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源流なび Sorafull

宮地嶽古墳⑹翁の舞と山の能。そして磯良舞


 

宮地嶽古墳の埋葬者は誰なのか、6回に渡り探ってきましたが、そろそろ今回でひと区切りとしたいと思います。

 

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)を祀っていて(埋葬者?)、それは安曇氏であるという情報があるようです。磐井の孫というのは年代から可能性ありと思われますが、安曇氏というのは現段階ではまだ繋がっていません。筑紫国造家と安曇氏に婚姻関係があったという根拠に辿りつけませんでした。

宮地嶽神社のかつての祭神、宮地嶽大明神「安倍相丞」から、大彦の子孫とされる筑紫国造磐井を辿ってみたところ、物部ばかりが現れ、そこに高木神の存在が透かし見えるようでした。

「勝村大神(藤高麿)」と「勝頼大神(藤助麿)」については物部の血筋である可能性は高いようです。

シリーズ最初の記事で、津屋崎古墳群の中では宮地嶽古墳だけが博多に面しており、宗像氏の古墳とは思えないと書きましたが、調べていくうちに、相島がもとは大彦の子孫である安倍氏の領地であった可能性も考えられることや、宮地嶽古墳(岩屋不動)が明治以前までは修験道支配下にあったことなどから、宗像氏のものではなくとも安倍氏に関わる場所ではないかということも頭に置いておく必要があると思い始めています。宮地嶽神社の以前の宮司家が阿部氏であったことも気になります。

そして宮地嶽大明神・安倍相丞とは、この流れでいくと磐井の御魂を祀っているとしたいところですが、やはり可能性のひとつというところで留めておきます。

 

さて最終回の今回は、宮地嶽古墳と安曇磯良を繋ぐ筑紫舞の本質について、考えてみたいと思います。

 

筑紫くぐつ舞の「翁の舞」

筑紫舞の決め事として、神前か神社の境内でしか舞ってはならず、投げ銭をもらうこともダメ。神社からお札をもらってそれを売ることで収入としていました。すべてが神様に対するものであり、見物客は神様のお相伴です。またそれぞれの神社の祭神に奉げる舞を持ち、同じ神でも地方によって舞ぶりを変えていたそうです。

基本の動きには「神に近づく技」「人々の穢れを見に受ける技」といった意味がつけられ、さらに「鳥飛び」「波足」「水けり」など水辺の名前が多くみられます。海から神様がやって来て砂浜で舞うというのも多いらしく、海人族由来ということも頷けます。

舞は大きく「神舞(神に奉げる舞)」と「くぐつ舞(祭礼の時に人々に見せる舞)」に分けられ、菊邑検校はこの違いについて、

「神舞は、わが身をいとわねばならぬと思うて舞う翁。くぐつ舞は、人の身をいとうて舞う翁」

と教えたといいます。ということはすべて「翁の舞」になりますね。鈴鹿千代乃氏は、傀儡子たちは神社の祭礼でくぐつ舞を舞うことによって人々の穢れをわが身に受け、それを神主のいないような神社で神舞を舞うことによって神にゆだねて神から魂をもらっていたのではないかと言われます。西山村光寿斉さんが少女の頃、神舞を奉納していたのが神主不在の神社とか、誰もいない海辺だったということからそう思われると。

国としては天皇が祭祀者となって国中の大祓を行い、天皇が自ら受けた穢れを祓戸四神に託し、川から海、海底から地底へ、そしていずこかへと持ち去って消滅させてもらいます。「水に流す」という文化はここから始まっているようです。天皇や神々と同じ祓の力を持つ者が、漂泊民である傀儡子だというところに、不思議な繋がりを感じずにはいられません。国の最高位の存在と、体制の外側をさすらう者が同じ力を持っているのです。

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日本の古典芸能の源流ともいえる筑紫舞には、この国の古い歴史が刻まれている可能性もあるようです。

筑紫くぐつ舞の中心には「翁の舞」があります。別名、国問いの翁。先ほどの翁は広義であって、今度は狭義の翁の舞についてです。これは神舞ではなくくぐつ舞なので、人の穢れをわが身に受ける祓え舞です。

菊邑検校は翁とは神に近い長老で、おじいさんではないと言いました。翁は仮名か、できれば片仮名でオキナと書くようにとも。発音は「沖のう」に近かったそうです。

古田武彦氏はこの翁の舞を古代中国の宮廷舞を模倣したものだと言われます。諸国の翁が集まってそれぞれが名告り、諸国の舞を舞うという形をとります。舞うといっても能のような幽遠さ、荘厳さです。三人立、五人立、七人立、十三人立とありますが、光寿斉さんが教わったのは七人立まで。

三人立⇒都、肥後、加賀の翁

五人立⇒上記+出雲、難波津より上りし翁

七人立⇒上記+尾張、夷の地より参りし翁

検校は歴史的な背景を一切語らなかったので、主に古田氏の推測となりますが、都の翁は筑紫舞の本拠地である太宰府辺りかと言われています。検校は「その時々の都です」と言ったそうですが。

三人立は最も古い形と考えられ、都の翁が中心となっています。古田説では古代中国の礼記に記された「東と南の二方の蛮夷の舞楽」の形式を真似たものとして、都からみて辺境である東方の越と南方の肥後、という形ではないかと。

ところが五人立からは肥後の翁が中心になります。磐井の乱後、表向きは筑紫は大和王朝の支配下となったけれど、装飾古墳の分布を見ると、阿蘇山を中心として肥後から筑後、豊後の辺りが栄えており、これは磐井の乱でダメージを受けなかった肥後に主力が移行したと考えられるのではないかということです。実は菊邑検校は肥後の出身です。

 

時代が下りますが、11~16世紀頃の肥後の菊池家「山の能」という舞楽が伝承されており、能舞台で能太夫が演じ、その中心に「翁の舞楽」があったことを古田氏は見つけておられます。菊池家が断絶したために途絶えてしまい現存せず、筑紫舞との関連は謎のままですが、光寿斉さんの伝承している「翁の舞」の能のような幽玄さというところに、肥後の「山の能」とを結ぶ微かな可能性を感じます。

菊池家は能面を使い、検校の伝える筑紫舞は能面を使いません。理由があってのことだそうです。肥後国誌には17世紀に旧菊池郡の隈府で山の能を伝承していた座中が、能面は自分たちのものだと主張し裁判になったが解決したと記録されています。その後菊池家滅亡に伴い山の能は消滅したと。菊池と菊邑。何か関係があるのでしょうか。

ちなみに菊池家の家紋は鷹羽紋です。ここにも高木神が現れましたね。もとは日足紋だったのが、12世紀頃、夢に阿蘇の神が現れ鷹羽紋を与えられたそう。能面を霊宝として祀っていた北宮神社は、ちょうどその頃に阿蘇大明神を勧請しています。戦国時代では家紋を変える時、血筋が変わるということもきっかけになるらしく、実は出雲伝承では菊池家は出雲忍者の出身だったと。楠木正成と親戚であり、分家子孫には西郷隆盛も。例えば鷹羽紋に通じる血筋となってから菊池家の「山の能」が始まったとして、それが出雲忍者(山伏)であるとか?「山の能」という名前に山伏や洞窟の舞を連想しますね。

【補足】菊邑検校は「面を付けて舞うのは技量が足りないからであり、演じる者が神になりきれば面など必要ない、祓えには必要ない」といった趣旨のことを言われています。鈴鹿千代乃氏は人形や面は、穢れをそれらに吸収させ自らには受けまいとする防護であり、筑紫くぐつ舞は素面で、命懸けで祓えの芸を演じた人々であって、それが能面を使わない理由だと言われます。

 

翁の舞に戻ります。名告りの様子と光寿斉さんに教えた人を記します。昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の後、翁の舞の稽古が始まり、全国から光寿斉さんのもとへ次々と教えに来られたそうです。翁の舞を教わった人は必ず次世代の人に伝えておかなければならず、受け取った人は何十年先であっても、いつでも舞えるようにしておかなければならいのだと。)

肥後の翁はどっしりと総大将のように「われは肥後の翁」と名告ります。検校とケイさんが教えました。

加賀の翁はさわやかに「加賀かんがの翁」と。富山の人だったのではないかと。

都の翁は水のような透明感をもって性別もなく「都の翁」と。伊勢から来た人ではないかということです。

五人立では出雲の翁が加わりますが、大国主のように袋を担ぐような格好をして「われは出雲のオーキナにておじゃる」と機嫌をとるように(へつらうように)名告ると、ぺこっとお辞儀をします。検校は大国主ではないと言ったそうですので、出雲王国滅亡後の出雲国造家(ホヒの子孫)を表しているような。出雲から来た人だったようです。

難波津より上りし翁は大和か難波かわかりませんが、あえて「より上りし」と説明が加えられ、水をかき上げるような中腰になってチョンチョンと出てきて名告ります。筑紫のほうが上であることを婉曲な表現で伝えているのかもしれません。西宮神社の近くから来た人で「えべっさんにお参りして、百太夫さんにご挨拶して来ました」と言われたそう。

七人立尾張の翁は「われこそは尾張の翁」と淡々と落ち着いて。愛知県海部郡津島町から来た人でした。

夷の地より参りし翁は軽々と鳥飛びで現れ「夷の地より参りし翁」と左右をキョロキョロ見ます。群馬県から来た「ケノのシロミさん」と呼ばれていました。毛野でしょう。

十三人立については、光寿斉さんは昭和11年の奉納舞で一度見ただけとのことです。この舞はその時の奉納舞を仕切る役の人への労いのものらしく、他と違って砕けた雰囲気で、光寿斉さんは習わずじまいでした。中心はタカクラの翁(アサクラかも)。他に吉備の翁、熊野の翁、オオエの翁、酒匂カニの翁、機織りの長、です。この13人とオトという女役で舞われます。

オオエの翁は大江山酒呑童子の伝承を語ってくれたそうで、丹後ですね。タカクラは高倉、紀伊でしょうか。吉備については地域によって、検校が神様の向きが違うと言って奉納を避けたところがあったようです。

この翁の舞に歴史が刻まれているかもと想像すると、ミステリーの謎解きのように引き込まれてしまいませんか。

 

鈴鹿千代乃氏は昭和52年頃から光寿斉さんより伺った話を記録しておられ、十三人立の熊野の翁については平成4年になってようやく思い出されたそうです。それに伴い、肥後の翁を中心とした舞だけでなく、奉納する土地によって中心となる翁が変わるということも思い出されました。長くなるので省きますが、伊勢神宮、出雲、尾張での奉納舞も伝承されています。

鈴鹿氏、古田氏と光寿斉さんの縁がなければ、筑紫舞についてこれほどの内容は記録されなかったのではないかと思います。両氏に出会われたことで多くの記憶が蘇り、昭和11年の洞窟舞の場所も探し出すことができました。筑紫舞というあまりに膨大な内容を、少女一人の身にたった11年間で授けられた特殊な状況を想像した時、現在しっかりと次世代に継承されているこの奇跡の陰に、光寿斉さんを初め伝承に関わる方々のどれほどの努力があったのかと頭が下がります。

 

筑紫舞と安曇磯良

長くなりましたが、最後にSorafullに残されたふたつの疑問について、書き留めておこうと思います。

ひとつは古事記に描かれた、天孫を先導したサルタ彦のその後です。

伊勢の阿邪訶あざかの海で漁をしていたところ、サルタ彦は比良夫ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまいます。その時、三つの御魂が現れました。沈んでいった時に底度久ソコドク御魂が、海水が泡立った時に都夫多都ツブタツ御魂が、泡が弾けた時に阿和佐久アワサク御魂が。

