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源流なび Sorafull

相撲の神さまと古代出雲の神事相撲

出雲王国の滅亡後も、物部東征軍は大和を目指して河内国へと進軍します。当時大和国彦道之宇斯ヒコミチノウシ大王和邇わにの都で勢力を持っていました。天理市の北部に和邇下神社がありますが、この辺りが都だったようです。

 

物部軍よりも先にタジマモリが大和川から大和へ侵攻し、磯城王朝関係者を追い出して但馬の地(現三宅)を占領しました。さらに葛城方面の当麻たいまへも勢力を広げます。タイマはタジマが変化したようです。タジマモリは日本書紀には当麻村の当麻蹴速タイマノケハヤとしても登場します。

 

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イクメ王の率いる物部東征軍は、タジマモリより遅れて河内国に上陸し日下くさかへと進軍します。日下の東には山地が連なり、その山地を越えると佐保川の周辺をヒコミチノウシ大王の兄弟である佐保サホの大軍が守っていました。そして和邇には大王の軍が。イクメの軍勢は山地を占領したものの、和邇の都へと攻め入るのには難航しました。結局この山地に長く逗留することとなり、イクメの名からイコマ「生駒」という地名がついたと言われています。

日下から生駒山を越えてすぐ東に往馬坐伊古麻都比古いこまにいますいこまつひこ神社という不思議な名の神社が鎮座しています。生駒山の神さまとして伊古麻比古の名でイクメ王が祭られているといいます。この北側には巨石群でも有名な磐船いわふね神社大阪府交野市)があります。日本書紀では物部氏の祖であるニギハヤヒ(徐福のこと)が、神武よりも前に天の磐船に乗ってヤマトに天降ったとしています。物部イクメ王がこの地を通ったことから神話化されたようです。

この先の展開については出雲伝承の中でも順序がまちまちになっていますので、ここでは斎木雲州氏の伝承に基づいて進めたいと思います。内容は同じです。

 

大和の軍勢と東征軍との睨み合いが続いた後、武内宿祢が物部豊連合国から離れ、弟の甘美内宿祢とともに磯城王朝側に寝返り加勢します。

すると今度はタジマモリが物部軍に加わり、東征軍が優勢となります。

さらに遅れてきた豊彦豊玉姫の息子)の率いる豊国軍が三輪山を攻撃し、出雲系の加茂氏勢力を追い払います。そして三輪山の南側にある登美の霊畤(鳥見山)を占領。加茂氏は仕方なく霊畤を東側に遷します。地図では鳥見山がふたつあるのが不思議でしたが、霊畤が移動したということのようです。

加茂氏は一部は南河内へ、そして11代当主、大加茂津身は山城国の岡田(現木津川市加茂町)へと退去します。

豊彦と豊姫はそれぞれ豊来入彦豊来入姫と呼ばれるようになり、三輪山の笠縫村に桧原神社を建てて宇佐の月神を祭りました。満月の夕方に豊来入姫による月読ノ尊の礼拝が行われ、春秋の満月の夜の大祭には多くの人々が集まったそうです。豊来入姫は若ヒルメムチと呼ばれました。三国志の魏書では魏の使節・帳政がヒミコの後継者として13歳の「台与とよ」を指名し、国がようやく治まったと記していますが、その少女が豊来入姫のようです。豊国と物部との勢力争いについては次回にまわします。

三輪山では代々登美家の姫が太陽の女神を祀ってきましたが、この時、ヤマト姫が丹後国真名井神社へと太陽の女神を避難させたそうです。その後伊勢の五十鈴宮(内宮)を建てました。ただ、伝承の中ではこの時の三輪山の姫巫女は、佐保彦の妹である佐保姫(いわゆる第3のヒミコでもある)とされているので、もしかするとのちにヤマト姫ということに変わったのかなと思います。ちなみに豊来入姫は第4のヒミコとなります。

ヒコミチノウシ大王は劣勢となって山城国の亀岡へ逃げます。磯城王朝はこの時をもって300年にわたる歴史の幕を閉じました。記紀では磯城王朝のことを隠しているので、王家の者のことを和仁家と呼ぶことがあるようです。

イクメ王は新王朝を開きますが、先に大和に入っていたタジマモリが勢力を増していました。そこでイクメ大王(垂仁)は東出雲にいる物部十千根に連絡し、タジマモリを追いやるよう指示をだします。十千根はホヒ家のカラヒサに出陣を要請しますが、出雲では信用のないカラヒサなので兵が集まりません。そこでカラヒサは旧王家の向家に頼みにいきます。向家はもちろん物部に協力したくはありませんが、田和山神殿を破壊し富家の飯入根を戦死させたタジマモリへの恨みは強く、復讐として物部に協力することを決めます。17代出雲国副王であった富家の大田彦は「野見のみ家」と名前を変えて野見大田彦を名乗りました。

 

相撲の神さま

野見大田彦率いる出雲軍は奈良盆地に侵攻、但馬の兵を河内国に追い出し、タジマモリらは淡路島へ逃げたそうです。イクメ大王は大田彦に「宿祢」の敬称を与え、野見宿祢と呼ばれるようになりました。

日本書紀に相撲の発祥となる話が描かれています。

垂仁天皇(イクメ大王)は当麻村に当麻蹴速タイマノケハヤという力持ちがいると聞き、これに勝てる者を探しました。出雲から勇士、野見宿祢が呼ばれ2人は相撲(角力)をとることになります。相撲といってもなぜか蹴り合いですが、野見宿祢が圧勝、垂仁天皇は蹴速の持っていた当麻の土地を没収してすべて野見宿祢に与えます。野見宿祢はそのまま天皇に仕えることになりました。

その後天皇の后が亡くなって葬儀の際に、当時古墳に殉死者を埋める習慣がありましたが、野見宿祢がそれをやめて埴輪に代えることを提案します。出雲の土部100人を呼んで埴土で人や馬などを作りました。天皇は喜んでこれを今後の習慣とすることに決め、野見宿祢には土師はじの臣を与えました。これが土師連らが天皇の喪葬を司るいわれです。

続いて播磨国風土記の揖保郡・立野の項にこのような話があります。

「立野たつのと名付けた理由は、昔、土師はにし・弩美のみ宿祢が出雲の国から行き来していて、日下部の野で宿り、病気になって亡くなった。その時出雲の人々がやって来て、野に立ち並び、川の小石を手渡して運んで墓の山を作った。だから立野と名付けた。その墓屋を名付けて出雲の墓屋と呼んでいる。」※立野はその後、竜野⇒たつの、に変わっています。

 

先日、貴乃花親方が相撲の神さまの話をされているのをテレビで目にしました。相撲発祥の祖神として野見宿祢当麻蹴速の名が出てきました。そして相撲は神事だと仰っていたのですが、この話ができるもっとずっと以前から、出雲では神事相撲が行われていたようです。

古代出雲には相撲の紅白試合があったそうで、なんと紅は女性、白は男性だというのです。確かに幸さいの神信仰では夫婦の和合が神事ですので、この相撲も男女が組むことでおめでたい神聖な神事となったわけですね。現代では隠岐の島に残っていて、これは男性同士のようですが、勝負事というよりも親睦のために行われます。同じ相手と2度対戦し、1度目は実力勝負、2度目は勝った側がなんとなく負けるのだそうです。

古代出雲では相撲だけでなく綱引きも神事として行われており、これは蛇の交尾にあやかって始まったといわれます。穀物の豊作や多産を祈願するのです。

現代伝わっている相撲とは色々な面で様子が違ってきていますね。何より女性が排除されてしまっています。

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この絵は出雲の熊野大社に飾ってあるもので、現代に近い相撲の様子が描かれています。土俵のしめ縄や、この絵にはありませんが横綱の腰に巻く白いしめ縄など、やはり相撲はもともとは神聖なものであったことが伝わります。

出雲の相撲といえば、もうひとつ、記紀に描かれた大国主の国譲りが浮かびます。高天原から遣わされたタケミカヅチ大国主の息子、タケミナカタと力比べをする場面があります。力自慢のタケミナカタでしたが天孫タケミカヅチには適いません。結局タケミナカタは放り投げられ、怖れをなして諏訪へと逃げていきました。野見宿祢当麻蹴速の蹴り合いよりも、こちらの2人のほうが相撲らしい戦いです。

どちらにしても相撲の発祥は出雲とゆかりがあることだけは確かなようですね。

 

さて、出雲の伝承によると、野見宿祢はタジマモリの軍を追い払った後、その領地をイクメ王に捧げたといいます。そこは大王の領地、宮家領となり、今は三宅の地名がついています。

野見宿祢は兵士とともに出雲へと引き上げました。その途中に播磨国竜野たつので食事に招待され、盛られていた毒によって急死します。その家の主人がヒボコの関係者だったと後になってわかったそうです。17代東出雲王、大田彦はここで最期を迎えました。

現在、兵庫県たつの市には横穴古墳が残り、東出雲の王墓(神魂神社近く)には拝み墓の墓石があり、宍道町上来待にも古墳が造られています。その横には後に菅原天満宮が建てられました。

大田彦の子孫は土師氏、その子孫が菅原家です。平安時代菅原是善が出雲の先祖、野見宿祢の参詣に来たおり、近くの家に宿泊しました。その家の娘との間にできた子が菅原道真だということです。成長後に本妻の子として育てられたと出雲では伝わっているそうです。先祖、野見宿祢の結んだ縁でしょうか。

 

次回はイクメ王と佐保姫、佐保彦の複雑な関係を紹介します。

 

 

 

西出雲王国の最期~和秤宮(久奈子神社)

