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源流なび Sorafull

船木氏⑶伊雑宮と伊射波神社、ふたりの女神

 

 

出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を見てみましょう。

斎木氏と勝氏の伝承が多少違います。斎木氏はサホ姫が太陽の女神を伊勢へ避難させたとし、勝氏は大和姫です。斎木氏の著書の中には大和姫としている記述もあるので、ここでは大和姫の伝承を紹介します。

まず大和の笠縫村の桧原神社で豊来入姫(トヨ)が月読の神を祀っていましたが、豊国軍が劣勢となり大和を追われ丹後へと逃げます。そして舟木の里に奈具社を建て、さらに日置の里の宇良神社(浦嶋神社)へ。そこから伊勢の椿大神社へ避難しその地で没します。豊来入姫は箸墓古墳の東隣り、ホケノ山古墳に葬られたと伝わっているそうです。

その後、大和姫が奈具社に奉仕するようになり、月読の神に加えて太陽の女神を祀ります。そこから宇良神社に移りましたが、朝日信仰のため東を目指し伊勢へと向かいます。(サホ姫は大和から丹後へと太陽の女神を避難させていたのかも)

大和姫は信者を増やすために伊勢の各地を転々としました。さらに志摩国へ行き、出雲系の伊雑宮いざわのみやの社家、井沢富彦(登美家出身)の協力を得て伊勢国五十鈴川のほとりに内宮を建てたということです。大和姫は最初の斎宮となりました。

亡くなった後、ご遺体は三輪山の賀茂家に送られ、太田の箸墓古墳に埋葬されたと伝わっているそうです。舟木石上神社と伊勢を結ぶ「太陽の道」の上には、斎宮跡と箸墓がありましたね。この時代に斎宮がそこにあったのかは不明ですが、歴代斎宮は神島から昇る朝日を参拝していたのかもしれません。

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 伊雑宮は出雲から勧請されたと考えられています。出雲には粟島坐伊射波いざわ神社があったそうで、粟島とは事代主が枯死されたところです。

伊雑宮志摩国一宮ですが、鳥羽市にも志摩国一宮伊射波いざわ神社があり、井沢富彦も祀られています。なぜかふたつの一宮があるんです。

伊射波神社の鎮座地は安楽島あらしま町。粟島あわしまにそっくり。昔は伊雑宮磯部町から安楽島町までの地域を粟嶋と呼んでいたそうです。事代主(八重波津見)を偲ぶ国なのですね。

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伊雑宮本殿 Wikipediaより

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伊射波神社の一の鳥居 加布良古崎 Wikipediaより 小さな白い鳥居です。

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伊射波神社拝殿 Wikipediaより

この伊射波神社と伊雑宮を結ぶかのように加茂川が流れ、河口近くには赤崎、そして船津とあります。「船」は古くは「舟」であり、「丹」の誤記から「舟」に変わることがよくあるそう。丹生⇒舟生。

例えば、福井県鯖江市の舟津町は古くは丹生郡に属し、もとは丹津でした。丹津神社は現在の舟津神社と比定されていますが、ここは大彦を祀ります。出雲伝承では大彦の支配地のひとつです。社伝によると、サルタ彦大神が現れ「我をここに祀れば、剣に血塗らずして賊を平らげることができるだろう」と言ったとあります。似た言葉があったなと思ったら、日本書紀で「新羅を攻めよ」と神功皇后を通してなされたご神託の中に「よく我を祀ったなら、刀に血塗らずして服従させることができるだろう」とありました。ニホツ姫は「赤い浪の威力で平定されるだろう」と言っていましたね。

蒲池明弘著「邪馬台国は「朱の王国」だった」は松田壽男氏の研究を受けて、古代の経済や王権の推移を「朱の視点」から捉えることを試みられた内容となっていますが、蒲池氏は先の日本書紀とニホツ姫の言葉から、これを非暴力による勝利を示すとし、朝鮮半島との交易を背景とすれば朱と水銀を輸出品とした商談の可能性があるとみておられます。鯖江市舟津神社のサルタ彦の言葉も、血ではなく朱の獲得による勝利を意味していると考えれば、この地に朱産地があったことがみえてきます。