不思議な話です。サルタ彦が海で溺れて三御魂となります。どちらかというと山のイメージがありましたけど。そしてヒラブ貝という貝は存在しないそうです。貝とは女性のホトを指すらしく、サルタ彦がアメノウズメに溺れたという解釈が多いようですが、漢字を見ると阿曇比羅夫(比良夫)や阿倍比羅夫を連想させますよね。2人とも7世紀半ばに水軍を率いて活躍した将軍です。古事記が完成する50年前のことです。

同時代に同じような功績を残した2人が同じ名前というのもまた不思議な偶然。(2人とも斉明天皇の命で百済救援に向かい、間もなく阿曇比羅夫は白村江の戦いで戦死、安部比羅夫は大敗した後のことはわかりません。)あえてこの比良夫という名前を使ったところに、隠された意味があるのかなと勘ぐってしまいます。

古事記の作者はなぜサルタ彦を海で溺れさせ、比良夫貝という架空の貝をその原因とし、そして安曇族の祀る綿津見三神のように海の三御魂を生じさせたのか。まるでサルタ彦を安曇氏、安倍氏に繋げようとするかのように。

 

もうひとつの疑問は、西山村光寿斉さんが最後に伝承したふたつの舞についてです。

「浮神(うきがみ)」は磯良の舞ですが、これを習得する前には「源流翁」という舞を先に学ばなければならないそうです。源流翁とは「都の翁」のことで一人立です。この舞は一生に一度だけ、しかも50歳を過ぎなければ舞ってはならない、そんな決まり事があると。

最も大事な舞が磯良舞であるなら、その前に習得しなければならない、一生に一度だけ舞うものとはいったい何なのでしょう。都の翁とは誰なのか。

磯良舞についてはこの記事に書いています。

 

検校自身はこのふたつの舞を光寿斉さんに伝えるつもりはありませんでした。舞う機会はないからと。まわりの者がそれでもと頼み込んだことで、光寿斉さんに伝えられたのです。それによって筑紫舞が安曇磯良と結ばれていることが明らかになりました。けれど不思議なのは、筑紫舞を命懸けで守ろうとしてきたのであれば、その中の最も大切な舞をなぜ検校は光寿斉さんに教えようとしなかったのでしょうか。永遠に消滅してしまうかもしれないのに。

春日大社志賀海神社、大分の柞原八幡宮、古表・古要神社にもみられる服属儀礼としての磯良舞は、海人族と八幡信仰が結びついて生まれたものであり、本来の安曇磯良の姿ではないから? 確かに祖先の変容させられた悲しい姿をむやみに舞う必要はないですよね。

それとも傀儡子たちが筑紫舞を継承してきたことで、祖先である安曇磯良を伝え残す術としての磯良舞であり、本質は「翁の舞」にあるのだから、光寿斉さんが筑紫舞として覚える必要はないと考えたのか。もし後者であれば筑紫舞の出発点は海人族⇒安曇族だけれど、しだいに物部の歴史(九州王朝)を反映するものへと変化していったということもあるかもしれません。

ただ、筑紫舞の「祓の力」ということを考えた時、王権やその推移といったことよりも、人々の営みによって生じざるを得ない穢れの浄化や鎮魂が、筑紫舞本来の存在意義だったのではないかと思えるのです。翁について「日本に48州あればそのすべてに翁がいる」と検校が言ったそうです。神に近い存在である翁がその土地の穢れを祓うための舞であったのでしょう。だからこそ翁の舞は神に奉げる神舞ではなく、穢れをわが身に受けるくぐつ舞なのでは。

検校の残した言葉に触れていくと、王権というよりも民衆に寄り添い生まれたものが筑紫舞の土台にあるような気がします。そして体制の外側に生きる者たちによって掬い上げられた滅びの歴史が、必然として舞の中に織り込まれていったのではないでしょうか。

 

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菊邑検校の話をもうひとつだけ。

地唄舞の中では曽我物語だけがタブーのようになっていて、光寿斉さんが頼んでも曽我に関わるものは絶対に教えてくれなかったそうです。このことは、以前は6世紀末に物部氏蘇我馬子に滅ぼされたからかと思っていましたが、それより前の磐井の反乱と称して継体天皇蘇我王朝)によって九州の勢力は最終的に抑えられ、大和朝廷に飲み込まれていったこともあるのかなと思うようになりました。

 

さて、N様から頂いたご質問から始まった「宮地嶽古墳の被葬者とは誰か」を探る旅は、方々へと寄り道をした結果、謎を残したまま一旦終わりを迎えることになりました。ですが新たな発見がとても多く、今回チャレンジする機会を与えて下さったN様に、心から感謝しております。

そして迷走ばかりの長文の連続にお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。

 

参考文献(大元出版の出雲伝承以外)

「よみがえる九州王朝」「古代の霧の中から」古田武彦

「市民の古代」第11集、第12集、新泉社

神道民俗芸能の源流」「穢れと芸能(論文)」鈴鹿千代乃著

記紀万葉の新研究」尾畑喜一郎編より「筑紫舞聞書」鈴鹿千代乃著

 

【皆様へ】コメントを送って下さる皆さま、本当にいつもありがとうございます。頂いたコメントでこちらから紹介させて頂きたい場合もあるのですが、もし非公開を望まれる内容がございましたら、ひと言添えて下さると助かります。今回もS様より嬉しいご報告を頂けたのですが、ご紹介してよいのかどうかわからず控えさせて頂きました。よろしくお願い致します。

それからN様から出雲大神宮についてご質問を頂いておりますが、まだ新たな情報はありません。わかり次第ご報告致します。

  

 

宮地嶽古墳⑸筑紫神楽舞とサルタ彦の苦悩

 

 

 サルタ彦大神の七変化

「サルタ」とはドラビダ語で「突き出たもの、出っ張り」という意味で、猿とは無関係です。サルタ彦は象神のガネーシャなので鼻高彦とも呼ばれますが、山岳仏教の中でそれが天狗に変わってしまいました。(ガネーシャの鼻は男性の象徴。子孫繁栄の源です)

サルタ彦は他にも田畑を守るカカシや、山や湖を造るダイダラボッチ、厄払い人形、信楽の笠ダヌキ、山彦まで、姿を変えて人々を守ってくれる存在です。

下の写真は「岩手さわうち食の普及会」で紹介されている厄払い人形です。

https://sawauchisyoku.com/?pid=134346189

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奥羽山脈の谷底にあるという旧沢内村は豪雪、貧困、多病多死など非常に厳しい暮らしだったそうです。近くの西和賀町では厄払い人形が古くから伝わり、人形を担いで歩くことでその土地の疫病神を背負わせ、そして村境の木に結び付けて外からの疫病神が入ってくるのを防いでもらうという習わしがあるといいます。道の神ですね。

写真の人形は高齢者生きがいセンターで作られたものだそうですが、すべて引き受けるぞといった気迫と精悍さに感動してしまいました。次世代への継承が気になるところです。この人形はすでにSOLD OUTですが、写真を眺めるだけでも自分の中の邪気が祓われていくような気がします。

これを一本足にするとカカシのような。

 

出雲では太夫もまたサルタ彦大神が百のお姿になって善人を守ってくれるものと伝わっています。七変化どころではありません!

太夫神社は西宮神社(西宮えびす、古くは大国主西神社)の境内末社として祀られていますが、九州では田川郡採銅所村(宇佐神宮放生会で造る神鏡の採銅所にある古宮八幡宮の境外末社行橋市長尾の正頭八幡神社では本殿に合祀、また宇佐神宮境外の百体殿(隼人を埋めたとされる)は本来は百太夫神社です。やはり豊日別宮の周辺はサルタ彦大神と繋がっていますね。

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傀儡子たちは百も千も人形を作って奉り、サルタ彦大神に守ってもらおうと祈ったそうです。でもどうして海人族由来の傀儡子がサルタ彦?と思っていましたが、英彦山、豊日別宮に由縁があるのかもしれません。

傀儡子は神社の周辺に住み(散所)、雑役をして課役を免れ、人形舞など種々の芸をしながら漂泊民として暮らしていました。古要神社の近くには中世に散所があり、宇佐神宮に隷属する傀儡子たちが住んでいました。古表神社、古要神社の傀儡子は放生会の際に人形による傀儡子舞を奏したそうです。それは三韓征伐時の磯良舞なのですが、表向きは隼人の霊を鎮めるためであり、朝廷側にとっては隼人の服従の表明という意味があったと思われます。

祖神の安曇磯良の舞、百太夫信仰、隼人の鎮魂、そしてえびす信仰へ。傀儡子たちの移動とともに、それぞれの土地の信仰を芸能へと変容させていきました。それは単なる芸ではなく、鎮魂、祓えの力を伴っていたのです。表の歴史から零れ落ちた敗者の悲しみに、寄り添い続けた存在なのかもしれません。

写真は中津市のホームページからお借りしました。古要神社の古要舞と神相撲です。人形にはそれぞれ神の名が付けられていますが近世になってからのことらしく、本来名を持っていたのは二躰の磯良神だけだったと。写真はありませんが、顔を白布で覆っています。

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【補足①】古宮八幡宮は最初、香春三ノ岳の麓に豊比咩トヨヒメ神社として祀られており、709年に現在地に遷りました。9世紀になって神功皇后応神天皇宇佐神宮から勧請し八幡社となります。三ノ岳で採掘された銅を使って、宇佐神宮のご神体である神鏡をここで鋳造し納めていました。これが前回紹介した豊日別宮にも納められたのです。香春神社の元宮と言われますが、香春神社は放生会には関係していません。

豊比咩命は宇佐の比売神、第2次物部東征の豊玉姫と思われ、豊日別神もそうではないかと考えていましたら、古宮八幡宮の現在地が高巣の森(古くは鷹巣)でした。神紋も鷹羽です。英彦山では豊日別神は鷹巣山に鎮座していましたよね。宇佐の豊玉姫は物部イニエ王との婚姻で高木神と結びついたのかもしれません。(田川郡の古名も鷹羽といわれています)

 

【補足②】宇佐への神幸の際、豊日別宮を出発すると祓川で禊をしたそうです。この祓川は英彦山の頂上辺りから湧き出ているのですが、地図を見ると犀川という地名が祓川に添って至る所に付けられ、平野部では大きな集落となっています。地図に水色の斜線で大まかに示してみました。

幸の神を祀る三輪山から流れ出る狭井川は、本来の意味は幸川だったそうです。信州安曇野を流れる犀川は地元伝承の「龍の子太郎」の中で、出雲(諏訪大明神)を象徴する川として現れます。祓川ももしかすると本来は犀川(幸川)で、のちに始まった放生会によって祓川と呼ぶようになったのかな、と想像しています。幸の神も邪を祓ってくれますし。

 

写真は西宮神社内の説明板です。

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 下記事の後半に百太夫について書いています。

 

サルタ彦大神に戻ります。

九州には中国の庚申信仰がとても多く、これもサルタ彦と結びついています。出雲伝承の谷戸貞彦著「七福神と聖天さん」によると、庚申は平安時代には貴族の間で始まっており、室町になって農民にも浸透、江戸になると神道家が申を猿として日本古来のサルタ彦大神を祀れと主張したそうです。

庚申信仰とは道教密教神道修験道などが合わさったもので、庚申の日の夜には人の三尸さんしの虫が体から抜け出し、天帝に悪事を報告し、寿命や死後の行き先が決まるといわれ、その夜は眠らずにお酒を呑んだりしながら過ごすというものです。下の掛け軸は青面金剛といって仏教で祀られ、猿と鶏が描かれています。実は鶏の鶏冠信仰もサルタ彦だそうですよ。

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不動尊については修験道密教不動明王を信仰し、寺を守る不動明王と村を守るサルタ彦大神が似ていたことから、仏教を庶民に広めるために、サルタ彦信者に不動尊を拝むように勧めたということです。

比叡山日吉大社日枝神社山王信仰もサルタ彦大神を祀ります。豊臣秀吉日吉大社の神主家、樹下家と親しかったことから木下という名を使ったそうです。信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が復興させています。サルと呼ばれたのもここに由来するのですね。忍者出身だとも。

