SOMoSOMo

源流なび Sorafull

太陽の女神と龍蛇神がやってきた

出雲が王国として成立した紀元前6世紀頃、幸さいの神に名前をつけ、宗教として体系化されました。出雲は権力による支配ではなく、同じ信仰によって結ばれた王国です

今回は「幸の神三神」以外の話を紹介します。

 

出雲族は太陽信仰をもっていて、朝の薄暗いうちに起き、東の山から昇る朝日を家族揃って拝む習慣がありました。幸姫命サイヒメノミコトはインドの太陽神を受け継ぎ太陽の女神となりました。母系家族制の影響が女神にしたようです。アマテラスの原型です。

 

出雲族「三」とともに「八」を聖数としていました。朝日が八方に光を放つ姿からきています。八雲立つ、出雲八重書き(法律)、八岐姫ヤチマタヒメ、初代王は菅之八耳スガノヤツミミ大国主の本名は八千矛ヤチホコ、など。記紀では八百万の神大八島八咫烏、八尺勾玉、八尺鏡など八がたくさん出てきます。

 

f:id:sorafull:20171201103520j:plain

幸の神の他に、もうひとつ大事にしている神が龍蛇神りゅうだしんです。ガンジス河の神であるワニと、森の神であるコブラが合体した龍蛇神ナーガをドラビダ人は崇拝しました。ワニもコブラも怖がられ神に祀りあげられたとか。

出雲族はワラで龍を作り木に八回巻き付けて拝みました。この木を斎の木と呼びます。龍神が斎の木を伝って昇天し、また天から地へ戻るといいます。今でも出雲ではこの龍神祭りが行われ、龍神荒神やオロチと呼ぶ村もあります。古代中国ではこの出雲の神木を「扶桑」と呼んだそうです。

☆ 八回巻きはハチマキの起源でもあり、ヘビの霊力で幸せになるという願いです。

f:id:sorafull:20171202144324j:plain

阿太加夜神社境内

 

龍ではありませんがヘビ信仰は古代の世界各地に残っています。これはヘビが何度も脱皮することを生命の若返りや再生として憧れたことや、生殖力の強さにあやかろうとしたようです。雌雄のヘビは何十時間も絡まりあい交尾をすることもあります。その姿を現したのが日本ではしめ縄です。単に生殖というものを越えて、生命を創造する神聖な力で邪気を祓うという意味があります。

出雲族の龍蛇信仰はヘビ信仰でもあり、出雲系の神社ではヘビがトグロを巻いて山型になっているトグロ石がみられることもあります。円錐の砂山としてこのトグロ石を表している神社もあります。写真は上賀茂神社です。(加茂氏は出雲王家の分家)

f:id:sorafull:20171021100949j:plain

このトグロ石に似た形の山は神がこもる神奈備かむなびやまとして崇拝されました。大山だいせんにはクナト大神の魂がこもるといわれています。大山は昔は火神岳といわれ、のちに大神山となり、大山へと変わります。クナト大神は古事記では大山津見の神となりました。

東方に大神山がよく見える大庭おおばという場所で幸の神の祀りが行われ、クナト王直系の子孫が司祭となり、氏子の広がりが出雲王国となりました。

f:id:sorafull:20171021101437j:plain

 きれいな円錐形の大山

出雲の主要な神社の神紋は六角紋。これは通説の亀甲紋ではなく実は龍蛇神オロチのウロコ、龍鱗紋なのだそうです。

下の写真は出雲大社の神紋です。また出雲王家である富家の紋章は龍鱗枠の中が銅剣の交差紋となっています。交差する銅剣は戦いの印ではなく、生命創造を表した男女和合の✖かけ印。男女が重なる神聖なシンボルです。あの荒神谷遺跡から出土した銅剣の✖印ですね。この✖印は出雲だけでなく古代には世界で多くみられるものです。

f:id:sorafull:20171021111226j:plain

ただし出雲王家は親戚内での戦争(吉備国との第一次出雲戦争)が起きたことなどから、強くなった親戚に注意し目立たないように生きることを学び、名前を変えたり、のちには紋章の銅剣は大根に、そして宮殿の場所も移転しました。

また出雲地方の古墳の形は四隅突出方墳ですが、これも上(天)から見ると✖印を表現したもので、再生の祈りが込められているそうです。

f:id:sorafull:20171202144649j:plain

西谷墳墓群2号墓

 

☆ 出雲族コブラに代わるセグロ海ヘビを見つけて御神体にしたので、そのウロコの六角紋を紋章にしました。また日本にはワニもいなかったので、サメのことをワニやワニザメと呼ぶようになりました。

 

記紀ではワニやヘビがよく出てきます。

三輪山(三諸山)に鎮座する神、大物主おおものぬしとは伝承によると事代主の和魂にぎたまで、この大物主、時折夜になると素敵な若者に変化して美しい姫君のもとへ訪れます。その正体がオロチ、ヘビだったりするのです。あの有名な因幡の白兎にもワニが出てきますね。それから海幸山幸の竜宮の豊玉姫も出産のときワニの姿に変わります。ヘビやワニは出雲と関りがあることを示しているようです。

f:id:sorafull:20171022103743j:plain

 三輪山と大鳥居 撮影Sha-shin4 Wikipediaより

写真は奈良の大神おおみわ神社。社殿はなく奥に見える三輪山御神体そのものという原初の祭祀の姿を残しています。また大神神社の拝殿奥には禁足地との結界として、とても珍しい三ッ鳥居が置かれています。神社によると起源は不詳とのことですが、出雲伝承では幸の神三神を意味しているそうです。

下の写真は長野県の美和神社(主祭神大物主命)のものですが、三つの鳥居が並ぶ門構えです。出雲の長浜神社にも同様のものがあり、幸の神三神を祀っています。

f:id:sorafull:20171022112204j:plain

 

以前紹介した信州安曇野地方に伝わる「龍の子太郎」の昔話を覚えておられるでしょうか。出雲族タケミナカタ諏訪大明神の化身である犀龍さいりゅうが、安曇族の白龍王との間に生まれた太郎とともに松本盆地を開拓したという民話です。この犀龍の名前は開拓時にできた蛇行する犀川さいがわからとったものだと思われますが、幸姫命の名前が浮かびませんか。

三輪山の麓にも狭井さい川が流れ、大神神社境内の狭井神社には幸の神が祀られました。(そのすぐそばには久延彦クエヒコ神社があり案山子カカシの神が祀られています。サルタ彦大神のことです)

三輪山の西麓ではワラヘビの龍神祭りが今でも続いているそうです。

ではなぜ出雲と三輪山と信州が同じ幸の神信仰で結ばれているのか、これから出雲王国の歴史とともに紐解いていこうと思います。

 

somosora.hateblo.jp

 

 

最後に前回の補足をしておきます。

日本とインドを結ぶ研究あれこれ

遺伝子研究では斎藤成也氏が、日本列島人は3段階の渡来民によって形成され、その第2段階が4千年~3千年前に渡来した出雲民族ではないかという説を発表されています。ただし氏はその渡来民の起源の地ははっきりしないとした上で、可能性として朝鮮半島遼東半島山東半島に囲まれた沿岸及び周辺ではないかと言われています。

出雲伝承を書かれている勝友彦氏著書「親魏和王の都」の中で、遺伝子検査により「出雲族にはドラビダ人の血の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが明らかになっている」とあります。この詳細についてはわかりません。

日本語の起源を研究された大野晋は、日本にはかなり古い時期からの南方系の音韻組織をもったなんらかの言語があり、そこへ縄文晩期以降にタミル語がかぶさったという説を展開されています。それまでの研究ではウラル・アルタイ語系(ブリヤート人含む)が文法的には最も近いとされてきましたが、共通する語彙が少なすぎるという大きな欠点がありました。タミル語の文法はウラル・アルタイ語系です。