話が遠回りしましたが、加茂川河口の船津はもとは丹津の可能性があり、赤崎は赤土が見えていた土地だったのかもしれません。であれば南の伊雑宮の千田ちだはやはり血田でしょうか。鳥羽市志摩市では明治になってマンガン鉱山が次々と発見され、採掘が行われていました。金やマンガンの鉱山には朱の鉱脈もあり、朱が尽きると金やマンガン鉱山として採掘されることが多いそうですよ。

 

さて、地図の右上に神島があります。ここは淡路島の舟木石上神社と伊勢を結ぶ太陽の道の東の端。こうして見ると出雲族と関わりがありそうな場所ですね。伊勢湾の入り口を守護する島にも見えます。

神島で元旦に行われる「ゲーター祭」という奇祭が有名らしいです。大晦日の夜にアワと呼ばれる太陽をかたどった直径2mほどの白い輪を作ります。元日の夜明け前、東の浜で島中の男性たちが竹竿を持ち、一斉にアワを刺すように突き上げ、そして落とします。どのような意味があるのかはわからないそうですが、女神と男神の神事でもあるような。

 

一方、豊来入姫のその後も伝えられています。

サルタ彦を祀る鈴鹿市椿大神社に豊来入姫が保護を求めてきたそうです。宇佐から来たので「ウサ女メ」と呼ばれていたのを「ウズメ」と変えて、目立たないようにしてかくまいましたが、垂仁天皇の刺客によって暗殺されたということです。

 

 伊雑宮天照大神を祀りますが、実は伊射波神社の祭神は稚日女尊ワカヒルです。出雲伝承では豊来入姫のこと。

日本書紀では神功皇后に「新羅を攻めよ」とご託宣した神様は、「五十鈴の宮の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒御魂)」「尾田の吾田節の淡郡に居る神」「事代主」そして「日向国住吉三神」とありますが、「尾田(加布良古)の吾田節(答志郡)の淡郡(粟嶋)」とは伊射波神社の地を指しています。そして遠征から帰還した神功皇后に再びご託宣があり、先の神々をそれぞれ指定された地に祀ります。伊射波神社の稚日女尊摂津国の生田神社(神戸市)へ。つまり生田神社の前の鎮座地が伊射波神社だったのです。

志摩国のふたつの一宮神社では、出雲の太陽の女神と、月神を祀る豊来入姫をそれぞれお祀りしていたということになります。逃げてきた敵方の豊来入姫(三国志魏書ではヤマタイ国の王に指名)をかくまった上にお祀りまでしています。

鈴鹿市伊勢国一宮、椿大神社では伊勢で太陽の女神が復活したことを喜び、「天の岩戸開き」の話を作って、初めて神楽を上演したと言われています。ウズメノ尊は暗闇の中、岩屋の前で太陽の女神に向かって胸を露わにして踊りました。これは磯良舞や隼人舞と同じく、服従の舞と考えらえます。椿大神社の社家は登美家分家、大田命を祖にする宇治土公家でした。伊勢においては物部と豊国(いわゆるヤマタイ国)の月神は、出雲の太陽神に服従したということになっているようです。もちろんここでも別宮の椿岸神社でウズメノ尊をお祀りしています。

岩戸を開けた手力男神は、この時、同族の船木氏を重ねて描かれたのでしょうか。

(九州筑紫舞の菊邑検校は、アメノウズメの舞が私たちの筑紫舞のもとですと言われたそうです。リズミカルな足使いのことを指しているとは思うのですが、やはり磯良舞と重なり、言葉の奥に潜む悲しみを感じずにはいられません。)

また古事記には、岩屋の前で「大きな賢木さかきを根から引き抜いて、八尺瓊の勾玉と八咫鏡を掛け」た根つきの賢木を捧げ持って祈ったとありますが、これは第1次物部東征で大和に侵攻してきた物部軍と協調することを選択したモモソ姫が始めた、新たな祭祀方式であるといいます。過去の記事から抜粋します。