 

サルタ彦大神の変容ぶりをざっと見てきましたが、本当に古くから様々な祈りを受け止めてこられた神さまですね。出雲王国時代の幸の神が広い地域でしっかりと根付いていたことを感じます。

宇佐国造家の口伝ではシベリア方面からサルタ族が漂着したと伝わっており、出雲族ではなくサルタ族という名で通っていたようです。九州特有のものかはわかりませんが。記紀では幸姫命とクナト大神の名はイザナミイザナギに変わってしまいましたが、幸いなことにサルタ彦大神だけはその名を残すこととなりました。幸の神三神の役目を一身に引き受けているかのようです。

ところで豊日別宮に降臨したサルタ彦大神は修験道以前なので、幸の神として捉えることができそうです。豊前坊の天狗神奈良時代以降に生じたと思われます。磐井の岩戸山古墳には猿田彦塔がありましたが、これは近世に祀られた庚申です。とはいえどちらもそこにサルタ彦大神ありきでしょう。

 

出雲系の山の秘密組織(山伏、忍者)と筑紫舞の繋がり、そして海人系の傀儡子たちのサルタ彦信仰。これまでは出雲と傀儡子の接点がつかめず気になっていましたが、英彦山と豊日別宮のサルタ彦大神がその鍵を握っているのかもしれないと、今は考え始めています。そして山伏と傀儡子は共に独自の情報伝達網を持ち、場合によっては協力し合うこともあったのかなと。

 

筑紫神楽舞

西山村光寿斉さんの継承した筑紫舞は、筑紫傀儡子たちによって伝えられてきたので「筑紫くぐつ舞」とも言えます。こちらが歴史の裏街道を歩んできたとすれば、表に存在していたのは筑紫地方に伝わる「神楽」です。

古田氏は福岡市の田島八幡神社で継承されている神楽に偶然出会っておられます。60年ぶりに上演されるという日に、たまたま居合わせたそうですよ。田島八幡社に伝わる明治19年に記された由来書を要約します。

「明治以前は筑紫の各神社の神官が神楽を行っていたが、明治の一新によって神社の制度が変わりそれができなくなった。そこで社中の者が集まり神楽舞いの伝授を受け、以後これを筑紫舞として伝えることとした」

明治の一新というのが平田神道以外は偽物とされたことであり、神仏習合もダメ、修験道もダメ、となって神主さんたちは食べられなくなり、神楽もできなくなったという大変な時期があったそうです。明治維新とともに平田派国学者らが神仏分離神道の国教化を推進しました。

由来書には神楽を筑紫舞と言うようになったことが書かれていますが、古田氏が実際に見た感想はやはり里神楽風で、あの荘厳な筑紫くぐつ舞とは異質の芸であり、「翁の舞」(筑紫くぐつ舞の中心となる舞)もありません。ですが共通する要素がいくつもみられ、これらは同根異系のものと認めざるを得ないと。

この田島八幡の演目にとても興味深いものがあります。「猿舞」「猿」というタイトルで天孫降臨の場面を演じるのですが、それが記紀とは様子の違うものとなっています。

 

神楽「猿舞」「猿」

天照大神の命でニニギノ命が筑紫へ天降ることになりましたが、サルタ彦が承知しません。来てほしくないと頑なに拒否するのです。困惑した天の神々のうち中富親王が解決に当たることとなり、アメノウズメを使って色仕掛けでサルタ彦を誘惑する、といったことが延々と続けられます。

記紀ではサルタ彦は天孫の先導役として描かれています。ニニギノ命が来るのを自らの意志で待っているのです。先導できるのですから土地勘があり、天孫より前からここを治めていた存在であるのは明らかです。ですがそうであれば記紀のように、気前よく先導するというのは嘘くさいですよね。出雲王国の激戦の果ての滅亡を、聞こえの良い「国譲り」と変えたのと同じ構造です。この神楽ではサルタ彦の本音が描かれているように思えます。

田島八幡の他、高祖神社や朝倉内の神社で行われる神楽も、大変似通っているということです。

ところでこの「中富親王」ですが、古田氏はなぜここに登場し、かつ何の説明もなく物語が展開するのか疑問であると言われます。説明がないということはかつては誰もがよく知っている人物であったからだと。田島八幡の方は「神主の祖先」や「天孫降臨の侍従官」と捉えておられます。中臣神道の関係という説も。名前からはアメノコヤネを想像します。

 

中臣村と中富親王

豊後国風土記を見ると、景行天皇が「豊前国仲津郡の中臣村」に到着したとあります。この中臣村はその後「草場村」と呼ばれたことが太宰管内志(江戸時代に編集された九州の地誌)に書かれています。前回紹介した豊前豊日別宮(別名、草場神社)の所在地のようです。欽明天皇即位元年(539年)に創建、サルタ彦大神が天照大神の分神として祀られました。

豊後国風土記では景行天皇が中臣村に滞在した際、豊国の直らの祖先となる菟名手に豊の国を治めるよう命じたとあります。豊玉姫(ヒミコ)の宇佐家が宇佐国造⇒豊国直へ。

天皇が菟名手とともに滞在したという中臣村ですので、有力豪族がいたのでしょう。

出雲伝承の谷日佐彦著「事代主の伊豆建国」によると、第2次物部東征の後、垂仁大王は豊国軍に東海の狗奴国を攻めるよう命じ、関東北部の上毛野国、下毛野国へと至ります。豊国軍を率いた豊来入彦は物部イニエ王と豊玉姫の御子なので、物部の血筋となります。常陸国の中臣氏と豊国勢力が接近して開拓していたことから親しくなり、豊国人が豊国に里帰りして上毛郡下毛郡を作っ時、中臣家の人々も郎党を連れて共に移住し、豊国に中臣村を作ったという伝承があるようです。伝承では中臣氏は鹿島から始まるとしています。

これらを併せて考えると、垂仁から景行に至る間に移住があったということになります。3世紀末から4世紀初めでしょうか。でも宇佐家の勢力下の土地で突然よそ者が力をつけるのも難しいですから、やはり物部東征時のイニエ王とともに中臣氏も宇佐家と付き合いがあったと考えるほうが自然かと。(記紀では神武の侍臣であった天種子命天児屋命の孫で中臣氏の遠祖)にウサツ姫を娶わせたとしています。宇佐家極秘伝では神武に差し出して子をもうけたということです)

サルタ彦大神を祀った豊日別宮周辺を治めていた中富親王(中臣)が、問題解決に当たる姿を描いた神楽とみることはできないでしょうか。

※ かつてはこの辺りに中富姓の方がおられたような情報もみられますが、現在は見当たらず、福岡の博多に集中しています。

 

神楽舞で天孫を拒むサルタ彦大神を描き、それが筑紫地方特有のものだということに大きな意味があると思われます。天孫降臨の本来の姿を出雲で演じるなら筋が通りますよね。ですが天孫側(徐福子孫)の筑紫地方で上演する意味を考えると、これはニニギの天孫降臨ではなく、大和朝廷に抵抗を続けた磐井の姿、物部麁鹿火や香月君らの軍に攻められ戦った磐井の姿を重ねてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。神楽をみた人々は、そこに込められた意味を理解し、末代にまで語り継ごうとしたのでは。

また日本書紀に描かれたナガスネ彦の最期のシーンは、これまで違和感がありました。ナガスネ彦(大彦)がニギハヤヒ(物部)に仕えている設定、妹がニギハヤヒに嫁いだという設定(出雲伝承にはありません)、そしてなぜニギハヤヒが忠実な臣下を殺さなければならなかったのかと。

『大和へ攻め込んできた神武(朝廷)に対し、ナガスネ彦はニギハヤヒこそが本来の天孫であると、それを証明する天羽々矢(高木神)を神武に示します。

「自分の妹がニギハヤヒのもとに嫁ぎ、今はニギハヤヒに仕えている。どうしてあなたもまた天神だといって人の土地を奪おうとするのか」と。

天神と人は全く違うのだということを理解できないナガスネ彦を、ニギハヤヒは自らの手で殺害します。』

ナガスネ彦を磐井と置き換えた時、すんなりと読めました。物部と親族となった磐井が、大和朝廷に抵抗し、物部によって殺されたということです。

 

次回は最終回です。

 

 

宮地嶽古墳⑷英彦山とサルタ彦大神

 

英彦山の神々を見ていきましょう。

地図は南北を反転させています。

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 英彦山神宮主祭神天忍穂耳命アメノオシホミミです。天照大神の御子なので日の子の山、日子山と呼ばれています。(のちに彦山⇒英彦山

天忍穂耳命は高木神の娘、栲幡千々姫タクハタチヂヒメとの間にニニギノ命、火明命をもうけました。つまり徐福の父ということになります。古事記では正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命という勝ちまくっているような名のわりに、さほど存在感がありません。忍穂耳命は天照大神から降臨するよう命じられますがうだうだとして、やがて息子が生まれ、その息子ニニギに行かせることにしたのです。徐福の父は渡来しなかったということでしょうか。

 

出雲伝承では徐福が秦国から連れてきた母は、和名が高木栲幡千々姫と伝えられ、幡は秦を意味します。最初はJR佐賀駅の北側辺りの高木に住み(高木姓も多い)のちに筑紫の南部に住んだそうです。亡くなった後に高木の神として祀られたと。筑紫の南部とは久留米の高良山

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高木神の伝承で不思議な話があります。高良山に鎮座していたところ、高良玉垂命がやってきたので一夜の宿として提供しました。ところが結界を張られ、高木神は戻れなくなってしまい麓の高樹神社に遷ったというのです。時代による神様の交代を示していると思われますが、徐福の母を退けた人物とは誰なのでしょうか。玉垂命が物部であれば合祀ということになりそうなものですが。高良大社では仁徳天皇の御代(367年か390年)に玉垂命が鎮座したとしています。年代だけでみれば神功皇后応神天皇の時代ですね。

ちなみにここは磐井と物部麁鹿火の最後の決戦地、御井です。

出雲伝承では徐福の二度目の渡来は有明海沿岸の浮盃辺りから上陸し、金立山から吉野ヶ里へ移っていったといいます。また筑紫野市天拝山でも道教神を拝んでいたそうです。宝満川を挟んで東に宮地岳があって、昔は天山と呼ばれていました。麓には高木神社が建ち、その上方には童男丱童女の船繋岩と呼ばれる大岩があり、徐福が連れてきた童男童女たちの船に由来があると言われています。山の西側、豊満川に沿って今も水田が広がっています。

豊満川といえば、菊邑検校が「宝の満ちている川。宝とは子どもです」と言ったそうで、筑紫舞の傀儡子たちはこの川に捨てられた子どもたちを育て、舞を伝えたといいます。九州の子どもだけに伝えるのだと。大陸から連れてこられた子どもたちも、二度と親に会うことのないままこの地で一生を終えたと思われます。

 

さて、英彦山神宮のもととなる霊泉寺(古くは霊仙寺)の由来によれば、継体25年(531)北魏の僧、善正が彦山の洞窟で修業し開山したとしています。伝承には日田の猟師藤原恒雄が一頭の白鹿を射た時、鷹が現れて白鹿を生き返らせたので神意を悟り、善正の弟子となってここを開いたというものもあるようです。鷹は高木神の化身や使いといわれます。善正よりも先に鎮座していたのでしょう。上宮の手前、産霊むすび神社に高皇産霊神(高木神)は祀られています。

徐福の母、高木神の信仰は筑前筑後で紀元前から始まっていたようですね。英彦山神宮も次に紹介する高住神社も神紋は鷹羽紋。神話では高木神は天羽々矢を天から放つ伝承(返し矢)もあります。(鷹の羽は和弓に用いられる矢羽根)

天忍穂耳命英彦山にどうも馴染まない感じがあって、新たにやってきたような。

 

豊前坊高住神社 は江戸時代までは豊前ぶぜんぼうと呼ばれていました。古名は鷹栖宮。高住は鷹住?

