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源流なび Sorafull

古代淡路島と平群王朝

皆さまから頂くコメントが、少しずつ手元に溜まり、何度も読み返しているうちに自分の中の情報やイメージと交錯し、思わぬ扉を開けることがあります。

今回はそのひとつを紹介させて頂きます。

T様は古代の淡路島の情報をよく教えて下さいます。その中で次のようなお話がありました。

地元の伝承として、淡路島の旧津名郡小井には古来、清水が湧き出ており、皇室ではこれを御井おいの冷水(霊水)」と称えて毎日船で乗り付けて樽に組み入れて持ち帰り、天皇の御膳や重要な儀式等に使われていたと伝えられているそうです。調べてみると古事記仁徳紀に記されていました。毎日朝に夕にと汲みに来ていたとあります。大阪(難波)からですよ。ただ事ではないですよね。

 

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淡路島はイザナギイザナミの国生み神話の中で、最初に創られた島です。そしてイザナギが余生を過ごした場所でもあります。それが多賀にある伊弉諾いざなぎ神宮とされていますが、元の幽宮かくれみやとして淡路島北端の石屋いわや神社のそばの洞窟だという説もあります。神功皇后三韓併合の戦勝祈願に訪れています。

また島からは銅鐸、銅剣がたくさん出土し、鉄器の製造所跡が見つかったりと、なかなか賑やかな場所なのです。2015年に南あわじ市で出土した松帆銅鐸7個は銅鐸の中でも古いタイプであり、最古型がひとつ、そして出雲の加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した銅鐸と同じ鋳型で作られたものが各々ひとつずつあるそうです。年代は紀元前4~2世紀頃。

国生み神話の初めに描かれるだけの理由がありそうに思えますが、ところが出雲伝承では淡路島に関しては、第2次物部東征の後にタジマモリが淡路島へ逃げたという話くらいしか見当たりません。古代出雲の連合国は香川や播磨にも及んでいたので、淡路島が含まれていてもおかしくはないですけれど。

 

記紀で淡路島が描かれるのは、イザナギのあとは応神天皇から允恭天皇の期間です。

応神-仁徳-履中-反正-允恭-安康-雄略

この中から倭の五王とするのが定説となっています。ただし応神と仁徳天皇記紀の中で重なる逸話が多く、同一人物の事績をふたりに分けた可能性もあると言われています。出雲伝承では神功皇后没後の応神天皇は、かろうじて政権を保持していたと伝えています。そしてこの三者に血縁関係はないようです。

 

応神の代で安曇族が海人の統率者となります。淡路島の海人をまとめていたようです。

履中元年、安曇連浜子が住吉仲皇子スミノエノナカツミコのために天皇暗殺を謀ったことでその地位を剥奪されます。その際刺客となった賊が淡路島の野島の漁師でした。

允恭天皇の時、日本書紀に次のような話が描かれます。

天皇が淡路島へ狩りに出掛けましたが獲物が全く獲れません、占うと島の神(イザナギ大神)が現れ、「赤石(明石?)の海の底に真珠があるからそれを私に供えて祀れ」と言われました。海人を集めて潜らせたけれど深すぎて誰も底に着くことができません。そこで阿波国の長邑ながむらの男狭磯おさしという海人に潜らせると、真珠を採ることには成功しましたが、男狭磯は息絶えます。狩りはお告げの通り大猟となり、男狭磯は厚く葬られ、今もその墓は残っているということです。※赤石は徳島(阿波国)の海沿いにもあって、すぐ南に那賀川が流れています。

T様によると地元伝承では、そのお墓が石の寝屋いわのねや古墳だと伝えられているそうです。それから「天皇が狩りに出掛ける」とは、軍事訓練や軍事行動を意味すると言われます。また長邑の男狭磯を「長尾某」とT様は書いておられ、そこから大和大国魂神社の祭主、市磯長尾市イチシノナガオチ倭国造)を連想されています。この長尾某というのがどこに記されているのか見つけられなかったので、長邑の男狭磯として見てみますが、確かに長・男(尾)・磯(市)、男狭おさは長おさと同じです。とても似た名前です。そして淡路島には二宮として大和大国魂神社があります。

市磯長尾市は建位起命タケイタテの子孫であり椎根津彦シイネツヒコ(宇豆彦ウズヒコ。倭氏の祖)の7世孫です。過去記事に何度も書きましたが、建位起命は五十猛命と重なります。椎根津彦は村雲命に。大和大国魂神とは五十猛のことのようです。(日本書紀では天香具山には大和の国魂が宿ると記され、出雲伝承では香語山の御魂が祀られているとのこと。初代大和大王の村雲でもあるように思いますが。)さらに淡路島の海人を統率していた安曇氏とは親族。

また淡路島の地図を見ていると、やたらと大年神が多いことが気になっていました。そして出雲伝承の新刊「出雲王国とヤマト政権」を読んでいると、五十猛は丹波で香語山と名を変える前に、出雲で大年神の信者となり大年彦と名乗ったとあるではないですか!(大年神とは幸の神の正月祭りの神)

住んでいた島根の大屋には大年神社が建てられたそうです。それで調べてみたところ、大年神社は播磨に密集しています。Yahoo!地図で数を調べた方がおられ、全国427社のうち280社が兵庫県にあるそうです。地域性が強いですね。播磨には播磨国総社、射楯兵主イタテヒョウズ神社があります。射楯神は五十猛、兵主神は古代斉国(徐福の故郷)で信仰された八神のうちの蚩尤シユウ、戦の神です。西方を守る武神なので、村雲は三輪山の西方にある穴師の地に射楯兵主神社(現在は穴師坐兵主神社)を建て、父を祀りました。これがのちに播磨国の八丈岩山に分遷されたそうです。現在は移されています。(兵庫の名前はここから来ているのか?)

淡路島には古代出雲との交流と、次に海部氏(倭氏)、安曇氏が深く関わっていたようです。

 

脱線しますが、 大年神について古事記では、スサノオ大山津見神の娘、神大市姫の息子とし、宇迦之御魂神(秦氏の祀る穀物神)とともに生まれています。たくさんの神をもうけますが、系譜しか記されていません。一般にはお正月の神であり穀物の実りの神として祀られています。丹後風土記(残欠)にも、五十猛が丹波地方に稲作を広めた様子が描かれています。

大年神の親神をみると、五十猛の両親である徐福と高照姫が重なります。御子神の中には大国御魂神がいたり、韓神や曽富理ソホリ神といった新羅から来たような名があったり、白日神という筑紫神(白日別神)を思わせる名や、香語山をもじったような香山戸カグヤマト臣神などもみられます。古事記には五十猛はまったく現れませんが、ここにいるぞといわんばかり。それにしても五十猛は変幻自在というか、多方面のご利益がありますね。

木の神、植樹の神、穀物の実りの神、船の守り神(射楯神)、音楽の神、製鉄の神、武神、筑紫神。山も平野も海も芸術も戦も制覇しています‥‥。

地域をみても筑紫地方から石見、丹波紀伊、大和、播磨、淡路。きっとまだ他にもあるでしょうね。

どれだけ日本の発展に貢献した存在なのかと溜息が出そうです。混乱を生んだとはいえ、徐福は大陸の文化を日本へ持ってくるという大きなきっかけを作った人であり、それを実際に広め、定着させた最初の人が五十猛なのではないでしょうか。

 Sorafullはこの「五十猛」という謎めいた人物を探す旅をしているのかなと思うことがあります。

 

平群王朝の皇位争い

話を戻しますが、履中天皇を暗殺しようとしたのが安曇氏であり、その理由が天皇の弟、住吉仲皇子スミノエノナカツミコのためということでした。日本書紀には仲皇子が倭直吾子籠ヤマトノアタイノアゴと親しかったと記され、クーデターの際にも最初は仲皇子を助けようとしたけれど、途中で天皇側に寝返ったことが描かれています。天皇采女を差し出すことで許されました。

香語山-村雲(倭氏の祖)‥市磯長尾市‥倭直吾子籠

仁徳天皇の4人の皇子のうち、仲皇子だけが後継者になれませんでした。記紀では4人とも摂津の住吉大社を建てたソツ彦王の娘の子です。出雲伝承ではソツ彦王とは武内宿祢の子孫であり、もと日向水軍のソツ彦王。神功皇后の実質的な夫であり、三韓併合の最大の功労者です。記紀では武内宿祢として描かれています。