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旧王宮・智伊宮

第2次物部東征の頃、西出雲王国の主王は神門臣家の第17代山崎帯ヤマザキタラシでした。

王宮は真幸ヶ丘の北方(出雲市神門町、地図の智伊神社の辺り)にありました。そこは平野だったので、東征軍の侵入経路を想定して幾重にも堀を作って備えていました。ところが東征軍はそれを知っていたかのように、空いている側から攻め込んで来たそうです。伝承ではホヒ家のカラヒサと息子のウカツクヌが道案内をしたといいます。

神門臣家の将軍、振根フルネはここに残って王宮を守りますが戦死し、王宮は東征軍に占領されました。

記紀ではこの出雲征服をどのように書いているかみてみましょう。

 

古事記では

ヤマトタケル景行天皇の御子、物部王朝)が出雲の頭、イズモタケルを倒しにいくのですが、まずは友の契りを交わし、心を許させます。そしてイズモタケルが水浴びをしている時に偽の剣とすり替え、その後太刀合わせを願い出、斬り殺してしまいます。だまし討ちの後、ヤマトタケルはイズモタケルを嘲る歌まで歌います。

日本書紀では

崇神天皇が出雲大神の宮に収めてある神宝を見たいと言い、武諸隅(十千根)を遣わしました。出雲振根(西出雲王家)が神宝を管理していましたが筑紫に行っており会えませんでした。その弟の飯入根(東出雲王家)が皇命を承り、弟のカラヒサと子のウカツクヌに持たせて奉ります。出雲振根は帰ってきてそのことを聞いて怒り、弟の飯入根にたやすく神宝を渡したことを責めました。そして水浴びに誘い、兄は弟の剣を偽ものとすり替え、斬り合いとなって弟を斬り殺します。兄は弟を嘲る歌を歌います。このことをカラヒサとウカツクヌが朝廷に報告します。そして吉備津彦ヌナカワワケを遣わして、振根を殺させました。

 

出雲伝承では、振根は東出雲王国の田和山神殿を守って戦死、飯入根は西出雲王国の王宮を守って戦死しました。書紀ではこの2人を兄弟として兄が弟を殺したことにしています。そして兄を殺したのは吉備国とクヌ国としています。ヌナカワワケは大彦の息子であり、東海地方に勢力を持っていた安倍一族です。

古事記は朝廷(物部王朝)が出雲を征服したと書き、日本書紀ではそれを隠すためか出雲の内部抗争によって滅亡したとしています。水浴びでのだまし討ちや嘲りの歌など全く同じ話を使って、本筋を異にしていることがわかりますね。

 

新王宮・和秤宮 わはかりのみや

 さて、王宮を占領された山崎帯王と多くの西出雲軍は、南方の古志町に逃げて久那子(現久奈子)の丘に集結しました。ここはサルタ彦大神のこもる聖なる鼻高山を遥拝する霊畤でした。丘の上に新しく宮を建てます。

しかし攻めて来た東征軍と激しい争いを繰り返した末に、山崎帯王が降伏。東征軍将軍の物部朝倉彦と山崎帯王との間で講和条約が締結されました。そしてこの久那子の宮が「和秤わはかりの宮」と名付けられ、この名が江戸時代まで使われていたそうです。今はクナト大神の息子神、サルタ彦にちなんで久奈子神社と変わっています。

 

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 長い階段の上に本殿があります。

f:id:sorafull:20180215181650j:plain尻尾の立派な狛犬が守っています。 

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久奈子の丘からの眺め。正面にはサルタ彦大神がこもる鼻高山が。

 

旧王宮は豊国の菟上王が駐留して、建物を九州式に改築。出雲の大社造りではなく屋根を入母屋造りにします。その後菟上王はさらに東へ進軍して去ります。のちにここは智伊宮(現智伊神社)となりました。

菟上王率いる豊国軍は稲葉国の伏野に滞在し、一部はそこへ残って宇佐のウサギ神(月神信仰)、豊玉姫を祭る宇佐社を建てました。のちに因幡の素はだか兎の神話が創られ、白兎神社と呼ばれるようになりました。

この有名な神話は大国主がワニザメにいじめられたウサギを助けてやるという内容ですが、誰が創作したのかを斎木雲州氏は示されています。ワニザメは悪者にされているので出雲系の人でないことは確かですね。そして話の最後には大国主に対してこのウサギ神がご神託を述べているので大国主よりウサギ神が上の立場となっています。けれど大国主が愛情溢れる治療の神として讃えられてもいるので、これによっていいイメージを持つことができるのは出雲国造(渡来系)ということになるようです。

他にも稲葉国の青竜寺や京都の岡崎神社でウサギ神が祭られており、豊国兵の移動の跡が見られます。

一方、物部朝倉彦の率いる物部軍は但馬国を通って若狭へと至り、そこを征服して豪族になった一派もいました。その子孫が若狭の一の宮である若狭彦神社福井県小浜)を建てたそうです。上社である若狭彦神社には物部氏の祖である彦ホホデミノ命(山幸彦)が祭られ、また下社である若狭姫神では豊玉姫が祭られています。社伝では二神が里に示現された時、そのお姿がまるで唐人のようであったと伝えられています。神紋は宝珠(潮干珠と潮満珠)に波の模様。海幸山幸ですね。

 

 

こうして出雲の東西両王国は物部豊国連合軍に滅ぼされました。出雲では2世紀の吉備王国による出雲侵攻を第1次出雲戦争、そして3世紀の第2次物部東征を第2次出雲戦争と呼んでいるそうです。

出雲国風土記にこの第2次出雲戦争のことがさらりと書かれています。

 

〈意宇の郡、母理の郷〉

天の下をお造りになった大神大穴持の命が、越の八口を平定なさってお帰りになる時に長江山においでになって仰った。「私が造って治めている国は、天つ神のご子孫が平安な世としてお治め下さい。ただ出雲の国だけは私が鎮座する国として、青垣のような山々をまわりにめぐらして、(霊力のこもる)珍宝を置いて国を守りましょう」と。

 

つまり、出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部王朝に渡したということです。もちろん出雲国とて国造は物部の支配下にあります。ただ、王家の血筋を絶たれなかったことは幸いでした。財筋たからすじとして王家は秘密裏に存続してきたのです。そして歴史の表舞台からは消えましたが、その財力と他豪族へと繋がっていた血脈によってその後も影響力を持ち続けます。また、日本の歴史を裏側から、第三者の目で見続けた稀有な存在として今に至ります。

出雲王国は歴史の中から忽然と消えてしまいましたが、今私たちの暮らしの中に根付いている信仰や習慣、心の在り方、そんな当たり前すぎて気づきもしないようなこととして、縄文時代からずっと、出雲王国は絶えることなく息づいているのです。

 

最後に古事記に描かれた出雲王、大国主の国譲りの場面を紹介します。

高天原から遣わされたタケミカヅチによって、息子の事代主は自害、タケミナカタは諏訪へと追いやられます。残った大国主タケミカヅチは再度国譲りを迫ります。大国主は答えました。

「‥‥この葦原中つ国は天つ神に献上致します。ただ私の住処だけは、天つ神の御子が継ぐ立派な神殿のように、地底の磐根に届くまで太い宮柱をしっかりと立て、高天原にも届くほどに高くそびえる神殿を建てるならば、私はそこに籠もり鎮まっておりましょう‥‥」

そして大国主は出雲のタギシの小浜に、タケミカヅチを迎える館を造って、服従のしるしとして饗あえ(神に献上する食物)を差し上げることにします。クシヤタマ神が調理人として、まず海底に潜って赤土を咥えてきてそれで平皿を作り、ワカメの茎を刈り取ってきて燧ひきり臼を作り、ホンダワラの茎で燧ひきりの杵きねを作り、新たな火を鑽りだして食べ物を作り供えた上で、大国主は改めて誓いの言葉を唱え上げました。

「この、私が鑽りだした火は、高天原に向かっては、神産巣日カムムスヒの祖神様の神殿に竈かまどの煤すすが長々と垂れるほどにいつまでも変わらず焚き続け、また地下に向かっては、地底の磐根に届くまで焼き固めるほどにいつまでも変わらず火を焚き続け、その火でご馳走を作り、そして強く長い縄で海人が釣り上げた、口の大きく尾もヒレも麗しいスズキをわっしょわっしょと引き上げて、竹の台がたわむほど沢山盛って献上致しましょう」

 

※最後の誓いの言葉は訳者の多くはクシヤタマ神の言葉としていますが、大国主の言葉とした三浦佑介氏の「口語訳古事記」を参照しています。

 

火切り臼と火切り杵で火を起こし、神に供える食事を作る火切神事。そしてその火で炊いたご飯を一生食べる人が出雲王の代理者となる、火継ぎ神事。火は出雲王の霊

出雲王の火、霊は天と地を結び、さらに天高く、そして地底深くまで達するほどに永遠に燃え盛り、この国に民に豊穣をもたらすことを私たちに約束してくれているように伝わってきませんか。

 

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東出雲王国の終焉~田和山神殿と熊野大社

ここからは出雲王国の最期を辿っていくことになります。

紀元前6世紀から700年以上に渡る日本最古の王国の終焉です。ただ歴史を辿るというだけではない、何か重い扉を開けなければならない感覚がずっとあって、それでもこの扉を開けることで次の段階へ進むのだという、圧しだすような絞りだすような力も感じています。

生命を尊ぶ信仰によって結ばれた出雲王国でさえ、相次ぐ勢力争いの中で、防衛とはいえ生き残るために武力を持って戦うことを避けることはできませんでした。紀元前3世紀の徐福の渡来に始まり、ヒボコ勢力からの圧力、親戚でもある吉備王国の裏切りと敗戦、王国の分裂、そして物部東征による両王国の滅亡へ。それは聞こえの良い「出雲の国譲り」ではなく、激戦の果ての占領統治でした。