主祭神豊日別トヨヒワケ大神とされ、豊前豊後の守護神、国魂神です。もとは鷹巣山に祀られ、病苦を救い、農業、牛馬、家内安全の神として崇められてきたそうです。

天狗磐という巨大な磐座があり、そこに食い込むようにして社殿が建っています。社殿奥にある天狗磐の窟いわやが本殿です。

継体23年(529)に「我、この磐根に居る事年久し、我前を斎き奉れ」とのお告げがあり、豊後国藤山恒雄(彦山第二世座主)によって社殿が創建されました。

英彦山神宮ともに藤山(藤原)恒雄が関わっており、ほぼ同時期のことですね。磐井の乱が終わったのが継体22年。磐井が逃げ込んだとも言われる英彦山に、翌年神のお告げが下ったことになります。

藤原恒雄については資料がなく、日田の猟師としかわかりません。日田の地名の由来のひとつに朝日と鷹の伝承もありますが(江戸時代の「豊西記」)。 日田国造の鳥羽宿祢は高木神の子孫とされ、石井神社に祀られています。鳥羽は鷹羽のこと?

またここでは豊前坊天狗神が有名で、九州の天狗群の頭領格といわれています。配下の天狗を使って欲深い人を諫め、心正しい人には願い事を遂げさせ守護するといいます。そして天狗といえば、その由来は出雲のサルタ彦大神

 

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ところで豊日別神についてですが、福岡県行橋市にある豊日別宮(草場神社)の社伝に気になる話があります。欽明天皇即位の年(539)に神が老翁の姿となって現れ、神官の大伴連神牟弥奈里継体天皇に仕え磐井の敵であった大伴金村の孫)に「我は猿田彦の大神なり。天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げ、翌日に大神が降臨し「猿田彦天照大神の分神なり。豊日別大神を本宮とし、猿田彦を以て別宮となす」と告げたことで社殿を建てて祀ったのが起源であるということです。豊日別大神とサルタ彦大神の御神徳がほぼ同じ。宮の古名は佐留田比古社。豊前坊天狗神はサルタ彦大神なのでは?

しかも天照大神の分神としています。この場合は出雲の幸の神だとすればスムーズです。幸の神三神は幸姫命(太陽の女神)とクナト大神、その御子神のサルタ彦大神です。

社伝の続きには「欽明28年(567)には洪水、飢饉などが各地を襲ったが豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇された」とあります。日本書紀には「国々に大水が出て飢える者多く、人が人を喰うことがあった」と記されており、かなり深刻な被害だったようです。豊日別宮の神と関わりのある祟りとでも思ったのでしょうか。

さらに続きを要約すると、720年に隼人が反乱し朝廷が征伐したが祟りが起こり、宇佐八幡神の宣託によって隼人たちの霊を鎮める放生会ほうじょうえを毎年行うことになった。放生会の際、朝廷の勅使が一旦豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮とも呼ばれた。官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造し、それを豊日別宮に併せて祭り、本社の神輿とともに宇佐への神幸が行われた、とあります。宇佐神宮に並ぶような扱いですね。

 

山伏と出雲散家

出雲伝承では出雲兵は忍者の祖といわれています。王国滅亡後は各地に散らばったので出雲散家さんかや出雲忍者と呼ばれました。あの謎めいたサンカですね。伊賀や甲賀の忍者は大彦の子孫のようです。山家やまが、山の人と呼ぶこともあったとか。彼らは秘密組織を作り、各地の事件の真相を旧出雲王家の富家に報告しました。出雲散家の子孫は明治頃まで忍者として活躍したといいます。彼らはサルタ彦大神を崇拝しました。

豊前坊で修業をした人の中には修験道の開祖、役小角えんのおずぬ役行者(634~701伝)もいます。この人は出雲系の葛城出身だそうで、幸の神三神を三宝荒神に変えて祀ったといわれています。荒神は幸神の言いかえですね。サルタ彦大神は強面の道の神として邪を祓ってくれるので、荒魂の要素があり、サルタ彦人形を荒神とも呼びます。大彦勢が東北で幸の神を広めましたが、それがアラハバキ信仰です。

修験道とは日本古来の山岳信仰に、密教道教の要素が混ざっていったものですが、そこに幸の神も伴っています。修験者には多くの出雲忍者が含まれていたと伝承にあります。修験者のことを山伏と呼び、もとは山臥と書いたそうですが、これも山家ヤマガと関係あるかも。

英彦山だけでなく福津の宮地嶽古墳も古くは岩屋不動と呼ばれており、江戸時代までは山伏たちの勢力下にあったようです。明治になると平田神道以外は偽物とされ、修験道も廃止になったのですが、ほとんどの神道が平田神道以外のものだったそうです。宮地嶽神社は明治以降に栄えたというので、修験道と入れ替わったのかもしれません。

 

継体21年(527)磐井の乱が起こり、翌年平定

継体23年(529)に豊前坊の社殿を創建

豊日別神はそれ以前に鷹巣山に鎮座していたので、英彦山に社殿を造ったというのは新たにサルタ彦大神を祀ったことがきっかけだった可能性もあります。のちの天狗神

継体25年(531)に北魏の僧、善正が開山(英彦山神宮の元)

いつしか主祭神天忍穂耳命に。

欽明天皇即位元年(539)に豊日別宮を創建

天照大神の分神、サルタ彦大神が祀られました。

欽明28年(567)各地で洪水と飢饉あり、大和朝廷が豊日別大神に祈願

平安時代(822)に高皇産霊尊(高木神)を勧請して七里結界を張る

この時大行事社を置きましたが明治で高木神社となります。もともと鷹巣山には高木神信仰があったと思われます。

 

 つづく

 

 

宮地嶽古墳⑶朝闇の筑紫舞

 

 

筑紫舞についてはこちらの記事に書いています。 

 

筑紫舞宗家の西山村光寿斉さんは、昭和11年に宮地嶽古墳内で筑紫舞の奉納に立ち会っておられます。立ち会うというよりも、ある儀式のようなものを経ることで、筑紫舞伝承者として最後の段階へと進んでいくことになった、そんな特別な場であったようにも思えます。

舞の奉納ということに限って言えば、その時集まった人たちが「去年はあの山の向こうの山の上で木組みをして云々」と言われたそうで、奉納の場所は他にもあったようです。当時筑紫方面太宰府からこの古墳へ度々奉納に来ていたことは、証言もあって明らかですが。

不思議なことに光寿斉さんは昭和11年の奉納の際、あの大きな宮地嶽神社がそこにあるとも知らずお参りもしなかったと言われています。いつもは道端の小さなお社にさえ手を合わせて通る人たちが、この時は光寿斉さんに教えようともしなかったというのです。

古田武彦氏によると宮地嶽神社は昔は小さな祠だったけれど(古宮のことでしょう。神社ホームページのコラムにもありますが、本当に小さなスペースです。昭和5年に現在の位置に遷宮したそうです)、明治維新後「商売の神様」のような形で繁盛していったそうで、古墳を祀る祭りはどうなったのか、筑紫舞と関係あるのかないのかそれもわからないと昭和50年代の調査で書いておられます。神社側も筑紫舞のことは光寿斉さんから話を聞いた上で「当社との関係の有無にかかわらず残す努力をしましょう」という流れになり稽古を始めたようでした。最近では古来より秘伝の舞を伝承しているというイメージがあるようですが、光寿斉さんのお話とは違っています。なので他の奉納場所を探ってみました。

 

昭和初期に、朝倉市柿原古墳の前でそれらしき舞の奉納を見たという方の証言がある(「市民の古代・第12集」新泉社」より)ということで調べてみましたが、すでに柿原古墳群は消失していました。(甘木歴史資料館の方によると、昭和60年代のことのようです)

光寿斉さんと古田武彦氏が昭和50年代に調査した際にも、すでに古墳がかなり減ってしまっていて、その辺りでは現在椀貸穴わんかしあな古墳と呼ばれる古墳だけが残っていたようです。13mほどの墳丘で横穴式石室が開きっぱなしになっており、その上に小さな社が建っていて、それを本殿とした高木神社が鎮座しています。現在は隣に小さな高住神社が建っています。

この近辺の家々は豊前豊後の修験道の神社に属していました。「椀貸」という不思議な名前は、農家で婚礼などお椀がたくさん必要な時、お願いしますと祈っておくと一式のお膳がずらりと並べられたという伝説からきています。付近に修験道の山伏(天狗)たちがいたという意味なのかもしれないと。

 

さて高木神というのは筑紫舞にとって気になる神様です。光寿斉さんの師匠である菊邑検校は多くを語らない謎多き人でしたが、筑紫舞の伝承者である傀儡子くぐつたちの組織の頭領であったのは明らかで、普段は筑紫の男性が神戸と行き来して伝令を務めますが、山伏たちもいたようです。明治中頃の話では、太宰府にいた検校のところへ黒田公が訪れ「検校様、福岡城内を歩かれる時はお忍びで行って下さい」と頼んでいたらしく、福岡から佐賀への移動にも護衛がついていたとか。

検校は歴史については、知っていてあえて一切語らないという姿勢だったようです。そして特定の宗教はもたないという検校に、では信じている神様は?と聞くと「高木の神」と答えたそうです。

  

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 柿原古墳周辺英彦山ひこさんに連なる山々の麓に位置します。英彦山は磐井が逃げ込んだ山ではないかと言われています。三つの峰を持つ1200mほどの険しい山で、古来より山伏の修験道として日本有数の霊山です。筑後国風土記逸文には磐井の乱後、豊前国上膳県に逃れて南の山の峻しい嶺々の間に身を隠して逃げたと記されています。

柿原から10㎞余り山裾に沿って東南にいくと、朝闇神社宮野神社があります。光寿斉さんと古田氏はこのふたつの神社には、筑紫舞を描いた絵馬があることを確認されています。(近くの丘には宮地嶽神社が建ち、周囲を見渡せます。祭神は神功皇后と勝村、勝依大神。福津と同じです)

※朝闇は現在はチョウアン、昔はアサクラと呼んでいたそうです。

朝闇神社の絵馬1833年に奉納されたものです。木こりか山伏のような男性たちが洞窟らしき所の前で筑紫舞と思われる踊りをし(特徴的なルソン足)、殿様風の人が大きな盃でお酒を飲みながらそれを眺め、数人の女官が取り巻いています。画面左奥には岩山がそびえ、そこから山伏たちが現れ女性たちが迎えている様子や、手前にはお坊さんがそっぽを向いている姿も描かれています。この絵馬を見た光寿斉さんは、その足の上げ方が自分たちの舞う足の型だったのでとても驚かれたそうです。

朝闇神社絵馬の一部

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宮野神社の絵馬1850年のもので、こちらは明らかに洞窟の前で山伏が舞い、殿様がいて女官がいて、という同じような図柄と、山伏が御馳走を作って農民たちに振舞っているという変わった場面もあるようです。麓の村人との交流を描いているのでしょうか。

そして宮野神社のほうはすりきれて見えないそうですが、朝闇神社のものは殿様の服装は立派なのに、頭が蓬髪、ざんばら髪。まさか逃げた磐井が山深い洞窟で山伏たちと暮らしている図?!

