます。先に紹介した古代臨淄の人骨のDNAがヨーロッパ系ということと重なってくるのでしょうか。

さらには始皇帝ユダヤ人の末裔という説もあり、もしそうであれば始皇帝と徐福の奇妙な結びつきというか、始皇帝が二度も徐福の策略に乗ってしまったことの理由がそこにあったのかもしれないと思えてきます。

蘇民将来の話はユダヤの「過越し祭」の話と似ており、エジプトで奴隷となっていた時、羊の血を家の門柱と鴨居に塗ったユダヤ人だけが災いを免れたといいます。秦氏の稲荷神社の鳥居は赤く塗られていますよね。まさか、茅の輪って血の輪??

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徐福の再来日

さて、出雲から秦国へ帰国していた徐福は10年後に再び日本へやって来ます。この時は北九州の筑後川流域へ入り、筑後平野に勢力を拡大します。実際のところ出雲王家の高照姫のもとへは帰れるはずもありませんよね。父、八千矛王を暗殺された高照姫の心情を思うと、徐福の妻となった我が身を後悔しつつ、けれど息子五十猛の存在を思えば後戻りもできず、複雑な心境であったことでしょう。

【2019.5.18 追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、事件のあと高照姫は五十猛を置いて実家へ帰ってしまったということです。渡来人の父系制では子は父のものという意識だったようです。高照姫は老年(今の中年)になって五十猛のいる丹波へ移住したと考えられているそうです。丹後風土記残欠にその様子が描かれています。

徐福の人柄などは伝わっていませんが、様々な最先端の知識を持っていたでしょうから、神のように崇拝されるところもあったと思われます。策略家であり始皇帝に勝る豪胆さを持ち、そこに強い支配欲が加わって、ギラギラとした人物像が浮かびます。そんな徐福と女性たちの関りとはいかなるものだったのか。

九州筑紫においては宗像三姉妹の三女、市杵島姫を妻とします。高照姫の叔母にあたります。宗像家から二人も娶るとは、よほど当時の宗像の勢力が大きかったのでしょう。けれど多岐津姫は夫の大国主を失い、田心姫は息子の事代主を失い、その首謀者のもとへ市杵島姫は嫁ぐのです。そうしてでも徐福たち秦族の脅威を少しでも減らさなければならなかった可能性もあります。起こったことに文句を言うよりも、ここからどうするのがより国のためになるのか、その苦渋の決断の連続だったのではないかと、下の家系図を見ていると思えてきます。

もしかすると今なお祀り続けられる宗像三女神は、実際にこの国を救い、守り続けてくれている女神たちなのかもしれません。玄界灘という荒々しい海の守り神、というだけではないだろうとSorafullには思えるのです。

日本の神様の中で最も高貴な尊称である「貴ムチ」が贈られたのは、天照大神の大日靈貴オオヒルメノムチ大国主の大己貴オオナムチ、そして宗像三女神の道主貴ミチヌシノムチだけです。記紀を製作した者たちがいかにこの存在を(密かに)大事にして後世に残そうとしたかが伝わってくるようです。

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 沖ノ島沖津宮の拝殿(田心姫)撮影Indiana jo  Wikipediaより 

 

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大島、中津宮の拝殿(多岐津姫)撮影Soramimi  Wikipediaより 

 

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宗像大社辺津宮の拝殿(市杵島姫)撮影Soramimi  Wikipediaより

 

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参照文献

「遺伝子からみた東ユーラシア人」斎藤成也 地学雑誌vol.111

 

 

 

古代出雲は黄泉の国~悲しき伝承

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出雲王国前期における王の弔いは風葬でした。

遺体には防腐剤である朱を口から注ぎ入れ、竹篭に納めます。東出雲王家では熊野山の霊の木ひのきの茂みにそれを隠します。木にはしめ縄を巻いて紙幣をつけ、霊隠木(神籬)ひもろぎと呼びました。3年後に洗骨して頂上の磐座の横に埋葬します。これを埋め墓といい、その山が神奈備山です。ナビとは「こもる」の古語。