長い歴史をみていると勝者ですらやがて敗者となり、権力者は入れ替わってもただ「戦う」という作用だけが今もなお連綿と続いているように思えます。戦って勝ちたい、その衝動の種が人間の中に存在する以上、争いは絶えることはないのでしょうか。

連日の冬季オリンピックの清々しいまでの競い合いを観ながら、すこし複雑な想いに駆られています。ルールの中で競い合うことと、相手を出し抜き奪い合う戦いも根っこは同じだとしたら、このふたつの道のどちらを選ぶのか。世界情勢といった大掛かりなものだけでなく、ひとりひとりの日常の中の選択において、とても大切なことなのかもしれません。

 

  

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田和山神殿の陥落

物部と豊国の連合王国は、248年に山陰側と瀬戸内方面に分かれて進軍を開始しました。山陰へ向かったタジマモリ、物部十千根は東出雲王国へ、これに遅れて物部朝倉彦、豊彦(イニエ王と豊玉姫の御子)の息子、八綱田と菟上ウナカミ王が西出雲王国へ。瀬戸内方面はすでに豊玉姫(安芸で没)、イクメ王(吉備王国へ)が進軍しています。

当時の東出雲王国では祭りの庭、霊畤が田和山(松江市乃白町)にありました。1997年に発掘され田和山遺跡と呼ばれていますが、丘の上に三重の環濠が掘られた珍しいもので、環濠の内側には二棟の住居跡しかなく、頂上には9本柱の跡があったり、環濠内からはつぶて石や石鏃がたくさん出土し、どういった目的で造られたのか様々な説が出ています。

出雲伝承の中では異なる由来があって、吉備津彦による第1次出雲戦争の後、宮殿を目立たせないために霊畤を宮殿から離れた田和山へ移したというものと、それ以前からあったというものがあります。

「タワ」とは方言で峠を指し、最初は峠の神さまである幸の神三神が祭られ、やがて女神(幸姫命)だけを祭るようになったといいます。

 

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丘の上の三重の環濠。右手の頂上に9本柱の神殿跡があります。

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道路からは急な階段を上るのでかなりキツイですが、とても見晴らしのいい場所です。 

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山頂部、9本柱の再現。

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斎木雲州氏の「出雲と大和のあけぼの」によると、紀元前1世紀頃に環濠が掘り巡らされ、頂上が祭りの場となって、枝付きの樹木が立てられ、その枝に銅鐸を吊るしてマツリゴトが行われたと考えられるということです。その樹木が「神柱」の信仰を招いたのではないかと。

神の柱として4本の柱を建てたのは能登真脇遺跡や青森の三内丸山遺跡、そして諏訪大社では本殿を囲む四本の御柱の形で残っている。田和山では神の柱が心柱となり、それを守る回りの柱が多くなって合わせて9本柱になったと。この9本柱は妻木晩田遺跡や青木遺跡など山陰地方に多く、この形に壁と屋根と床がついて社に発展したものが、出雲の大社造り本殿形式と考えられる、とあります。大社造りでは特に心柱を太くしていますが、これがのちの大黒柱へと繋がるようです。大黒柱の棚にはエビス様と大黒様が祀られ、それぞれ事代主と大国主の別名です。

出雲王国後期になると田和山の霊畤では、銅鐸ではなく出雲型銅剣を祀って大祭が行われました。

伝承の中では触れられていませんが、山頂部ゾーンの解説の写真に見られるように、この田和山遺跡には5本柱遺構も見つかっていて、9本柱よりも以前(約紀元前200年)のものだと書かれています。だとしたら4本柱プラス心柱ではないのかなと思うのですが、どうなのでしょう。

 

さて、この出雲の聖地、田和山をヒボコの子孫、タジマモリは最初に狙います。信仰に厚い出雲だからこそ、ここを破壊されたのでしょう。タジマモリは魏からもらった黄色い幡4本を掲げ、宍道湖畔から上陸したといいます。

この時の東出雲王は副王の大田彦でした。神殿を守っていたのは富家の飯入根です。

丘の上を守る兵士は少なく、攻め上がってくる敵兵にたくさんのつぶて石を投げて防衛しますが、飯入根を含め全員討ち死にしました。近年堀の中から出土した大量のつぶて石と石鏃(矢尻)はその時のものだということです。

飯入根の遺体は友田(松江市浜乃木町)に埋葬、小さな四隅突出方墳が造られました。そして田和山の社は現在の野白神社に移されました。本殿の横に大きな「お多福さん」の額が飾られていて、これは幸姫命の近代版だそうです。子どもの頃、お正月になると福笑いの遊びをしましたが、確かに笑顔と幸せを運んでくれそうな福々しいお顔ですね。縄文時代から続く幸せの女神の信仰が、壮絶な戦をくぐり抜けて、今に伝えられていました。

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写真は西宮神社境内のおかめ茶屋さんのお多福さんです。

タジマモリはこの後すぐに大和へと軍を向かわせます。瀬戸内海から東進していたイクメ王との大和の争奪戦となっていきます。

 

神魂かもすの王宮を占領

東出雲王国の王宮へは、物部十千根日本書紀では武諸隅タケモロスミ)が攻め込もうとしていました。伯耆国日野郡印賀の方面から熊野系(紀伊)物部軍が攻め込み、能義郡伯太村で激戦となります。物部軍の数は圧倒的に多く、出雲軍は防戦を諦めます。

最後の東出雲王(17代目少名彦)の大田彦は軍の解散を宣言、ホヒ家のカラヒサに敗戦処理を任せ、親族とともに王宮から逃げ、南の熊野(松江市八雲町)に隠れます。神魂の王宮ではカラヒサが王の代理として物部十千根講和条約を締結。

出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部政権が受け継ぐこと、そして王宮を進駐軍司令官・物部十千根が使うこと」

これにより、東出雲王国は滅亡しました。


 

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旧王宮だった国宝、神魂神社。現存最古の大社造り建築です。

 

王宮の奥部屋には物部の神、熊野速玉ノ神(ニギハヤヒの命)が祭られました。物部十千根の子孫はのちに秋上家を名乗ります。やがて物部政権が終わると、秋上家は神社横に住居を建て、熊野速玉ノ神をそちらに移しました。

上記の記事「神在月の旅⑵」では、王宮から神社への変遷、そしてイザナミイザナギがここで誕生した由来も紹介していますので参考にしてください。

 

神魂から熊野大社

八雲地方の熊野に移った向家は館を構え、邸内にクナト神社を建て、クナト大神と事代主を祭ります。のちに社は大きくなり熊野大社となりました。(秋上家が旧王宮を神魂神社としたことに向家は感謝し、物部氏ゆかりの熊野の地名にちなんで熊野大社と改めたそうです)

 

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 熊野大社の前を流れる王川(意宇川)。

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王川に架かる橋を越えると本殿が見えてきます。 

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本殿は出雲式、縦削ぎの千木。

 

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もとの社は熊野山(現天狗山)の上の宮にあり、ここは中世以降に建てられたようです。上の宮と下の宮の祭神をみると、祭られた時代がわかりますね。

また熊野山は代々王の遺体を埋葬した聖なる神名備山です。体内に朱を注ぎ入れた遺体を籠に入れ、ヒノキの大木(霊モロギ)の茂みに隠して風葬とし、3年後に洗骨して頂上付近の磐石いわくらの横に埋納されました。事代主の遺体も粟嶋からここへ運ばれています。

 

鑽火殿の火切神事、火継ぎ神事

 本殿横に鑽火殿が建っています。

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鑽火殿の由来は斎木雲州氏によると、「熊野山から御神霊が本殿に遷されたことを示すために火切神事が行われた。熊野山のヒノキを削って火切り臼を作った。杵きねは卯の木で作られた。」とあります。幸の神信仰では臼が女神、杵が男神で、突いてできたお餅は子宝とされ、餅つきはお目出たい神事です。そして臼と呼ばれる板の上で杵を錐きりのように擦って火を起こし、その火で神さまに供える食事を作ったそうです。ヒノキのヒは出雲王の霊を意味しています。(霊モロギの木)

また勝友彦氏によると、この「火切杵と火切臼で起こした火で炊いたご飯を一生食べる人が出雲王の代理者となる。つまり火継ぎ神事とは出雲王の霊を引き継ぐことを意味した。」とあり、ホヒ家の子孫が火継ぎ神事を行うことで、出雲国の代表として財筋たからすじによって認められたことを表わしているといいます。

財筋とは王国滅亡後、物部王朝よりホヒ家が出雲国造に任命され、ホヒ家が強くなりすぎることを牽制した出雲王家親族たちがつくった秘密組織のこと。ただし最初に出雲国造に任命されたのは物部十千根だったが、ホヒ家が粘り奪いとったと伝えられています。さらに勝手に出雲臣も名乗るようになり、富家ももともと出雲臣だったため、ふたつの出雲臣ができることとなり、のちのち誤解を生じていったそうです。そんなホヒ家に対して王家が裏で手を打ったということですね。

この神事は最初は熊野大社で行われたので、火切りの神具が鑽火殿に納められています。毎年10月(現在は11月23日)に行われる出雲大社新嘗祭に使う火切り杵と火切り臼を、出雲国造熊野大社で借り受けるのですが、その時太夫神事と呼ばれる不思議なやりとりが繰り返されます。

出雲大社から四角い神餅を持ってきた国造に対し、熊野大社の亀太夫が「餅が小さい、形が悪い」などと難癖をつけるのです。国造はただただ黙って頭を下げるだけ。これは財筋がホヒ家を牽制する体制を儀式化し、忘れないようにしたもののようです。意味を知らなければさっぱりわからない神事ですよね。