殿様の背後には、布で仕切りをした入口が見えますが、これを古田氏は洞窟か岩屋の入口を示しているようだと指摘されています。

どちらも江戸時代に描かれており、当時はこれを見れば意味がわかるというものだったのでしょう。この絵を解説できる人はもう現れないのでしょうか。

昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の時、集まった人たちはとても品のいい人ばかりで、中にはよい着物を着ている人もおられたようですが、なぜか皆用意された粗末な衣装に着替え、見ているだけの検校まで同じように着替えたといいます。木こりか漁師みたいなのや昆布みたいにぶら下がっているのや、検校は出し昆布みたいな色の着物‥‥。少女だった光寿斉さんは、なぜこんな汚い恰好で舞うのかと不思議で仕方なかったそうですが、洞窟の中で繰り広げられる神々しいまでの荘厳な舞に、心を奪われていったと。

 

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それから、光寿斉さんがこの朝闇神社を訪れた時、鳥居前右手の小さな猿沢の池(奈良にも同名の池がある)を見て、筑紫舞の「早舟」という舞が奈良ではなく、ここを唄ったものだったのかと合点がいったそうです。他にも娘道成寺など紀州が舞台だと思っていたら、宗像の鐘崎の悲しい話がもとになっていたと知って驚いたとか。筑紫舞が原点であることが多いのかもしれません。

鳥居は小さく、階段を昇るとすぐに拝殿があり、その内側に絵馬が奉られています。拝殿の横手には恵比須様の石像が。

祭神は高皇産霊尊(高木神)とニニギノ尊。ここは別名を大行事社といいます。822年に英彦山神領から七里四方に高皇産霊尊を勧請して結界を張りました。密教の七里結界と呼ばれます。大行事社を48ヶ所置いたそうです。この朝闇神社は七大行事社といって、最も外側で参道入口付近に置かれたところにあたります。(一里は時代によって変わり、律令制では一里約553m、中世は様々で、秀吉が約3.9㎞を導入)

大行事社は明治になって高木神社と名称が変わりました。

甘木歴史資料館の方に教えて頂いたのですが、この地方では皇室に関わってくるような高木神と、民間信仰としての豊前ぶぜんぼうが大切にされているとのこと。高住神社とはこの豊前坊が明治になって名称変更されたもので、筑前国風土記拾遺にも柿原村には豊前坊があったことが記されています。豊前坊については次回紹介します。

大行事社⇒高木神社

豊前坊⇒高住神社

椀貸穴古墳は両方の神様が祀られていますね。

朝闇神社のすぐそばには朝倉橘広庭宮跡があります。斉明天皇皇極天皇であり、天智、天武天皇の母)が661年に百済救援の際に建てたそうです。なぜこの地だったのでしょうね。天皇は宮に着いて2ヶ月余りで崩御されましたが、建設時には神の怒りに触れて宮が壊れたとか、病死者が続出したとか、崩御された後には朝倉山に鬼が現れ喪の儀式を覗いていたなどと日本書紀にも書かれており、天皇は磐井の残党に殺され宮を焼かれたといった説まであるようで、そういう話が出ることに世間の何かしらの思いがあったのでしょう。

ところで長安寺廃寺跡も隣にありますが、もとは朝闇寺、朝鞍寺と書いて「チョウアン寺」や「あさくら寺」と呼ばれていたそうです。ここにも鞍手の鞍が‥‥!

中国の「長安」と当て字されるほど重要な場所だったのではないかとも言われています。そういえば朝闇神社は他の大行事社のように高木神社と改称していませんよね。

長安寺跡からは奈良時代の遺物は出ていますが、朝倉橘広庭宮よりは後の時代と推定されています。

また朝倉の地名の由来は朝闇から来ているともいわれ、そうなるとかなりダークな物語の気配が。前回紹介した筑紫国造鞍橋君の金川家の家譜には「闇路クラジの公」と書かれていました。

菊邑検校が光寿斉さん家族と大本教弾圧の話題となった時に、検校が「真実というのは隠されていてわからないことが多いですよ」と言ったので場が白けてしまい、翌日再びその話題になった時にはぽつりと「くらやみにてあさをまつ」と暗い声で呟いたといいます。ドラマのワンシーンかと記憶に残っていましたが、今回地図を見て驚いたのが、朝闇神社からさらに東南へいった所、英彦山への麓の登り口に「夜明(夜開)」という地名もあったりして、なかなか意味深。さらに東には石井町が。(古事記では磐井ではなく石井)

 

 もう一方の宮野神社は、661年に斉明天皇が戦勝祈願にと中臣鎌足に建てさせた神社です。でも橘広庭宮建設時の暗い話を聞くと、祟りを恐れて祀ったのではと邪推してしまいます。

祭神をみると、大巳貴命、天児屋根命、吉祥女とあります。天児屋根命は中臣氏の始祖、吉祥女とは菅原道真夫人という説も(後世のものでしょう)。末社には金毘羅社(出雲)、さらに「幸神」と彫られた石神さまもありました。またここにも出雲が満載。

 

次は英彦山に祀られた神々について見ていきたいと思います。

 

 

 

 

宮地嶽古墳⑵磐井と大彦、鞍手の伝承


大彦についての過去記事です。

 

出雲伝承には九州の情報がそれほどありません。なので独自の伝承がとても多い九州に踏み込んでいくと、道標なしには翻弄されてしまいそうだな、というのが正直な印象です。まだまだ未知の情報がありますし、現段階はひとつの答えを求めるよりも、出雲伝承の視点に立ちつつどういった歴史が見えてくるのかを探っていけたらと思っています。

 

前回は筑紫国造磐井は大彦の子孫であり、以前は大和で大王に仕えた朝廷側の国造なのか?というところで終わりましたが、もう少し丁寧に見てみたいと思います。

日本書紀にある毛野臣へのセリフの意図は、九州王朝勢力が存続しているのではなく、磐井はあくまで筑紫国造だと強調したかったともとれます。であれば本当は磐井は大彦の子孫ではなく、もと九州王朝の大王に通じる存在だったのを隠そうとしたということでしょうか。

まずは磐井と大彦の接点になるかと思われるところを、いくつか辿ってみます。 

 

岩戸山古墳

磐井が生前に築造したといわれる岩戸山古墳ですが、そこに接するようにして吉田大神宮が建っています。以前は墳丘上部に祀られていた伊勢社を遷したそうです。写真は跡地の石碑。

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祭神は大日孁貴尊オオヒルメムチ天照大神としないところが古さを感じます。伊勢社が祀られているのは、朝廷に反乱を起こしたとはいえ神武に連なる皇統の血筋だからでしょうか。(出雲伝承では磯城王朝の皇子)

大正11年には菅原道真(出雲王家子孫)が合祀されています。さらに石造猿田彦塔や大山咋命(クナト大神)を祀る松尾宮(出雲の酒の神)まであります。出雲の匂いがプンプンしますね。

吉田大神宮は大正時代に、古墳のくびれ部に接して建てられました。このくびれ部から後円部中心にかけて地下室があることが、平成9年の電気探査で確認されました。ここに磐井が埋葬されているのかどうかはわかりません。最近ピラミッドの内部を素粒子で透視する技術が日本でも開発されているので、そういった技術の進歩に期待しています。

 

安倍高丸

中世に書かれた八幡宮縁起の中で、仲哀天皇の腹心として安倍高丸助丸が記されています。それをもとにした石見神楽の「塵輪じんりん」という演目があります。要約します。

仲哀天皇の時、新羅国から数万の兵が豊浦宮に攻めてきました。天皇は5万の兵で迎え討ちますが、塵輪という鬼神が黒雲に乗ってきて人々を殺していきます。安倍高丸と助丸に門を守らせ、天皇が弓矢で退治。ところが流れ矢が天皇を傷つけてしまいました。

下関の忌宮神社にも同じ話が伝わっていますが、安倍高丸、助丸は討ち死にしたことになっています。筑紫国造始祖の田道命は仲哀天皇先代の成務天皇の時代なので、同族の安倍家が活躍していた?

日本書紀仲哀天皇の御代で安倍氏に関わると思われるところは、天皇皇后が山口から香椎宮へ向けて行幸中、出迎えた岡県主遠賀郡先祖の熊鰐ワニ阿閉アヘノ(相島)を献上したり、船が遠賀川河口で動かなくなった時に船長の伊賀彦を祝はふりとして祀らせると船が動いた高倉神社の由来)といった話があります。相島は古くは阿閉島といって、これは大彦の子孫の阿閉臣と同じ名です。また伊賀彦も大彦の子孫。伊賀にも高倉神社があり、市内には大彦を祀る伊賀国一之宮敢國アエクニ神社があります。福岡の高倉神社は毛利元就の三男、小早川隆景が再建しているらしく、毛利家は出雲王家富家の子孫です。大彦は富彦と自称するほど富家の祖先を崇敬していました。

大彦の子孫とされる7族‥安倍臣、膳臣、阿閉臣(阿敢臣)、沙沙城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣

岡県主の祖先熊鰐についてはわかりませんが、遠賀郡から相島までを支配していた豪族なのでしょう。単純にワニといえば出雲の気配が。出雲の宗像家といえば宗像三姉妹ですが、宗像家は三輪山の南方に移住したと伝承にあります。

続いて神功皇后の御代では、新羅出兵前に吾瓮アヘノ海人に西の海に出させて国があるか確かめさせ、次に磯鹿シカの海人に見させた、とあって、津屋崎辺りと博多の海人(安曇族)を分けて描いたとすれば、阿閉、吾瓮ともに大彦系の安倍阿部に繋がるかも。

また安倍高丸を調べると、平安時代初期に征夷大将軍坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の首長と同名でした。蝦夷なので大彦勢でしょう。安倍高丸は悪路王として有名で、数多くの伝承が各地に残されています。安倍氏悪事の高丸、鬼、などと記され、その拠点は岩手県西磐井郡達谷窟たっこくのいわやだったそうで、ここで田村麿に討たれました。昔は「磐井の郷」とでも呼ばれたのでしょうか。

九州で仲哀天皇の腹心だった安倍高丸も、描かれたのは中世になってからなので、悪路王としての安倍高丸と何らかの関係があるのかもしれません。

※ネット上では藤高麿、助麿が安倍高丸、助丸のことであるとの情報が出ているのですが、その出典は見つかりません。

それから、詳しくはわかりませんが神社研究者の百嶋由一郎氏が、宮地嶽神社のもとの宮司は阿部氏だと言っておられたようで、現在の浄見氏とは違ったようです。

 

鞍手の伝承

物部氏ゆかりの遠賀川中流の旧鞍手郡は、とても興味深い話の宝庫です。その分ややこしいですが。

遠賀川周辺から鞍手にかけては剣神社、八剣神社が驚くほど密集しています。ざっくりまとめると剣はスサノオ、つまり徐福の布留御魂を祀り、八剣はヤマトタケルとミヤズ姫、草薙剣にまつわる伝承があって、後から熱田大明神を勧請したようです。

まず下地図の鞍手南方の六ヶ岳を見て頂くと、東の麓に劔神社、西の麓に六岳神社が鎮座しています。六ヶ岳は宗像三女神が最初に降臨した地と言われており、山頂に祀られていましたが、のちに六岳神社へ遷されます。劔神社のほうはもとは倉師大明神と呼ばれていたようで、ここにはイザナギイザナミに始まり十拳とつかの剣から生まれた神々が祀られています。宗像三女神スサノオの十拳剣から生まれていますね。

六ヶ岳南麓にはニギハヤヒ(天照国照彦火明櫛玉饒速日尊)を祀る天照神も鎮座しています。垂仁16年に笠木山に降臨したとのこと。

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次に北側の剣岳には、ヤマトタケル熊襲征伐で訪れた際に登ったという伝承があって、安閑天皇の御代になってから剣岳に八剣神社が建てられました。日本武尊、ミヤズ姫が祀られています。天智天皇の時代には草薙剣(叢雲剣)が盗まれる事件があり、途中この剣岳に置いてあったとか、古物神社に飛んできたなどといった伝説もあります。

時代順にみていきます。

劔神社直方市下新入)の由緒によると、筑紫国造田道命が成務天皇の時、筑紫物部を率いて神々を祀った神社であり、古くは倉師くらじ大明神と呼ばれました。もともとは六ヶ岳の東嶺に鎮座していたそうです。田道命の子孫である長田彦が神官を務めました。