言語からみても旧石器~縄文時代にかけて日本列島にやって来たのは南方系、北方系、そしてもうひとつの渡来民(インド)ということのようです。

インドとは7千㎞も離れていますが、生活の根源にかかわる多くのものが同時代に平行的に見いだされ、日本人の精神生活の基礎をなすヤマト言葉がタミル語と対応しているということを大野氏は重視されています。また伝播ルートについてはタミル語朝鮮語の対応(特に農耕に関する単語)がみられることから、インド、朝鮮、日本の三角関係を示唆されています。アーリア人の移動に伴い朝鮮や日本へ移住した民により伝播したと。ちなみに最近の稲の伝播の研究では、水稲は日本から朝鮮へ伝わったという説が有力になってきています。以前とは真逆です。

 

ここでSorafullの疑問です。お米には大きく2種類あって、インディカ米とジャポニカ米です。インドのお米といえばあの細長いパサパサしたインディカ米。中国や日本はジャポニカ米。このジャポニカ米も2種類あって、陸稲と呼ばれる熱帯ジャポニカ水稲に適した温帯ジャポニカ(私たちの主食)に分かれます。縄文中期にはすでに陸稲が栽培されていました。ただし主食米としてではなく雑穀の一種として畑で栽培されていたようです。縄文晩期に出雲族が農耕を伝えたとすればインディカ米が伝来するのではないか? ただし当時のインドで栽培されていたのがインディカ米なのかどうかがわかりません。タイではすでにジャポニカ米が存在しています。佐藤洋一郎の仮説では、稲は先にジャポニカ米が誕生し、南へ行くに従い交配を重ね、最近になってインディカ米が現れたとしています。考古学的にはインディカ米がいつ生まれたかを言うだけの古い材料が未だに存在しないそうです。出雲族の農耕、気になるところです。

 

参考文献

「イネにおける栽培と栽培化」国立民族博物館調査報告(2009)佐藤洋一郎

「日本列島人の歴史」斎藤成也

古事記の編集室」斎木雲州

 

 

 

縄文信仰は出雲の「幸の神」

 

f:id:sorafull:20171018173942j:plain

アマテラスやスサノオ大国主という言葉が現れる以前、この国で長く広く親しまれていた三柱の神さまがいたことを知っていますか?

女夫めおとの神さまとその息子の神さまです。夫婦が円満に睦まじく、そして子宝に恵まれることを人々はこの神さまたちに祈りました。

 結婚式では三三九度を。

三拍子そろっておめでたい!

子どもを授かると神さまへのお宮参りをしたあと、夫婦の神事である餅つきをします。女性の象徴である臼と男性の象徴である杵で餅をついて丸い子宝を作って神さまに供え祝います。

お正月にはしめ縄を張り、夫婦の事始めの儀式が行われます。女正月(満月の日)には母親の仕事を休ませ、夫や子どもが家事をします。夕方になるととんど焼きといってしめ縄やお飾りを火で焚き上げ天へ送ります。とんど焼きの別名は三九郎(産苦労)焼きです。産んでくれた母への感謝の日、母の日の源流なのです。お袋という言葉は古語で、子宮という意味です。(イザナミは火の神を産んだ時にホトを焼かれて亡くなります。とんどは最後という意味で、葬式のことでもあります)

f:id:sorafull:20171019081248j:plain

現代と変わらぬ祈りの風景がありますね。これが「幸の神さいのかみ」信仰の一部です。

古代における出産と子の成長には、厳しい現実が伴ったはずです。母や子の命をあっけなく失うことも日常的だったでしょう。命を授かり健やかであるということが幸せの原点であったかもしれません。

 

f:id:sorafull:20171019081128j:plain

写真は道の神と呼ばれる石神です。室町時代以降に作られました。記事トップの写真は幸の神の女夫神が寄り添う微笑ましいお姿です。そしてこちらが力強い息子神。道の神は信州や関東に多くみられます。道祖神と呼ぶ人もいるそうですがそれは中国のもので、幸の神とは違います。また村を悪いものから守るという意味で塞ぎる神、塞さえの神と呼ばれることもありますが本来は幸さいの神です。岐神さえのかみと言うことはあります。

幸の神は祖先神の集合体であり、子孫の幸いを守る神さまのことだといわれます。日本で最初の人格神です。まずは男女の縁を結び、夫婦円満に(男女の和合)子孫繁栄へと導いてくれる、そんな願いがこめられた大元の神さまたち。この親子三柱の神さまが「幸の神三神」と呼ばれ、主神はクナト大神、女神は幸姫命さいひめのみこと、息子神がサルタ彦大神記紀で言うところのイザナギイザナミ、そして猿田彦神のことです。

 

さて、この幸の神三神の故郷は・・・・インド。

サルタ彦大神とは象の頭をもった、あのガネーシャのこと。びっくりですよね。

f:id:sorafull:20171018172511j:plain

日本では鼻高神とも言われたせいか、いつのまにか天狗に変えられてしまいました。道の神の写真では鼻が高くても天狗とは違います。そういえば大国主神仏習合した姿が大黒天ですが、この神さまの由来もインドですね。

それではどうしてこの日本に、インドから神さまがやって来ることになったのでしょう。

古代出雲王家の伝承を紹介したいと思います。

 

インダス文明の残り香

出雲族は3500年前、鼻の長い動物(象)と龍蛇コブラのいる国(インド)から日本を目指して民族移動してきた〉

という伝承があります。

当時インド半島全体にドラビダ人インダス文明を築いた民族といわれる)が住んでおり、母系家族制の農耕民族として暮らしていました。そこへ西北から戦闘的な牧畜民であるアーリア人が侵入してきて、多くのドラビダ人を奴隷化していったのです。母系家族というのは家で女性と子どもだけが生活しています。時折夜に婿がやってくるという暮らしなので、外部の者が家を襲うことは簡単です。父系家族制のアーリア人は戦いに長けています。多くのドラビダ人は南方へ逃げましたが、クナ地方を支配していたクナト王は民を連れて北へと向かいました。なぜかというと、以前から北の大きな湖バイカル湖周辺に住む商人ブリヤート人であろう)が交易に来ており「シベリアの南の大海原に住民の少ない温暖な島がある」と聞いていたからです。ブリヤート人は2万年ほど前から日本と交易があります。

クナト王は若い男女に声をかけ移住希望者を数千人集め、食料などを家畜の背に積んで、まずは北の山岳地帯を越えました。ブリヤート人に誘導してもらったことでしょう。砂の平原ゴビ砂漠を抜けて広い湖水バイカル湖付近に着くとしばらくそこで生活しました。そして筏と櫂を作り長い川アムール川を流れ下って樺太に着きました。海岸沿いに渡り島(北海道)を進み津軽に上陸。そこから人々は各地に広がり、クナト王の子孫は日本海沿岸を西南に移動し出雲に辿り着きました。

インドでは常緑樹が濃緑色に繁っていますが、この地では〈春に芽が出たときの森の色が目にしみるように美しく〉その色をめでて「出芽いずめの国」と呼びました。音が変化して「いずも」となったそうです。

f:id:sorafull:20171018170520j:plain

 

大分の宇佐八幡宮社家の宇佐家には伝承があり、ウサ族は出雲族よりもかなり前から日本に住んでいたといいます。まだ狩猟や魚漁、採取で暮らしていた頃に、シベリア方面からサルタ族が移住漂着してきたため、ウサ族は方々へ拡散したということです。サルタ彦神から名がついたのでしょう。

ではなぜ出雲族は出雲の地を選んだのか。それは黒い川、斐伊川があったからなのです。川底や川岸には砂鉄がたまって黒く見えました。上流では日本で最も良質の鉄がとれたそうです。それを簸というザルですくいとったので簸の川と呼ばれました。この聖なる川、支流が8本。クナト大神の妻、幸姫命の俗名が八岐姫やちまたひめスサノオヤマタノオロチを斬ると剣が出てきたという話にぴったりですね。ですがなぜ聖なる川を斬ったのか。そこが古事記のミステリーです。