《(モモソ姫の)祭りには物部氏の方式が一部入っていたそうです。榊を根から抜き取って(幸の神)、枝に神獣鏡(物部の道教。ここでは裏の光るほうを参拝者に向ける)を付けます。幸の神では鏡の丸い形は女神、木の根は男性のシンボル。男女の聖なる和合です。モモソ姫の兄、大彦は物部嫌いのために鏡はいっさい持たなかったそうですが、大和に残ったモモソ姫は物部と協調する道を選んでいったのかもしれません。

物部勢の大和侵攻による争乱のあと、モモソ姫の三輪山の大祭によってようやく大和は統一へと向かうことになります。オオヒビ大王や物部の武力よりも、モモソ姫の祭祀力、宗教力を支持する人々が多かったようです。その結果、第1次東征をした熊野系物部勢もしだいに磯城王朝にとりこまれていきました。》

物部勢と大和は宗教戦争のような状態に陥っていたので、モモソ姫は両者の思いを立て、このような方式(苦肉の折衷案)を生み出したのでしょう。

コメントを下さったT様は、このことが太陽の女神の依代に鏡が用いられた端緒になったのだろうと言われます。賢木に太陽の女神の御霊を取り付けて⇒「撞賢木厳之御魂つきさかきいつのみたまであり、このような祭祀方法を生み出したモモソ姫やそれを継承した姫巫女たちが、伊勢内宮の荒祭宮廣田神社天照大神荒御魂であり、三輪山の登美の霊畤を奪われ大和を追われ、遠く離れた田舎へと追いやられた⇒「天疎あまさかる、向家/富家(登美家)の姫巫女たち⇒「向津媛命」ではないかと言われます。これは納得です。

荒魂とは神様の荒々しい側面ですが、勇猛で決断力があり、新しく事を生み出すエネルギーを内包し、かつ忍耐力があるといわれます。天照大神の荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは不思議な表現だと思っていましたが、モモソ姫の決断と、その後の太陽の女神の伊勢へのご遷座を背景とともに考えると、まさしくそのものという感じです。

ただ「撞」という漢字は突く、当てる、ぶつけるなどの意味であり、鐘を撞くという時に使われます。出雲では銅鐸を木の枝などに吊るし、鈴のように鳴らしてお祀りしていたので、そこに鏡を重ねるイメージで「撞」の字が当てられたのかな、などと想像しています。

さらにT様は銅鐸は鈴とも呼ばれていたので、五十鈴とは銅鐸をたくさん(五十、伊)所有するという意味があり(タタラ五十鈴姫とは、タタラで作った銅鐸を数多く所有する姫を意味します)、イザナギとはイ(たくさんの)サナギ(銅鐸)の意味ではないかとも。これは私もこのところ考えていたことでした。

3世紀半ば、東出雲王国が物部軍に占領され王宮(現・神魂神社)を明け渡しますが、物部王朝は3代で終わりを迎え、王宮も返還されることとなりました。けれど向家が辞退したため、それなら神社にして幸の神を祀ろうと提案され、その際に神の名前は変えることとなり、イザナギイザナミという新たな名前が誕生したということです。出雲王国の始まりの場所で、元敵方の付けた名前です。かつて銅鐸祭祀は物部の侵攻によって終わることを余儀なくされました。王宮返還とともに銅鐸祭祀を出雲族祖神の名前の中に復活させる、そんな粋な計らいであったと思いたいところです。

伊射波神社の稚日女尊、椿岸神社、天照大神の荒御魂、そしてイザナギイザナミ大神の誕生。異宗教間の争いによって生まれた悲しみの中でも、他者への尊厳を失わなかった人々の思いを、ここに読み取ることができるのかもしれません。

 

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ここで伊射波神社の東西のラインを見てみましょう。

まず伊射波神社の西に位置する皇大神宮別宮、月読宮。ここには伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮も並んで鎮座しています。さらに裏参道入口には内宮の末社として葭原あしはら神社があり、伊加利イカをお祀りしています。皇大神宮儀式帳には入田社と記され、入は丹生の変形です。イカリ姫は海村雲の妃で海部氏の祖となる倭宿祢(天御蔭命)の母。倭宿祢の后が井比鹿イヒカ神武天皇が吉野の光る井戸でイヒカと出会います。地名では井光と書いてイカリと読みます。光る井戸とは自然水銀の溜まった井戸と考えられ、朱砂の採掘を行っていた先住民を例えているとも読めます。豊来入姫の出身地、豊国も朱砂の産地です。