倉師大明神は鞍手の名の由来という説もあり、高倉下タカクラジ(徐福の孫であり、香語山と大国主の孫の間に生まれた紀伊家の始祖)のことではないかと言われています。記紀では神武が熊野で倒れた時に布都御魂(剣)をもって現れ助けます。とはいえこれは8世紀初めに完成した話ですし、実際に物部東征の際に高倉下の子孫たちが物部を助けたわけではなく、紀の川で大彦勢と共に戦っています。

ただし先述の高倉神社も高倉下が祀られているという説もあるので、何か別の理由、例えば水軍の守り神とか、出雲王家と徐福に繋がる先祖を祀ったなどということであれば、あり得るでしょうか。

六ヶ岳神社の由緒は鞍手町によると、宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、成務天皇7年に室木里の里長、長田彦が六ヶ岳崎門山に神籬を営んだのが始まりということです。その後も子孫が長く神官を務めたといいます。どちらも長田彦ですね。

★ 筑前国風土記逸文には西海道風土記の示すところに宗像大神は最初に崎門山に居られたとあり、鞍手町誌はこの崎門山は六ヶ岳の一峰と比定。地名辞書では宗像郡の北端にある鐘埼の古名としていますが、山とは言えないような。また宗像神社文安元年の縁起に「室貴六嶽御著きあり、則ち神輿村に着き給ひ、その後三所の霊地に御遷座あり」と記されています。筑前国風土記拾遺にも同じ内容と「六ヶ岳とは風土記にいう埼門山これなり」と付け足されています。

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下地図は直方市教育委員会より縄文時代遠賀川の地図をお借りしました。大きな入海だったようで、古墳時代にはもう少し狭まっていたのでしょうが、宗像三女神が降臨した六ヶ岳(339m)は水際に立つ山だったということになります。先述の高倉神社も海のそばとなりそうです。

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鞍手町誌、香月文書などについては谷川健一著「白鳥伝説」と福永晋三著「倭の興亡」同氏ブログ「神功皇后紀を読む会」を参照しています。

この両神社の神官を務めたという長田彦(小狭田彦)とは、香月カヅキ文書によるとニギハヤヒの御子、天照日尊と市杵島姫の間に生まれた子孫で、本名・常盤津彦命のことであるいいます。天照日尊の15世孫だそうです。徐福の子孫ですね。市杵島姫であれば物部系でしょう。(小狭田彦はオサダヒコと呼ばれますが、原本ではササダヒコとかなが付されているそうです。福永氏は旧香月領の笹田が拠点だったと。)

小狭田彦は田道命の子孫ということなので、小狭田彦が徐福の男系子孫であれば、大彦の子孫である田道命の家系と女系で結びついたということでしょうか。

月氏は勝木とも書かれ、祖は小狭田彦。孫が日本武尊熊襲退治で功があって香月君の号を許されたそう。「香月文書」とは六岳神社と十六神社の宮司柴田家に伝わる文書であり、新北の熱田神社にも写しがあると。「香月世譜」は井原家に伝わっており、これは貝原益軒の養子が香月牛山のまとめたものを書写したものだそうです。(福永)

香月文書の系譜には物部の名前がチラホラ見えるそうです。

以上のことから、成務天皇の時に市杵島姫の子孫である小狭田彦(物部系)宗像三女神の祭祀を始めており、それは第2次物部東征で大和へ進出した後に景行、成務天皇らが各地を平定していったという時期に重なります。出雲王家と宗像三姉妹が婚姻していた時代(紀元前2世紀)のずっと後の時代(4世紀初め~)になりますね。

それから前回も書きましたが、日本書紀に水沼君が宗像三女神を祀ったとあり、水沼君は旧事本紀では物部阿遅古アジコ連の末裔でしたので、この六ヶ岳で繋がりが見えてきました。水摩(水沼)の姓は鞍手郡鞍手町に集中しているそうです。旧事本紀によると物部阿遅古連は物部麁鹿火アラカイと従兄弟らしく、そうであれば磐井の乱の後、水沼君がこちらへ進出してきたのでしょうか。

 

次に香月文書によると、小狭田彦の娘、常磐津姫と日本武尊の間に生まれた御子、小磐削ノ御剣王が父とともに東征し駿河の焼津で軍功があったので、祖父の景行天皇から武部ノ臣の称をもらったとあります。(出雲伝承では景行、成務、仲哀天皇の事績のいくつかを架空のヤマトタケルのこととしていると伝えています)

日本書紀には日本武尊の子の子孫に武部君という名がみえます。また日本書紀景行13年に天皇日向国の御刀媛を妃として豊国別皇子をもうけ、日向国造の祖となったとあります。御剣王と御刀媛、親子みたいな名前ですね。香月氏葛城襲津彦の末裔でもあるらしく、出雲伝承では日向襲津彦のこと。どこかで繋がるのかなと。

香月家譜には「香月君が、東方に遠征した日本武尊の帰還を、香月の地で待っていた」とあるそうです。出雲伝承の「親魏和王の都」によると、景行大王の代になると、大和副王の加茂家には関東の国造家から多くの貢物が届いたけれど、大王家にはそれもなく、税も集まらず、軍に参加する豪族も少なかったといいます。景行大王は仕方なく自ら遠征に出掛け、まずは物部の旧支配地九州へと向かいました。ところが豊前国で后の八坂入姫が亡くなってしまい、勝山に行宮を建てて留まりお墓(綾塚古墳)を築きます。その地方は「京都みやこ郡」と呼ばれました。さらに祖父のイニエ王崇神の墓を日向国の生目に築いたそうです。九州平定を終え東国へ遠征した後、近江国の高穴穂宮に着きますが、結局大和へは帰れずに没したということです。主に景行大王の事績を辿らせたというヤマトタケルも大和には帰れずに、帰郷の想いを募らせる歌があの「大和は国のまほろば‥‥」(古事記)です。日本書紀では景行天皇が日向で詠んだとしています。鞍手の地で日本武尊の帰還を待っていたのは、共に戦った息子、御剣王でしょうか。

香月文書の続きを要約すると、日本武尊4世孫に加那川彦王がいて、新北の神主になったとあり、金川家の始祖であるようです。この金川とは剣岳麓に建つ熱田神社宮司家です。神社由緒によると、景行27年に日本武尊がこの地に立ち寄ったことに始まり、鎌倉時代になって尾張国の熱田大明神を勧請したとのこと。宮司家に伝わる古文書があるそうですが公表はされていません。ネット上ではその内容として、磐井は大彦の血を引く筑紫国造であるとか、鞍橋クラジノ君は金川家の祖先であり、葛子の弟という情報も見られます。鞍手町誌によると金川家の家譜には「闇路公」という字も見られるとあります。

筑紫国造鞍橋君とは日本書紀の欽明15年(554)に弓の名手として記されている人です。大和朝廷軍として百済救援に向かい、百済の王子を助けたことで褒めたたえられています。

まとめると、葛子の親族の鞍橋君が金川家の系図にみられ、磐井の乱から27年後の欽明天皇の御代で大和朝廷軍として活躍したということになります。なので磐井が金川家の姫と婚姻関係にあった可能性があります。田道命と小狭田彦の家系は親戚間で婚姻が続いていたのかもしれません。

 

香月文書に戻ります。小狭田彦の子孫、加那川彦王金川家始祖)は新北、室木の神官を任ぜられ、それとは別に孫の大満子は香月本家を継ぎ香月君となりました。大満子は養嗣子(跡継ぎのための養子)として倭男人を迎えますが、この人は磐井の乱において朝廷側の物部麁鹿火を助けて戦ったそうです。つまり香月君は朝廷側についたのです。親戚内での分裂ということになります。また磐井の子、北磐津が許しを乞うたので、倭男人が憐れんで奴僕としたとも書かれています。北磐津は金川家の伝承には現れないようなので、また別の母を持つのでしょう。

かなりややこしくなってきましたが、あと少しです。

鞍橋君は金川家の血筋を持ち、先祖はニギハヤヒと市杵島姫であり、なおかつ日本武尊(おそらく景行天皇)の子孫です。葛子については可能性はありますが断定できません。また香月は勝木とも書くそうで、宮地嶽神社の祀る勝村、勝頼大明神の勝と関係があるのかも。そして景行天皇の血筋であれば物部。藤大臣(物部)とも繋がります。

勝村大神=藤高麿

勝頼大神=藤助麿

ヤマトタケルの東国遠征での香月君の軍功と、神功皇后三韓征服で軍功があったという藤大臣を重ねているとか。

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)で安曇氏を祀っていると言われているそうですが、今回調べた鞍手の神社や小狭田彦の家系の伝承に従えば、香月家の血筋の者とは考えられないでしょうか。そうなると物部王朝の後継者となり、安曇氏とはまたちょっと違ってきますが。

  

最後に大彦の子孫、安倍宗任アベムネトウについて少し。

時代が下りますが、前九年の役(~1062年)で源氏に敗北した陸奥国安倍宗任は、その抜きんでた才覚によって死罪にするのは惜しいと源頼義親子が朝廷から貰い受け、伊予⇒太宰府⇒宗像郡の大島へと流され、そこで宗像氏のもとで日朝日宋貿易を手伝い活躍したそうです。子孫には肥前の水軍、松浦党を起こした者や、宗像大宮司神職についた者もいて、宗像地方に安倍や阿部姓が多いのは宗任の子孫の可能性もあるようです。宮地嶽神社の元宮司といわれる阿部氏もそうなのでしょうか。それとも筑紫国造田道命以後の時代でしょうか。

九州北東部は古来より出雲分家の宗像家だけでなく、筑紫国造田道命、東北の安倍氏など大彦の子孫の繋がりが濃いことが見えてきました。これまで九州においては安曇族の阿部、安倍ととらえてきたところをもう一度確認する必要がありそうです。

 

次回、いよいよ筑紫舞に迫ります。

  

 

宗像一族。そして宮地嶽古墳⑴


 

引き続き、N様より頂いたご質問に今回もチャレンジしてみたいと思います。

その前に、N様がご紹介下さった「海の民、宗像」という漫画がありまして、これは宗像市世界遺産登録推進室というところが編集しておられます。発行から2年後に見事登録されました!