出雲族は青銅器文化ももっていましたが、やはり鉄で作るウメガイという小刀が人気で各地から求められました。これは武器ではなく、木を削って日用品を作るものです。

出雲方面では古代から野ダタラという製鉄技法によって鉄を作っていました。このタタラという言葉もインド由来で「猛烈な火」という意味です。国語学者大野晋日本語の起源がドラビダのタミル語にもあると指摘しています。アーリア人の侵攻によってインドの南方に逃れたドラビダ人をタミル人と呼ぶようになり、タミル語はドラビダ語の中で最も古いものなのです。それが日本の古代の文法や基礎語として入ってきています。例えば農耕(コメ、アハ、ハタケ、タンボ、モチ、ヌカ)やハカ、カネ、タカラ、ハタ、オルなど、物と名前が一緒にやって来ているのです。中国や朝鮮語ではないところがポイントです。すでに渡来していたということですから。また五七五七七の和歌の形態の由来もタミル語の古代詩以外には見当たらないそうです。大野氏は言語だけでなくタミル人の巨石文化や正月なども比較し共通性を指摘しています。

 

ちなみにドラビダ人が築いたというインダス文明ですが、排水路を完備した整然とした都市を作り、メソポタミアとも交易をもっていました。インダス文字も残っているのですが解読はされておらず、謎が多いのです。(出雲王家ではかつてインダス文字らしき横文字で記録をとっていたそうですが、その紙が虫食いでボロボロになり、最後の1箱は昭和期にT大学教授に貸し出したまま行方不明になったそうです。解読の手掛かりになったかもしれないものを~)

またインダス文明に王権などの存在はなく、神殿も宮殿も王墓もありません。武器類も発達していなかったようです。なんと穏やかな爽やかな文明でしょうか。衰退した原因は明らかではありませんが、気候の変化ではないかといわれています。信仰としては地母神シヴァ神(男女の和合と子孫繁栄)の原型かといわれる獣頭神、樹木や蛇神、生殖器の崇拝が行われていたようです。

アーリア人バラモン教を信仰し、それが衰えると民間に残っていたインダス文明の信仰が復活しヒンズー教となり栄えました。シヴァ神ガネーシャ、龍蛇神ナーガ。なのでヒンズー教と幸の神信仰は似ているのです。

謎多きインダス文明の残り香が、この日本にまで伝わっていました。戦いを選ばず、生命の力を尊ぶ人たちが渡来し、先住の縄文人に文化を伝え融合していったということです。

 

参照文献

「サルタ彦大神と竜」 谷戸貞彦

「日本語の起源」 大野晋

「宇佐家伝承・古伝が語る古代史」 宇佐公康

 

 

 

もうひとつの渡来人集団、出雲族

前回、旧石器時代に日本列島へやって来た人々を辿りましたが、ここからはその後の縄文時代以降の人々の流入について見ていきましょう。

 

昨年発表された縄文人の核DNA解析の結果、縄文人は他のアジア人とは見た目は似ていても遺伝子的には関係がなく、ホモサピエンスの出アフリカ後、早期に分岐した民族だとわかりました。縄文人はのちに渡来人と混血しましたが、現代日本人は縄文人のDNAを15%ほど持っています。

このDNA解析に成功した神澤秀明氏の研究リーダーであった斎藤成也氏の気になる説があります。旧石器時代に列島へ到着した人々が縄文人となっていくのですが、縄文時代末期になって2番目の渡来人集団がやってきた形跡があるそうなのです。その後、弥生時代に3番目の渡来人がやってきました。この2番目の渡来人とはどういう集団なのでしょう。

f:id:sorafull:20171006145603p:plain

 

図は日本列島人を北部、中央部、南部の三つの地域に分け、そこへ渡来人集団が入植、その後の列島内の移動を表わしています。(斎藤氏のモデル図を参照。名称もそのまま使用)

⑴は前回までの内容と重なりますね。

⑵は4000年前~3000年前に日本列島中央(本州と九州)の南側に渡来人がやって来て、⑴の縄文人と混血し、沖縄や東北から北には影響を及ぼさなかったということを表わしています。

⑶は従来から言われているように、弥生時代へ移行するきっかけともなった中国や朝鮮半島からの渡来人が、列島の中央部(福岡、瀬戸内海沿岸、近畿中心部、東海、関東中心部)へと広がったことを示しています。そのため⑵の渡来人のDNAは日本海や太平洋沿岸に残った可能性があると推測されています。

斎藤氏は記紀神話に照らし合わせ、出雲地方の遺伝子を調べた上で、この⑵の渡来人が出雲人であり、⑶の渡来人に権力を譲り渡した国譲りなのではないかと言われています。(研究段階です)

 

記紀神話のすべてを創作として片付けるのは乱暴です。といってそのままを正しいとすることも無理があります。視点として大事なのは、どういった政治的意図で記紀が書かれたのかを考えることでしょう。記紀の成り立ちについては後に譲るとして、まずは出雲神話の存在の不思議さから。

 

f:id:sorafull:20171013134311j:plain

 大きな国の王

子どもの頃、古事記神話の主人公は出雲の大国主だと思っていました。アマテラスもスサノオも印象的ではありますが、神話の中で大国主のエピソードが断然ボリュームがあったからです。何か違和感が残り続けました。創作するならもっと登場人物のバランスをうまく配分できただろうに、と。そして古事記を書いたのは柿本人麻呂万葉歌人)の可能性があると知った時、なおさら何か理由があると感じました。日本を代表する文学者であり、この構成にはそれなりの意図があるだろうと思えたことと、和歌を詠むときに過去の歴史と現在を二重写しにするパターンが多く、それによって表立っては言えないことをやんわりとほのめかす歌人だからです。

大国主はとにかく女性にモテます。それは単に色男という意味ではなく、多くの妻をもつことでその国を統治し出雲国を拡大していったことを表わしています。そして大きな国、出雲連合国を治めるに相応しい魅力的な人物として描かれています。このネーミングはシンプルです。

ところがその後、あっけなく天孫族に国を譲り渡すこととなります。なんとも唐突すぎる神々の命令によって。

理不尽な話です。この理不尽さを人麻呂は伝えたかったのではないか。縄文時代より人々に愛され、武力を使わずに穏やかにこの国を治めていた出雲王の存在を、政治的制約のある中でもなんとか後世に伝え残したかった、もしくはこれから先の子孫たちに偽の歴史を伝えることを少しでも回避したかったのではないかと思えてきたのです。

 出雲の高層神殿が建てられたのは古事記(712年)が完成して日本書紀(720年)が出来上がるまでの間です。律令国家になった途端に慌ただしく国の歴史が創り直されていった感があります。風土記といえども日本書紀が出たあとに各地方から提出させられているので、表立って中央を否定するような内容は書けません。結局正史とされている文献はどれも政治的創作物という側面を持っています。

天武天皇が大陸の超大国、唐の目を眩ますように、倭国から日本国へと国そのものを大胆にも作り替えた時、出雲は神話の世界に閉じ込められてしまったようです。

それからおよそ1300年後。

司馬遼太郎が著書「歴史と小説」「歴史の中の日本」の中で、産経新聞社時代の同僚(のちの重役)が出雲王家の末裔であり、カタリベであったと記しています。1970年頃のことです。

1980年には吉田大洋著「出雲帝国の謎」が出版されます。その末裔の方へのインタビューをまとめたものなのですが、残念なことに著者の自説(記紀がシュメール語で書かれているという)と混ぜてしまい、真実が伝わることにはならなかったそうです。