716年に向家が杵築大社(現出雲大社)を創建してそちらに移ったときに、向家当主の弟が熊野大社宮司職として熊野家を名乗るようになりました。熊野家も財筋の一員です。

 

 

 

魏書に潜む男たちの戦い

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いわゆる邪馬台国の時代、出雲伝承によると日本は西の物部・豊連合王国と東の磯城王朝が対立していました。都はひとつではなく、都万と大和(この時は和邇)にあったことになります。

それでは今回は外から見た和国の様子を見てみたいと思います。中国の史書三国志の魏書に記された邪馬台国時代を伝承に沿って辿ってみましょう。

 

女王国から北の地には一人の統率者を置いて諸国を取り締まっている。この統率者は常に伊都国(北九州)に駐屯し、諸国は畏れはばかっている。〈中略〉帯方郡の使いが和国に行くときはみな、港で荷物をあらため、文書や贈り物に誤りがないかを確かめてから女王に差し出す。不足や食い違いは許されない。

 

豊玉姫(ヒミコ)は魏の使者が自分の住む都(実際には都万国)に来させないようにして、伊都国を通してやり取りし、ヤマタイ国が大和にあるように見せかけていました。

魏より前の漢の時代、大和国の大王が使節を派遣していたので、都万国がその大和を攻めるということは伏せることにしたようです。後漢書を見てみます。

 

倭は韓の東南方の大海中にある。倭人は山の多い島に村落をつくっており、全部で100国余りある。

前漢武帝(BC141~87年在位)が衛氏朝鮮を滅ぼした後(BC108)、漢に使者を送ってきたのはそのうちの30国ほどである。それらの国の首長はそれぞれ王を名乗り、後継者はその家の者が代々務める。その大倭王はヤマト国にいる。

 

初代ヤマト王の海村雲がBC2~1世紀頃なので、海王朝の頃のことでしょう。再び魏書に戻ります。

 

魏の明帝の景初2年(238年)6月、倭の女王卑弥呼は大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接会って朝献したいと言ってきた。

 

明帝は239年1月に崩御しているので、この景初2年は3年の間違いだということです。豊玉姫は新しく即位した新帝へのお祝いとして使節団を送りました。同年12月、魏からの返事がきます。

 

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親魏倭王卑弥呼へみことのりする。帯方郡太守の役人が送りとどけた汝の正使の難升米、副使の都市牛利らが、汝の献上品である男奴隷4人、女奴隷6人、斑織の布二匹二丈を持って洛陽へ到着した。汝の住むところは海山を越えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり非常に健気に思う。そこで汝を親魏倭王として金印、紫綬を与えよう。封印して帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。国の者をなつけて余に孝順をつくせ。使いの難升米、都市牛利は遠いところを苦労して来たので、難升米を率善中郎将に、都市牛利を率善校尉とし、銀印、青綬を与え、余が直接会ってねぎらい、贈り物を与えて送り返す。

 

この難升米とはヒボコ(辰韓から渡来した王子)の子孫である田道間守タジマモリのことだそうです。そして都市牛利は物部の十千根入彦トオチネイリヒコであると。タジマを難升米と書き、都市牛利の牛は子の写し間違いで、トチネイリ⇨トシネリ。

さてこのタジマモリとはヒボコ5世の子孫であり、但馬の豪族です。韓国人と交流していたので韓国を通過する際の通訳ができ、さらに漢文が読めるということで物部勢から選ばれ、都万国に迎えられたということです。

一方、物部の十千根入彦は第1次物部東征でヤマトへ行った物部の子孫です。イニエ大王が再びヤマトへ東征するということを知って、西都原に戻ってきた物部勢のひとりでした。

イニエ亡き後、豊玉姫は各地方の有力者を都万国へ集めます。その1人に重要人物がいます。磯城王朝クニクル大王の孫にあたる武内大田根タケシウチオオタネ(のちの武内宿祢)です。紀伊国で生まれ、出雲と物部の血を受け継いでいます。父がクニクル大王と物部の姫君との間に生まれたフツオシノマコト、母が紀伊の高倉下の子孫、山下陰姫です。高倉下とは徐福の息子・五十猛と大国主の孫娘・大屋姫の息子です。海部、物部、出雲、すべての家系を受け継いでいると言えますね。なのでこの先、敵味方の間で揺れ動く、ややこしい存在となります。「宿祢すくね」とは物部が重臣に与える家の敬称で、出雲では「臣」でしたね。武内大田根はイクメ王から与えられました。

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菊池容斎の描いた武内宿祢(明治時代)

大田根には異母弟がいて、尾張の姫君を母にもつ弟を都万に呼び寄せました。額田宿祢(別名・甘美内ウマシウチ宿祢)の敬称をもらいます。この兄弟は記紀ではそれぞれ違う時代に書かれています。魏書を続けます。

 

正始元年(240年)、帯方郡の太守キュウジュンは役人のテイシュンらを遣わして、みことのりと印綬を倭の国に持って行かせ、倭王に任命した。そして黄金、白絹、錦、毛織物、刀、鏡、その他の贈り物を渡した。倭王は使いに託して上奏文を奉り、お礼を言ってみことのりに答えた。

 

和国の使節団と帯方郡の使者が伊都国に着きました。豊玉姫は伊都国に赴き、テイシュンから詔書を手渡されます。お礼を言ったとも書かれていて、急にリアリティーが出てきますね。

さて、この時の贈り物の中で話題となるのが鏡です。ヒミコと言えばなぜか三角縁神獣鏡と結びつけられますが、関係ありません。三角縁は日本で造られたもの。ヒミコがもらった鏡は、魏書では「銅鏡100枚」と書かれています。日本で見つかった三角縁は500枚近くあります。このたくさん出土する三角縁は魏ではなく呉の職人が日本で作った鏡なのです。呉は道教ではなく仏教なので仏獣鏡です。出雲の伝承では大和のヒコイマス大王が豊玉姫と魏のやり取りを知って、それに対抗するために和国にいる呉の鏡職人に造らせました。登美家の大加茂津見も数百枚造らせたそうです。

魏との争いで亡命してきた呉の鏡造りの職人たちは、大和国の求めに応じて三角縁の神獣鏡を造りました。(鏡を大きく造るには縁を厚くする必要があり、三角縁としたそうです。中国本土には三角縁は一枚も出土していません。)ですから磯城王朝の支配下の者へ配られたものが出土しています。

ちなみに豊玉姫が魏に求めた神獣鏡ですが、当時の中国では道教の乱(黄巾の乱)の直後だったので、道教神の描かれた神獣鏡は禁止されていました。なので溶かす予定の不要となった鏡が和国に渡されたようです。魏書を続けます。

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奈良県新山古墳出土の三角縁仏獣鏡

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熊本県江田船山古墳出土の画文帯神獣鏡(後漢

 

正始4年(243年)、倭王はまた大夫の伊声耆掖邪狗ら8人を使いとして、奴隷、倭の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、木の小太鼓、短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬をもらった。

 

「伊声耆イセシ」は古事記の「伊佐知」であり、イクメイリビコイサチノ命=イクメ王=のちの垂仁天皇です。「掖邪狗ヤシャク」はイクメの異母兄弟、八坂入彦です。いずれ大王になる者が直接外国へ出向くことは良しとされなかったので、イクメは別名で使者の振りをしたようです。当時帯方郡まで出向かなければ銀印は受け取れない決まりになっていたといいます。伝承によれば、イクメはタジマモリや物部十千根印綬を渡されたことを羨んでいたからだとしています。

 

正始6年(245年)、みことのりを発して倭の難升米に、黄色い垂れ幡を帯方郡の太守を通して与えた。

 

黄色はかつて中国のロイヤルカラーでした。皇帝、王家の色だったのです。この幡を掲げることは中国の属領になったことを意味します。これを軍隊の先頭に掲げて進みます。伝承では魏からもらった合計8本の黄色い幡を、豊玉姫が宇佐の社に飾ったことから「八幡宮はちまんぐう」と呼ばれるようになったと言われています。八幡は軍旗なので、八幡宮は月読みの神から武力の神へと変わっていきました。

 

正始8年(247年)帯方郡の太守オウキが着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前より仲が悪かったので、倭の戴斯・烏越らを帯方郡に遣わし、攻め合っている様子を述べさせた。(帯方郡のチョウセイらを洛陽に遣わし、魏王からの)詔書と黄色い垂れ幡を難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。

 

「倭の載斯・烏越」というのは武内宿祢です。載は戴の写し間違いでしょうか。タケシウチ⇨タイシウェツ。

そして前回も書きましたが、豊玉姫は自分の敵はクヌ国(大彦の子孫)だと言い通していましたので、魏はあくまで敵国はクヌ国と想定しています。ここで出てきた卑弥弓呼とは、出雲の解釈では磯城王朝の彦道主之御子ヒコミチヌシノミコとしています。省略するにもほどがある感じですが、確かに和名は長いです‥‥。

磯城王朝では和邇奈良盆地東北)に宮を構える10代ヒコイマス大王が老齢となり、彦道主之御子(別名・彦多都御子)が有力となっていました。兄弟のサホ彦よりも大きな勢力になっていたようです。10代大王は第2次物部東征が始まる直前に亡くなります。

さて、倭の使者として帯方郡へ渡った武内宿祢ですが、タジマモリやイクメらのように印綬や位を与えられることはありませんでした。出雲の解釈では、豊玉姫が武内宿祢の才能を恐れ、息子豊彦よりも偉くならないようにイクメと謀って、魏に対して武内宿祢に位を与える要求をわざとしなかったとしています。魏から戻ったチョウセイが詔書と黄色い幡を手渡したのもタジマモリでしたし、この扱いの違いを目の当たりにしてなんとも思わない人はいないでしょう。

