SOMoSOMo

源流なび Sorafull

東出雲王国の終焉~田和山神殿と熊野大社

ここからは出雲王国の最期を辿っていくことになります。

紀元前6世紀から700年以上に渡る日本最古の王国の終焉です。ただ歴史を辿るというだけではない、何か重い扉を開けなければならない感覚がずっとあって、それでもこの扉を開けることで次の段階へ進むのだという、圧しだすような絞りだすような力も感じています。

生命を尊ぶ信仰によって結ばれた出雲王国でさえ、相次ぐ勢力争いの中で、防衛とはいえ生き残るために武力を持って戦うことを避けることはできませんでした。紀元前3世紀の徐福の渡来に始まり、ヒボコ勢力からの圧力、親戚でもある吉備王国の裏切りと敗戦、王国の分裂、そして物部東征による両王国の滅亡へ。それは聞こえの良い「出雲の国譲り」ではなく、激戦の果ての占領統治でした。

長い歴史をみていると勝者ですらやがて敗者となり、権力者は入れ替わってもただ「戦う」という作用だけが今もなお連綿と続いているように思えます。戦って勝ちたい、その衝動の種が人間の中に存在する以上、争いは絶えることはないのでしょうか。

連日の冬季オリンピックの清々しいまでの競い合いを観ながら、すこし複雑な想いに駆られています。ルールの中で競い合うことと、相手を出し抜き奪い合う戦いも根っこは同じだとしたら、このふたつの道のどちらを選ぶのか。世界情勢といった大掛かりなものだけでなく、ひとりひとりの日常の中の選択において、とても大切なことなのかもしれません。

 

  

f:id:sorafull:20180222180713p:plain


田和山神殿の陥落

物部と豊国の連合王国は、248年に山陰側と瀬戸内方面に分かれて進軍を開始しました。山陰へ向かったタジマモリ、物部十千根は東出雲王国へ、これに遅れて物部朝倉彦、豊彦(イニエ王と豊玉姫の御子)の息子、八綱田と菟上ウナカミ王が西出雲王国へ。瀬戸内方面はすでに豊玉姫(安芸で没)、イクメ王(吉備王国へ)が進軍しています。

当時の東出雲王国では祭りの庭、霊畤が田和山(松江市乃白町)にありました。1997年に発掘され田和山遺跡と呼ばれていますが、丘の上に三重の環濠が掘られた珍しいもので、環濠の内側には二棟の住居跡しかなく、頂上には9本柱の跡があったり、環濠内からはつぶて石や石鏃がたくさん出土し、どういった目的で造られたのか様々な説が出ています。

出雲伝承の中では異なる由来があって、吉備津彦による第1次出雲戦争の後、宮殿を目立たせないために霊畤を宮殿から離れた田和山へ移したというものと、それ以前からあったというものがあります。

「タワ」とは方言で峠を指し、最初は峠の神さまである幸の神三神が祭られ、やがて女神(幸姫命)だけを祭るようになったといいます。

 

f:id:sorafull:20180220105456j:plain

丘の上の三重の環濠。右手の頂上に9本柱の神殿跡があります。

f:id:sorafull:20180220105538j:plain


f:id:sorafull:20180220105801j:plain

 

f:id:sorafull:20180220105847j:plain

道路からは急な階段を上るのでかなりキツイですが、とても見晴らしのいい場所です。 

f:id:sorafull:20180220105618j:plain

山頂部、9本柱の再現。

f:id:sorafull:20180220105932j:plain

 

斎木雲州氏の「出雲と大和のあけぼの」によると、紀元前1世紀頃に環濠が掘り巡らされ、頂上が祭りの場となって、枝付きの樹木が立てられ、その枝に銅鐸を吊るしてマツリゴトが行われたと考えられるということです。その樹木が「神柱」の信仰を招いたのではないかと。