屋敷にも石を置いて拝み墓とします。神魂神社(王宮のあった場所)の近くに拝み墓である東出雲王墓が今もあり、大きな岩が17個まとまって置かれています。歴代主王と副王の17人のお墓です。事代主の墓石もあります。

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神魂かもすとはカミムスビ(カムムスヒ)が縮まった言葉で、ムスは「生む」の古語であり、夫婦神が神々を生んだので「ムスビ(結び)の神」と言われたことに由来します。夫婦神とはクナト大神と幸姫命です。イザナギイザナミの原型ですね。

お墓としての磐座だけでなく、古代出雲では幸の神信仰から女性の体を象徴する磐座を女神岩とし、その対となる男性を象徴する磐座とともに崇拝しました。いわゆる陰陽石もそうですね。

大きな存在感のある岩と向き合うと、畏怖の念が湧いてくることがあります。古代の人々は人間の力の及ばない生と死、再生を、聖なる岩に託したのでしょうか。

 

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これは東出雲の航空写真ですが、中央を流れる現在の意宇川は、昔は「王川」だったそうです。王国時代には国府跡あたりまで入り江になっていて、宮殿から船で川を下っていくことができたとか。それなら事代主が美保のヌナカワ姫に逢いに行くときも、船に乗って王ノ海を渡り美保湾まですぐですね。他の妻たちは気が気ではなかったことでしょう。

 

徐福の来日

紀元前219年、秦国からの船が出雲の海岸に着きました。秦国人であるホヒと息子のタケヒナドリ(別名イナセハギ)たちは神門臣家の宮殿に連れていかれます。その時土産として持参したのが銅鐸に似た青銅の鐘と銅剣でした。銅鐸はこの鐘を真似て作られ、出雲の神宝となります。

昔は銅鐸のことをサナグ(サナギの意味)と呼び、子宝の象徴であり女神とされたそうです。これまで銅鐸は謎の祭祀用品とされてきましたが、こういう意味があったのですね。

ホヒはこれから徐福という方士(道教の師)がたくさんの秦の人たちを連れてやって来ることを告げ、上陸の許可を求めます。八千矛(大国主)はそれを許し、ホヒたちは王家に仕えることとなりました。

史記に記された徐福と始皇帝のやり取りについては、以前の記事で書きましたので参考にしてください。

 

翌年には大船団が石見国の五十猛海岸(島根県大田市)に着き、徐福と数千人の海童(海の向こうからやって来た少年少女)たちが上陸しました。秦国から来たので秦族と呼ばれました。また中国式の機織りを土地の人に教えたのでハタ族となりました。

徐福は和名で火明ホアカリと名乗ります。記紀ではスサノオとして描かれています。徐福はもとは徐市ジョフツといい、成人後の名が彦福で、日本に来てから徐福としたそうです。

やがてホアカリは大国主と多岐津姫の娘、高照姫を妻として迎えました。(出雲伝承では高照姫を事代主の姉か妹とする場合もあります。)

出雲王はこれまでも豪族たちと絆を強めるために娘らを嫁がせましたので、この時も王家は秦国からの客人を受け入れることを選び、求めに応じて姫を差し出したのでしょう。ホアカリと高照姫の間に長男五十猛イソタケが生まれます。五十猛はのちに丹後へ移住して、海香語山アマノカゴヤと名のります。

 

ホアカリたちは上陸した五十猛の南方、大屋の地に住みました。道教の師であるので、蓬莱、神仙思想をもち仙人を尊び、夜になると大勢で山を登り星を拝みます。北斗七星の中にある北極星を崇拝し、そのため7を聖数としました。面白い話があって、ホアカリたちは最初、斎の木のワラヘビを斬って回ったそうで、ヤマタノオロチの話のモデルとも言われますが、その後彼らもワラヘビを拝むようになり、8と7の間をとって7回半巻くようになったそうですよ。

またホアカリは社稷シャショクの神も崇拝しており、これは穀物の神さまです。のちに宇賀ウカの神となります。中国西王母のキツネ信仰とともに日本に持ってきて、稲荷信仰へと変わりました。日本で最も多い神社である稲荷神社の総本社、伏見稲荷大社秦氏の創建です。