そして1984年、出雲の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が整然と納められた状態で発見されました。それまでの全国の銅剣出土総数が約300本なので、この荒神谷の発見がどれほどのインパクトをもたらしたかわかりますよね。古代出雲が神話の中から救い出された瞬間でした。

f:id:sorafull:20171202141645j:plain

f:id:sorafull:20171202141842j:plain

f:id:sorafull:20171202143250j:plain

f:id:sorafull:20171202142958j:plain

 

12年後には加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が、これも丁寧に埋葬された状態で出土しました。荒神谷から3.4㎞しか離れていません。銅剣にも銅鐸にも「✕」印が刻まれているので、ふたつの遺跡は関連があるとみられています。

f:id:sorafull:20171202141549j:plain

 

その後、山陰地方では古墳や遺跡が次々と発見され、2000年には神殿を支えた鎌倉時代の巨大な三本柱(直径3m)が出土し、言い伝え通りに高さ48mの高層神殿が存在したことが確かめられました。ただし出雲王国の詳細についてはわからないまま時間が過ぎました。

f:id:sorafull:20171201222340j:plain

f:id:sorafull:20171201102439j:plain


 

司馬遼太郎の同僚である出雲王家の末裔の方が亡くなられたあと、遺志を継いだご子息が出版社を起ち上げ、2007年以降少しずつ古代日本の隠された歴史を世に送り出すことを始められました。斎木雲州の名で大元出版から何冊も出されています。斎木氏は古代から続く他家の伝書を調べたり、末裔の方々に直接話を聞くなどして、自分の伝え聞いていることと符号するかどうか確認されています。

また、出雲には国が戦で滅ぼされた後にできた財筋(たからすじ)という組織があり、王家の血筋の家系が複数存続しました。その配下の者たちが日本中に散らばり、中央政府の動向などを旧出雲王家に報告するという形が長くとられてきたようです。秘密情報組織です。歌舞伎の祖である出雲阿国もその1人で、毛利家から秀吉らの情報収集を求められた旧出雲王家が踊りの巧い女性たちを集めて組織したといいます。

(現在の出雲大社は中央管轄なので、この王家血筋とは関係ありません。)

 

出雲の伝承は口伝のため、文書では残されていません。選ばれた青年が3500年の歴史をただひたすら暗誦します。斎木氏の父上も「伝承者」です。(カタリベとは違って正確な歴史を伝える者という意味です)

文書がないために海部氏の系図のように国宝に認定されることはありません。私たちがこの伝承をどう受けとめるか、です。歴史だけでなく、様々なジャンルの専門家の方たちに、検討してほしいなと思います。

Sorafullは斎木氏の著書を読みながら何度も鳥肌が立ちました。畏れに似た感情が湧きました。なぜ自分がそう感じるのか、その理由が知りたくて、出雲の伝承を調べています。

 

参考文献

「最新DNA研究と縄文人  斎藤成也」みんなの縄文プラスより

「出雲と蘇我王国」斎木雲州

 

 

 

日本列島を目指した人々がいた⑵ マンモスハンターたちの技術革命から土器の誕生まで

 

 

  f:id:sorafull:20171001091623j:plain

  

バイカル湖畔にそっくりさんたちがいる

篠田謙一氏の研究より。縄文人29体のミトコンドリアDNAを分析して、世界の民族のDNA情報が集まるデータバンクから一致するものを探したところ、韓国、台湾、タイに一体ずつ一致、そして17体がシベリアのブリヤート人と一致したそうです。さらに縄文人のDNAと完全一致する村さえありました。そこはまさに日本人そのものといった顔の村人ばかりだとか。

アフリカを出た人類は現在のパキスタン辺りから方々へ分かれていったことは「DNAが語るホモサピエンスの旅」で紹介しました。

 

 

今回は日本の専門家たちの研究に基づいた北方ルートを追ってみたいと思います。NHKスペシャル「日本人はるかな旅1」を参照)

出アフリカに成功した人類の一部は、4万年前にはシベリアに到着しています。時は氷河期です。何故わざわざより寒いところをこの集団は目指したのか。理由は大型動物のお肉!そうです、マンモスを追って北上していったのです。マンモス1頭を捕らえれば10人で半年は食べていけたと推測されます。お肉や内臓はビタミンなどの栄養分を損なわないようにできるだけ生で食べ、骨髄まで掻き出して食べていたらしいです。マンモスの骨髄、どんな味なのでしょう。脂は燃料に、皮は衣服に、骨は道具に、捨てるところなく利用されました。

核DNA解析によると縄文人は出アフリカの後、かなり早期に母体となる集団から分かれ日本列島へ到着しているようです。中国人や韓国人とは親類ですらありません。

上記の北方ルートをとった集団は難所ヒマラヤを越えて(迂回して?)シベリア入りしているので、その後他の集団と交わる機会も少なかったでしょう。また、Y染色体ハプログループ(系統)から見ると、縄文人チベット人と4万年前頃に分岐したようなので、チベット高原を経てシベリアへ向かったのかもしれません。

父系を語るY染色体は過去の民族支配の記録でもあります。もし縄文人が他民族に負けて支配されると女性はその他民族との子を生みます。現在日本全国で4~5割ほどの男性が縄文人由来のY染色体をもっていることは、そういった支配された事実がなかったことを意味します。もちろん弥生時代に渡来人と縄文人が入れ替わったということはあり得ません。また縄文人のDNAは日本人以外には見当たらないので、早期に日本列島入りした人々はここに居続けたことになります。

さてシベリアの話に戻ります。2.3万年前にはバイカル湖周辺に集落が現れます。(この集落は最近のDNA解析により東アジア人とは関係のないヨーロッパから中東由来ということがわかっています。ということは西からシベリア入りした人たちがいたということでしょうか。やはり世界規模のDNA解析によって見解を待つほかないですね・・・・)

夏は短くとも暖かく、平原となり動植物も豊かでした。狩りのための道具も進歩して、細石刃という非常に優れた石器が生まれます。動物の骨に細い溝を彫り、そこにカミソリの刃の如く薄く剥いだ黒曜石などの石を何枚か挟み込んで槍先にします。長さ3㎝以下、幅数㎜のマイクロ極薄カミソリ刃。刃が傷めば替えることができる替え刃式だなんて、今のカミソリの源流じゃないですか! 

f:id:sorafull:20171003205738j:plain

細石刃

ところが2万年前に最寒冷期が訪れ、マンモスたち大型動物は少しでも暖かい方へ移動していき、人々もそれを追って移り住みました。シベリアから中国やサハリンへ、そしてアメリカ大陸へと何世代もかけて散らばっていきます。この極寒の中を移動する際、食料調達の必需品が重い石器ではなく小さな細石刃であるからこそ大量に持ち運ぶことができ、彼らを救ったともいえそうです。まさに生死を分けた技術革新ですね。

 

f:id:sorafull:20171002151952p:plain

サハリンへ向かったものは、すでに地続きとなっていた北海道千歳へ。残された細石刃やマンモスの骨から移動ルートが浮かび上がります。氷期でも津軽海峡だけは海水が残っていましたが、マイナス30℃以下になった年はさすがに海が凍り本州への道が現れたようです。こうして2万年前には細石刃文化を持った人々が本州へ押し寄せました。

人が列島に渡ってきたのはこのサハリンルートだけでなく、中国北部からマンモスを追って朝鮮半島まで南下してきた人々が、狭くなった対馬海峡を筏などで渡ってきた可能性もあります。日本の遺跡を見ていくと3万年前から少しずつ増え始め、2万年前を境にぐっと増えています。あの新宿百人町遺跡も2.5万年前ですので、最寒冷期までに到着しています。前回のブログで紹介した南方からの渡来人もそうでしたが、小集団で少しずつ渡ってくる時と、気象条件などから大きな集団がどっと押し寄せてくる場合があるようです。後者のほうが文化の広がりは早く、広範囲に影響が出やすいですね。