大和へ凱旋し摂津国住吉大社を創建して住吉三神を祀った後、葛城地方へ移って葛城(長江)ソツ彦王となった人です。ところがこの後に権力を握るのがなぜか親戚の平群ツク王なのです。出雲伝承ではツク王もしくはその子孫が仁徳天皇だといいます。このツク王が三韓から得た年貢を保管していた紀伊国の倉庫管理をしていたところ、しだいに力をつけていったようです。

ここでT様が面白いことを指摘されています。以前の記事で仁徳天皇は大雀オオサザキと呼ばれるけれど、サザキの由来はスズメ目の小さな野鳥、ミソサザイ。それに大とつけるなんておかしな名前だと書いたところ、T様より「もとは小者(スズメ)だったのが、倉庫の糧をツツク(横領)うちに肥太り、大きく羽ばたいて大王になった事を暗喩しているのでは?」とありました。なるほどですね。

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この古代大阪湾の地図は国土交通省のものをお借りしています。小さいのでぼやけますが、古代の河内平野は湖のような入海でした。下の図は仁徳天皇が堀江の治水工事をした説明図になります。

住吉大社は住吉浜にあったので、もとは海が目の前となります。このすぐ南に仁徳天皇陵といわれる大山古墳があります。海から見る巨大古墳群は圧巻だったでしょうね。

仁徳天皇の高津宮は堀江のそばにあり、長男の履中天皇オホエノイザホワケの名前から、大江(堀江の近く)に支配地があったと思われます。次男がスミノエ、三男がタジヒノミヅハワケで丹比(住吉浜の東南)、四男がオアサツマワクゴノスクネで朝妻(葛城山の近く)とわかりやすいですね。

平群王朝以降、身内の皇位争いが激化し、兄弟間の殺し合いの連続です。さらに仁徳天皇の后も嫉妬深いことから次々と騒ぎを起こしますが、かなり権力ももっているよう。この后はソツ彦王の娘であり、夫への嫉妬とは記紀の見せかけであり、別の意図があるような気もします。

ソツ彦王も平群ツク王も同じ武内宿祢の子孫で、出雲伝承によると皇位を横取りされた感のあるソツ彦王の子孫は、平群王朝にたびたび反乱を繰り返していたと伝えられています。

履中天皇暗殺計画もそのひとつを示しているのでしょう。もしかすると住吉仲皇子だけがソツ彦王の血を受け継いでいたのかも。住吉大社とも関係がありそうです。

仲皇子のクーデターは失敗に終わり、加担した安曇氏も力を失います。仲皇子の配下に安曇氏がいて、水軍を支配していたと思われますが、もともと安曇氏の祖神は綿津見三神(志賀の大神)であり、住吉三神綿津見三神の発展したものと言われています。仲皇子と安曇氏は近い関係だったのかもしれません。水軍同士ですしね。

そして四男の允恭天皇と海人の男狭磯の不思議な話は、平群王朝が海王朝の子孫である倭氏、親族の安曇氏、そして葛城ソツ彦系を従属し、水軍を掌握したことを示すエピソードと読めないでしょうか。

最初に紹介した仁徳紀の「御井の冷水」については、もしかすると平群王朝が淡路島へ勢力を広げようとしていたということなのかな、とまで思ってしまいました。応神(仁徳?)天皇の代から淡路島へ狩り(軍事行動?)に出掛けていたようなので。

 

最後にもうひとつ、T様より教えて頂いた情報を紹介します。

大阪の住吉大社から見て、神戸市東灘の本住吉神社夏至の日の入りの方角のランドマークであり、同様に住吉大社から見て、淡路島の洲本市の古茂江海岸にある住吉神社冬至の日の入りの方角にあたるということです。

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神戸の本住吉神社は大阪の住吉大社の本源だと主張されています。Sorafullも日本書紀に描かれた内容からいくと、こちらが先ではないかと思うのですが、夏至冬至の日の入りに関わるのだとしたら、大阪の住吉大社がもとということになりそうですね。

日本書紀では神功皇后紀伊から難波に向かう途中に船が進まなくなり、武庫の港に還って占いをしたところ、住吉三神が現れ「我が和魂を大津の渟名倉の長峡に祀れ」と告げたので、そのように祀ったとしています。この大津の渟名倉の長峡が不明なのでいろいろな説があるようですが、そもそも難波に行けなかったのだから、すぐそばの大阪の住吉大社に祀るというのは無理な話です。なので武庫に近い東灘の海辺に本住吉神社を建てたと考えるほうがスムーズかなと思っていました。でもこういったエピソードは後付けのこともありますので。

 

それからこの位置関係を調べている時に気づいたのですが、東灘区岡本の山に建つ保久良神社が、淡路島の住吉神社本住吉神社を結んだ線上にあるんです。

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この保久良神社というのはなかなか不思議な神社で、巨大な磐座がたくさん境内外に並んでおり、古代の祭祀場だったようなのです。ストーンサークルとも言われています。石器時代から弥生時代後期の遺物まで出土しています。

神社は椎根津彦(宇豆彦)が主祭神。古代より「灘の一ッ火」と呼ばれる常夜灯が点る灯台で、ヤマトタケルもこの灯火によって難波へ帰ることができたと記されています。

淡路島の住吉神社の社伝によると、白髭の老人が現れ「吾は住吉明神である。此処に永久に鎮座しようと思う。よろしく祀るべし」と告げたそうです。(T様より)

海部氏の椎根津彦(宇豆彦)と安曇氏の綿津見神(のちの住吉三神)の繋がりを思うと、この保久良神社の灯火が淡路島の住吉神社へと、まっすぐに明かりを届けているのかなと、そんな空想も浮かんできます。

 

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 T様より頂いた情報をもとに、今回いろいろと調べたり考えたりすることで、深まるところが多々ありました。ありがとうございました! 

 

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新刊「出雲王国とヤマト政権」と系図について

令和の時代がスタートしましたね。

上皇さまご夫妻のにこやかなお姿も少しだけ拝見でき、今も言葉に尽くせぬ感謝の想いが溢れます。

天皇皇后両陛下はこれまで以上に凛々しいご様子で、新たな時代の瑞々しさを感じずにはいられません。上皇さまご夫妻が繋いでくださった令和の時代が、両陛下のもと、和やかな笑いに満ち、たくさんの花を咲かせ続けますように。

 

昨日は「斎田点定の儀」が行われ、11月の大嘗祭で神々に献上するお米を育てる地方(東の悠紀と西の主基)が決まりました。栃木県と京都府です。

儀式ではアオウミガメの甲羅を用いる古来の占い、亀卜きぼくが行われました。甲羅を24㎝×15㎝、厚さ1㎜ほどの五角形(駒形)に加工し、表に溝を彫っておきます。それを波波迦木(ウワミズザクラ)の小枝をくべた火にかざし、ヒビの入り具合から地方を決定するそうです。昨夜のNHKニュースの説明では、火にかざしながら少量の水をかけていたようでした。(儀式は非公開です)

この波波迦木は古事記の天の岩戸開きにも記されています。天香具山に棲む男鹿の肩甲骨を、同じく天香具山に生える波波迦木の火で焼いて占うとあります。太占ふとまにですね。日本ではもともとこの太占が行われており、のちに中国、殷の亀卜がそれに替わりました。出雲伝承はこれらの占いについては語られていません。

ちなみに天香具山は記紀では霊山、聖なる山の扱いです。出雲伝承では天香語山命五十猛命)が祀られており、祀ったのは息子、初代大和大王の天村雲命としています。村雲は大和地方で稲作を広めた指導者です。

昨日の亀卜に使われた波波迦木も、天香具山のものでしょうか‥‥。

 

今回、宮内庁は希少なアオウミガメの甲羅の確保に1年半も前から奔走し、保全活動をしている東京都小笠原村に協力を依頼したそうです。一定量の漁が認められている中から確保したとか。さらには甲羅の加工職人の選定も慎重に行われたといいます。今や専門業者などいないのですからね。東京都のべっ甲職人の方に決まりましたが、普段はタイマイという亀を加工しているために苦心なさったようです。

亀卜は現在皇室と、長崎県対馬で地域の1年の吉兆を占うために行われているのみということです。このような遥か古からの占いが、今もって密やかに行われ、そのニュースが手の中のスマホに流れてくる。なんというか、めまいがしそうなほどファンタスティック。

 

さて、「令和」について少し。

国文学者の中西進は次のような話をされています。

大伴旅人大宰府の帥になったのは、藤原氏が一族の光明子聖武天皇の后にするために邪魔な旅人を左遷したからであり、さらに藤原氏左大臣長屋王を自害に追いやったのだと。(藤原不比等の息子らの代です)そんな中、旅人は藤原氏に書状とともに琴を贈りました。書状には「あなた方は私の軍事力を気にしているけれど、私は役に立つつもりもなく、反対にあえて戦いを望んであなたと対峙することもありません」と記されていたそうです。琴とともに送り付けたとは、カッコよすぎではないですか!