ハタ族はしだいに東の方へも移住するようになり、出雲地方へ進出。宍道湖東岸の海童神社や浮洲神社に名残が見られます。浮洲とは蓬莱島を意味し、仙人の住む理想郷のことです。

もうひとつホアカリたちが持ってきたものは陶塤とうけんと呼ばれる土笛です。ハタ族たちが住んだ遺跡からはたくさん出土しています。ぼやけた写真ですが、卵に小さな穴が開いたようなものが陶塤です。

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主王、副王の悲劇

ある日、大国主(八千矛主王)が薗の長浜へ行ったまま行方不明になりました。美保にいる事代主(八重波津身副王)へ知らせるため、ホヒの息子タケヒナドリの船は王川を下り王ノ海を渡ります。(この速船が諸手船神事です。)事代主は薗の長浜へ向かおうと船を西に向け進みますが、事代主もその後行方不明となってしまいました。

古事記の記述を見てみましょう。

 

アマテラスとタカミムスヒ(高天原最高神の一人、高木の神)は天の安河原に八百万の神を集め「葦原中つ国はわが御子(天孫族)の治める国です。ところがこの国は荒れ狂う国つ神たちに満ちている」と嘆きました。そこでアメノホヒを地上へ遣わせることにしますが、大国主に靡いてしまい失敗。アメノワカヒコも失敗。最後にタケミカヅチに行かせます。

イザサ(稲佐)の小浜で大国主に国譲りを突き付けますが、大国主は息子の事代主に聞いてみてほしいと答えます。そこでタケミカヅチは天の鳥船とともに美保の岬へ向かい事代主に尋ねました。すると事代主は「この国は天つ神の御子に奉りましょう」と父に言葉をかけ、すぐに乗っていた船を足で踏んでひっくり返し、青柴垣あおふしがきに向かって逆手をひとつ打つと、自ら水中に隠れました。青柴垣とは柴で囲まれた聖域。逆手を打つとは指先を下に向けて柏手を打つこと。美保神社では中世以降青柴垣神事を続けています。

タケミカヅチ大国主に再度問います。すると大国主はもう一人の息子、タケミナカタがいると答えます。タケミナカタタケミカヅチと力比べをしますが負けてしまい、諏訪の湖まで逃げていき「もうこの地から出ないから許してくれ」と降参します。のちの諏訪大明神です。

再びタケミカヅチに問われた大国主は、長い誓いの言葉を述べて国譲りを受け入れます。このくだり、何度読んでも目頭が熱くなります。民を国を愛した王の最期の、そして永遠に失われることのない輝ける威厳が切なく、胸が震えます。ここで簡略化して紹介するのは憚られるので、ぜひ一度古事記を読んでみてください。

 

伝承にもどります。事代主はその後、弓ヶ浜半島の粟島の洞窟で発見されました。死因は餓死でした。大国主島根半島の猪目洞窟で発見され、同じく餓死でした。幽閉されていたといいます。

【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、のちにすべてホヒ親子の仕業であることを海童のひとりが白状したということです。神門臣家はふたりに死罪を求めましたが、結局富家の召使として引き取られました。その後ホヒ家は奴やっこと呼ばれたと。

出雲風土記には「夢で猪目洞窟に行くと必ず死ぬ」とあります。今もなおこの地を夜見の坂、黄泉ヨミの穴と呼んでいます。伯耆国風土記に「スクナヒコが実った粟の穂に乗ると、弾き飛ばされて常世(あの世)の国へ着きました」とあり、弓ヶ浜半島は黄泉の島と呼ばれるようになりました。こうして出雲のことを黄泉の国と呼ぶようになったのです。

 

出雲からヤマトへ

主王と副王を同時に失い、ホアカリやハタ族たちと同じ地域に住むことを嫌った出雲の半数の人々が、両王家の分家に従い移住します。

事代主の息子、建水方富彦タテミナカタトミヒコは母であるヌナカワ姫を越後国に送ったあと諏訪へ向かい、諏訪王国を築いて幸の神信仰を伝えます。娘のミホススミ姫は美保関に残り、社を建てて父を祀りました。