丹生(水銀)の女神、丹生都姫はイザナギイザナミの娘とされたり(丹生大明神告門)、稚日女尊と同神で天照大神の妹としたり(丹生都比売神社、日本書紀)。出雲伝承の言うように稚日女尊が豊来入姫なら、出雲の宗像家の姫を母系祖神とする宇佐家の姫なので、血縁としてはすべてを満たすことになります‥‥。ちなみに月読命記紀では天照大神の弟です。

とはいえ朱砂はもっと古くから大切にされてきたわけですので、丹生都姫(ニホツ姫)に豊来入姫を重ねたというほうが自然な気はしますが。

月読宮からさらに西へいくと仁田の佐那神社、そして水銀鉱山に鎮座する丹生神社。この丹生神社ではミズハノメノ命を祀っていますが、丹生都姫がのちに変化した神さまといわれます

このライン上には砂鉄というより、朱砂の匂いがぷんぷんします。

 

まとめ

船木氏は御巡幸において表にはまったく現れませんが、近江から美濃、尾張、伊勢に地名としてその名を残し、美濃国造らの献上した3艘の御船の造り手として存在を感じさせ、また瀧原宮の御船倉近くに舟木村があることなど、御巡幸を陰で支えたという説はじわじわと可能性が高まるように思います。

さらに伊勢から志摩国にかけて古くからの出雲族の存在と、五十鈴川のほとりへ導いたとする井沢富彦、そして倭姫命世記の中で同じ場所を勧めたという太田命など、天照大神の御遷座には出雲登美家が深く関わっていることが伺われます。

それから後の神功皇后による三韓遠征において、3艘の御船を船木氏が献上し、朱く染められた船団が勝利し帰還。その御船が武内宿祢によって紀の川河口の三社に祀られたことは、住吉大社神代記に残されています。

舟木の地名は今回紹介した以外にも、九州から東北に至る各地にまだまだあります。それほどの勢力をもっていた船木氏が正史にはほぼ現れず、なぜか幻の氏族のひとつとなってしまいました。

 

ここで淡路島の舟木遺跡にもどります。

舟木遺跡は2世紀半ばから3世紀前半までとされています。倭国大乱から第2次物部東征までということになります。舟木石上神社近くからも祭祀用の土器が出土しており、同時代に磐座信仰もなされていたと思われます。

船木氏の祖である大田田根子は、第2次物部東征後に三輪山の神官となりました。ということは船木氏はそれからずっと後に現れてくることになり、舟木遺跡が使われていた頃とは時代が違います。なので舟木という地名がついたのは、後世のこととなります。

もともと出雲族が播磨から淡路島に住んでいたけれど、物部軍がやってきたことでいったん離れ、美濃国で力をつけた一族(のちの船木氏)がその後の大和姫御巡幸や神功皇后の時代に勢力を伸ばし、再び淡路島から播磨へ戻ってきたという流れでしょうか。

ですが舟木の地名は伊勢の佐那、三島の佐奈部にもあり、これは銅鐸祭祀が行われていた時代です。第2次物部東征以前です。また丹後の奈具社も舟木の里ですが、ここは大田田根子の時代です。

例えばですが、登美家の中に舟木と呼ばれる舟を作る集団がいて、彼らは同時に材木、鉄、朱を探します。なので大和だけでなく各地を巡ります。朱は金と同じ価値がありますので富も手に入ります。のちに彼らは造船業を広く担うようになり、日の神をのせた御船も造ったことで、大田田根子神八井耳命の子孫だといわれるようになった。同じ登美家ですから。なので物部東征以前に彼らのいた地域には、舟木という地名が残っている。

というような可能性はないでしょうか。

 

船木氏の足跡を辿ることで見えてきた歴史の側面は想像以上に深く、同時に新たな疑問も次々と生まれました。そしてなぜ正史から消えてしまったのか、謎はさらに深まります。

 

年内最後の記事も長くなってしまいましたが、今年も「SOMoSOMo」にお付き合い下さった皆さま、コメントを届けて下さった皆さま、本当にありがとうございました。

佳い新年となりますよう、心よりお祈り申し上げます!