この背景を知った上で梅花の宴の序文を読むと、人の世の悲しみの中から静かに立ち上がる覚悟のようなものを感じます。それは決して折れそうな硬さではなく、やわらかで聡明さに満ちた覚悟です。

初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす

対立するふたつの勢力がある時、戦いと屈服のふたつの選択肢以外に、必ず第三の選択肢があるはずだと中西氏は言われます。それを世界に示すことができるのが日本であり、日本の務めであると。

そして万葉集が編まれた天平の時代は多くの渡来人がやってきた時代でもありました。様々な混乱を乗り越えて平和を築こうとする中で、美術や文学などの文化が栄え、平和への祈りや様々な人の偽らざる歌声が万葉集となったのだということです。令和の時代は万葉の祈りを実現する役割があるとも言われます。

万葉の祈りと言われても、少し前の自分ではピンとこなかったと思います。でも古代を自分なりに探る中で、祖先たちの祈りが私の中にも受け継がれていると感じるようになりました。天平の時代よりもずっと昔から、連綿と。この国は特定の宗教を超えた、祈りの国ですね。

 

待ちに待った新刊!

先日S様より大元出版から新刊が出ていることを教えて頂きました。ずっと待っていた本でした!

2年ほど前になりますが、絶版となっている斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」の再版について出版元に問い合わせたところ、タイトルは変わるけれど同じような内容で新刊を書いている人がいるので、2年ほどお待ちくださいとのお返事を頂いておりました。首を長くして待っておりましたが、このところサイトを調べるのをさぼっておりましたら、すでに発売されていたとのこと。

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 「出雲と大和のあけぼの」よりページ数もかなり増え、内容も詳しくなり、とてもわかりやすいです。第1次物部東征までですが、これまでの大元出版の出雲伝承をまとめた充実感があります。さらに新たな内容も加わっていて、例えば先ほどの大嘗祭で建てられる悠紀殿・主基殿の由来についての解説もあります。字が大きいことも有難い!ぜひ本を取り寄せてご覧になって下さいね。

またこの新刊に掲載されている出雲王家と親族関係の系図では、かねてから疑問であった「高照姫が富家と神門臣家のどちらの出身なのか問題」について、新刊では神門臣家の八千矛(大国主)と多岐津姫の娘であると示されています。「出雲と大和のあけぼの」に掲載された系図では、富家の天冬衣と田心姫の娘となっていました。本文の中でも両方の記述があったため、とりあえず系図をもとに書いてきましたが、今回の「出雲王国とヤマト政権」は斎木氏も確認されていると捉え、今後はこの系図を参考にさせて頂くつもりです。過去記事は順次訂正を加えていきます。

このことについてもご指摘下さったS様、ありがとうございました。

 

参考までに、この記事の後半に高照姫の出身問題について書いています。

 

 

 

三種の神器~出雲伝承より

まもなく平成から令和へ、皇位継承の儀式「剣璽けんじ等承継の儀」が行われます。西欧風に言えばレガリアですね。まるでおとぎ話や映画のような厳かな儀式が2000年を超えて今に受け継がれている、そのことに深い神秘を感じてしまいます。

 

草薙剣くさなぎのつるぎ

八尺瓊勾玉やさかにのまがたま

八咫鏡やたのかがみ

 

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写真はイメージ像ですが、皇位継承の儀式といえばこの三種の神器の継承かと思っていました。ところが剣と勾玉、ふたつの継承なのですね。他に印章の国璽と御璽も。

現在鏡は伊勢神宮内宮にあり、皇居の賢所には形代(レプリカではなく神の依り代として御魂遷しを行った神器)が保管されています。ところが剣も形代であり、実物は名古屋の熱田神宮に祀られています。勾玉は古代のものだということです。どうして鏡だけこの儀式から外されたのかはわかりません。形代とはいえ、皇祖神である天照大神自身とされる鏡ですので、簡単には持ち出せないということでしょうか。

ちなみに皇室の方でさえ神器を目にすることは許されていないので、箱の中身は誰も知らないことになっています‥‥。

さて、この三種の神器について、出雲伝承ではどう伝えているかを紹介したいと思います。

 

天叢雲剣から草薙剣

草薙剣記紀ヤマタノオロチの話に描かれています。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチを斬り刻んでいくと、尾のところで剣の刃が欠け、体内から霊剣が現れます。あまりの神威に驚いたスサノオは、高天原のアマテラスに献上。そしてニニギノ命が天孫降臨する際に三種の神器のひとつとして渡されます。

その後、東方遠征するヤマトタケルの話の中で、大和姫から草薙剣が託されますが、日本書紀では「もとは天叢雲剣あめのむらくものつるぎという」と記されています。中国史書の宋史にも「日本の年代記によると、初めの主は天御中主あめのみなかぬし、次が天村雲尊あめのむらくものみこと」と書かれています。わざわざ記すぐらいですから、かなりの意味があると思われます。けれどどういった存在かについては触れられていません。

ヤマトタケルの死後、剣は妻のミヤズ姫と尾張氏尾張国で祀ることとし、それがのちの熱田神宮であるということです。

 

出雲伝承によると、叢雲剣は海村雲あめのむらくもが大和の初代大王になられたお祝いに、出雲王が贈った銅剣だそうです。村雲は出雲王家の姫を后としました。つまり親族同士です。下図は斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」に掲載された系図をもとに、事代主を中心としてまとめた一部です。文中には向家伝承などによる出雲王家と親族の系図だと説明されています。

【2019.5.18.改定】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」に示された系図等に沿って、高照姫は神門臣家の八千矛王の娘と変更致します。また、海御蔭と神八井耳も変更されています。

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徐福とは火明命でありニギハヤヒノ命です。天村雲は徐福と出雲王家(宗像氏)の血筋の姫たちとの間に生まれていますね。そして后は事代主の娘であるタタラ五十鈴姫です。

ヤマタノオロチの話では、出雲国の始祖となるスサノオが出雲の肥の河(簸の川)でオロチを退治しますが、オロチとは出雲族の神、龍蛇神であり、それを斬り殺すことはあり得ません。記紀の製作者はあえてあり得ない話を書くことで矛盾を示し、スサノオは始祖ではなく侵略者であることを匂わせたのかも?