細石刃文化が日本に広がる前、中国北部から入ってきたであろう石刃やナイフ型石器が主流でしたが、細石刃が入ってくるとナイフ型は姿を消してしまいます。また東日本と西日本では細石刃の種類が違っています。これはシベリア経由か中国北部経由かの違いのようです。

これほどの文化革命を起こした細石刃ですが、温暖化が進むにつれその勢力は衰え、やがて土器文化主流の時代へと移行します。

 

土器が日本に現れる

1.5万年前になると大型動物が激減し、森が一気に増えて小動物の狩りへと変わりました。鏃やじりが現れます。けれど小動物では食料として足らず、木の実の採集に頼ることとなります。中でもドングリはデンプン質が豊富で主食になるのですが、残念なことにタンニンが多くそのままでは渋くて食べられません。そこでドングリを煮て渋みを抜くことを誰かが閃いたのでしょうね。煮炊きするために必要な土器が作られ始めます。

世界最古級とされる土器はシベリアのアムール川流域で見つかった1.3万年前頃のものです。そしてその土器の改良型が新宿百人町遺跡から出土しました(1.2万年前)。どこが改良されていたのかというと、アムール川のものは食料の貯蔵用らしく、樽のような形で平底、厚みが15㎜。一方新宿の土器は底が狭くなった丸底、厚さも5㎜と3分の1の薄さになっています。煮炊きに適した形です。でもこの薄さで作るのは大変高度な技術だそうですよ。そのため粘土に混ぜる砂の量を加減したり、動物の毛を混ぜて割れにくくする工夫がなされているのです。

f:id:sorafull:20171003201309j:plain

(左)アムール川流域  (右)新宿百人町遺跡 

※ 中国湖南省でこれらより早期の土器が発見されましたが、年代測定の信頼性において否定する意見がみられます。

ちなみに日本最古の土器は青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器片で、16500年前のものとされ、世界的に認められています。平底で内側に炭化物の付着がみられ、煮炊きに使われたようです。エジプトやメソポタミアより7千年以上前の土器の誕生です。

縄文土器といえば粘土紐を積み上げて接着していくものを想像しますが、無文土器はパッチワーク技法といって、おせんべいのような粘土板の貼り合わせによって作られた可能性があるそうです。そしてこの無文土器といわゆる縄文土器をつなぐ技法が新宿の土器、隆起線文土器。紐まではいかない帯状の板の接合によって作られたようです。ここから粘土紐の技法が生まれたあと、縄文土器は激増します。

 

一方、南九州でも細石刃文化と入れ替わるように土器文化が始まります。ただし順を追ってみると、本州で青森大平山元Ⅰ遺跡に見られる無文土器が現れ、続いて隆起線文土器などが西九州まで広まった後に、南九州での隆帯文土器、無文土器が現れます。土器に関しては北方からの文化が南下し、南九州ではその後独自の形体、装飾へ発展していったようにも見えます。7500年前に上野原遺跡で早々と生まれた壺型土器を見ると、この地方での独自性を思わずにはいられません。鬼界カルデラ噴火によって南九州の成熟した文化と南方からの遺伝子は激減してしまい、年月を経てこの地が復活した時には南の海の民とは別の文化が幕を開けました。

 

まとめ

旧石器時代、日本列島には南方や北方からの人々が、それぞれの文化を携えてやって来たことが見えてきました。時に海を越え、雪原を越え、何世代にもわたる命がけの旅の果てにこの日本列島に辿り着いたのです。そこは決して楽園ではなく、小さな島国で相次ぐ環境の変化に適応するため、さらに何世代もかけて新たな技術革命を生み出す必要があったでしょう。生き抜く智慧と創造性、そして新天地を目指す勇気溢れる人々がこの国を切り開いてくれたのです。

日本は島国だから単一民族であり続けられたという単純な話ではなく、そもそもこの民族は、多様な民族の融合によって存在しているのです。しかも原初の人たちのDNAを多くの人が受け継いでいる。多様性と継続性という相反するものをもつ特殊な民族ではないですか。

 

ところで、前回のブログで黒曜石を船で運搬していたのは誰かという疑問が残りました。シベリアからの渡来人は陸路でした。中国北部の人たちが南下して朝鮮半島に渡り、狭く浅くなった対馬海峡を簡単な筏などで渡海した可能性はあります。ですが大海原を航海するのとはレベルが違いますね。やはりスンダランドからの航海民族が黒曜石に関わっていたのでしょうか。

こうやって見てくると、中国国史に記された古の倭人が日本と大陸を繋ぐ大海原を自在に行き来していたとしても、不思議ではなくなってきました。春秋戦国時代の越人に頼らなくとも、そもそも日本には航海民が存在していたようです。どういうわけか私たちは陸の歴史ばかり教えられています。これから海の民の記憶がもっと出てくると面白いですね。

 

 参考文献

「日本人はるかな旅1」NHKスペシャル日本人プロジェクト編

「王子山遺跡の炭化植物遺体と南九州の縄文時代草創期土器群の年代」国立歴史民族博物館研究報告、工藤雄一郎

 

 

日本列島を目指した人たちがいた⑴ 埋もれていた海の民の先進文化が常識を変える

新宿駅の北側に新宿百人町遺跡があります。住所を遺跡名にしただけ、なのに不思議と味わいがありますね。

新宿の初期の住人は2.5万年前の旧石器人。持ち物を見ると北方からの移住者のようです。彼らは焼いた石の上でお肉を蒸し焼きにして食べるという手の込んだ調理をしています。日本橋にはナウマン象の化石が。・・・・と聞けばお肉を食べ放題だったのかと思いますが、当時は氷河期ですので食材を得るのは簡単なことではなかったでしょう。

今や新宿は高層ビルに歓楽街。日々繰り広げられる賑やかな饗宴に、街の下に眠る先人達は何を思っているでしょうか。

 

ところ変わって鹿児島県種子島、3.1万年前の立切遺跡です。こちらでも石蒸し焼きの跡が残っています。

鹿児島県南さつま市にある栫ノ原(かこいのはら)遺跡(1.2万年前)にはさらに燻製加工設備もあって、人間の食への好奇心、探究心は原初から溢れていたようです。

新宿と鹿児島の遺跡に見られる石蒸し焼きの調理法は、互いに関連があるからなのかどうかはわかりません。前者はシベリアから南下してきた人たち、後者はスンダランドから北上してきた人たちだろうといわれています。

縄文人のルーツは核DNA解析の進展を待つほかないのですが、これまでの研究から日本列島にやって来た人々によって伝わった文化の流れは見えてきます。

 

世界の古代人を魅了した黒曜石

 f:id:sorafull:20170928230113j:plain

日本列島へ現生人類が現れるのは4万年前頃からで、3万年ほど前には黒曜石を扱う人々の足跡が残されています。伊豆半島沖60㎞南にある神津島は質のいい黒曜石を大量に産出したらしく、ここから運ばれたものが本州中央部の広範囲に残されています。まさに宝島!