別の息子、奇日方クシヒカタは母である玉櫛姫の実家、摂津三島へと向かい、その後ヤマトの葛城山の東麓を開拓。登美家を名乗り、一言主神社や鴨都波神社を建てます。

クシヒカタの妹、タタラ五十鈴姫はのちに三輪山で太陽の女神を祀る初代の女司祭者(姫巫女ひめみこ)となります。記紀では神武天皇の后と書かれていますが、実際には初代ヤマト王となる海村雲アメノムラク(五十猛の息子)の后です。

一方大国主の后、宗像三姉妹の多岐津姫は姉の田心姫の住む東出雲に移り、息子である味鋤高彦アジスキタカヒコ葛城山の南側を開拓。高鴨家を名乗り、高鴨神社や御歳神社を建てます。

こうして向家と神門臣家の分家が登美家と高鴨家となってヤマトの葛城へ進出し、出雲のタタラ製鉄や幸の神信仰を広めることとなります。

出雲王国は古事記に書かれたように、この時点で国譲りしたわけではありません。事代主の息子、鳥鳴海トリナルミが9代大名持となって出雲で王家の跡を継ぎました。

徐福は王たちの暗殺には成功したものの、自身が出雲の王にはなれず、息子五十猛を高照姫に任せて、いったん秦国へ戻ります。そして10年後に五穀の種と大勢の専門技術者たちを引き連れて再び来日。今度は北九州へ上陸し、吉野ケ里に居を構えます。

 

 

出雲王国のオオナモチとスクナヒコ

土蜘蛛と土雲

そもそもSorafullが出雲の伝承に行き当たったのは、古事記を読んでいくうちに「土雲」という表記が気になったからでした。

日本書紀風土記では「土蜘蛛、土蛛、都知久母」と記します。このツチグモとは何でしょう。

Wikipediaでは〈上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土着の豪族などを示す蔑称〉としています。単一の勢力ではなく各地に存在すると。国栖くずや八束脛やつかはぎ(スネが長い)とも呼ばれます。ナガスネヒコ!とピンと来た方もいらっしゃるのでは?

日本書紀では土蜘蛛のことを〈身短くして手足長し、侏儒と相にたり〉と表現しています。侏儒とは小さい人のことです。土蜘蛛は近世以降は蜘蛛のような妖怪として描かれます。これは朝廷が土蜘蛛を迫害し征伐したことによる怨霊の意味があると思われます。

 

さて、ここからはSorafullの妄想です。蜘蛛という字をよく見ると、「朱を知る虫」と書かれているのです。朱とは以前安曇氏の記事に書いたように辰砂、丹砂、朱砂のことです。中国の皇帝たちも求めた不老不死の薬であり、錬金術によって金を産むとされた鉱物であり、日本では縄文時代から日常的に使われていました。古代では特に大和で多く産出しました。この辰砂を採掘していたのが土蜘蛛の可能性があると思ったのです。土蜘蛛は岩窟に住むとか横穴のような住居で暮らしていたとされます。先に住んでいた土着の民でしょう。また朝廷が土蜘蛛を征伐する時、誅殺とか誅伐と書かれます。ここにもの字が入っています。罪を咎めて殺すこと、らしいです。記紀風土記を読めば、先住民への虐殺のように思えますが。

そして古事記土蜘蛛を「土雲」と表記しているのを見た時、字が出雲とそっくりなことに気づきました。土蜘蛛は出雲族? 柿本人麻呂ならこうやって暗号のように意味を含ませるかもしれないと思い、出雲のことを調べ始めたのです。そこで出会ったのが古代出雲王家の伝承でした。

記紀では神武天皇が大和に侵攻した時、高尾張村にいた土蜘蛛を征伐しています。のちにその地を葛城と改めたとしていますが、出雲王家の伝承によると、高尾張村には海部氏の祖である尾張家が、葛城には出雲の加茂家が住んでいました。神武東征以前、両者は親戚となって大和の国を治めていました。