本の内容は、弥生時代から現代までの宗像一族をいくつかの時代を取り上げ、ストーリー仕立てにしてわかりやすくまとめられています。最後にコラムとして古代の詳しい解説もついています。

常に西の一大勢力(渡来人のよう)の脅威を感じつつ一線を画し、大和朝廷からも圧力を受けながら対等であることを望み、なんとか協力関係を保ってきた苦しい立場が描かれます。6世紀には朝鮮半島で戦が激化し、宗像を含め九州は直接その影響を受け続けます。そんな中、磐井の乱が起こり、宗像は朝廷か筑紫側かどちらに付くのか選択を迫られる場面もみられます。物語では友好関係にあった大和朝廷に表向きは加担すると決めますが、あくまで宗像の民を守るためであり、筑紫の軍と戦うことはなかったとしています。

先日TV番組を観ていると、宗像の海女の方が海に入る前のお詣りをする場面が映されました。もうほとんど海女となる人はいないそうですね。

小さな神社(恵比須神社だったような)の隅に祠がふたつあり、それが出雲の幸の神の小さな石祠だったのです。周りには黒と白の石がたくさん積まれ、上にアワビの殻が乗せてありました。毎回こうして石を供えて海の安全と豊漁を祈るそうです。丹後風土記には大巳貴命と少名彦命が白と黒の真砂をすくい持って、天火明命に向かい「これらの石は私の分霊であるので、この土地で祀りなさい」と詔りしたとあります。黒の真砂は砂鉄だそうです。

宗像地方はやはり出雲の文化が生活の中でも受け継がれているんだなと見入ってしまいました。でも海女の減少のように、あっけなく途絶えてしまうことも現実味を増しているんですね。

 

さて、「海の民、宗像」の物語の中では、宗像一族が連続しているように描かれていますが、実際にはそうではなさそうだというところもあって、複雑です。

現在の宗像大社では一族に伝わるという「西海道風土記」に記された宗像三女神と天神の御子、大海命との子孫だと言われているそうです。これに関する資料が他にないためになんとも言えません。

古代出雲王国と宗像家、そして徐福との婚姻の時代(宗像三姉妹)があり、次に応神から雄略に至る大和王権との海上の道を巡る関係を保った時代と天武天皇と婚姻関係を結んだ宗像徳善の時代があり、そして平安時代に入ると大宮司職という権力を持って政治的色合いの濃い時代へという変遷があります。

出雲伝承では宗像一族は出雲族が開拓した大和、三輪山の南方(桜井市)へ移住したとありますので、その後分家が残った可能性はありますがわかりません。

また日本書紀には筑紫の水沼君等が宗像三女神を祀るという記述もあって、この水沼君と宗像家との関係は不明です。旧事本紀にはニギハヤヒの子、ウマシマジの14世孫、物部阿遅古連公が水沼君等の祖であると書かれています。筑後川下流域を本拠地としており物部系ということで徐福の后となった市杵島姫と関わるのかもしれませんが、それが後に宗像家とどう関わるのかはわかりません。

折口信夫谷川健一はミヌマという言葉から、水中の女性の蛇や水中の蛇を祀る巫女を指すのではないかと指摘されています。そうであれば出雲の龍蛇神(コブラ⇒海蛇⇒ワニ)にぴったり符合しますが、断定もできません。

沖ノ島祭祀はわかっている範囲で4世紀後半から10世紀初頭までの500年余りとされ、ちょうど大和王権との協調時代にあたりますね。

平安期に大宮司家となった時の初代が宇多天皇の皇子とされており、この辺りから神社としての在り方も変質していったようです。そこから16世紀の79代氏貞を最後に宗像家は断絶しました。

 

次に宮地嶽古墳の被葬者は誰か、というご質問ですが、これはかなり難問です。

宮地嶽神社側の見解としては磐井の子孫(孫)を祀っており、安曇氏であるとの情報がネット上は見られるのですが、神社の正式な発信が見つけられないので保留としています。

今回調べ直すうちに新たに見えてきたこともありますので、長くなりますがそれを含めて考えてみたいと思います。

まず古墳の造営は6世紀末から7世紀前半と言われています。被葬者として名が挙がる宗像徳善ですが、娘の尼子娘と天武天皇との間に高市皇子が654年に生まれていることと、その11年後に胸方君が朝臣八色の姓)を与えられており、宗像徳善の墓はもう少し後の可能性が高いと思いますが、没年不明のため不確定です。

それから宮地嶽古墳は津屋崎古墳群に指定されていますが、宮地嶽古墳の地区だけは宗像一族とは思えないのです。下の地図は福津市古墳群整備指導委員会が平成20年に作成した地図を参照して、津屋崎古墳群の4つのゾーンを書き込みました。名称はそのままにしていますが囲みは大まかです。宮地嶽神社の奥宮が古墳となります。このゾーンだけ向いている方向が博多方面となっていて、一線を画していたという筑紫君一族のほうを向いているというのもおかしな話ですよね。他のゾーンは沖ノ島沖津宮を遥拝する位置にあります。

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宮地嶽神社の「光の道」が最近有名になりましたが、これは古宮から相島がまっすぐに見通せるということです。

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相島には積石塚群という4~7世紀頃に造られた古墳が、100mほどの海岸に254基もあって、この中の1番大きな前方後方墳と古宮が一直線に繋がっているといいます。5世紀中頃までに造られたとされ、長軸が20mあります。でもこの上空からの写真で見ると、前方後方墳というより、方墳に大きめの造出しがついているような。

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円墳と方墳が半分ずつあるそうです。

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相島は新宮町に含まれ、古来より宗像ではなく糟屋と関わりが深かったと、神社ホームページコラムにはありました。そうなると安曇族の領域になりますね。

 

次に筑紫舞についてですが、この古代より継承されてきた謎多き舞の中で、西山村光寿斉さんが最後に伝授されたのが「浮神うきがみ」という舞であり、これが筑紫舞の最も大切なものと教わったそうです。伝授された時点ではそれが何を意味しているのかは一切教えられず、50年の歳月を経て春日大社で安曇磯良を表した「細男舞せいのうまい」を観た時に、「浮神」も安曇磯良の舞だったことを知ったという印象的なエピソードがあります。なので筑紫舞は安曇磯良へと繋がり、それが昭和初期に宮地嶽古墳で奉納されていたことから、素直に考えれば安曇磯良の末裔がそこに埋葬されているのでは、ということになりますが、これについては後程詳しく書くつもりです。

 

まずは隣接する宮地嶽神社の現在の祭神を見てみましょう。戦中までは宗像三女神も祀られていたそうですが今は消されています。

神功皇后

勝村大神

勝頼大神

この勝村、勝頼大神とは三韓征伐で活躍した武人らしいです。

昭和19年の福岡県神社誌に由緒として「宮地嶽大明神安倍相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神藤助麿云々」とあります。神功皇后三韓征伐前に宗像三女神に祈願し勝利したので三女神を奉斎し、「のちに神功皇后を御同座に祀る」とあります。勝村、勝頼大神については、帰還後にこの地の祖神として祀られたということです。同じような内容が筑前国風土記拾遺(江戸時代の地誌)にもあるようです。

宮地嶽大明神⇒安倍相丞(相亟、亟相とも)

勝村大神⇒藤高麿

勝頼大神⇒藤助麿

となりました。藤といえば藤大臣トウノオトド高良玉垂命が浮かびます。大善寺玉垂宮(高良大社の元宮)の社伝によると、藤大臣は三韓征伐で大功があったといいます。

玉垂命が誰かという説はたくさんあって断定できませんが、末裔の所蔵する家系図によれば、初代玉垂命とは物部保連ヤスツラであると。

勝村、勝頼大神は物部か?

では安倍相丞とは誰でしょうか。

相丞しょうじょうを逆に丞相じょうしょうとすれば、古代中国で君主を補佐する最高位の官史のことになります。

そして安倍氏といえば出雲伝承の重要人物、大彦(磯城王朝8代孝元大王の皇子。異母弟に開化大王。記紀ではナガスネヒコとされた)の子孫です。子孫たちは物部勢に北へ追われながらもクナ国、日高見国を築き、朝廷からは蝦夷と呼ばれた大勢力です。

なので安倍といってもこれはちょっと違うのでは?と思っていましたら、斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」に磐井は大彦の子孫であるとサラっと書かれているではないですか。

確かに日本書紀には、孝元天皇の第一子の大彦命は安倍臣など7族の先祖であるとし、そこに筑紫国造も含まれていました。先代旧事本紀の国造本紀にも、大彦の5世孫、日道命(田道命)が初代筑紫国造とあります。筑紫氏の祖が田道命となっています。出雲伝承でも北陸から越後で国造となった大彦の子孫たちを「道の公家みちのきみけ」と呼ばれたといいます。道といえば日本書紀崇神天皇が派遣したという「四道将軍」が大彦、息子の武渟川別命丹波道主命吉備津彦ですが、みんな物部に追いやられた人たちであり、それを隠した作り話となっています。

また日本書紀磐井の乱の中で、磐井が大和王朝側の毛野臣に「昔の仲間ではないか。肩を擦れ合い同じ釜の飯を食った仲だろう」というセリフがあります。斎木氏はこれを、都で同じ大王に仕えた時のことと付け加えておられます。磐井は大彦の子孫であって本来の筑紫の人ではなく、大和王朝から派遣された国造ということでしょうか。つまり筑紫君一族(いわゆる九州王朝の血筋)の入り婿?だとすれば息子の葛子クズコが筑紫君の血筋となりますね。

葛子は糟屋の屯倉を献上するだけで死罪を免れたということですが、糟屋はもと安曇の領域でしょう。安曇物部系統の匂いがします。また日本書紀では磐井は筑紫国造と書かれるの対し、葛子は筑紫君となっています。(書紀を編纂した太安万侶大宰府に勤めていたとの話もあり、筑紫国造については詳しかったからか、それとも朝廷からの派遣だと印象づけるためか。毛野臣へのセリフを敢えて加えた真意とは‥‥)

次は磐井と大彦の繋がりを探ります。

 

※ 丹後の出雲大神宮についてご質問を頂きました。元出雲とも呼ばれるそうで、出雲大社とどちらが先なのかということですが、これまでの伝承の中で出雲大神宮については触れられていないかと思います。元出雲という意味がよくわかりませんが、716年創建の杵築大社(現出雲大社)より古いという意味なのか、元はここに出雲の神を祀っていたということなのか。後者であれば出雲地方のほうが元であるのは明らかかと思います。出雲大神宮については私の見落としがあるかもしれませんので、どなたかご存知の方があれば教えて頂けると有難いです!

(2019.6.3一部改訂)

 

   

 

 

九州王朝説と出雲伝承

以前、N様より次のようなご質問を頂いておりました。

筑紫君一族と宗像一族、そして百済との繋がりはどうなっているのでしょうかと。磐井の乱の真相、継体天皇の没年における百済本記の真意、宮地嶽古墳の被葬者についても尋ねておられます。これらの質問はひとつの大きな問題を孕んでいます。

九州王朝説をどうとらえるか、です。

本ブログは大半が出雲伝承に基づいておりますが、物部東征以前の九州地方については、九州王朝説の古田氏による倭人、邪馬壹国の論証や筑紫舞の存在を重視しています。

九州王朝説といっても派閥があるようで、古田氏は663年の白村江の戦いで敗北するまで王朝が存在したとし、それ以前の倭の五王までとする説や、7世紀末までとする説もあるようです。Sorafullは出雲伝承の大筋を取りつつも、倭の五王に関してはすんなりと大和朝廷側だと言い切れない迷いを感じていました。宋書梁書記紀を読んだ上で判断するなら、倭の五王は九州王朝では?と思うからです。ですが出雲伝承を知ったことと、記紀編集者が中国の属国であろうとした時代を隠蔽するために操作したということであれば、不可解な点を残しながらも頷くしかありません。

倭の五王をどの大王に比定するかという問題は置いておくとして、三韓征服後に日本が潤い、鉄を仕入れ、河内に巨大古墳群が造られていったことをみると、この時期に朝鮮半島で影響を及ぼしていた倭国の中枢は、九州ではなく平群王朝だったのだろうと思えてきました。

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これらの古墳群からは鉄製の武器や甲冑、馬具が多数出土しています。甲冑は年代を追うごとに急速に進化し、5代目の倭王武の頃に完成度を極めますが、なぜかその後ぱたりと途絶えてしまいます。またこれだけ武器が発達したなら国内でその殺傷痕のある骨が増えるかと思いきや、それもないそうです。ということはこれらの武具は海外に向けて準備された可能性が出てきます。進化しているのであれば、飾りではなく使用もされたでしょう。

写真は大阪大学考古学研究室の記事よりお借りしました。古市古墳群の野中古墳から出土したものです。

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倭の五王の5代目武(雄略天皇と比定されています)が宋に奉った上表文は、高句麗の南下による被害を切々と訴え、まさに高句麗討伐へ向かおうとしていると記されています。そして5代目にしてようやく、宋から朝鮮半島百済高句麗を除く)における軍事指導権を得るのですが、その後倭国高句麗を攻めた記録が朝鮮側にありません。日本書紀には筑紫国から500人の兵を遣わせて百済の王を送り届けたことと、筑紫の安致臣と馬飼臣が船軍を率いて高句麗を討ったとだけチラリと書かれています。小規模な戦だったのかもしれませんね。

倭王武の上表文が478年、その翌年に雄略天皇崩御します。その後中国史書の倭国の記載は途絶え、隋書まで120年余りの空白となります。蘇我王朝の継体天皇即位が507年ですので、平群王朝の衰退が始まろうとしていたのかもしれません。