 

 

 

船木氏⑵大和姫と岩戸開き

 

  

大和姫の御巡幸

日本書紀では崇神天皇の時、宮中にお祀りした天照大神の勢いを畏れ、宮中から大和の笠縫村へ遷し、娘の豊鋤入姫に祀らせたとあります。御神宝の八咫鏡ですね。その後垂仁天皇の娘、大和(倭)姫が受け継いで、天照大神の鎮座地を探しながら伊勢内宮へと辿り着きました。(大和姫はヒバス姫の娘なので登美家の血筋です。)

記紀に描かれた天照大神岩戸隠れとは、大和から伊勢へと遷座するのに要した期間のことを表していると思われます。当時、第2次物部東征によって大和は混乱の中にあり、磯城王朝の御神宝を安全な場所へ避難させようとしたのが始まりだったようです。

御巡幸の中で天照大神は各地で祀られました。その場所を元伊勢と呼びます。その行程が日本書紀に少しと、皇太神宮儀式帳や倭姫命世記に記されています。

倭姫命世記が一番詳しいのですが、鎌倉時代に書かれたらしく、後世に話が追加されたものと考えられています。ところが出雲伝承には、志摩国伊雑宮で井沢富彦の助けを得たという話が伝わっており、このことは倭姫命世記にしか書かれていません。ですので注意はしつつ、船木氏と接点のあるところを参考にしていこうと思います。

 

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大和姫一行は伊賀、近江を経て、元伊勢のひとつ、美濃国伊久良河宮いくらがわのみやに留まりました。揖斐川沿いの天神神社(岐阜県瑞穂市居倉)と、長良川沿いの宇波刀神社(安八郡安八町森部)が有力な候補地としてあがっています。

天神神社の横手には犀川(幸川?)が流れ、境内には御船代石があり、天照大神の神輿をここに安置したと伝えられています。けっこう段差がありますね…。周辺は禁足地でした。

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瑞穂市のホームページより 御船代石

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宇波刀神社社殿 Wikipediaより

以前は天神神社の近くに船木村(現・美江寺地区)があったようです。ここから北へ3㎞ほどいくと船来山古墳群本巣市)があります。3~7世紀まで続いた東海地方最大級の古墳群。船来山からは縄文~弥生土器も出土しています。

290基からなる古墳群で、武器や装飾品など多く出土し、珍しいものでは雁木玉という模様の入ったガラス玉も見つかっています。

古い和歌をみると「舟木の山」と記されています。この規模と年代から、ここは船木氏の本拠地であったと思われます。

下図は中部地方整備局の学習支援冊子からお借りしました。古代の濃尾平野が海だったことを示しています。

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地図の「岐阜県」と書かれたあたりが伊久良河宮で、現代よりはかなり海に近かったようです。左下の「三重県」に重なっているのが員弁川。船木氏が祀っていた耳常神社や太神社は川のすぐ南になります。

 

倭姫命世記では、伊久良河宮から尾張へ向かいます。元伊勢の中嶋宮一宮市のいくつかの神社が候補地となっています。ここで美濃国造と美濃県主から計3艘の御船を献上されています。

中嶋宮から少し離れますが、春日市にも船木の地名がありました。神領町庄内川沿いにある貴船神社境内から銅鐸が出土し、その地名が尾張国山田郡船木郷でした。

大和姫は続いて伊勢へと向かいます。船旅です。元伊勢をいくつも経たのち、宇治土公家の祖、太田命の勧めによって五十鈴川のほとりに天照大神を祀りました。

出雲伝承では伊勢市猿田彦神社は、垂仁天皇の時に三輪神社の太田氏が祀ったといいます。その近くに天照大神も祀って伊勢の内宮ができたのだと。

大和姫の船による御巡幸を支えたのが、船木氏ではないかという説があります。美濃国造らが献上した御船は、美濃に拠点を置く船木氏の造ったものでしょう。

ご神宝が長旅の末に無事、伊勢内宮に鎮座した時、世界はようやく光を取り戻したことになります。天照大神の隠れた岩戸を開けたのが手力男神。船木氏が祀るといわれるのもそこに由縁があるのかも。