さらにドラビダ人の特徴を調べると、Wikipediaでは〈アーリア人よりも肌の色が黒く、背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪〉をしているとあります。土蜘蛛の表現と似ていますね。もちろん渡来したドラビダ人はすでにブリヤート人縄文人らと融合しているでしょうから、見た目がそのままというわけではなかったと思いますが。

ただし出雲の伝承では辰砂と出雲族との関連は何も触れられていません。鉄と青銅のみです。鉄を野ダタラで作る時にも穴ができるそうなので、土蜘蛛は製鉄族だった可能性もあります。なのでこれはあくまでSorafullが古代出雲の伝承に辿り着いたきっかけです。土蜘蛛が朝廷に征伐されたように、出雲も朝廷に消された国なのだと気づくための。

 

 

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マツリゴト

これまで封印されてきた出雲王国とはどのような国だったのか、伝承をまとめてみます。

出雲王国は紀元前6世紀から約700年間続きました。連合国は北九州の宗像から新潟県朝日村(越の八口)に至る日本海側と四国に広がりました。

上の地図はクナト王のこもる大山と、幸姫命のこもる佐比売山、サルタ彦大神のこもる鼻高山の場所を記しています。佐比売山は明治までの呼称です。今はなぜか三瓶山という意味不明な名になりました。土地の名前を変えると歴史が失われてしまいます。

 

出雲王家は2家あって、出雲東部のむかい王家と西部の神門臣かんどのおみ王家です。この二つの王家が主王と副王となって二王制で国を治めました。地図にはそれぞれの王宮のあったおおまかな位置を記しています。

初代主王の王宮は大神山(大山)を望む現松江市大庭おおばの神魂かもすの丘にありました(東出雲側)。春分秋分の年2回、各地の豪族たちが集まって、主王の后が司祭となりクナト大神を遙拝しました。拝所を霊畤れいじと呼び、大祭をマツリゴトといいます。主王と副王が各地に出掛けて、豪族たちに参加するよう声をかけました。力ではなく言葉による統率です。訪れる人はその土地の土産を持って集まるようになりました。

インドの風習と同じく春分秋分それぞれが元日となるので180日が1年です。1年で2歳年をとることになります。

マツリゴトには規則などを決める会議もあります。各地の事件などもここで報告します。それらはユウという樹皮紙に記録されました。梶の樹皮を剥いで加工したものに墨汁で字を書いたそうです。中国の紙よりも古いとか! このユウは九州の湯布院から取り寄せたもので、これが地名の由来です。出雲の分家である諏訪大社の神紋は梶の葉紋です。

王国の条文は出雲八重書きと呼ばれました。

大祭の最後は「イズメ!」の万歳三唱です。

王家と各地の豪族たちは血縁を結ぶことで結束を固めます。血縁ができると「臣」を与えられました。王族を表わす「御身」に由来するそうです。この制度はのちに大和で引き継がれます。

豪族は玉の首飾りをつける決まりになっていて、特に曲玉は縁起のよいものとされました。胎児の形を表わした子孫繁栄の象徴だったからです。下の写真は以前、麦木晩田遺跡でSorafullが作った曲玉です。いびつ、ですね・・・・。太鼓に描かれた三つ巴は、幸の神に由来する神社の神紋にも使われました。太鼓は女神を表わし、ばち(✕印)が男神といわれます。なので太鼓を叩くこと自体が子孫繁栄の神事なのです。

三種の神器のひとつ、八尺瓊やさかにの曲玉の瓊とは宝石のことです。翡翠の産地である越後国糸魚川の支流、瓊の川がヌナ川と変わり、ヌナカワ姫が出雲へ嫁いで事代主の后となってタケミナカタ(のちの諏訪大明神)を生みました。后は美保の郷で過ごし、その港には玉造り職人や商人が住んだので、韓国からも玉類や鉄を買いに来たそうです。

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太鼓に配された三つ巴 撮影Mitsukai  Wikipediaより 

 

 大名持と少名彦 

主王を大名持おおなもち、副王を少名彦すくなひこといいます。役職名です。主王が向家(のちに富家と名乗る)の時は副王が神門臣家となり、交替で就任します。

大名持は野ダタラの穴を作る土地をたくさん持って製鉄を支配していることから、大穴持と呼ばれたことによります。記紀では大巳貴おおなむちと書かれました。少名彦は少彦名と逆さにされています。オオナムチとスクナヒコナは共に力を合わせてこの国を作り固めたというお話です。簡単に紹介します。