東京武蔵野台地から3.2万年前のものが、小金井市からは2万年前のものが出ており、縄文中期になっても各地へ運ばれています。神津島と本州は最寒冷期でも30㎞以上の海峡があり、船以外での運搬が不可能です。ということはこの時期から航海技術を持っていたことになりますね。

他にも佐賀の黒曜石が沖縄や朝鮮半島で、隠岐男鹿半島産はロシア沿海州で、北海道のものはサハリンやアムール川近辺で見つかっています。氷期で陸橋ができていた場合もあるのですべてが船での運搬ということではありませんが、交易があったことは確かです。

黒潮圏の考古学研究者である小田静夫氏によると、神津島の黒曜石を搬出し交易していたのは、スンダランドから黒潮海域を北上してきた海洋航海民族だとしています。確かにこの時期に明らかに航海術を持っていたのは、スンダランドからサフルランドへ渡海した人々の系列ですよね。とはいえこれほどの距離を簡素な船で渡ってこられるのでしょうか。

※ 黒曜石は酸性の火山から噴出したマグマが急冷してできるガラス質の石なので、火山国日本では産出量が高いのです。石刃として形成しやすく、非常に鋭利なため重宝されました。またイスラム教の聖地、メッカにあるカアバ神殿の御神体は黒曜石(Obsidian)です。Wikipediaによると、もともとカアバ神殿はアラビア人の多神教の神殿であったのをイスラム教徒が乗っ取り、神々の偶像はすべて排除されるもこの黒曜石だけは壁に埋め込まれ、今も巡礼で石に触れると幸運に恵まれるとされているそうです。多神教の時代には最高神の2番手である月の女神の御神体でした。霊的なものを発する石でもあるようですね。ちなみにソラフルの父は信州霧ヶ峰を旅した時に手に入れた大きな黒曜石を大事に飾っていました。ソラフルの幼心にもその姿は神秘的なものとして映り、先日父が逝って実家の片付けをしながら石を探してみたのですが見当たりません。よけいに心に残る石となりました。

 

黒曜石交易をしていたかもしれないスンダランドの海の民が日本とどのように関わっているのか、NHKスペシャル「日本人はるかな旅2」を参照に、遺跡から見ていきたいと思います。

以前は旧石器~縄文時代といえば東日本の遺跡が圧倒的に多く、特に90年代における三内丸山遺跡(5500年前)の発掘は東日本優勢の感を強めました。ところがその直後から南九州でも旧石器以降の遺跡が次々と見つかり、実は東日本よりも早期に文化が芽生えたことがわかってきたのです。

先述の鹿児島県栫ノ原遺跡は1.2万年前の夏用の定住集落だったようですが、調理設備の他にも丸木舟を作るための世界最古の丸ノミ石斧が見つかっています。この丸ノミ石斧はのちに他地域でも現れますが、栫ノ原型は独特で南九州から沖縄にかけてだけ存在するため、そこが海上交流圏であったことがわかります。

また沖縄で出土した1.8万年前の9体の人骨(港川人)の形態から、本土縄文人とは違い、ジャワ島にいたワジャク人と共通性がみられるといいます。今年、石垣島白保竿根田原洞穴遺跡で発見された全身骨格の人骨が、国内最古とされる2.7万年前のものだと判明しましたが、先に発見されていた20体近くの人骨のうち、2~1万年前のもののミトコンドリアDNAの解析をしたところ、南方由来だったことがわかりました。

 

f:id:sorafull:20171002151952p:plain

 

2万年前からの温暖化によってスンダランドの水没が始まり、海を渡って移住する人も増えたことでしょう。フィリピンにはドゥマガット=海から来た人たちと呼ばれる民族もいて、そのDNAはスンダランドから来たことを示しています。もちろんフィリピンから沖縄までは千kmもありますし、実際に黒潮ハイウェイが今のように日本近辺を流れるのは1.2万年前頃からです。それまでに渡来した人々の場合は、まだ氷期で大陸と台湾が繋がっていたので、スンダランドから陸伝いに北上し、台湾あたりから島伝いに沖縄へと移動したのかもしれません。

 

鹿児島県霧島市にある上野原遺跡桜島霧島連峰を眺める高台にあり、なんと9500年前に現れた日本初のマイホームタウンです。広さは46軒の竪穴式住居を含む15000㎡。

暖かい黒潮が温暖化とともに日本列島に近づき始めると、太平洋側はより暖かくなっていきました。南九州では豊かな森が現れ、生のまま食べられる木の実も豊富になって、住みよい村が誕生したのです。

1.2万年前からこの地方でみられる縄目文様ではない貝殻文様の土器は3千年以上にわたって作られました。丸太船を作るための丸ノミ石斧を改良して、木を伐採するための磨製石斧へと道具も進化しました。さらに上野原タウンでは7500年前に初の壺型土器が作られています。これまで壺型土器は弥生時代になって稲籾の保存用の壺として現れたと言われてきましたが、ここではそれより5000年も前から雑穀類の貯蔵に使われていたのです。他にも朱を施したピアスや西日本最古の土偶も出ていて、何か儀式的なことが行われていた可能性も。

こんな先進的な文化をもった遺跡がなぜ長く隠れることになったのか。それは6300年前に起きた海底火山、鬼界カルデラの大噴火によってすべてが灰の下深くに埋もれてしまったからです。規模は1万年に1度のレベル、火山灰は東北まで及びました。けれど幸いなことに3度の噴火の間に南九州から逃げることのできた人たちがいたらしく、彼ら独自の磨製石斧や燻製設備などが太平洋沿岸で出土しています。まるで黒潮の流れに沿うように、高知、和歌山、三重、愛知、静岡、関東へと伝わっていました。2000年に東京多摩ニュータウンに出現した関東最大の縄文遺跡(4500年前)では、250本の磨製石斧が見つかっています。これらはすべて南九州由来のものだとか。黒潮の恩恵は計り知れません。

関東で成熟期を迎える縄文文化の陰に、南九州から逃れてきた人々との融合があったのかもしれませんね。

黒潮方面だけでなく、陸路で九州中部から北部へ、また対馬海流に乗って北九州沿岸から日本海側へ避難した人たちもいたようです。

※ 昨年秋の神戸大学の発表によると、この鬼界カルデラのマグマが現在活発になっていることから、噴火予測はできないものの、いつ起こってもおかしくないとしています。もし噴火すれば死者1億人と想定されています。この規模の凄さがわかりますね・・・・

日本は火山の国なので、昔の人も噴火の怖さは知っていたはず。それでも火山付近の遺跡が多いのはなぜか。それは火山による恵みがとても大きかったからです。火山の麓には湧き水が豊富、川の水量も豊か、火山灰による土壌は有機物が多くて肥沃、温泉も湧く、噴火の爆発によって土砂が流れ平野ができる。このような命を育む豊かさと、一瞬で命を奪う災害との狭間で、火の神、山の神に古代の人々は祈りを捧げていたのかもしれません。縄文中期の土器を見るとその力強さと美しさに息をのむことがありますが、なにか圧倒的な力に溢れているのです。縄目文様の意味や解釈を超えた根源的な力です。火山や大海原への畏敬、さらにはそれら自然界と一体となって湧き出る生命力なのでしょうか。

のちの弥生土器からはそういった力は消えています。

 

8万年ほど前にアフリカを出て海岸採集をしながら東進し、東南アジアで漁労民として暮らしていた人々がいました。やがて船を作り海へと挑んでいった海の民も存在したことは確かなようです。その一部が沖縄や南九州へ到着し、南方文化を日本へ伝えたという流れは描けてきました。

ただし3万年前から伊豆半島沖などで黒曜石を交易していたのが同じ系統の人々なのかどうかの確たる証拠はありません。他に航海術をもった人々がこの時期に日本近辺にいたかどうか、そうやって絞っていくしかないようです。

次回はシベリアから北回りで日本列島にやって来たクールな文化を紹介します。

 

 

参照文献

「日本人はるかな旅2」 NHKスペシャル日本人プロジェクト編

「『多摩考古』45.黒曜石分析から解明された新・海上の道」小田静夫

 


 

 

DNAが語るホモサピエンスの旅

f:id:sorafull:20170925132748j:plain

 

3000年前から中国の国史に記された「倭人」への興味は尽きませんが、ここでいったん古代史から離れ、倭人を含むであろう縄文人の源流を遺伝子から探ってみたいと思います。そもそも日本列島に人が上陸したのはいつ頃、どんな経緯だったのでしょう。

 