八岐大蛇ヤマタノオロチとは、砂鉄を産する八つの支流をもった斐伊川を例えていると考えられます。出雲族が出雲に住み着いたのは、そこに黒い川があったからだと伝承は伝えます。川底に溜まった砂鉄が黒く見えるそうです。斐伊川出雲族にとっては鉄を産む聖なる川であり、それをオロチとして侵略者が斬ると、体内から霊剣が現れるという話はこれらを見事に象徴しているように思えませんか。古事記はオロチの描写を「目は赤く燃え、腹は爛れていつも血を流している」とし、スサノオが切り刻んだあとには肥の河は血に変わったと記します。鉄を作る野だたらの燃え上がる火のイメージでしょうか。ちなみに「たたら」とはインド語で「猛烈な火」という意味だそうです。

さて、海王朝が二代で終わり、出雲系の磯城王朝になってからは、叢雲剣は尾張家が持っていて、磯城系の大王には渡さなかったといいます。(村雲は葛城の高尾張村に住んだので、親族は尾張家と呼ばれました。)

その後、剣は熱田神宮に移し、八剣社に神宝として奉納されたそうです。ヤマトタケルとは関係ないとのことです。斎木氏はヤマトタケルが相模の国で国造によって野に火をつけられた時、叢雲剣で草を薙ぎ捨て(草薙剣の由来)焼け死ぬのを防いだ話の中で、地名が焼津となっているけれど、焼津は相模国ではなく駿河国だと指摘しています。古事記の作者はわざと地名を間違え、これが作り話であることを示そうとしたのではないかということです。

668年には叢雲剣は新羅の僧によって盗まれ、その後、天智天皇から天武天皇へと渡りました。ところが天武天皇が病に倒れたため剣の祟りとされ、684年に皇居から熱田神宮に返されます。その時この剣を見た人が、古い出雲型の銅剣だったといったそうです。Wikipediaで調べたところ、熱田神宮に返される前に奈良県天理市の出雲建雄神社に奉斎されたそうなので、その時の話が伝わっているのかもしれません。

また江戸時代に熱田神宮宮司らが盗み見たという記録があり、長さは85㎝ほどの両刃の白銅剣、刃先は菖蒲の葉のようで、中ほどは盛り上がっていて、元から18㎝ほどは魚の脊骨のように節立っていたということです。

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写真は荒神谷遺跡で出土した銅剣ですが、長さは50㎝ほど。魚の脊骨というのはみられませんが、菖蒲の葉というところが出雲の細型銅剣を思わせます。ちなみにこれを盗み見た宮司は流刑となっています。叢雲剣にまつわる歴史的エピソードは他にもたくさんあります。

日本では刀は権威の象徴でもあり、また精神性や芸術性も含まれるように思います。叢雲剣はその大元となる存在ですが、何より宗教性が強いですね。見てはならないということも、よけいに心を揺さぶるのでしょう。2000年という時間の中で、その神威が人々を翻弄し、今もなお謎に包まれた神秘的な存在といえそうです。

 

さて、伝承によると海王朝から叢雲剣をもらえなかった磯城王朝では、勾玉の首飾りを王位継承のシンボルに使ったといいます。この勾玉の首飾りというのは、出雲王国時代、王族と王国内の豪族だけがつける決まりとなっていて、身分を示すものでした。勾玉は胎児の形をしているため、子孫繁栄の象徴でもありました。

 

最後に八咫鏡についてですが、出雲では特に伝承は残っていないようです。鏡は中国の道教の信仰であり、九州の物部勢力が広めたと考えられます。つまり徐福系ですね。

「八咫やた」というのは多い、大きいという意味ですが、実際に長さを推測した一説によると直径46㎝ほどになるとか。国内で最も大きい鏡が、九州糸島半島の平原遺跡(2~3世紀)から出土したもので、直径46.5㎝の大型内行花文鏡(八葉)です。古代の伊都国ですね。三国志の魏書に伊都国の長官として「爾支ニギ」という名が記されていますが、始祖ニギハヤヒの名を使っている可能性が高いです。

神道五部書によると、八咫鏡の模様は八葉八頭花崎形とされていますが、書自体の真偽は不明だそうです。

実際に平原遺跡で写真の内行花文鏡を見たことがあります。大きさにも驚きましたが、それまで目にした鏡とは違って、とてもシンプルでありながらそのデザイン的な美しさに心を奪われたのを覚えています。

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村雲の子孫である丹後の海部氏の伝世鏡二面(前漢後漢時代のもの)も内行花文鏡ではありますが、直径が9.5㎝と17.5㎝なのでかなり小さいです。

海部氏には宗像三女神(三姉妹)のうち二人が関わっています。多岐津姫は海香語山の祖母。下の系図にはのっていませんが田心姫の孫娘、タタラ五十鈴姫は海村雲の后となります。

【2019.5.18.改定】高照姫は神門臣家に変更しています。

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もう一人の市杵島姫は徐福(火明命、ニギハヤヒノ命)の后です。徐福は吉野ケ里に住んだということなので、市杵島姫は丹後ではなく九州にいたことになります。筑前国風土記逸文に、宗像大社辺津宮八咫鏡依代としていたと書かれています。内行花文鏡かどうかはわかりませんが、辺津宮といえば現在は市杵島姫を祀っています。(時代によって祀る姉妹が変わるようです)

そして三種の神器八咫鏡が祀られているのが伊勢神宮の内宮。東征を果たした物部イクメ(垂仁)の娘、大和姫が天照大神(そのご神体が八咫鏡)を伊勢に祀ったとされています。物部の祖先は徐福と市杵島姫の子であるホホデミ。なのでその鏡は市杵島姫に繋がる可能性が‥‥。

日本書紀では八咫鏡の別名を真経津鏡まふつのかがみとしています。フツ(経津、布都、布津)といえば布都御魂ふつのみたまの剣。物部氏氏神である石上神宮のご神体です。葦原中国の平定や神武東征を勝利に導いた霊剣です。ここには布都斬魂剣ふつしみたまのけん、別名十握剣とつかのつるぎも祀られています。ヤマタノオロチを退治したスサノオの剣のことですね。なのでフツといえば徐福、物部系を指すようです。

 

ちなみに出雲伝承では伊勢に祀ったのは三輪山の太陽の女神のご神体であるといわれています。このあたり、ほんとにややこしいです。第一次物部東征後、出雲と大和は銅鐸祭祀を止め、三輪山の司祭者であったモモソ姫(ヒミコのひとり)が物部と協調したことで、大和の磯城王朝は物部の道教的祭祀と融合したといいます。鏡を使い始めたわけです。出雲側はそもそも三輪山に籠る太陽の女神を祀っていましたが、それが物部の鏡と融合して、のちの天照大神のご神体となったということでしょうか。ちょっと大雑把な気もしますが。

 

 

さて、あれこれと考察を重ねてきましたが、三種の神器の由来も出雲伝承に従えば、草薙剣(叢雲剣)は出雲王家から海王朝へ贈られたものであり、勾玉は出雲王朝から磯城王朝へ伝統が受け継がれ、そしては物部王朝に始まり磯城王朝と融合。つまり古代日本を形作ったそれぞれの王朝の文化、エッセンスが集まり、皇室の核をなすものとして今なお大切に受け継がれているということになります。まさに和の国ですね。

もちろんそこには戦いの歴史もあります。矛盾を孕みながらも調和を求め続ける人々の営みとともに、これらの神器は沈黙の中で息づいているように思えてきました。

 

いよいよ30日には退位礼正殿の儀、翌1日には剣璽等承継の儀が行われます。すべての人にとって佳き日となりますように。

 

 

 

夫婦像と祈り

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天皇陛下の御退位が近づき、連日のように天皇皇后両陛下のご様子がテレビで報道されています。おふたりの寄り添うお姿を拝見するたびに、Sorafullの胸には道端に静かに佇む石造りの夫婦像が浮かびます。

上の写真は室町時代以降に信州や関東地方でたくさん作られた道の神、さいの神の夫婦神像です。なぜ道端に立っているかというと、村に悪いものが入らないようにと守ってくれているからです。

 

「幸さいの神」は今から3500年ほど前にインドから日本列島に渡来した出雲族の信仰です。信仰といっても、祖先神の集合体を尊び、子孫の幸いを守ってもらう素朴なものです。男女の縁を結び、夫婦円満と子孫繁栄へ導く神さま。クナト大神と幸姫命さいひめのみことと呼ばれました。のちのイザナギイザナミの原型にあたります。日本初の人格神ですね。

紀元前6世紀から700年続いた出雲王国が滅ぼされ(いわゆる神武東征)、のちの記紀に描かれた新しい神さまたちの登場とともに、縄文時代から続く幸の神は忘れられていきました。忘れられたとはいっても、お正月の習わしなど至る所にその名残はみられますので、もとの形、由来を忘れてしまったといったほうがいいかもしれません。

縄文信仰は夫婦が仲睦まじく、子宝に恵まれることを祖先神に願いました。当時の平均寿命は14歳と推定されているので、周産期~乳児死亡率の高さが伺われますし、種の存続に直結することでもありますから、その願いは当然でしょう。ですが現代においても、仲の良い夫婦の姿というものは本当に尊いものに思えます。愛する者同士が互いを尊重し合い、助け合い、長い人生を共に生き抜いていく姿に、私たちは感動を覚えるのかもしれません。今の両陛下のお姿には神々しさすら感じてしまいます。