 

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倭姫命世記では瀧原宮へも向かっています。

地図の左下、瀧原宮の近くに船木の地名が今も残っています。三瀬谷、三瀬川という地名もあって、3つの川が合流するところだったのでしょう。今はちょうど船木で宮川と大内山川が合流し、瀧原宮のほうへ進むと熊野灘への近道となります。

瀧原宮は内宮の別宮(天照大神の遙宮とおのみや)で、大和姫が使用した御船を納める御船倉が併設されています。船木村の近くに瀧原宮があることは何か意味があるような。

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右が瀧原宮、左が瀧原竝宮 Wikipediaより

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若宮神社の御船倉(左)Wikipediaより


倭姫命世記には、大和姫が宮川を渡ろうとするも流れが速くて困っていると、真奈胡神が現れ助けてくれたので、御瀬社を建てたとあります。それが多岐原神社だといわれています。この真奈胡神は土地の神であるとしか伝わっていないようです。

また同書には、大和姫が大神に供える神饌を採るための御贄地を探しに志摩国へ行ったときのこと、真名鶴がしきりに鳴くのを不思議に思った大和姫が使いの者を行かせると、そこに稲がよく実った田が広がっていたので、そこを千田と名付け、近くに伊雑宮いざわのみやを建てたとあります。伊雑宮も遙宮と呼ばれます。

順序が逆になりますが、伊勢国でも御饗を奉る神が現れ、真名胡の国と名乗ります。

「マナコ」という言葉が気になり調べてみると、千葉県南房総に残る言い伝えでは、丹生氏の長の名を「まなこ長者」というそうで、富浦町手取地区の神社の社名、聖真名子神社として残っています。近くに丹生の地名もあります。富浦町から北東の鴨川上流にかけては古代朱産地であったそうです。(松田壽男著「古代の朱」より)

丹生氏はその氏族名が現れる前からの存在と思われるので、ここでは朱砂、水銀に携わる人々を丹生族として呼びます。

朱砂や水銀は金銀並みの価値ですので採掘者は大金持ち。九州の朱産地、大分にも「真名野長者伝説」があり、丹生族の存在が伺われます。

また富浦町の手取と居倉を合わせて鶴鳴地区と呼ぶそうで、居倉は山宮神社の大山祇命(クナト大神)を祀っています。居倉という名も岐阜県の伊久良河宮の比定地、居倉と重なりますね。

もうひとつ、栃木県の栃木市西方町に「真名子地区」があり、ここには「八尾比丘尼伝説」が伝わっています。この伝説は多くの地域にみられますが発祥は福井県小浜のよう。小浜も古代朱産地。

昔、朝日長者の娘が不老不死になる貝を誤って食べてしまい、18歳の姿のまま800歳まで生き、巡礼の旅に出て、福井の小浜で自ら入水し果てたというお話です。※事代主のご遺体が見つかった出雲の粟嶋の洞窟(静の岩屋)にも、八尾比丘尼が祀られています。

真名子、丹生、長者、不老不死。これらの伝説は丹生族の採掘する朱砂(水銀朱)を象徴しています。そして鴨川、大山祇命、朝日など、出雲族の気配もありますね。

古代において最大の朱産地は大和ですが、伊勢もそれに匹敵します。多気には丹生神社がありますので、丹生族が関わっていた時代があったのでしょう。志摩国多気から少し離れますが、伊雑宮の「千田ちだ」は、もとは朱砂の赤土を表す「血田」だったのではないかとさえ思えてきます。ついでに想像をたくましくすると、丹波の真名井原の「マナ」も何か丹生族と関わりがあったのだろうかと気になり始めました。ここも元伊勢ですからね。

倭姫命世記には後世に付け加えた話が盛り込まれていたのだとしても、伝説や例え話として挿入することで、逆に本質を突いている可能性もあるかもしれません。なぜ大和の次は伊勢だったのか‥‥。

 