DNAの遥かな旅路

これまで古代人の人骨などからDNAを調べる際はミトコンドリアのDNAからの情報であり、母系の遺伝経路を辿っていました。ところが昨年の2016年秋に神澤秀明氏が核DNAの一部解読に成功し、両親の祖先からの情報を得られることができたのです。まだ始まったばかりの研究なので、福島県にある三貫地貝塚縄文人から得られたものしか発表されていませんが、今後全国的に行われていくと、日本列島へやって来た人たちの流れが見えてくるでしょう。楽しみです。

この発表でわかったことは、縄文人アイヌと最も近く、次に沖縄、そしてその他の日本列島人(ヤマトと仮に言う)という順になっていました。

現代のヤマトは縄文人の遺伝子を15%ほど受け継いでいるそうです。また、縄文人は他のアジアの人たちとは関係性がなく孤立しています。それはどういうことでしょうか。

 

まずは縄文人が現れる土台となった、ホモサピエンスの源流からお話したいと思います。

 ミトコンドリア・イブという言葉、ご存知の方も多いと思いますが、どこか魅惑的な響きがありますよね。すべての人の究極の母というイメージが伴うのかもしれません。でもちょっと違うんです。

細胞の中にあるミトコンドリアのDNAは母親から受け継ぐもので、男性も受け取りますが子孫に伝えることはできません。このミトコンドリアDNAを解析すると人類の母方の祖先をさかのぼることができ、結果20万年前の1人の女性に行き着くというものです。ただし全員の祖先が1人の女性に繋がるという意味ではありません。それまでいた他の種が途絶え、20万年前に現れた私たちの祖先、ホモサピエンスがアフリカを出て世界に散らばり今に至る、集団の由来としてのミトコンドリア・イブなのです。

ところがその後の研究で、4万年前のネアンデルタール人核DNAを解析した結果、アフリカ人を除いたすべての人類はネアンデルタール人からDNAを数%受け継いでいるということがわかりました。核DNAは母方だけでなく両親以前の大量の情報が含まれています。

アフリカを出たホモサピエンスネアンデルタール人は共存し、子孫を残していたのです。それによってホモサピエンスは免疫力が高まったそうです。さらにメラネシア人(パプアニューギニアなど太平洋の島々)はデニソワ人からDNAを数%受け継ぎ、高地に適応したチベット人の遺伝子にもデニソワ人の影響がみられ、中国南部やイヌイットにもその可能性がありそうだと報告されています。

デニソワとはシベリアにある洞窟の名前で、そこから2008年に歯と手の骨の化石が見つかり、核DNAの解析により新たな人類が発見されました。ホモサピエンスの祖先とは80万年ほど前に分岐し、その後ネアンデルタール人とデニソワ人が分岐したのではないかといわれています。

ざっくりまとめると、数10万年前にアフリカを出て中東やヨーロッパへと移動したグループはネアンデルタール人となり、アジア内陸部へ移動したグループはデニソワ人になった。その後およそ8万年前にアフリカを出たホモサピエンスはまずネアンデルタール人と交わり、そこからアジアへ移動した一部がデニソワ人と交わった。そして4万年ほど前にはホモサピエンスだけが生き残ったということになります。ネアンデルタール人とデニソワ人が絶滅した理由はわかっていません。インドネシアで発見された謎の小さなフローレス原人は5~6万年ほど前に姿を消しています。ちょうどホモサピエンスが島にやって来た頃と重なります。闘争の可能性がないとは言い切れませんが、その証拠もありません

 

次に、ホモサピエンスの出アフリカについて。

ここはスティーブン・オッペンハイマー氏の説を参照します。氏は遺伝子系統図や考古学的証拠、そして太古の気象学に基づいてホモサピエンスの出アフリカやその後の大移動の契機となった出来事や可能性について大変細やかな調査をされています。(ネアンデルタール人やデニソワ人との混血が発表される直前の説なので、あくまで混血はなかったとして論じられています)

 

f:id:sorafull:20170926125207p:plain

 

19~13万年前、氷河期の寒冷化によってサバンナが縮小し、ホモサピエンス初の出アフリカ集団は北ルート(エジプトからレバントへ)を通って成功するも、9万年前の厳しい氷期の到来で全滅。

12.5万年前から間氷期温暖湿潤化。アフリカに残ったホモサピエンスはそのまま留まり続けることとなる。紅海西岸で海岸採集と狩猟によって生活していた様子あり。

8.5万年前、氷河期となり海面が一気に80m下降、塩分高濃度となって海産物が減少。向かいのアラビア半島南部は湿潤なモンスーン気候のため対岸へ渡る。南回りの出アフリカに成功。この集団が私たちの祖先です。

その後、南アラビア沿岸を移動していくのですが、このアラビア海沿岸辺りでふたつの集団ができ、ひとつはインドから東方へ向かいます。しかし7.4万年前インドネシア、トバ火山の超巨大噴火により、東インドまでが壊滅的な被害を受けます。この災害が遺伝子系統を複雑にしています。この後6.5万年前の海面が最も低い時期に海を渡って、スンダランドからオーストラリアへ上陸したグループもあります。

5万年前の温暖化によってアラビア砂漠が緑化し、アラビア湾から西方へ向かう集団が現れ、レバントやヨーロッパへと移動します。

 

アフリカを出たホモサピエンスは南回りでアラビア海周辺に到り、そこで子孫を増やしながらインド洋沿岸方面とヨーロッパ方面へと大きくふたてに分かれていったようです。縄文人のDNAはアフリカを出て早期に枝分かれしているので、海岸採集をしながら早々とインド洋沿岸からスンダランドを抜けて、東アジア沿岸を北上し日本列島へと向かった可能性があります。(4万年ほど前には上陸の痕跡がみられます)この移動がかなり早期だったために、遺伝子的に他のアジア人と関係性がみられないのです。ただし現代のヤマト人は中国や東南アジア人のほうが遺伝子的には近いので、縄文人がのちに彼らと融合した影響が強いということになります。

 

さて、私たちホモサピエンスは誕生以来、様々なチャンスをものにしてアフリカから世界中へと広がっていきました。氷期を生き残るにはネアンデルタール人の遺伝子が有効であったかもしれません。自然の猛威、他の種族との闘争、そういった危険を乗り越えた末の繁栄といえます。

ヒトがチンパンジーと分かれたのが6~700万年前。以来猿人、原人、旧人、新人と進化しながら、つい数万年前まではいくつもの種が共存していました。

なんだかおかしいと思いませんか?

気がつけばこの短期間に、ヒト属はホモサピエンスのみ!となっていたのです。

幾多もの種の中でホモサピエンスだけが生き残ったことを、単純に喜ばしい奇跡とみていいのでしょうか。それってつまり多様性を失い、遺伝子が極めて似通っている、均一(ホモ)なものだけになったということです。私たちは見た目は様々ですが、それは環境に適応しただけであって表面的なこと。多様性を保っていれば異種混合する余地がありました。たとえある種が途絶えても他の種が生き残りました。けれどここからは私たちだけなのです。もしかして、すでに絶滅危惧種?!

これからも氷河期はやってきます。彗星の衝突、火山の大噴火、新種のウイルスの猛威。地球上では常に繰り返されていることです。たとえ最後のヒト、ホモサピエンスが途絶えても、地球は変わらず回り続けているのでしょうね‥‥

と、世を儚んでも仕方ありません。それよりも、このソラフルの体の中にネアンデルタール人の逞しいDNAが生きていることを歓びたいと思います!