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出雲王国時代には春と秋の2度、マツリゴトと呼ばれる大祭が開かれ、各地の豪族が集まりました。規則などを決める会議を主催する王と、祖先神を祀る后が司祭を務めます。いわゆるヒミコの時代にみられるヒメ・ヒコ制(政祭一致)の始まりです。古代は母系家族制だったので、男女は対等にそれぞれの役割を果たしていました。やがて男性に権力が集中するようになり、祭祀においても女性から男性へとバトンタッチしていったようです。なので現在、天皇のお仕事の最重要事項が実は祭祀であるというのは、ヒメ・ヒコ制が終わったことによる流れと思われます。

第二次大戦後はGHQによって祭祀は公務から外され、私たちの目に触れることはなくなりましたが、陛下は皇室の私的行事として、日々国民の安寧と幸せを祈って下さっています。このことは御退位を表明されて以降、ようやく取り上げられるようになりましたが、「祈り」によって国を導くというのは、古来より続くこの国の在り方です。陛下は特に古代の祭祀をそのまま継承することに力を尽くしてこられたそうです。その重要性に共感しつつ、お体の負担を思うと胸が詰まります。御退位されたあとにどうかお疲れがでないようにと、今多くの人々が願っていることと思います。

以前の記事で元日の祭祀について紹介しましたので、抜粋します。

 

『祈りの役目といえば日本の天皇と同じですね。天皇のお仕事は本来、祭祀ですから。最近になって天皇陛下の激務がニュースになりましたが、実際は公的なお仕事の他に私たちの目に触れないところで、日々国民のために祈りを捧げておられるのです。元日の早朝より行われる四方拝では「この世で起こる様々な困難、苦しみは、必ず我が身を通過してください。すべてこの身が引き受けます」と天地四方の神々へ祈られます。私たちが新年に互いの幸せを祈っている時に、陛下はすべての苦しみを引き受けると祈っておられます。それが形だけではないことは、御公務の内容を知れば感じられると思います。

民の苦しみを陛下のお体を通して清め祓って頂くというのは、あの大祓詔おおはらえのことばと重なりませんか。祓戸四神の連携によって、すべての地上の罪や穢れは川から海へと持ち運ばれ、それを沖で呑み込んだ神は海底から地底へと吹き払い、それらを地底で受け取った神はいずこへか持ち去って浄化し消滅させて下さる。一神教の神様は人の犯した罪を裁き、許すという上下の関係ですが、八百万の神々は人が生きている以上生み出される罪や穢れ、自然の猛威による苦しみを身をもって引き受けてくれる包容力を感じます。その神々と直接繋がっているとされるのが天皇なのでしょう。』~訂正のお知らせ&安曇磯良と五十猛⑴より~

 

誰かが自分の苦しみを思い、祈ってくれていると知ると、命を人生を大切にする勇気が芽生えます。災害の地で人々が両陛下の慰問によって涙する姿を目にするたびに、心から祈るという行為の重みを感じずにはいられませんでした。

これからの両陛下の過ごされるお時間が、どうか穏やかでありますように。心からの感謝とともにお祈りいたします。

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万葉歌の由来

さて、まもなく令和の時代を迎えますが、この「令和」の出典である万葉集も、インド由来という驚きの説があるんです。 

 

詳しくはこの過去記事を読んで頂ければと思います。

五七五七七という珍しい和歌の形式は、日本と南インドタミル語の古代詩にしか存在しないそうです。しかもその詩集の中で描かれた占いが、万葉集にも「夕占ゆふけ」として繰り返し出てくるんです。室町以降は辻占と呼ばれ、現代ではフォーチュンクッキーとして形を変えています。面白いですね。

出雲族が伝えた占いだとすれば、縄文時代から続く占いだったわけです。

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それと万葉集には恋の歌がたくさんありますが、当時の母系家族制を知らなければ、歌の意味がわからないようです。古代の庶民たちは現代のように夫の家に妻が入るのではなく、女性が実家を継ぐ形なので、男性は通い婚です。例えば月夜の明るい夜にしか通えないために、夫を待つ妻の切なさが月とともに歌われたりするわけです。他にも男性を選ぶのは女性なので、売れ残ることを悩むのは男性であるとか、さらには子ができなければ女性は離縁して若い男性と再婚するというのも日常的にあったようで、白髪になるまで添い遂げる夫婦は珍しいために、縁起ものとして高砂の翁と姥の話や人形が人気になったといいます。時代背景や当時の暮らしを知るというのは大切ですね。

令和をきっかけに万葉集が見直されているようです。Sorafullもこれから少しずつ学んでいきたいなと思っています。

 

 

会稽東治の重み

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会稽東治 ⇒ 東冶 
三国志の各版本には、倭の位置を「その道里を計るに、当まさに会稽東の東に在るべし」となっていますが、後漢書では「会稽東の東」と改定されています。その後の隋書、梁書は「会稽の東」、晋書は「会稽東冶の東」となっていて、三国志の「会稽東」は邪馬壹国と同じく意味不明のため、会稽郡の東冶の間違いだろうと判断されました。だとしても、地図で見ると東冶の東というには無理がありますね。

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ところが、三国志を書いた陳寿の時代には東冶は会稽郡ではなく建安郡に属していたことに気づいた人がいます。またまた古田武彦です。

永安3年(260年)を境に東冶は分郡されて、そこは建安郡と命名されたそうです。陳寿はそのことを呉志に記し、三国志ではきっちりと書き分けているようです。つまり陳寿が現在(280~290年頃)のこととして「会稽東」と書くはずはなかったのです。ではなぜ後漢書の范曄は改定したのでしょうか。

260年以前の後漢、魏の時代‥‥会稽郡東冶

260年以後の魏、晋の時代‥‥建安郡東冶

5世紀南朝宋の范曄の時代‥‥会稽郡東冶、建安郡の消滅

このように魏末期と晋の時代だけが建安郡だったために、范曄は錯覚してしまったのではないかということです。自分が調べている後漢代も今も、東冶は会稽郡だったので。

では范曄にも後の学者にもわからなかった「東治」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか。

下の過去記事で魏略と三国志を比較した際の繰り返しになりますが、もう一度陳寿の文章を見直してみたいと思います。

 

(帯方)郡より女王国に至るまで万二千余里。男子は大小と無く、皆黥面文身す。古より以来、其の使いが中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚・水禽を厭う。後稍々以て飾りと為す。諸国の文身各々異なり、或は左にし或は右にし、或は大に或は小に、尊卑差有り。其の道理を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。

 

古田氏はこの文脈の中に、二度も会稽が出てきていることに注目しました。このブログでも魏略と三国志の違いとして取り上げてきたところですが、どうしても腑に落ちなかったところを解決する糸口がここにあるようです。

これまで定説となっている解釈は夏王朝六代王、少康の子(越の始祖)が会稽の王に封ぜられた時、髪を短くして体に入墨し、水害から身を守った」というものです。ところが古田氏はこれでは風変りな王になってしまうというのです。夏王朝の王子には水中で魚を獲る趣味でもあったのかと。

おさらいですが、史記によると周の王子である呉の太伯は、同じように会稽の地で文身断髪しましたが、この場合は周の王位継承を弟に譲るため自ら辞退し、しかも都の貴族階級に復帰することを永久に断ち切るために、水辺の民(被統治民)と同じ入墨を体に刻みこみました。そのような太伯を会稽の民は慕ったということなのです。

さて、これまでは「以避蚊龍之害一」を「以て蚊龍の害を避く」と読むのが定説でしたが、「以て蚊龍の害を避けしむ」と使役の用法で読むほうが筋が通ることを古田氏は指摘されています。つまり「避けた」ではなく「避けさせた」となります。原文には使役の助動詞はありませんが文法上はどちらで読むことも可能なので、文脈から適切なほうを選択することになります。また三国志全体の中では「以」をもつ文形によって「以て‥‥せしむ」という使役の用法を表しているところが多いそうです。

では「避けさせた」で読んでみると、

夏の少康の子が会稽王になり統治を布いていた頃、水辺の民が蚊龍の害に悩んでいたので、王は断髪文身すれば害を避けられることを民に教えた。その教化を倭の海人も学び、今に伝えている。