この後、武内宿祢は和歌山へ帰郷し、磯城王朝へと寝返ります。そして大和側から内密に頼まれていた中国産の青銅を買い込み、鏡造りの職人も雇って大和国へ運ばせました。この人も三角縁神獣鏡を数10枚作ったそうです。

 

魏書の続きでは、使者のチョウセイが到着した時には、卑弥呼はすでに死んでいたと書かれています。宇佐家伝承ではウサツ姫(豊玉姫)は安芸に6年滞在したことになっているので、241年頃にはすでに安芸にいたのでしょうか。(出雲伝承では246年には瀬戸内へ向けて東征を開始したとされています。)

 

今回は三国志魏書から見えてくる和国の動きを辿りました。この後、物部東征によって東西出雲王国、吉備王国、磯城王朝は雪崩の如く滅亡へと向かっていきます。その先頭に立つのが魏書に登場したイクメ王、タジマモリ、物部十千根、武内宿祢です。イニエ大王から豊玉姫へ、そして次に現れた男たちへ、東征とその後の歴史は引き継がれていきます。

 

 

邪馬台国の夢~ヒミコの恋

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今夜は皆既月食の赤い月 Blood moon ですね。しかも今月2度目の満月 Blue moon 。そして月と地球が最も近づく Super moon です。

日本でこの3つの現象が重なったのは約150年前、明治維新の直前だったそうです。国の仕組みが大転換しただけでなく、人々の意識が変わった時でもありました。今回もそんな大きな波がやってくるのでしょうか。

 

明治維新のように近い歴史であれば資料は豊富ですし、当時の感覚にも近づきやすいです。でも古代となると、私たちが知り得る歴史は本当に限られていて、その中であれこれと詮索するほかありません。点と点しか残されていないものを、人間はどうにか繋いでみたい衝動にかられます。「正解」という幻を追って。

このところ繰り返し感じるのは、私たちが今ここに生きているということは、遠い過去の(知り得ないことも)どのような出来事も「すべてが起きた」、その上に立っているんだな、ということです。善悪も清濁も正誤も超えて。

先人たちがどんな困難な時代をも懸命に駆け抜け、バトンを渡してくれた、それだけが確かなことかもしれません。

 

 

邪馬台国の時代、ヒミコとされた女性もこうして月を見上げ、王国の未来を案じていたのでしょうか。

神の声を降ろすといっても、発するのは自分。人々の暮らしから国の存亡まで、その言葉ひとつで決まってしまいます。モモソ姫の時も感じましたが、影響力があまりに強いということは、深い孤独と背中合わせだと思います。姫巫女として生まれながらに背負った使命を、彼女たちはどう受け止めていったのか、そんなことを考えるようになりました。

それでは前回に引き続き、宇佐家の伝承 を見ていきたいと思います。

神武天皇が率いる船軍は大分県の佐伯湾に入り、番匠川に駐留しようとしましたが、ウサ族海部の激しい抵抗により上陸できませんでした。そこで珍彦ウズヒコが間に入り、ウサ族の首長、ウサツ彦を説得。ウサ族の本拠地へと神武を迎えることになります。当時の宇佐家は東九州で最大の勢力を誇っていたそうです。

ウサ族は受け入れる条件として「天皇と侍臣には住居をもうけ食事は提供する。しかし軍兵のものまでは負担できないので、宇佐川の流域の宇佐平野を解放して屯田制とする」と申し出ました。屯田制とは中国で行われていたもので、軍の場合は兵に田地を与えて自給自足させること。すでにウサ族は中国の文化を取り入れていたことがわかります。

記紀では神武が宇佐の国に着くと、その国造の先祖、ウサツ彦とウサツ姫の2人が、一柱騰宮アシヒトツアガリノミヤ(宮殿の柱を片方は川の中に立て、もう一方は岸に立てて造ったもの)を造り大いにもてなしたということになっています。実際には上記のように平和のうちには行われていないと伝承されていますが。

古事記では「豊の国の宇沙」、日本書紀では「筑紫の国の宇佐」と書かれていて、「筑紫の日向」という表現に重なります。古くは筑紫を九州全土の総称として使っていたそうなので、そう考えると地理的におかしくはないですね。

次に神武軍が駐留した場所ですが、いくつか説があるようで、宇佐公康氏はその中で下の航空写真の拝田という地だろうと推測されています。ウサツ姫とウサツ彦の住居の場所も記しておきました。宇佐家も古代は母系家族制だったので、夫のウサツ彦は離れたところに住んでいたようです。

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さて、ここからが極秘口伝となります。

日本書紀を見ると、ウサツ彦が神武軍をもてなした後、ウサツ姫を侍臣(君主のそばに仕える家来)の天種子命アマノタネコノミコトに娶わせたとあります。つまり妻を差し出したということです。

ところが宇佐家伝承は違います。「ウサツ彦が帰順の意を表すために、妻のウサツ姫を天皇に差し出して寝所にはべらせた」というのです。当時の風習では最高の歓待であり、忠節を誓う儀礼だったそうです。少々複雑な気分になりますが。

さらにウサツ姫は天皇の胤たね(子)を宿し、ウサツ臣命を生みました。書紀が編纂された8世紀にはこの事実ははばかられ、宇佐家ではそれを隠すことにしたといいます。そして勅命によって妻のウサツ姫を侍臣の天種子命(架空の人物)に娶わせたと捏造した話を公表し、それが書紀に記されました。なんとも粋なネーミング‥‥。

続いてその後です。

記紀では神武が宇佐に留まった期間が記されていませんが、伝承では4年留まったのち東遷を再開したといいます。その時、ウサツ姫は神武に付いていきます。筑紫国の岡田の宮に1年、安芸国広島県)の多祁理の宮に6年留まり巫女として奉仕しました。ウサツ姫は多祁理の宮に近い伊都岐島(厳島)にウサ族の母系祖神である市杵島姫命を奉斎したそうです。

やがて神武との間に御諸別命ミモロワケノミコトが生まれますが、それから間もなくウサツ姫は病気で命を落とします。1年後には神武も亡くなり、ウサツ姫を葬った伊都岐島の山上の岩屋に葬ったと言われています。厳島(宮島)の弥山ではないかとのことです。

驚きの伝承ですね。けれど宇佐氏はこのウサツ姫をヒミコだとは言っておられません。記紀が作為に富んだものであることを理解したうえで、ヒミコについて研究し、ヤマトトトヒモモソ姫の説を取り上げつつ、年代が合わないことを指摘されています。

ではここで、出雲の伝承を見ていきたいと思います。ウサツ姫を豊玉姫としています。要約します。

 

出雲伝承の中のヒミコ

魏書には2人の姫巫女を同一人物として記している。1人目が大和のモモソ姫で2人目が魏と国交した宇佐豊玉姫である。

阿多津姫を失った物部イニエ王は豊玉姫を后に迎え、都万王国と豊王国が連合国として成立し勢力を拡大した。豊玉姫は都万王国でも祭りを行い、民衆から大きな尊敬を得ていた。ふたりの間には豊彦と豊姫が生まれた。この2人は大和へ行ってから豊来入彦トヨキイリヒコと豊来入姫と呼ばれる。記紀では豊鋤スキ入彦、豊鋤入姫と変えている。

イニエ大王が第2次東征をすると聞いた物部の関係者たちは、今度こそ大和に物部王朝を造ろうと、大和や各地方から続々と都万国の西都原さいとばるに戻ってきた。イニエ大王は都万国、豊国、肥前国筑紫国の軍を束ねて東征の準備を進めていったが、その途中で亡くなった。神話で大山津見神が呪ったように、阿多津姫もイニエ王も花のように短命であった。

遺されたイクメ王子(阿多津姫の御子)が後継者となったがまだ若く、豊彦は少年だったので、豊玉姫が皇太后として東征の指揮をとることになった。

豊玉姫大和より先に魏と国交を開くことを計画し、自分がヤマト全体の王だと認めてもらおうとした。そのために都万国にいながらそのことを隠し、女王国がヤマト国(奈良ではなく日本全体を指す意味の)にあるかのように見せかけた。ヤマト国(いわゆるヤマタイ国)というのは豊玉姫の自称・日本と捉えなければわからなくなる。

大陸からの使いの者は、北部九州の伊都国の役所を通してしか女王国と関係を持つことはできなかった。伊都国の役人の言うことによって推測で都の位置を捉えたため、記述がおかしくなった。豊玉姫の策略である。

238年、魏への1度目の朝献。皇帝より親魏倭王に任命された。

大和磯城王朝はそれまで中国と外交を行ってきたので、豊玉姫はこれから磯城王朝を攻めるとは魏に言えず、敵はクヌ国(大彦の子孫)だと言い通した。

豊玉姫は物部軍の総指揮者として瀬戸内海を進み、安芸国に上陸し征服を開始したが、病に倒れ、多祁理の宮を建て養生した。イクメ王を新たな指揮官として先に進軍させ、吉備の海岸に宮(高島の宮)を建てて吉備王国征服に向け戦いを繰り広げた。

248年、豊玉姫は多祁理の宮で亡くなった。遺体は厳島に仮埋葬され、その後遺骨は宇佐に戻された。遺骨の一部は宇佐神宮の本殿の二ノ御殿の下に、ウサ王家の祖先とともに姫大神として祀られている。お墓は神宮の奥宮の山中に墳墓があると言われ、それではないか。

第2次東征は瀬戸内地方で8年以上続いた後、イクメ軍は楯津(白肩津)から上陸、河内国日下へと進軍し、イコマ山地にしばらく留まった。これがニギハヤヒ(物部の祖、徐福)が降臨した地といわれる由来である。

豊玉姫後継者は娘の豊姫だった。魏書に書かれた13歳の壱与トヨのことである。

 