神の柱として4本の柱を建てたのは能登真脇遺跡や青森の三内丸山遺跡、そして諏訪大社では本殿を囲む四本の御柱の形で残っている。田和山では神の柱が心柱となり、それを守る回りの柱が多くなって合わせて9本柱になったと。この9本柱は妻木晩田遺跡や青木遺跡など山陰地方に多く、この形に壁と屋根と床がついて社に発展したものが、出雲の大社造り本殿形式と考えられる、とあります。大社造りでは特に心柱を太くしていますが、これがのちの大黒柱へと繋がるようです。大黒柱の棚にはエビス様と大黒様が祀られ、それぞれ事代主と大国主の別名です。

出雲王国後期になると田和山の霊畤では、銅鐸ではなく出雲型銅剣を祀って大祭が行われました。

伝承の中では触れられていませんが、山頂部ゾーンの解説の写真に見られるように、この田和山遺跡には5本柱遺構も見つかっていて、9本柱よりも以前(約紀元前200年)のものだと書かれています。だとしたら4本柱プラス心柱ではないのかなと思うのですが、どうなのでしょう。

 

さて、この出雲の聖地、田和山をヒボコの子孫、タジマモリは最初に狙います。信仰に厚い出雲だからこそ、ここを破壊されたのでしょう。タジマモリは魏からもらった黄色い幡4本を掲げ、宍道湖畔から上陸したといいます。

この時の東出雲王は副王の大田彦でした。神殿を守っていたのは富家の飯入根です。

丘の上を守る兵士は少なく、攻め上がってくる敵兵にたくさんのつぶて石を投げて防衛しますが、飯入根を含め全員討ち死にしました。近年堀の中から出土した大量のつぶて石と石鏃(矢尻)はその時のものだということです。

飯入根の遺体は友田(松江市浜乃木町)に埋葬、小さな四隅突出方墳が造られました。そして田和山の社は現在の野白神社に移されました。本殿の横に大きな「お多福さん」の額が飾られていて、これは幸姫命の近代版だそうです。子どもの頃、お正月になると福笑いの遊びをしましたが、確かに笑顔と幸せを運んでくれそうな福々しいお顔ですね。縄文時代から続く幸せの女神の信仰が、壮絶な戦をくぐり抜けて、今に伝えられていました。

f:id:sorafull:20180826090540j:plain

写真は西宮神社境内のおかめ茶屋さんのお多福さんです。

タジマモリはこの後すぐに大和へと軍を向かわせます。瀬戸内海から東進していたイクメ王との大和の争奪戦となっていきます。

 

神魂かもすの王宮を占領

東出雲王国の王宮へは、物部十千根日本書紀では武諸隅タケモロスミ)が攻め込もうとしていました。伯耆国日野郡印賀の方面から熊野系(紀伊)物部軍が攻め込み、能義郡伯太村で激戦となります。物部軍の数は圧倒的に多く、出雲軍は防戦を諦めます。

最後の東出雲王(17代目少名彦)の大田彦は軍の解散を宣言、ホヒ家のカラヒサに敗戦処理を任せ、親族とともに王宮から逃げ、南の熊野(松江市八雲町)に隠れます。神魂の王宮ではカラヒサが王の代理として物部十千根講和条約を締結。

出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部政権が受け継ぐこと、そして王宮を進駐軍司令官・物部十千根が使うこと」

これにより、東出雲王国は滅亡しました。


 

f:id:sorafull:20171203135108j:plain

旧王宮だった国宝、神魂神社。現存最古の大社造り建築です。

 

王宮の奥部屋には物部の神、熊野速玉ノ神(ニギハヤヒの命)が祭られました。物部十千根の子孫はのちに秋上家を名乗ります。やがて物部政権が終わると、秋上家は神社横に住居を建て、熊野速玉ノ神をそちらに移しました。

上記の記事「神在月の旅⑵」では、王宮から神社への変遷、そしてイザナミイザナギがここで誕生した由来も紹介していますので参考にしてください。

 