 

一方、九州においては物部東征後も独自の文化が栄えていたでしょうし、その地理的な要因によって平群蘇我王朝のもと、相当な権力を与えられていた豪族もいたはずです。また朝鮮への出兵は長期に渡り、九州の者たちが多く駆り出され疲弊していったことは想像に難くありませんし、朝廷への反感も募っていったことと思われます。その不満が527年に起きた磐井の乱をより拡大させたのではないでしょうか。

Sorafull自身、結論を出したわけではありませんので、今後も九州王朝を頭に置きながら探っていきたいと思っています。

それでは出雲伝承によるこの時代の記録を辿ってみましょう。

注)倭国倭人の「倭」という字についてですが、出雲伝承では倭を卑字、蔑称として避けるため「和」とされています。当ブログは中国がもともとは「倭」を「委」と記していたことから、もとの読みが「わ」「ゐ」のふたつの可能性があると考え、基本的には「倭」とし、出雲伝承に則る流れにある時には「和」と表記します。これまで曖昧に使っている場面もあると思いますが、ご了承ください。

 

出雲伝承より

4世紀に神功皇后三韓征服を行い、新羅百済高句麗から年貢が納められることになりました。神功皇后の母方は辰韓の王子、ヒボコの子孫です。のちに王家が断絶し、家来が新羅国を起こしましたが、王家子孫である神功皇后は自分に新羅の領地と年貢を受け継ぐ権利があることを訴え、新羅出兵が行われたそうです。各地の水軍が援軍として集まったことで、新羅だけでなく百済高句麗まで和国に朝貢する約束を得ることができました。

韓国南岸に新羅百済に属さない任那みまなと呼ばれる地域があり、そこに年貢を集めて和国へ運んでいたそうです。応神天皇の頃から任那に官家が置かれるようになりました。

下は4世紀末の朝鮮半島地図ですが、韓国の教科書に掲載された地図なので任那の表記はありません。半島南端の伽耶を含む海沿いの地域が任那であったようです。

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5世紀末になると高句麗が南下して、百済の首都が移動していきます。

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三国からの年貢が集まり、和国は栄えたといいます。平群王朝になってからの、古市、百舌鳥古墳群といった大阪平野の巨大古墳群は、その潤った財力のお蔭で造られたようです。

ところが平群王朝からオホド王(継体天皇。出雲富家次男)の蘇我王朝へ交代すると、韓国側が新王朝には年貢を受け取る権利がないと訴えてきました。あくまで神功皇后の血筋のものの権利だったからです。(実は応神、仁徳天皇ともに血縁ではなかったようですが)

 

磐井の乱

斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」から要約しますが、大筋は日本書紀に沿っています。

継体6年、百済任那の4県を欲しいと官家を通して言ってきました。和国の重臣たちは相談の上、了承します。大伴連と官家であった穂積守は百済から賄賂をもらったのだと噂されました。

これを知った新羅は和国に任那の割譲を求めますが、和国は断ります。

この頃の和国は邪馬台国時代と同じように、政府が筑紫にある振りをしており、都は太宰府だということになっていました。本当の都を敵国の侵攻から守るためです。朝鮮からの使節は筑紫の迎賓館止まりとなり、百済の人質も迎賓館に住んでいたそうです。中国との外交は敬遠し、皇帝の新任祝いだけ出席するようにしていたといいます。

筑紫国造は港の管理に留まらず、九州全国の租税徴収権と兵力動員権、外交交渉権も与えられていました。相当な権限をもっていたようです。

新羅筑紫国造の磐井に賄賂を贈り、任那の南加羅とトクコトンを奪います。それに対して朝廷は新羅から2県を取り戻すよう近江の毛野臣に命じました。

21年6月、新羅へ向かう毛野臣の大軍を、磐井が筑紫や豊国から兵を集めて遮ったので、毛野臣は朝廷に援軍を求め、物部連が軍を率いて九州へ向かいました。戦は翌年11月まで及び激戦となりました。日本書紀では物部麁鹿火アラカイに磐井が斬られたことになっていますが、筑後国風土記逸文には、磐井が豊前国上毛野県の山岳に隠れ、その後見つからなかったと記しています。

磐井の息子、葛子クズコ筑紫国糟屋の屯倉を献上して死罪を免れます。

毛野臣軍は任那に到着しますが、毛野臣は病死。後任として上毛野直が赴きます。この人は磐井の乱の時に磐井についた新羅の海岸を征服し、南加羅とトクコトンを奪い返し、任那に戻したそうです。

 

下の写真は福岡県八女市の磐井の墓とされる岩戸山古墳です。九州北部では最大級の前方後円墳。磐井の力を見せつけるようですね。

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写真の石人石馬はレプリカですが、古墳の周りに円筒埴輪を並べる代わりに石人と盾を60個ずつ並べ、古墳の円部先端に四角い造出しを造って裁判の様子を石人で表したとか。筑後国風土記逸文に記されています。また磐井は生前から墓を造っていたけれど戦にやぶれ放棄した、とも。磐井を取り逃がした官軍が石人の手を折り、石馬の首を打ち落としたそうですが、写真でもそのように見えますね。でも子孫はなぜそんな痛々しいものを放置していたのか不思議でした。ここにもし埋葬されなかったのであれば、わからないでもありませんが。

風土記の言うように物部麁鹿火に斬られたのではなく、豊前国に隠れてしまったのが本当であれば、いったいどこへ?

 

百済本記の示すこと

継体天皇扶桑略記によると531年に崩御されました。日本書紀には継体25年(531年)としつつも「ある書によると28年となっているが百済本記には25年となっている」と記されています。百済本記とは百済の歴史書三書のうちの一書で現存はせず、この日本書紀逸文のみ残っています。

百済本記には「日本の天皇、太子、皇子共に没した」という一文もあります。日本書紀はふたつの崩御年を前に、後世に調べ考える人が明らかにするだろうと締めくくっています。継体天皇崩御された年には太子、皇子ともに亡くなってはおらず、これもまた九州王朝の話ではないかと言われる要因のひとつですが、出雲伝承は次のように解説しています。

継体天皇となったオホド王は出雲富家の次男であり、越前国の三国国造、蘇我家の入り婿となりました。やがて北陸や関東方面の中心人物となり、大和朝廷から次の大王として白羽の矢を立てられます。

オホド王は蘇我家と離縁しますが、すでに二人の御子があり大和へ同行します。それが後の安閑と宣化天皇です。オホド大王は大和で平群王朝の血筋である手白香姫を后に迎え、広庭皇子(のちの欽明天皇)をもうけたので、ここに2つの系統、母が蘇我氏系と平群氏系の勢力が生まれてしまいました。 

 

出雲伝承では蘇我氏系の安閑、宣化天皇は暗殺されたと伝えられているそうです。確かに在位期間がふたりとも短く、2年と4年。

継体天皇が亡くなったのは531年であり、2年の空位後に安閑天皇が即位しました。この空位となった2年間とは、前王朝の血筋である広庭皇子が大王になることを求め、重臣がまだ若すぎるとなだめた2年だったといいます。

当時和国には百済王子が人質として住んでいたので、この暗殺事件を母国に知らせた可能性があるとのこと。先ほどの百済本記の引用を要約します。

「高麗軍が531年に任那の安羅を攻めて王の安を殺した。‥‥また聞くところによると、日本の天皇と太子と皇子が共に没した」

同じ年のことではありませんが、日本の皇室内で短い期間に続けて暗殺されたことを匂わしているのでしょうか。

また後日談として、宣化天皇の御子たちがこれを恨み、欽明天皇の古墳に復讐し、家族の墓を壊した跡が残されているそうです。本当に復讐だったかどうかはわかりませんが、そのような言い伝えが残る明らかな確執があったのかもしれませんね。

 

石川家と蘇我家

欽明天皇が即位すると先代の宣化天皇の娘が后となり、さらに石川臣稲目の娘2人を側室としました。こちらのほうがたくさんの子を産んだので、しだいに石川家が力を持つようになります。

この石川家と蘇我家のルーツは武内大田根(初代武内宿祢)の子孫、蘇我臣石河です。もともと河内の石川郡に地盤がありました。ここに残った石川家と、北陸方面に進出した蘇我家に分かれます。

話が前後しますが、継体天皇の大臣を務めた巨勢臣男人(この人もまた武内宿祢の子孫!)は男児に恵まれず、石川臣稲目を養子に迎えました。(宣化天皇の代で大臣となります)

大蔵の仕事も与えられ、租税の管理だけでなく官史の給料、その任命や昇任にも携わっていたそうです。この仕事は石川臣家の世襲となったそうなので、かなりの権力をもつことになったでしょう。

稲目の息子の一人が石川家を継いで石川臣麻古となり、この人が記紀によって蘇我馬子と名を変えられました。

記紀継体天皇応神天皇の子孫だとするために、蘇我家出身(血筋は出雲王家)であることを隠さなければなりません。けれど蘇我家はすでに名家であったため、石川家を蘇我家として誤魔化しました。

越前の蘇我家は斎木雲州氏の実家の親戚だそうで、その家人は「馬子の記事はすべて嘘であり、馬子、蝦夷、入鹿も架空の名前だと代々伝えられている」と言われたそうです。

 

多利思比孤のこと

もうひとつ隠されたことがあります。

推古天皇の両親は稲目(記紀蘇我稲目)の娘、堅塩姫と欽明天皇です。稲目は尾張国にも領地をもっていたので、孫である皇子は「尾治(尾張)皇子」と名付けられました。

604年(推古12年)に尾治大王が即位。冠位十二階や官史訓戒十七条(日本書紀では憲法十七条と変更)を制定した人です。

隋書に記された「倭王、多利思比孤」とは尾治垂彦タラシヒコだと伝承はいいます。隋の煬帝に「日出ずる所の天子が、書を日没する所の天子に送る」と書いた人です。この国書は607年に小野妹子が遣隋使(日本書紀では唐へ派遣)として持参しましたが、この時すでに上宮太子(いわゆる聖徳太子)は斑鳩に引退した後なので、太子が書いた可能性はないとのこと。

尾治大王は蘇我平群の始祖、武内宿祢の血筋であり、もとは紀伊国造家。始祖は高倉下なので父は五十猛。海アマ家です。

600年に隋の文帝に送った書には「姓は阿毎、字あざなは多利思比孤」とありましたよね。

続いて「倭王は天を兄、太陽を弟として、未明のうちに政殿で政治を行い、あぐらをかいて座っている。日が昇ればあとは弟(太陽)に任せる」という使者の説明がありましたが、原文を見ると「天未明時出聽政 跏趺坐」とあって、跏趺坐かふざとは坐禅(瞑想)の姿勢であり、「政マツリゴトを聽く」のこの「聽」の意味は目的をもって何も介さずに直接耳に入れるということなので、未明の天から何かを一心に聴きとろうとしている様子が浮かびます。

徐福は道教の星信仰によって、夜に山に登り天を拝んだといいます。多利思比孤の姿には星信仰と太陽信仰を感じたりもしますが、時代は仏教の流れですので、文帝が「それは道理のないことだ」と倭王を諭して改めさせた、というのも頷けます。

それにしても「尾治大王って誰?!」のレベルですけど‥‥。

推古女帝を中心とした皇位継承の血生臭い策略の果てに、歴史の表には上宮太子が華やかに描かれ、その陰に尾治大王が隠されてしまったようです。上宮太子の御子ふたりが出雲へ赴任したために、都の中枢部の状況が旧出雲王家に詳しく伝わっているということです。とてもややこしい話ですのでまた改めて。

(九州王朝説では、この多利思比孤が大和王朝の大王には当て嵌まらないため、隋と国交を開いたのは大和王朝ではないと指摘されています。)

 

とても長くなりましたので、宗像一族については次回にします。