 ※ ホモ・サピエンスラテン語で、ホモは人間、サピエンスは知恵です。

 

参考文献

「人類の足跡10万年全史」スティーブン・オッペンハイマー 

 

 

 

古代海人族を結ぶ糸(5)安曇氏と冶金術、辰砂の魅力。そして龍伝説

 

 

安曇氏のその後はどうなったのでしょう。

現在長野県安曇野市穂高神社では穂高見命、綿津見神、ニニギノ命を祀り、奥深い山の中で海人の祭り、御船祭を毎年行っています。 

穂高見命といえば新撰姓氏録によると、綿積豊玉彦命の子であり安曇氏の祖となっていました。

安曇族が北九州から瀬戸内海沿岸、近畿、東海、山陰、北陸、信濃へと移動していった跡が地名としてたくさん残されています。川を遡って内陸部へも入っていきますが、海人族は山の地形にも詳しかったからでしょう。船の材木を見つけなければいけませんからね。

それに船の防腐剤として使われていた赤い辰砂シンシャ(丹、丹砂、朱砂、朱丹ともいう)は水銀と硫黄の化合物、硫化水銀からなる鉱物です。水銀鉱山は熊本から四国を通って伊勢へと続く中央構造線上や佐賀、丹後に多く、特に古代大和周辺の産出量はすごかったようです。日本列島の成り立ちが非常に特異的であったために、日本はまるで水銀鉱床の上に乗っているようなものだともいわれます。

記紀の神武東征で大和に入った神武が井光(イヒカ)という国つ神に最初に出会いますが、イヒカの守る井戸は水銀の井戸とも考えられます。

 

f:id:sorafull:20170910211238j:plain

写真は辰砂の結晶です。このような結晶として存在するのは中国内陸部に多く、日本では岩石の中に辰砂が混在して全体に赤い岩石として露出、もしくは砂となって川底に堆積していたようです。

2019.12月追記

f:id:sorafull:20191228092145j:plain

徳島県若杉谷で採集された辰砂鉱石/淡路島日本遺産展資料より

これが本来の朱色です。現在目にする黄色味がかった朱とはかなり違いますよね。昔は神社の鳥居もこの鮮やかな赤だったんですよ。深みのある神秘的な赤。生命を思わせる色です。

日本では縄文時代から辰砂を日常的に使う習慣がありました。三国志魏書倭人伝にも倭人は体に丹朱を塗っているとあります。獣除けや魔除けの意味もあります。漆器縄文土器などにも使用され、また防腐剤として遺体に施したり墓の内部に塗ることも。呪術的には蘇りの意図がありました。

道教では不老不死の仙薬として皇帝たちが追い求めたといいます。もちろん秦の始皇帝も。水銀ですので服用しすぎて命を落とした皇帝も何人かいたようです。

日本では中世以降東大寺の大仏のように金メッキに使われ、非常に貴重なものでした。錬金術です。まさに辰砂は万能なのです。

渡来人によって新たな技術を手にした古代日本の権力者たちは、水銀鉱脈を求めて移動していったとしても不思議ではありません。なぜ不便な山奥の大和を奪い合ったのか。ここにひとつの糸口があるのかも。

のちに空海も吉野から高野山にかけて修行をしていましたが、辰砂と繋がりがあるようです。空海の母は物部阿刀氏の娘で、火明命の後裔です。玉依御前と呼ばれていたそうです。(玉依姫とは役職名という説があり、魂の依りつく巫女ですね)

さて、海人族はこの辰砂を始め鉄や銅などの産出地を見極める技術や冶金術(鉱物から金属を取り出し精製する技術)をもっていたと考えられます。安曇の祖は穂高見命またの名を宇都志日金析命とあり、金カネの字があてられています。後裔の凡海氏はその冶金の技術を買われて陸奥国に派遣されています。

 

一方401年に安曇連浜子が淡路島の海人を連れて履中天皇暗殺を謀ったとされ入墨の刑を受け、その後は海人の統率者から外されたということです。

律令時代には代々内膳司天皇の食事を司る)の長官を阿倍氏とともに務めています。

660年頃、山城国安曇比羅夫が水軍を率いて百済救援に渡っていて、その後白村江の戦いで戦死しています。が、なぜか安曇氏の家系には比羅夫が見当たりません。なのに信州安曇野穂高神社では比羅夫を祀り、命日に先述の御船祭を行っているのです。また阿倍比羅夫という似た名前の人がほぼ同じ経歴をもっています。内膳司も阿倍氏と一緒です。その後安曇氏は中央から消えてゆきます。何があったのでしょう。

 

f:id:sorafull:20170911111412j:plain

 と、ここで締めくくろうと思っていたら、突如ひとつの伝説に巡り会いました。テレビアニメ「日本昔話」のオープニング映像、龍の背に乗る童子「龍の子太郎」です。

ソラフルは幼い頃、松谷みよ子氏の書かれたこの「龍の子太郎」がそれはそれは大好きで、読むたびに涙し、やがて我が子らに読み聞かせながらまた涙したものです。

それがなんと、龍の子太郎とは信濃安曇野にやってきた安曇族のことのようなのです。

松谷氏はこの地方に残るひとつの民話の伝承が地域ごとに断片化されていることを懸念し、もとの話が消滅するのを防ごうと、松本~安曇野の開拓伝説をひとつの話にまとめました。ここではもととなった伝承と松谷氏の創った話を含めて紹介しますね。

 

3~4世紀まで松本盆地は大きな湖でした。湖に住む諏訪大明神タケミナカタ)の化身である犀龍(女の龍)と、東の高梨に住む龍王が結ばれ泉小太郎が生まれます。この子は人間の子として育ってほしいと犀龍は息子を村の老夫婦に預け、自身は身を隠します。小太郎の脇腹には鱗紋があり、魚のようにスイスイ泳ぎます。成長した小太郎は自分が龍の子であることを知り、母を探す旅に出ました。旅の中で、この湖の水を引けば平地ができ、貧しい村人たちが田畑を作って豊かになることを知ります。再開した母の犀龍に小太郎は相談しましたが、この湖がなくなれば犀龍の住むところは失われます。しかし犀龍は小太郎を背に乗せ、私の目となりなさいと言って自身の躰を湖岸に打ち付け、赤い血を流しながら何日もかけて岩盤を突き破り、湖水が日本海へと流れ出るようにしました。その時できた川が犀川さいがわです。水は犀川から千曲川へ流れ込み、越後の海へと注がれます。やがてすべての水が引くと豊かな平野が現れました。力尽きくずおれた犀龍の躰に小太郎の涙がぽろぽろとこぼれ落ちると、犀龍は人間の姿へと生まれ変わりました。

 

安曇平の歴史を平安初期から記録しているという仁科濫觴によると、大昔に松本盆地を排水、開拓した功労者である白水光郎アマヒカルコの名前を、のちに書き誤ってしまい、泉小太郎と伝わったようなのです。白水を泉、光を小太と読み間違えたのだとか。

白水郎とは九州の海人(あま)のことです。そして志賀海神社は龍の都。白龍王とは安曇族の王。

一方、諏訪大明神タケミナカタといえば大国主の息子であり、出雲の国譲りで天孫族タケミカヅチに負け、国を追われて諏訪へ逃れてきたタケミナカタです。土着の民と争うことなく融合したと伝えられています。その化身、犀龍。古代出雲は龍蛇神を信仰していました。

何の因果か出雲族が落ち着いた先の諏訪へ、かつて自分たちの祖先を追いやった天孫族側である安曇がやってきたのです。それでも出雲と安曇は融合し小太郎が生まれ、この地をともに開拓。

犀龍の流した赤い血は産鉄族である出雲(ヤマタノオロチ)を表わしているともとれますが、やはり出雲族の痛み、悲しみを思わずにはいられません。出雲族はこうやっていつの時代も新しいものを受け入れ融合し、影となってこの国の発展を支えてきたのではないかと思うのです。和のこころ、ですね。

 

思わぬところで幼い頃の大切なものに再会したせいか、センチメンタルなラストになってしまいました。

 

  参考文献

「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」海部光彦

「古代海部氏の系図」金久与市

「出雲と大和のあけぼの」斉木雲州

「日本の地名」谷川健一

「邪馬一国への道標」古田武彦

弥生時代の開始年代」総研大文化科学研究