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源流なび Sorafull

古代海人族を結ぶ糸(5)安曇氏と冶金術、辰砂の魅力。そして龍伝説

 

 

安曇氏のその後はどうなったのでしょう。

現在長野県安曇野市穂高神社では穂高見命、綿津見神、ニニギノ命を祀り、奥深い山の中で海人の祭り、御船祭を毎年行っています。 

穂高見命といえば新撰姓氏録によると、綿積豊玉彦命の子であり安曇氏の祖となっていました。

安曇族が北九州から瀬戸内海沿岸、近畿、東海、山陰、北陸、信濃へと移動していった跡が地名としてたくさん残されています。川を遡って内陸部へも入っていきますが、海人族は山の地形にも詳しかったからでしょう。船の材木を見つけなければいけませんからね。

それに船の防腐剤として使われていた赤い辰砂シンシャ(丹、丹砂、朱砂、朱丹ともいう)は水銀と硫黄の化合物、硫化水銀からなる鉱物です。水銀鉱山は熊本から四国を通って伊勢へと続く中央構造線上や佐賀、丹後に多く、特に古代大和周辺の産出量はすごかったようです。日本列島の成り立ちが非常に特異的であったために、日本はまるで水銀鉱床の上に乗っているようなものだともいわれます。

記紀の神武東征で大和に入った神武が井光(イヒカ)という国つ神に最初に出会いますが、イヒカの守る井戸は水銀の井戸とも考えられます。

 

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写真は辰砂の結晶です。このような結晶として存在するのは中国内陸部に多く、日本では岩石の中に辰砂が混在して全体に赤い岩石として露出、もしくは砂となって川底に堆積していたようです。

2019.12月追記

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徳島県若杉谷で採集された辰砂鉱石/淡路島日本遺産展資料より

これが本来の朱色です。現在目にする黄色味がかった朱とはかなり違いますよね。昔は神社の鳥居もこの鮮やかな赤だったんですよ。深みのある神秘的な赤。生命を思わせる色です。

日本では縄文時代から辰砂を日常的に使う習慣がありました。三国志魏書倭人伝にも倭人は体に丹朱を塗っているとあります。獣除けや魔除けの意味もあります。漆器縄文土器などにも使用され、また防腐剤として遺体に施したり墓の内部に塗ることも。呪術的には蘇りの意図がありました。

道教では不老不死の仙薬として皇帝たちが追い求めたといいます。もちろん秦の始皇帝も。水銀ですので服用しすぎて命を落とした皇帝も何人かいたようです。

日本では中世以降東大寺の大仏のように金メッキに使われ、非常に貴重なものでした。錬金術です。まさに辰砂は万能なのです。

渡来人によって新たな技術を手にした古代日本の権力者たちは、水銀鉱脈を求めて移動していったとしても不思議ではありません。なぜ不便な山奥の大和を奪い合ったのか。ここにひとつの糸口があるのかも。

のちに空海も吉野から高野山にかけて修行をしていましたが、辰砂と繋がりがあるようです。空海の母は物部阿刀氏の娘で、火明命の後裔です。玉依御前と呼ばれていたそうです。(玉依姫とは役職名という説があり、魂の依りつく巫女ですね)

さて、海人族はこの辰砂を始め鉄や銅などの産出地を見極める技術や冶金術(鉱物から金属を取り出し精製する技術)をもっていたと考えられます。安曇の祖は穂高見命またの名を宇都志日金析命とあり、金カネの字があてられています。後裔の凡海氏はその冶金の技術を買われて陸奥国に派遣されています。

 

一方401年に安曇連浜子が淡路島の海人を連れて履中天皇暗殺を謀ったとされ入墨の刑を受け、その後は海人の統率者から外されたということです。

律令時代には代々内膳司天皇の食事を司る)の長官を阿倍氏とともに務めています。

660年頃、山城国安曇比羅夫が水軍を率いて百済救援に渡っていて、その後白村江の戦いで戦死しています。が、なぜか安曇氏の家系には比羅夫が見当たりません。なのに信州安曇野穂高神社では比羅夫を祀り、命日に先述の御船祭を行っているのです。また阿倍比羅夫という似た名前の人がほぼ同じ経歴をもっています。内膳司も阿倍氏と一緒です。その後安曇氏は中央から消えてゆきます。何があったのでしょう。