下の地図は記紀による神武東征を示したもの。白肩の津より先は第1次東征とつなげていることがわかります。

 

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このふたつの伝承を比べると、イニエ大王の亡くなった場所や豊玉姫の子どもたちのことに違いはありますが、月の女神の姫巫女が大王と結ばれ子をもうけ、東征に随伴したのち多祁理の宮で病に倒れ厳島に葬られたという話はぴったり重なります。

イニエ大王の亡くなった時期については、ヒミコと魏のやりとりを見ると、そこに大王の存在が全く見えないので、交渉を始める前に亡くなったと思われます。なので出雲伝承の通り、イニエは九州から外に出ることはなかったのでしょう。

宇佐家の伝承による第2子御諸別命は時代が少し後の人です。この2人の御子については著書の中で説明されていますが、複雑な話になるのでここでは省略します。

 

 

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厳島神社  大鳥居

豊玉姫=ヒミコのことを古事記では竜宮の乙姫として描き、史実を海幸山幸神話の中に埋め込んだと考えられます。下の系図は登場人物に重なる人を入れてみました。イニエ王が阿多津姫の次にヒミコと結婚したことは系図では世代を代えてあります。豊彦の数代後の子孫が応神天皇。宇佐家伝承でも神武の子孫が応神です。皇孫ということで繋がっています。

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そして山幸彦が物部、兄の海幸彦が海部という構成になっていて、実際に徐福(ニギハヤヒ)の息子たちの関係と同じです。海幸彦に山幸彦が勝つという神話は、物部東征によって海部(初代大和王朝)は都から追われて丹後へと引き上げ、大和に物部王朝ができたことと重なります。(海部氏の籠神社側はそれを逆として、ホホデミが海部出身だとしています)

神話豊玉姫は、竜宮にやって来た「妖しいほどに麗しい」山幸彦(天つ神の御子)にひと目で恋に落ち、3年間の蜜月を過ごします。けれどやるべきことを思い出した山幸彦は地上に帰る決意をします。彼の苦悩する姿を見た豊玉姫は父に相談し、お土産にと霊珠(潮満珠潮干珠)を渡します。それによって山幸彦は兄を支配下に置くことができました。その時姫は身ごもっていました。地上に出て生んだ子を姫は山幸彦に差し出して、竜宮へと帰ってゆきます。その子の御子はのちに東征をして神武天皇となりました。

また姫が出産する時に、元の国の姿になると言って大きなワニに変化したことは、宇佐の豊玉姫が出雲系の姫の血筋であることを示しているようです。宇佐家の伝承にもあったように、宗像三女神の市杵島姫をウサ族の母系祖神としています。宗像は出雲の分家でしたね。

山幸彦と別れたあとに豊玉姫が送った歌。

「赤だまは 緒さへ光れど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり」

赤く輝く珠は緒まで美しく光るけれど、真っ白な真珠のような貴方の姿こそ、さらに清らに貴いことです。(赤は女性、白は男性を表します)

山幸彦が答えた歌。

「沖つ鳥 鴨どく島に わがゐねし いもは忘れじ 世のことごとに」 

沖から飛び来る鴨の宿る島で、私が誘ってともに寝た愛しい貴女を忘れない。この世の果てるまでも。

 

 

さて、今回は一気にドラマチックな話を辿りました。

これまで想像していたヒミコからはかなりかけ離れていて、まさか東征の総指揮者だったとは意外というほかありません。

強国の魏と渡り合う度量をもち、戦術に長け、実行力も備えた女性。出雲の伝承にあるように、ヒミコはこれまでの大和のに君臨するのではなく、日本という国全体を描くことができていたのだとすれば、そのスケールにただならぬものを感じます。

ですが、月と繋がり精霊の声を聴き、宇宙と一体となる優れたシャーマンと、武力に頼って他国を制覇しようとする野心がいまひとつ重ならないのです。

Sorafullの個人的な空想の中では、時代の波に翻弄されたひとりの女性シャーマンという話ではなく、すべてはヒミコの恋だった、そんな風に思っていたいのです。古事記の作者のように。

夫を失った時、東征はすでに止めることができないところまで進んでいた。そしてヒミコにはやり遂げる力がある。イニエ王の抱いた夢を、形にしたかった。そうやってふたりの想いを遂げたかった。清濁を越えて。

けれど多祁理の宮で病に倒れた時、ヒミコは実は安堵したのではないかな、とも思ったりもして。

いつも以上にセンチメンタルなのは、今夜の赤い月のせいでしょうか。

 

 

 

 

第2次物部東征~日月星・神々の光芒

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中国の三国時代(魏、呉、蜀)について書かれた歴史書三国志」の呉書によると、

呉王(孫権)は230年に1万の兵を夷州(沖縄もしくは台湾)と亶州(九州)に派遣して現地の人を兵士として連れて帰ろうとしたけれど、亶州の場所がわからず夷州から数千人だけを連れて帰った。将軍(衛温と諸葛直)は王の意向に反したとして誅殺された。

とあります。恐ろしいですね。数千人だけ、とさらりと書かれていて。呉王はどれだけの奴隷を欲していたのでしょう。三国時代の熾烈な戦が浮かびます。

この直後から九州の物部勢が2度目の東征の準備を始めたと、出雲の伝承は伝えます。先の話が物部王の耳に入ったのでしょうか。もともと大和を目指して第1次物部東征は行われ、負けはしなかったけれど結果的に磯城王朝に取り込まれたので成功とは言えません。いずれまたとチャンスを狙っていたところ、大陸の戦況を目の当たりにして都を移す計画を実行したのかもしれませんね。

この2度目の東征の主人公は物部イニエ王、いわゆる崇神天皇です。死後の贈り名はミマキイリヒコイニエ天皇、書紀ではハツクニシラススメラミコトとも呼ばれます。ハツクニシラススメラミコト=初めて国を治めた天皇、という意味ですが、どういうわけか神武天皇崇神天皇の2人につけられています。これも出雲の伝承によって第1次が神武(仮の名)、第2次がイニエとすれば、2度の東征をひとつにまとめた記紀の裏側が見えてくるようです。

 

宇佐家極秘口伝書

大分県宇佐神宮宮司であった宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開されました。次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意されたようです。ただし引き継がれたそのままの形ではなく、氏が口伝書を考証しながら、その解説として記されているので、内容すべてがそのままというわけではありません。

宇佐神宮は全国4万社以上ある八幡宮の総本社です。一時は伊勢神宮を凌ぐほど皇室と密接になり崇拝されました。

この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、高良神社が氏神であり、神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとあります。そして崇神天皇物部氏の首長であったと。

ニギハヤヒが大和へ移ったとは第1次東征のことでしょうか。それとも初代ヤマト王海村雲のことでしょうか。高良神社については、以前の記事【隠された物部王国vsヤマト王国の誕生】から少し長くなりますが引用します。

 

《 筑後一宮、高良大社久留米市高良山の祭神である高良玉垂命こうらたまたれのみこととは誰なのか。古代史界では謎の存在であるようです。

九州王朝説の古賀達也氏によると、4~6世紀の九州王朝の都が筑後地方にあり、この高良玉垂命は天子の称号で歴代倭王であるとしています。さらに玉垂命の最後の末裔とされる稲員いなかず家の家系図があり、初代玉垂命とは物部保連やすつらであると記されています。また高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡だと、穏やかではないことが書かれているそうです。

古賀氏は2008年に自身のホームページの中で「天孫降臨以来の倭王物部氏であったとは考えにくい」とし、これらの文書がうまく理解できないと書かれています。その後どういった見解になっておられるのかまだ探せていませんが、九州王朝を研究されている方でも、物部氏という存在はそれほど見えにくいものなのかと驚きました。

出雲の伝承では筑紫は2世紀まで物部王国だったそうです。蘇我氏出身の推古天皇(在位593~628年)が587年に蘇我物部宗家を滅ぼしたことを気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡に経津主ふつぬしの神(物部の祭神)を鎮めるための社を建てました。その地を物部の郷といったそうですが、記紀に物部のことが書かれなかったことから忘れられていったといいます。

高良玉垂命は4~6世紀なので、大和への東征に参入しなかった物部の一派がその後も筑後に残っていたということでしょう。》

 

このような見えにくい物部氏ですが、宇佐家の伝承の中にその片鱗を見いだすことができます。さらにモノノベという名の由来の説明もありました。

古代の日本人はすべての現象には精霊が潜んでいて、背後から支配しているとして、これをモノと呼んでいた。現代では五感によって触れることのできる物質をモノというが、古代人の観念ではモノとは物そのものの本質であり、精霊のことであったということです。今でも物質ではなく「もののけ」「もの思い」「ものの哀れ」「もの怖じ」など霊的、精神的なことにも用いますよね。つまり見えないもの。

モノノベ氏とは精霊を鎮魂呪術によって司祭する部族だったそうです。そもそも始祖の徐福は神仙術、道教の方士であり、天文学や医薬、祈祷、呪術を極めていたのでそれも当然でしょう。

また宇佐氏によると物部氏神剣(ふつのみたまの剣)の霊能によって外敵を征服し、また死霊や生霊、獣魂などの祟りを鎮めたりしたそうです。のちにモノノベからモノノフ(武士)という言葉が発生し、これが日本の武士の起こりだとしています。

 

 都万王国

さて、物部氏の首長であったという崇神天皇イニエ大王について話を進めます。232年頃、イニエ大王は軍とともにまずは南九州へと向かいます。肥前国風土記にはイニエ大王の時代のこととして、朝廷が肥前国熊本県)の土蜘蛛(抵抗する先住民)を滅ぼさせたと書かれています。風土記記紀編纂の後に各地から提出させられているので、それに合わせ、直接イニエ大王の話とはせずに描いているようです。実際にはイニエは一地方の王であり、九州から外へは出なかったと伝えれられています。