大国主が美保の岬にいると海の向こうから小さな神さまがやって来ました。案山子のクエビコ(サルタ彦)だけがこの神さまを知っていて、カムムスヒ神の子、スクナヒコナ神だと教えてくれます。それから2人は共に国々をまわって稲や粟の栽培方法害虫からの守り方などを教えて国作りをしていきます。風土記には2人の旅のエピソードがいくつも記されています。

愛媛の道後温泉の開湯もしたようです。インダス文明にも沐浴施設がありました。神殿の代わりに大浴場があって、身を清めるお祓いの場だったと言われています。聖なるガンジス川では今も沐浴する姿が見られますよね。大阪道修町の薬問屋街にはスクナヒコナ神社が祀られています。医療の神でもありました。

ところがまた突然にスクナヒコナ常世(あの世)へ旅立ってしまいます。伯耆国風土記では、スクナヒコナが実った粟の穂に乗ったところを弾き飛ばされ、常世へ渡った場所を粟島と名付けたと記しています。

出雲伝承では事代主が美保の海辺で釣りをしたあとに行方不明となり、米子の粟島の洞窟で遺体が発見されたとあります。美保港で毎年行われる諸手船神事は、この経緯を再現しているそうです。

古事記では、その後ひとりぼっちになった大国主がどうすればいいのかと憂い悲しんでいると、また海の向こうから輝く神がやって来たと続けます。そして「私を奈良の青垣の東山に祀れば、汝とともに国を作り成そう」と言いました。それが三輪山に鎮座する大物主(龍蛇神)です。事代主の和魂です。

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美保湾越しに望む大山

 

歴代大名持は岩をよく拝んでいたので、岩神、伊和の大神とも言われました。

古事記では大山津見の神が、娘の木花開耶姫コノハナサクヤヒメ石長姫イワナガヒメ天孫ニニギノ命に差し出すも、醜い石長姫は突き返されてしまいます。そこで大山津見の神は怒って「天つ神の命は岩のように永遠のものとはならず、花のように短くなるだろう」と告げました。

古事記の中では大山津見の神の娘が実はもう1人いて、コノハナチル姫です。スサノオ系統の息子の妻ということになっていますが、スサノオ出雲族ではありません。そしてその息子とは出雲3代主王であり、生まれた息子は4代主王です。石長姫とコノハナチル姫は同一人物であることを暗示しているのでしょうか。

石長姫は縄文の女神であろうと言われていますが、詳細はわかりません。Sorafullには出雲を象徴している気がしてなりません。大山津見の神(クナト大神)の子であること、そして大国主が岩の神と言われていたこと、また天孫族の寿命が短くなるということは、インド式の1年で2歳年をとる数え方から現在の1年1歳に変わることで年齢が半分、つまり寿命が半分になるからです。

ここにも柿本人麻呂の暗号が潜んでいるのでは・・・・?

謎の石長姫は地母神であり生命創造の大元の女神、インダス文明に起源をもつ幸の神だったのでしょうか。

 

古事記には17人の主王の名前がすべて記されました。初代大名持は向家出身で、各地の豪族の意見によく耳を傾けたことから八耳ヤツミミ王と呼ばれました。6代オミヅヌ王の息子アタカタスが現福岡の宗像家の始祖であり、あの沖ノ島等で有名な宗像三姉妹の父にあたります。宗像三姉妹のうち2人の姫は7代王、8代王の妻になります。この8代王が記紀大国主と書かれた八千矛ヤチホコです。この時の副王が7代王の息子である八重波津見ヤエナミツミ記紀でいうところの事代主です。

つまり出雲の8代大名持(神門臣家)が大国主で、その時の少名彦(向家)が事代主だったのです。

この8代大名持と少名彦が第三の渡来民ともいえる大陸からの客人によって暗殺されたことから、出雲王国の運命は大きく変わっていくこととなります。