 

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 と、ここで締めくくろうと思っていたら、突如ひとつの伝説に巡り会いました。テレビアニメ「日本昔話」のオープニング映像、龍の背に乗る童子「龍の子太郎」です。

ソラフルは幼い頃、松谷みよ子氏の書かれたこの「龍の子太郎」がそれはそれは大好きで、読むたびに涙し、やがて我が子らに読み聞かせながらまた涙したものです。

それがなんと、龍の子太郎とは信濃安曇野にやってきた安曇族のことのようなのです。

松谷氏はこの地方に残るひとつの民話の伝承が地域ごとに断片化されていることを懸念し、もとの話が消滅するのを防ごうと、松本~安曇野の開拓伝説をひとつの話にまとめました。ここではもととなった伝承と松谷氏の創った話を含めて紹介しますね。

 

3~4世紀まで松本盆地は大きな湖でした。湖に住む諏訪大明神タケミナカタ)の化身である犀龍(女の龍)と、東の高梨に住む龍王が結ばれ泉小太郎が生まれます。この子は人間の子として育ってほしいと犀龍は息子を村の老夫婦に預け、自身は身を隠します。小太郎の脇腹には鱗紋があり、魚のようにスイスイ泳ぎます。成長した小太郎は自分が龍の子であることを知り、母を探す旅に出ました。旅の中で、この湖の水を引けば平地ができ、貧しい村人たちが田畑を作って豊かになることを知ります。再開した母の犀龍に小太郎は相談しましたが、この湖がなくなれば犀龍の住むところは失われます。しかし犀龍は小太郎を背に乗せ、私の目となりなさいと言って自身の躰を湖岸に打ち付け、赤い血を流しながら何日もかけて岩盤を突き破り、湖水が日本海へと流れ出るようにしました。その時できた川が犀川さいがわです。水は犀川から千曲川へ流れ込み、越後の海へと注がれます。やがてすべての水が引くと豊かな平野が現れました。力尽きくずおれた犀龍の躰に小太郎の涙がぽろぽろとこぼれ落ちると、犀龍は人間の姿へと生まれ変わりました。

 

安曇平の歴史を平安初期から記録しているという仁科濫觴によると、大昔に松本盆地を排水、開拓した功労者である白水光郎アマヒカルコの名前を、のちに書き誤ってしまい、泉小太郎と伝わったようなのです。白水を泉、光を小太と読み間違えたのだとか。

白水郎とは九州の海人(あま)のことです。そして志賀海神社は龍の都。白龍王とは安曇族の王。

一方、諏訪大明神タケミナカタといえば大国主の息子であり、出雲の国譲りで天孫族タケミカヅチに負け、国を追われて諏訪へ逃れてきたタケミナカタです。土着の民と争うことなく融合したと伝えられています。その化身、犀龍。古代出雲は龍蛇神を信仰していました。

何の因果か出雲族が落ち着いた先の諏訪へ、かつて自分たちの祖先を追いやった天孫族側である安曇がやってきたのです。それでも出雲と安曇は融合し小太郎が生まれ、この地をともに開拓。

犀龍の流した赤い血は産鉄族である出雲(ヤマタノオロチ)を表わしているともとれますが、やはり出雲族の痛み、悲しみを思わずにはいられません。出雲族はこうやっていつの時代も新しいものを受け入れ融合し、影となってこの国の発展を支えてきたのではないかと思うのです。和のこころ、ですね。

 

思わぬところで幼い頃の大切なものに再会したせいか、センチメンタルなラストになってしまいました。

 

  参考文献

「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」海部光彦

「古代海部氏の系図」金久与市

「出雲と大和のあけぼの」斉木雲州

「日本の地名」谷川健一

「邪馬一国への道標」古田武彦

弥生時代の開始年代」総研大文化科学研究