 

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とても大雑把な地図ですみません。国の境界は8世紀以降のものです。なので当時の国を色分けによって大まかに掴んでくださいね。

物部軍はさらに南へ進み、イニエ大王は薩摩の笠沙で阿多の豪族、竹屋ノ守の娘、阿多津姫を后に迎えます。古事記ではコノハナサクヤ姫として描かれました。

✿ニニギノ命が美しい姫と出会い求婚した際、姫の父は姉のイワナガ姫もともにもらってほしいと求めます。ですがニニギは美しいコノハナサクヤ姫だけを妻とします。怒った父の大山津見神から「王の命は花のように短くなるだろう」と呪いの言葉を告げられるというお話です。

イニエ大王は薩摩半島から船で大隅半島をまわり、宮崎の大淀川の河口に上陸します。ここが都万つま国、のちの日向国です。魏書のいう投馬国ですね。家が5万戸余り(和国第2位。邪馬台国が7万戸)あったと書かれています。

阿多津姫は生目イクメ王子をもうけました。生誕地には生目神社が建てられています。記紀ではイクメの母は大彦の娘ミマツ姫であるといいます。けれど大彦とは時代が違います。

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イザナギが黄泉の国から戻って最初に禊ぎ祓いをしたのが「筑紫の日向の橘の小門おどの阿波岐原あわぎはら」でした。現在、大淀川の河口に阿波岐原町があり、その隣が小戸おど町です。すぐ近くの川沿いには橘地区もあります。古事記でこれほど詳細な地名が記されているのはここだけですが、この地名を重要視する人はあまりいないそうです。

★このイザナギの禊ぎ祓いによって神々が生まれます。面白いのは最初に生まれ出たのが「衝立船戸ツキタツフナトの神」、クナト大神ですね。5番目には「道俣チマタの神」、幸姫命でしょうか。

イニエは大淀川から北方の一ッ瀬川を遡ったところに王宮を造りました。近くには西都原さいとばる古墳群が残されています。

阿多津姫はイクメ王子をもうけた後、神話の通り、花のように短い一生を終えました。阿多津姫はコノハナサクヤ姫として都万神社に祀られています。

生目神社の北に生目古墳群がありますが、出雲の伝承ではここにイニエ大王とイクメ王子(のちの垂仁天皇)が葬られているということです。

 

ニニギノ命が筑紫の日向の高千穂の峰に天降りしたときの言葉。

「ここは韓の国に向き合い、笠沙の岬にまっすぐ通じていて朝陽が射す国、夕日が輝き照る国でまことによいところだ」

この「筑紫の日向」という2つの地名が実際には離れていることと、ニニギの言葉をそのまま解釈することは地理的に無理があるために、古代史界では様々な説があります。

出雲伝承の「物部の都万王国」という見方をすれば、物部氏の原住地である筑紫は韓国に向かい、薩摩の笠沙は夕日の照る国で、日向は朝陽の射す国です。筑紫から薩摩、日向の物部氏の支配地を表していると言えそうです。

 

豊王国

第1次東征は、磯城王朝のような「太陽の女神を祭る姫巫女」という権威をもたない物部軍の敗北でもありました。もともと物部氏星の神カカセオを祭っていましたが、さほど人気がなかったようです。記紀ではカカセオ(天津甕ミカ星)は悪神にされていますね。

★☆道教を信仰していた徐福は、宇宙の中心である北極星(北辰)やその周りを巡る北斗七星を崇拝し、夜は山に登って天を拝んでいたといいます。北斗七星は北極星を中心にして一晩で1回転し、柄杓ひしゃくの柄は1年で12方位を指すので天の時計でもあり、道教の聖数7でもあります。星信仰は古代エジプトに始まり、ユダヤ人も影響を受け、彼らの移動によって中国へ渡り道教に融合したといいます。ユダヤ教の最も神聖な数も7です。また徐福を含め渡来した秦族には、イスラエルの血筋が含まれているとも言われています。物部氏の子孫である真鍋大覚氏(1923~1991)は航空工学者でありながら暦法家として著書も遺されています。代々星読みの家系だったようですね。

2度目の東征ではイニエ大王は巫女を立てることにしました。そこで九州で人気のあった豊王国の月神信仰を取り込もうとします。

当時、豊王国は宇佐家を中心として、東九州から西中国、土佐にまで勢力を伸ばしており、宇佐王国とも呼ばれたそうです。宇佐家も古代は母系家族制だったといいます。

宇佐宮の主神は月の女神=月読尊つきよみのみこと=ウサギ神です。ウサギ神は月の模様からきているらしく、古代の人の連想が微笑ましい。

宇佐家伝承によると、兎狭うさ族の天職は天津暦あまつこよみであり、月の満ち欠けや昼夜の別を目安として月日を数える月読みです。暦とはコヨナクヨムの短縮した言葉で、天候や季節の移り変わりをこの上なくうま

く判断して現実に当てはめるという意味があるようです。出漁や農耕の指導もできますね。

記紀では月読尊は夜を統べる神であったり、月の引力と潮の満ち引きの関係から海原を治める神ともされました。実際、月の満ち欠けは地上の生命に影響を及ぼし、女性の月経、動物の産卵、植物の生育など生と死、命の満ち引きに深く関わります。月を崇拝することは古代の信仰としては必要かつ自然なものだったと思われます。

古代日本には早期からこの列島に住みついたウサ族の月信仰、その後渡来した出雲族の太陽信仰、そして徐福たち秦族の星信仰が共存していたのです。記紀によって太陽神アマテラスだけが大きく取り上げられ、月読尊は弟でありながらチラリとしか描かれず、星神カカセオは悪神という扱いです。古代日本では日月星の三つの信仰が存在していたということが、意図的に隠されてしまったようです。徐福とヒミコが国史から消えてしまったように。

 

さて、この豊王国の月信仰を取り入れようとしたイニエ大王は、月の女神を祭る宇佐の姫巫女を后として迎えます。この姫巫女が2人目のヒミコ、いわゆる邪馬台国卑弥呼です。

長くなりましたので、続きは次回へ。

 

 

 

纒向のヒミコと箸墓と

後漢書三国志の魏書に記された「卑弥呼」の話へと進めつつ、前方後円墳の芽生えともいえる纒向遺跡について紹介したいと思います。

磯城王朝8代クニクル大王の后、クニアレ姫は登美家出身の三輪山の姫巫女ヒメミコです(登美家は出雲事代主の分家)。娘の百襲モモソも後を継いで姫巫女となりました。三輪山の祭りは代々登美家、磯城家の姫君が司祭してきました。【2019.11月追記】「出雲王国とヤマト政権」ではモモソ姫は登美家分家の太田家の姫としています。

モモソ姫の人気はしだいに高まっていったそうです。繰り返しますが、当時はヒメ・ヒコ制といって政権者(ヒコ)と女司祭者(ヒメ)による祭政一致の時代です。これをマツリゴトといいます。

三輪山の西南にある鳥見とみ山(旧登美山)の山頂が聖地とされ、祭りの庭(霊畤れいじ)でした。三輪山にこもる太陽の女神を遥拝します。春と秋に行われる大祭には近畿の豪族だけでなく、大和から移住していった豪族たちも遠方から泊りがけで集まるようになりました。その時の宿泊施設が登美家領地の太田村、纒向まきむくにありました。太田村は代々三輪山祭祀をする出雲系姫巫女の住むところです。モモソ姫の神殿も建てられました。

※出雲の伝承では「巻向」の字を使っておられますが、ここでは「纒向」を使います。

豪族たちは地元の土器に土産物を入れて纒向に持参しました。近年見つかったこの遺跡からは、近江や東海、関東の土器が6割、瀬戸内や吉備のものが1割、その他山陰や北陸の土器も出土しています。九州系がほとんどないのが特徴ですね。

祭りには物部氏の方式が一部入っていたそうです。榊を根から抜き取って(幸の神)、枝に神獣鏡(物部の道教)を付けます。幸の神では鏡の丸い形は太陽の女神、木の根は男性のシンボル。男女の聖なる和合です。モモソ姫の兄、大彦は物部嫌いのために鏡はいっさい持たなかったそうですが、大和に残ったモモソ姫は物部と協調する道を選んでいったのかもしれません。

物部勢の大和侵攻による争乱のあと、モモソ姫の三輪山の大祭によってようやく大和は統一へと向かうことになります。オオヒビ大王や物部の武力よりも、モモソ姫の祭祀力、宗教力を支持する人々が多かったようです。その結果、第1次東征をした熊野系物部勢もしだいに磯城王朝にとりこまれていきました。

 

さて、出雲の伝承では、このモモソ姫が後漢書や魏書に書かれた1人目のヒミコだとしています。(卑弥呼は蔑字なのでヒミコとします)ヒメミコのメが省かれヒミコと聞き取り表記されたのだろうということです。いわゆるヤマタイ国の親魏和王のヒミコとは別人です。なので纒向がヤマタイ国でもありません。

中国からみれば、和国の政治は最終的には巫女の神託によって決まるので、その存在は「女王」とみなされるのでしょうが、和国ではあくまでヒメ・ヒコ制による祭政一致です。ただどちらかというとヒメのほうが民衆から尊敬されていたようで、これは母系家族という土台による影響もあったのかもしれません。

三国志の魏書を見てみましょう。

「神霊に通じた巫女で、人々を心服させた。年を取っても夫を持たず、弟がいてマツリゴトを補佐した。女王になってから直接会った人は少ない。侍女を千人かしずかせ、1人の男が食事の世話をし、内外を取り次いでいた。居室、宮殿、物見台、城柵を厳かに設け、常に武器を持った者が警護していた」

 