といった内容に変わります。知識そのものは長老たちの知恵なのでしょうが、夏王朝の教化が会稽の水辺の民に浸透し、のちに周の太伯がその地(のちの呉)へやって来た時にはしっかりと根付いていて、今また倭人もその教えを守り伝えているようだ、と。これが陳寿の見た会稽における教化であるということになります。

また、三国志東夷伝序文の書き出しは、

書に称す、「東、海に漸いたり、西、流沙に被およぶ」と。其の九服の制、得て言ふべきなり。

書(書経尚書)の引用は、夏王朝の始祖、禹王の治績をしめくくった有名な句であるそうです。禹王は会稽山に諸侯を集め、五服の制を布き、夷蛮が中国の天子に対して朝貢すべき礼の基準を定めたといいます。史記漢書ともに禹王の治政を締めくくる時、この句を受け継いで書かれているようです。

史記には「帝禹東巡し、会稽に至りて崩ず」とあって、著者司馬遷の付記として「禹、諸侯を江南(会稽山周辺)に会し、計功して崩ず、因りてここに葬る」とあります。

夏の都は長安のあたりで、会稽山の位置はその東方です。

夏王朝の始祖が東巡し、最期に会稽山で夷蛮統治の基準となる五服を打ち立て、それを周王朝が引き継いで六服、九服と発展させ、今なお倭人の中に受け継がれていることを、陳寿三国志の中にしっかりとした縦糸として組み込んでいます。以前の記事「倭人⑴」の時にはどこかぎくしゃくとして思えた陳寿の文章が、この縦糸を理解して読めばすんなりと入ってきます。

倭人の忠実に朝献する姿や黥面文身、大夫(周代の身分)と自称することなど、ここに東夷の教化の成功が明らかに見られ、その倭の位置を計ったところ、まさにあの禹王の東巡した最期の地、禹王の眠る会稽の東に在る、と読み取れます。筋が通っています。であれば「会稽東治」は史記の「帝禹東巡」に始まる東夷の統治から創られた語と思われます。

※ もし陳寿倭人を呉の後裔だと考えているなら、魏略にあったように倭人が「自らを太伯の後という」の一文を挿入すればよかったわけです。そこをあえて省き「自称大夫」と入れたのであれば、夏王朝からの教化を東夷である倭人が素直に受け継いでいることを強調したのだと思います。倭人の出自は非常にわかりにくいけれど、大陸側にあるとはどうしても言い切れず、中国の影響を受けている民だというところで留めているのではないでしょうか。もちろんこれらは陳寿がどう解釈したかの推論ですが。

最後に東夷伝序文を、古田氏の大意で紹介します。

 

書経に禹の五服の制をしめくくる言葉として、「東は海に漸そそぎ、西は流れ(原文は流沙。砂漠地帯を指すと思われます)に被およぶ」という。この五服の拡充としての九服の制。それは夷蛮朝貢の変わりなき典範である。我々は実地に蛮位の地に至り得てこそ、その実質を言うことができるのである。

舜より周までは西域、東夷の朝貢は絶えなかった。ところがその後、西域の場合は、漢の張騫が異域の実地に遠く使した働きによって、漢・魏に至るまでこれらの国々の朝貢は続いている。これに反して東夷の場合は、遼東の公孫淵の反乱により朝貢の道が断たれた。

景初年間、魏の明帝は軍を発して公孫淵を討った。(略。前回記事参照)さらに魏の軍は高句麗等を追って東の大海を臨むところに至った。ところが長老説くに「異面の人がいる。彼らは日の出る所に近い」と。

そこで東夷の諸国を見渡すと、夷狄の国であっても礼儀を保っている。「中国が天子に対する礼を失っても、四夷の方がなお天子への信を抱いている」と聖人が言った通りである。故にこの国々のことを述べ、前史(史記漢書)の欠けている所に続かせようとしたのである。》

 

「聖人の言葉」は漢書にも「孔子の言葉」としてありました。漢書の班固はそれに対して「楽浪海中倭人有り」と結論しています。けれど班固の時代にはまだよくわからなかった倭人のことを、陳寿三国志の中で詳細に記し、前史を補っていくと言っているのです。

三国志の中心といえる魏書において、東夷伝は30巻の最後に収められており、倭人伝はそのラストに置かれています。倭人伝の文字数は他よりも多く、特に朝貢記事においては際立って詳細で、内容共にボリュームがあります。さらに魏の明帝による女王ヒミコへの言葉は驚くほど親密で細やか…。そして倭人伝ラストはヒミコの宗女、壹與による豪華な貢物を披露して締めくくられています。これは魏書における結びの一文でもあります。古田氏はこのことを夏、周から続く魏、晋朝の正統性を示す表現であるとみています。禹王の教化を引き継ぎ成功していることを、倭人の忠実なる朝貢によって示そうとしていると。

前回記事にありましたが、魏の時代、公孫淵を誅したことで東夷の支配も復活し、それは晋王朝始祖である司馬炎の祖父、司馬懿の功績です。晋は魏帝からの禅譲(血縁者でない有徳者に譲ること)です。陳寿は先代である魏の歴史を記しながら、我が晋王朝を称える立場にあります。

遥か遠い倭国からの品々は、東夷伝序文の文頭に掲げられた偉大なる禹王の治政が、2000年という時の中で花開いた証であるとして、陳寿は魏書を結んだのではないかと思えてきました。

 

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 参考図書:古田武彦著「「邪馬台国」はなかった」

 

 

景初二年・ヒミコの決断

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三国志倭人伝には、邪馬壹国の女王が魏に初めて使者を送ったのは、景初二年と記されています。ところが後に景初三年の間違いとされ、今も一般的な見方となっているようです。

江戸時代以降、景初二年(238年)というのは魏と遼東の公孫淵が戦争中であるため、使者を送ることはあり得ないという説が持ち上がりました。そして日本書紀神功皇后紀39年に、「魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王が大夫難升米らを遣わして帯方郡に至り」とあり、さらに中国の梁書(636年成立)にも「魏の景初三年公孫淵誅せられて後に至り、ヒミコはじめて使を遣わして朝貢す」と書かれていることがその証拠となったようです。(その後の翰苑にも「魏志のいう景初三年」とあったりと、梁書以降にこれが定説化していきました。)

つまり、ヒミコが帯方郡へ使者を送り魏と国交を開こうとした時、相手国が戦時中か終戦後か、それが問題となっているのです。

今回も古田武彦氏の説に基づきますが、Sorafullの解釈で話を進めていこうと思います。

まずは時系列でこの時代を見てみましょう。主に三国志を参照しますが要約です。

 

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3世紀の朝鮮半島 Wikipediaより
 

2世紀 後漢の皇室の堕落と政治腐敗、さらに天災や飢饉が続いた。民衆から道教新興宗教が起こり、184年には黄巾の乱へと発展。後漢は衰退していく。

189年 公孫氏が後漢から遼東太守に任命され、勢力を広げていく。

220年 後漢滅亡。魏が建国され、呉と争うようになる。一方、魏の遼東では公孫氏が力を強め、楽浪郡帯方郡を支配した。倭・韓は帯方郡に所属することとなった。

228年 公孫淵が4代目遼東太守となると、魏の敵国である呉と密かに結びつく。(魏志公孫伝)

233年 呉の孫権が遼東に大船団を送り、公孫淵を燕王とする。しかし気の変わった公孫淵は呉の使節らを斬り、その首を魏へ送った。(魏志公孫伝)

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237年(景初元年) 魏より公孫淵に出頭命令が出るが拒否し反撃。公孫淵は自立を宣言して燕王と称し、年号も新たに立てた。(魏志公孫伝)

237~239年(景初中) 魏の明帝は密かに帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、渡海して帯方楽浪を平定させた。(魏志韓伝)

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238年正月(景初二年) 明帝は公孫淵討伐の詔勅を発し、司馬懿に軍の統率を任せた。(魏志帝紀

同年6月 魏軍が遼東に至る。公孫側は大敗し襄平城に籠城する。(魏志公孫伝)