神魂から熊野大社

八雲地方の熊野に移った向家は館を構え、邸内にクナト神社を建て、クナト大神と事代主を祭ります。のちに社は大きくなり熊野大社となりました。(秋上家が旧王宮を神魂神社としたことに向家は感謝し、物部氏ゆかりの熊野の地名にちなんで熊野大社と改めたそうです)

 

f:id:sorafull:20180222095954j:plain

 熊野大社の前を流れる王川(意宇川)。

f:id:sorafull:20180221205839j:plain

王川に架かる橋を越えると本殿が見えてきます。 

f:id:sorafull:20180221213923j:plain

 

f:id:sorafull:20180221210140j:plain

本殿は出雲式、縦削ぎの千木。

 

f:id:sorafull:20180221212206j:plain

もとの社は熊野山(現天狗山)の上の宮にあり、ここは中世以降に建てられたようです。上の宮と下の宮の祭神をみると、祭られた時代がわかりますね。

また熊野山は代々王の遺体を埋葬した聖なる神名備山です。体内に朱を注ぎ入れた遺体を籠に入れ、ヒノキの大木(霊モロギ)の茂みに隠して風葬とし、3年後に洗骨して頂上付近の磐石いわくらの横に埋納されました。事代主の遺体も粟嶋からここへ運ばれています。

 

鑽火殿の火切神事、火継ぎ神事

 本殿横に鑽火殿が建っています。

f:id:sorafull:20180221212252j:plain

f:id:sorafull:20180221212528j:plain

鑽火殿の由来は斎木雲州氏によると、「熊野山から御神霊が本殿に遷されたことを示すために火切神事が行われた。熊野山のヒノキを削って火切り臼を作った。杵きねは卯の木で作られた。」とあります。幸の神信仰では臼が女神、杵が男神で、突いてできたお餅は子宝とされ、餅つきはお目出たい神事です。そして臼と呼ばれる板の上で杵を錐きりのように擦って火を起こし、その火で神さまに供える食事を作ったそうです。ヒノキのヒは出雲王の霊を意味しています。(霊モロギの木)

また勝友彦氏によると、この「火切杵と火切臼で起こした火で炊いたご飯を一生食べる人が出雲王の代理者となる。つまり火継ぎ神事とは出雲王の霊を引き継ぐことを意味した。」とあり、ホヒ家の子孫が火継ぎ神事を行うことで、出雲国の代表として財筋たからすじによって認められたことを表わしているといいます。

財筋とは王国滅亡後、物部王朝よりホヒ家が出雲国造に任命され、ホヒ家が強くなりすぎることを牽制した出雲王家親族たちがつくった秘密組織のこと。ただし最初に出雲国造に任命されたのは物部十千根だったが、ホヒ家が粘り奪いとったと伝えられています。さらに勝手に出雲臣も名乗るようになり、富家ももともと出雲臣だったため、ふたつの出雲臣ができることとなり、のちのち誤解を生じていったそうです。そんなホヒ家に対して王家が裏で手を打ったということですね。

この神事は最初は熊野大社で行われたので、火切りの神具が鑽火殿に納められています。毎年10月(現在は11月23日)に行われる出雲大社新嘗祭に使う火切り杵と火切り臼を、出雲国造熊野大社で借り受けるのですが、その時太夫神事と呼ばれる不思議なやりとりが繰り返されます。

出雲大社から四角い神餅を持ってきた国造に対し、熊野大社の亀太夫が「餅が小さい、形が悪い」などと難癖をつけるのです。国造はただただ黙って頭を下げるだけ。これは財筋がホヒ家を牽制する体制を儀式化し、忘れないようにしたもののようです。意味を知らなければさっぱりわからない神事ですよね。

716年に向家が杵築大社(現出雲大社)を創建してそちらに移ったときに、向家当主の弟が熊野大社宮司職として熊野家を名乗るようになりました。熊野家も財筋の一員です。