纒向遺跡は南北1.5㎞、東西2㎞の広大な面積をもちますが、1971年より発掘調査が始まったにもかかわらず、住宅地ゆえまだ2%ほどしか調査されていません。

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この遺跡は2世紀末から3世紀の初頭頃に誕生したとされています。通常の集落の様子はなく、初の都市、または首都として造られたのではないかとも言われています。巻向駅の近くには大型の建物群跡も現れました。3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて、中心となる建物は現代の3階建ての高さをもち、南北約20m×東西約12mもある高床式神殿です。すでに大陸の宮殿文化を取り入れています。柱穴も丸ではなく四角であったりと、どの面からみても日本初の非常に高度な技術を持った規格性の高い建造物であるようです。弥生から古墳時代にかけてもこのような遺跡は他に発見されていません。

〈注〉下図は縮図ではなく大まかに位置関係を示したスケッチです。

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建物の周りは柱列で囲まれていたようで、柵などで遮蔽された場所と考えられています。魏書に描かれた様子と同じですね。

ベニバナやバジルの菜園、桃園もあったようです。なんだか素敵です。さらに運河も整備されていた可能性があるといいます。水を用いた禊の場や水洗トイレの機能まで備えていました。

✽余談✽ モモソ姫だから桃というわけではないですが、遺跡から桃の種が2千個以上も出たことが話題になりました。中国でも桃は邪気を祓って不老長寿を叶えるといわれます。日本ではイザナギが黄泉の国で雷に襲われた時に桃の実を投げて助かります。桃太郎は鬼退治に行きます。出雲の遺跡では桃の種の入った甕が十文字(X印)に5個並んで発掘されました。魔除けのためだといわれます。種ではなく実に威力があるようです。桃は女性のホト(女陰)を表します。ホトの呪力ですね。

 魏書のいう「弟がマツリゴトを補佐した」というのは、ヒメ・ヒコ制のヒコのことでしょうか。オオヒビであれば異母弟です。世話をした男というのは伝承では登美家9代当主のオオタタネコ大田田根子)です。太田の地名の由来となった人です。魏書がヒミコの弟と世話をした男を同一人物として書いているようには思えないのですが、伝承では同一として扱っているようです。

オオタタネコはのちに三輪山の男性司祭者、大神神社の初代神主といわれます。

【2019年11月追記】オオタタネコは「親魏和王の都」では登美家9代当主としていますが、「出雲王国とヤマト政権」では登美家分家の太田家としています。モモソ姫も太田家の姫であると伝わり、オオタタネコの姉ではないかと。

記紀ではヒミコについて全く触れません。男の王ではなく姫巫女が戦乱を治めたとか、親魏倭王という魏の属国であったことなど、のちの日本国としては隠しておきたい内容です。なので日本書紀ではモモソ姫がヒミコではないとするためなのか、夫がいたことにしています。相手は三輪山の神さま、大物主(出雲事代主の神霊)ですが。こんなお話です。

倭迹迹日百襲姫ヤマトトトヒモモソヒメ大物主神の妻になった。夫はいつも夜にだけやってくる。妻が「あなたのお姿を明るいところで見たい」と願うと「明日の朝、櫛箱に入っていよう。けれど驚かないでほしい」と夫は言った。朝になって櫛箱を開けると小さなオロチが入っていた。妻が驚いて叫ぶと、オロチは恥じて人の姿となった。怒った夫は三輪山へ飛んで帰ってしまった。妻は悔い、どすんと座り込んだ。そのとき箸でホト(女陰)をついて死んでしまった。それで大市に葬った。その墓を箸墓という。

この奇妙な話によって箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓とされ、今は宮内庁が管理をしています。ヤマタイ国のヒミコの墓として騒がれたことがありましたが、年代がそれよりは新しいとの見方が強いです。

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箸中大池より撮影

全長が280mもある日本最古の大型古墳で、周濠をもち、段築構造(階段状のピラミッド構造)をとっていて水面から上(後円部で30mの高さ)はすべて人工的な盛り土です。自然の山をもとにはしていないのです。表面は葺石がなされていて、墳丘の石はなんと大阪産らしく、日本書紀にも大阪から運んだことが記されています。後円部からは楯築由来の特殊器台や特殊壺の後期のものと、特殊器台から派生した最古の円筒埴輪が出土しました。

ところが勝友彦著「親魏和王の都」では箸墓は大和姫のものだとしています。墓は出雲の土師ハジ氏が造ったので土師墓と呼んだそうです。大和姫はモモソ姫より少し後の人です。第2次物部東征のあと、登美家の大和姫は三輪山の太陽の女神を避難させるためにいったん丹後国真名井神社(元伊勢)へ、そして伊勢の五十鈴宮(伊勢神宮内宮)を創建してそこに祀ったといわれます。出雲の向王家の血筋なので向津姫ムカツヒメとも呼ばれていたそうです。日本書紀ではモモソ姫の名前の前にヤマトトトヒと付け足して、大和姫とモモソ姫をつないでいるようにも見えますね。迹迹日の迹という字は「あと、足跡」という意味があります。

モモソ姫のお墓は登美家が造っていた纒向の初期の古墳の中にあるだろうと言われています。有力なのは纒向石塚古墳。3世紀初頭に造られた全長100mほどの最古級の前方後円墳ですが、残念なことに第二次大戦で高射砲の陣地を置くために、墳丘の上部が高さ8mぶんほど削りとられてしまったそうです。周濠からは楯築由来の弧帯文様が彫られた弧文円板という祭祀用品が出土しています。

古墳の形を見ると石塚古墳は箸墓に比べ前方部の割合が小さいですね。写真右下ピンクの囲み、これも大まかですが参考までに。

魂の再生を願って、後円部を子宮、前方部を産道とする説もあるようです。

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 北西の勝山古墳の周濠からは鮮やかな朱塗りの板切れがたくさん出土しました。祭祀に使ったあとに割って穢れを落とし廃棄したともいわれています。ここ纒向でも出雲や吉備と同じように辰砂(朱)を葬儀に使っていたのですね。

【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、箸墓古墳はモモソ姫の墓としています。年代測定は土器に付着した炭化物を調べており、土器は古墳ができた後に持ち込まれたと考えられるからということです。また斎木氏も「古事記の編集室」でひと言触れておられるのですが、この古墳は江戸中期までは円墳(径150m)だったといいます。このことは「出雲王国とヤマト政権」P.314~に詳しく説明されています。

 

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前方後円墳古墳時代が300年も続いた後、6世紀になると大豪族、蘇我氏の台頭とともに突如方墳が現れます。そして蘇我氏は仏教を日本に広め、日本初の寺院を建立します。この新たな風によって古墳時代は終焉を迎え、中央集権化とともに寺院建築の時代へと突入していきます。豪族や大王といった地方の権威のための前方後円墳ではなく、これからは大国と並ぶために仏教を取り入れた新しい国へと転換しようとしたのです。

 

モモソ姫のこと

和国大乱を治めたモモソ姫とは、その時代の中でどのような存在だったのか、ますます気になります。長い争いにうんざりした人々が、神の声を求めていたという状況があったのだとしても、モモソ姫を信頼する理由はなんだったのか。武力でも制御できない民衆の心をつかむ魅力とは? そして何より物部の野心をも鎮火していったモモソ姫の力とは何なのか、このところずっと考えていました。

以前イメージしていたヒミコは、大昔のシャーマン的呪術力で民衆を先導したといったベタなものでした。ところが今モモソ姫を思って浮かんでくるのは、出雲王国のことなんです。

そもそも出雲は武力ではなく、言葉で国を治めました。昔は言葉で説得することを「言向ことむけ」と言ったそうです。「言向ける家」の意味からムケ(向)王家と呼ばれ、それがムカイ王家の由来です。その王国は権力ではなく同じ信仰によって結ばれていました。初代王の名は八耳王。豪族たちの意見によく耳を傾けたからといいます。記紀風土記には主王と副王が各地を巡り、病を治す方法を教え、温泉を開き、酒造りを広め、百姓たちには鳥獣や虫の災いを防ぐまじないを教え、国造りをしていった様子が描かれています。出雲では玉造りや製鉄の交易によって国を豊かにしました。そして異民族の脅威においても戦うのではなく融合するという選択をしました。

春秋の大祭では王の后が司祭者となりました。王の政治と后の祭祀によって国をまとめていったのです。これはヤマトでも引き継がれ、初代大王海村雲とタタラ五十鈴姫に始まり、8代クニクル大王の姫君、モモソ姫へと受け継がれました。王国誕生から700年を超えて続く精神的文化です。和国大乱という混乱に陥ったとき、かつての宗像三姉妹がそうであったように、モモソ姫はこの国の歩んできた歴史の最前線に立って、そして母系家族制の頂点ともいえる民衆の母として、自身に与えられた使命を全うしたのでしょう。そしてモモソ姫を拠り所とする人々を目の当たりにした物部軍は、この脈々と続いてきた出雲と大和の信仰心に支えられた文化に敬意を払うほかなかったと、そんな風に思えてきました。第2次大戦後、アメリカが昭和天皇を処罰せず象徴という立場に置き換えることで事を治めたように。その1800年も前にすでにこの国は、信仰と一体となった王家を尊び心の拠り所とする民族となっていたのかもしれません。

700年代に作為的な国史が編纂された時でさえ、出雲を抹殺せず神話という形に変え、さらに大国主を讃える言葉がそこかしこに滲み出ていることを見れば、政治史以上に、この国の人々が大切にしてきたものが浮かび上がります。

日本は無宗教の国と言われます。それは既存の宗教の枠に入らない、無意識化するほどの長きにわたる精神文化がすでに根付いているからかもしれません。これが縄文時代から続くこの国の、目に見えない信仰ではないかと思うのです。