同年6月 倭の女王ヒミコの使者、大夫難升米が帯方郡へ。太守劉夏は役人を遣わして使者らを魏の都まで送って行かせた。(魏志倭人伝

同年8月 司馬懿公孫淵を捕らえ、斬首。海東の諸郡を平定。(魏志帝紀)公孫氏滅亡。

同年12月 倭の女王に明帝から詔が出る。親魏倭王として金印紫綬と豪華な賜り物を与える内容の長文。(魏志倭人伝

同年12月 明帝が病を発し、薬水の効果なく悪化。(魏志帝紀

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239年1月(景初三年) 司馬懿が帰還し、明帝は後の事を託すと言って崩御(36歳)。養子の斉王が後継者となった。(魏志帝紀)まだ斉王は8歳であり、司馬懿、曹爽が補佐となる。

同年12月 斉王は詔勅を発した。「正月より明帝の喪に服してきたが、これより夏正(夏王朝の暦)をもって始める。翌年の建寅月(陰暦1月)を正始元年正月とし、建丑月(陰暦12月)を後の12月とせよ」(魏志三少帝紀)㊟景初暦は夏正ではないようです。景初元年正月は前年12月にあたります。

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240年(正始元年) 帯方郡太守弓遵は梯儁らを遣わして、倭国へ詔と印綬、賜り物を持って行かせた。(魏志倭人伝

 

こうして順に書いてみて驚いたのは、もし定説のように景初三年六月にヒミコが使者を送ったのだとしたら、使者が拝謁したのは8歳の斉王なのですね。もちろん詔は補佐側で作ったはずですが、それにしてもあの長く親密な、そして情緒的な文章は、8歳の王にはまったくそぐわず、補佐の代筆としてはやりすぎでは…。何より、遠方より朝献してきたヒミコと使者への過分な労いと、豪華すぎる賜り物の数々をみると、王以外の言葉とは思えないのです。そこに戦乱における疑心暗鬼とならざるを得ない王の孤独や不安が見え隠れするような。深読みしすぎでしょうか。

そして日本書紀の「明帝の景初三年六月」とは不思議な表現であり、すでに明帝は亡くなっているので、梁書は「魏の」としているように、せめて「斉王の」とか「故明帝の」とかしなければおかしいですね。

 

魏志倭人伝に書かれた「景初二年」にヒミコが使者を送ったとして、その時の帯方郡の状態はどうだったのかが問題になってくると思われます。

三国志東夷伝序文に次のように書かれています。

「景初中、大いに師旅(軍隊)を興おこし、淵を誅す。又、軍を潜めて海に浮かび、楽浪・帯方の郡を収め、而しかして後、海表謐然、東夷屈服す」

ここでは景初年間中のこととしています。景初二年八月に公孫淵を誅殺したことと、楽浪帯方の二郡を平定したことが「また」で結ばれ、どちらが先かわかりません。「而して後」は二郡平定した後、東夷を支配したということですが、それが公孫淵を誅殺する前か後かはわかりません。東夷というのも、倭国の貢献を指すとは限らないでしょう。

魏志韓伝では景初中として「魏の明帝は密かに帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、渡海して帯方楽浪を平定させた。」とあり、ここでも平定した正確な時期はわかりません。ですが「密かに」という一語から、公孫淵に知られてはまずい時期なわけで、誅殺した後であればその必要はありませんよね。なので誅殺後に二郡平定したのではないことがわかります。

むしろ戦略として考えれば、魏の大軍が遼東を囲い攻めする前(景初二年六月以前)に、公孫淵に知られないよう海を渡って奇襲作戦を開始したと思われます。挟み撃ちです。もし司馬懿と同時にスタートしていても、海路のほうがより速いでしょう。しかも司馬懿には4万の兵を与えていますが、太守たちにはそのような気配はありませんので、戦闘によらない平定だったのかもしれません。

またヒミコの初回遣使の時(景初二年六月)の帯方太守は劉夏であり、二郡平定に向かった太守劉昕とはすでに交代しています。交代した理由も時期もわかりませんが、劉昕はヒミコの遣使が到着する以前の太守であったことは明らかです。

 

戦中遣使の可能性

二郡平定が遼東攻撃よりも先に成功していたとして、それをヒミコが知って急遽使者を帯方郡へ向かわせた、ということはあり得ないことでしょうか。もちろん現代のような情報伝達のスピードとは比較しようもないですが、海人族たちの情報網は今私たちが古代を想像する以上に、発達していた可能性もあるのではないかと思います。

そうだとすれば、ヒミコの魏への貢物が驚くほど少なかった理由は、急遽駆けつけたことが一因になりそうです。戦乱が収まらないうちにやって来たからこそ、明帝は心から喜び信頼し、使者を自ら労い、ヒミコに対しては「我甚はなはだ汝を哀れむ(非常に健気けなげに思う)」「魏の国が汝を哀れむ(慈しむ、愛おしく思う)がゆえに、鄭重ていちょうに汝に好物を賜う」と言って、ヒミコの届けた貢物にはまったくそぐわないほどの数々の品物を返礼品とし、さらにヒミコにはそれ以上ともいえる品々(銅鏡百枚を含む)を賜ったのだとすれば、納得がいきます。

そして明帝が詔を出したのが景初二年12月であるのに、実際に金印紫綬や賜り物が届いたのはそれから1年以上経ってからの正始元年のことでした。魏志帝紀にあるように1年ほど喪に服した後、斉王が元号を改め、諸行事の再開となったのでしょう。そうであれば初回の遣使である難升米らは先に帰国し、のちに帯方郡から梯儁らが賜り物を持って倭国へやって来たことになりそうです。

明帝の詔には、賜り物はすべて封印して難升米らに持たせるので着いたら受け取るようにとあります。ですが実際に届いたのは1年後ですので、これは通常とは違います。そこが景初三年の間違いではないかと言われるところでもあるようですが、上記の流れでみると、明帝が崩御したことによる、例外的な事態が起きていたといえそうです。

 

もし定説通り、景初三年の戦後の遣使だったとすれば、まだ喪中です。喪中に国交を開きに行くだろうかとも思います。旧知の仲であれば挨拶に行くことはあるでしょうが。しかも貢物がやけに少ないです…。タイミングとしては喪が明けて、斉王が正式に帝として新元号とした時を狙ったほうが、外交としては効果的なのでは。

※ 出雲伝承の斎木氏は景初三年の遣使とし、新帝即位の慶祝外交だったと考えておられます。

 

まとめ

以上のことから、三国志倭人伝に記された「景初二年」に、ヒミコが遣使を送っていたという説をとりました。可能性がある限り、原文を改定するのは控えたほうがよいのでは、という思いでもあります。

とはいえ、本当にヒミコがすべてを把握して好機を逃さなかったのか?と不思議に思う気持ちもあります。たまたまなのでは?とも考えましたが、景初二年が正しいのなら、帯方郡公孫淵から解放されたことを知らない限り、魏に遣使を送るなどという無謀なことを実行するはずがありません。やはり二郡平定の情報を得たからこそ、そのタイミングで遣使を送ることを決断したのでしょう。その結果、魏の後ろ盾を得た物部豊連合国の第2次東征は、より勢いを増してゆきます。ヒミコはもしかして、ずば抜けた策謀家だったのか、それとも神勅を得る能力が特別秀でていたのか…。

 

ちなみに出雲伝承では、大夫難升米は韓国語が話せて漢文の読める田道間守タジマモリだと言われます。辰韓の王子ヒボコの子孫ですね。副使節物部十市であると。

 

最後に倭国の貢物と魏の下賜品の一覧を紹介して終わります。

107年の倭国王帥升

生口(奴隷)160人

景初二年のヒミコ遣使

使者2人、男生口4人、女生口6人、斑織の布二匹二丈

魏の下賜品

倭国への返礼品:深紅地の交龍模様の錦五匹、深紅地のちぢみの毛織10枚、茜色の絹50匹、紺青の絹50匹

ヒミコへ:紺地小紋の錦3匹、小花模様の毛織物5枚、白絹50匹、金8両、五尺の刀二振り、銅鏡100枚、真珠と鉛丹各々50斤

正始四年のヒミコ遣使

使者8人、生口、倭の錦、赤・青の絹、綿入れ、白絹、丹、木の小太鼓、短い弓と矢

壹與の遣使

使者20人、男女生口30人、白珠5000、青い大勾玉まがたま2枚、めずらしい模様の雑錦20匹

 

参考図書:古田武彦著「「邪馬台国」はなかった」

 

 

 

東鯷人のゆくえ

 

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漢の時代の歴史書である漢書後漢書には、倭人東鯷人について次のように書かれています。

漢書地理志、呉地「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

漢書地理志、燕地「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

漢の呉地と燕地に分けて書かれていますが、不思議なほどきっちりと対をなしていますね。その400年後(南朝宋の時代)に編纂された後漢書では、東鯷人は東夷列伝「倭」の中の終盤に記されます。

 「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す」 

漢書を編纂した1世紀には、東鯷人が前漢呉地・会稽郡と、倭人のほうは燕地・楽浪郡と関わっていることがわかっていたけれど、このふたつは同じ民族ではないかと思われたので、あえて対をなす記述として残し、答えは後代に任せたということだと思われます。そして後漢書では「倭」の中に組み入れられたと。

 

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この図は過去記事「倭人に迫る・九州西北部」でも紹介しましたが、亀山勝著「安曇族と徐福」の中で古代海人族の安曇族が使ったと思われる航路が示され、それをSorafullがひとつの図にまとめてピンクの太矢印で書き込んだものです。いつもの通り手描きです。正確さは保証できませんのでご了承ください!

朝鮮半島楽浪郡は、地図上部の切れたすぐ上あたりとなります。この航路図でみると、博多の志賀島を出発地として会稽へ向かうには、そのまま南西ではなく、一旦少し北上してから途中でUターンして会稽まで南下することになりますね。とにかく黒潮を避けるほかありません。

帰路は長江河口から志賀島までとした時、秒速6mの風の中で船速が時速7㎞であれば、ざっと5日ほどということです。現代のヨットのような帆船で風にうまく乗れば20時間というデータもあるそうです。

 

国史書に倭人より遅れて登場した東鯷人ですが、黥面については触れられていないので、倭人とは見た目が違った可能性があります。しかも国の数が1/5です。住んでいる所が同じ方角なのか、言葉が似ていたのか。

漢書後漢書の間に書かれた3世紀の三国志には東鯷人の記載はなく、107年に朝貢に行った倭(面土)国王帥升倭人とみなされていたのでしょう。やはり黥面だった?(家来たちが黥面だった可能性も)

三国時代には会稽は呉にありますが、呉志にも記載がないということは、この時代には東鯷人の貢献はなかったということでしょう。

そして5世紀になると、漢書に記された東鯷人は倭人と同じ民族であることがわかり、けれど会稽コースをとっていた別の集団と見ていた、と考えられます。(5世紀のこととしては東鯷人に関する記述はありません)

古田武彦は著書「倭人伝を徹底して読む」の中で、東鯷人の「鯷てい」という字を次のように解釈されています。

高句麗の「麗」が時に「驪」という字で書かれる場合があって、この付け足された馬偏は高句麗の特産である馬に由来すると思われ、同じように東鯷人の場合は魚偏を取って本来は「是てい」だと考えることができます。魚を献上していたのかもしれません。この「是」には端っこという意味があり、東鯷人は東の端っこの人ということになります。倭人も東夷で東の人ですので、倭人よりもさらに東側にいる人を指しているのだろうということです。

「会稽海外」という表現についてですが、これがもし「海中」だったとしたら会稽からみて九州西海岸あたりを指し、そのもうひとつ向こうを指したい場合に「海外」と表現されるということです。

古田氏は倭人博多湾を中心にした銅矛、銅戈、銅剣圏の人たちのことであり、東鯷人は銅鐸圏(九州ないし出雲から始まった)の近畿を中心とする文明圏の人たちだと考えておられます。

 

それでは出雲伝承ではどうでしょうか。

斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」P.74で、東鯷人のことに触れています。

後漢書では東鯷人の話に続いて、徐福が始皇帝に派遣され澶洲に行き子孫を増やしたこと、そして時折澶洲の人々が会稽の市にやって来るとあり、さらに会稽郡東冶県の人が海で嵐に遭い、澶洲まで流されたという逸話で終わっています。斎木氏は澶洲を九州だとしています。そして東鯷人の「鯷」は「鮷」と同じであるから「東に住む弟の人」であり倭人を指すのだとしています。つまり中国からすれば徐福の子孫が繁栄した国なので弟の国だということを言われているのですが、これでは倭人と東鯷人の違いがわかりませんし、すべて九州の話ということでしょうか。

 

後漢書の范曄の時代は、宋書に記された倭の五王の前期にあたります。古田氏や張氏は倭の五王も九州王朝だと言われますが、出雲伝承では大和の平群王朝ということです。

また伝承では継体天皇以降の6世紀頃の都は九州太宰府にあると見せかけ、朝鮮の使節は迎賓館より先には行けず、中国との外交は日本から出向くだけにしていたということです。物部豊連合国時代の邪馬台国と同じように、都を隠していたことになります。たぶん5世紀もそうであったのだろうと思われます。この出雲伝承に従えば、范曄の時代には日本の使者は倭国の都はこれまでと同じ所(九州)にあると言い、東にある本当の都は別の国だと思わせていたのかもしれません。その東側の国が古くは中国に貢献していたことがわかれば、范曄はそれを漢書のいう東鯷人と判断したのかもしれません。推測ですが。

出雲伝承では、九州王朝のヒミコは大和の磯城王朝が中国に貢献していたことを知っていたので、磯城王朝より先に、強国となりつつあった魏と国交を結ぶために使節を派遣したのだといいます。そして魏に対して大和へ侵攻するつもりだとは言えず、敵は拘奴国(出雲王家と磯城王朝の血を引く大彦の安倍勢が築いたクナ(ト)国、クヌ国、のちの蝦夷)だと言い続けたのだろうということです。

ということは、九州王朝と磯城王朝が中国へ貢献していたことになり、倭人と東鯷人という中国側の区別もこれに基づいている可能性が出てきました。

 

ところで、斎木氏の「古事記の編集室」では、三国志魏書に書かれたヤマタイ国とはヤマト国の聞き間違えだとしています。都万のヒミコの使者が魏の人に「ヤマト国(日本全体の意味)の使者だ」と名乗った可能性があるというのですが、これは日本の定説通りです。(三国志ではヤマイ国と書かれており、ヤマタイ国となるのは5世紀の後漢書以降ですので)

勝友彦氏の「親魏和王の都」P.104では、後漢書に書かれた倭国を近畿のヤマト国と解釈しておられます。後漢書は邪馬臺国については三国志を参照していますし、三国志漢書倭人を受けて書かれていますので、それは無理があるような。

例えば帥升とは誰かという問題にしても、大和の磯城王朝は漢へ貢献していたという伝承があるのか、それとも中国史書を読んでクニオシヒト大王をそこに充てたのか? そこが知りたいです…。

やはり本来の伝承と、後代の研究、解釈とを区別して示して頂ければと思います。たとえ中国史書と相容れない内容であったとしても、伝承そのものの価値は時代によって変わる解釈とは次元の違う、本当に貴重なものなのですから。

 

さて、漢代以降、中国史書の中の東鯷人の行方は不明です。

220年に後漢が滅亡し、三国による戦乱の時代を迎えます。三国志呉書の230年の記事に、呉王の孫権が将軍衛温と諸葛直に1万の兵を与えて夷洲と澶洲の捜査をさせたが、澶洲は見つからず、夷洲から数千人を連れ帰った。これは失敗とみなされ二人の将軍は誅殺された、とあります。(夷洲は台湾や沖縄の説がありますが、中国から近いと考えれば台湾の可能性が高いです。またこの記事中に、澶洲は海中にあって大変遠い所であり、徐福が童男童女数千人を連れて渡り数万家となったという先述の後漢書と同じ内容が記されています)

呉は人手が足らず、兵や奴隷を他国に探していたわけです。このような状況であれば、東鯷人がわざわざ渦中に飛び込む必要もありませんよね。

東鯷人が大和の磯城王朝であるなら、2世紀後半からは王朝の内乱、出雲と吉備、ヒボコ勢との戦争、そして第1次物部東征とこちらも戦乱状況が続き、中国へ使者を派遣する余裕もなかったかもしれません。

そんな中、物部豊連合国のヒミコが第2次東征の機を見計らいながら、勢いを増す魏へ先手を打ったということなのでしょう。