住吉大社宮司の真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」には、大和姫の御巡幸地はいずれも古代の産鉄地であるとして、各地の現地調査もされています。実際に鉄が認められるところだけでなく、製鉄にまつわる神が祀られていたり地名から伺えるところなども含めてですが。伊勢の五十鈴川の河口に近い二見浦の海岸では、たくさんの砂鉄が採取されたそうですよ。出雲族の祀る二見輿玉神社がありましたね。

その他にも伊久良河宮の前に滞在したという琵琶湖北東岸の坂田宮については、この付近は息長氏の本拠地であり、古代産鉄地の中心地であったとのこと。息長氏は製鉄で勢力を強めたといわれます。越前日本海岸から美濃、近江にまたがる伊吹山系に広がる地域に、飛び石のような脈絡をもって丹生の地名が点在し、それらをつないで古代産鉄地があるそうです。

酸化鉄(ベンガラ)の赤がこちら。

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青森県赤根沢の赤岩 Wikipediaより

そして朱砂の赤がこちら。

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徳島県若杉谷採集の辰砂(朱砂)鉱石 淡路島日本遺産展資料より

写真なので色合いはそのままとはいきませんが、ベンガラのほうが現代の私たちの朱色のイメージに近いと思います。けれど古代に神聖な色として尊ばれた赤とは、朱砂、水銀朱の赤です。

真弓氏は丹生という地名は、赤土=褐鉄鉱、赤鉄鉱の色からきているといわれ、同時に朱砂も採れるという捉え方です。あくまで鉄が主役です。であれば大和姫の御巡幸は古代の朱砂産地を巡っているとも言えるような。さらに言えば大和姫の兄、景行天皇による土蜘蛛征伐を先住民の鉱山採掘の利権を朝廷のものにしていった話だと考えると、大和姫の御巡幸もまた、祭祀場にふさわしい土地=朱砂の豊富な土地、水銀鉱床を探す旅という面を持っていたのかもしれないと感じ始めています。

さて、伊吹山と息長氏というと、ヤマトタケル伊吹山で猪神と対峙するシーンを思い出します。

山の神である猪は息長垂姫(神功皇后)。出雲伝承では神功皇后成務天皇の后であったと伝えます。そして伊吹山ヤマトタケル成務天皇を例えていると。つまり新羅を攻めよとの神の言葉に従わず、突然崩御されたのは、仲哀天皇ではなく成務天皇であったということになります。たしかに高穴穂宮は琵琶湖の西南。日本書紀でも成務天皇の事績はほとんどなく、あっけないほどの文字数です。(仲哀天皇は九州の一豪族だったとのこと)

ついでになりますが、琵琶湖にも船木の地名は残っています。西岸の高島市安曇川町船木、南東岸の近江八幡市船木町。どちらも中世には船木関(湖上関)として機能していますが、もとは造船用木材の集材地だったそう。どちらの隣にも加茂の地名や神社がみられます。一帯は息長氏の地盤だったわけですし、三韓征伐の前から関係はあったのかもしれません。製鉄と朱砂が船木氏と神功皇后を結びつけているようにも見えてきます。

 

次回、出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を追ってみたいと思います。

 

 

 

船木氏⑴朱砂と製鉄と

 

 

伊勢と淡路島を結ぶ「太陽の道」に関わっていると思われる、船木氏の足跡を辿ります。まずは文献に記されたところから。

 

古事記で船木氏と関連のあるところを取り上げると、

神武天皇の皇子、神八井耳命は伊勢の船木の直らの祖。とあり、多氏と同祖となる神八井耳命の後裔としています。出雲では海村雲とタタラ五十鈴姫の御子といわれます。

②ヒコイマスの孫の曙立アケタツは伊勢の佐那の造らの祖

③手力男は佐那の県にいます神

 

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多気多気町の佐那は伊勢船木氏の本拠地といわれます。天手力男命は内宮の相殿に祀られる神さま。天照大神スサノオの傍若無人ぶりに嫌気がさして岩屋戸に籠ってしまった際、岩戸を開けて世界に光を取り戻したのが手力男神岩戸開きの神さまです

船木⇒佐那⇒手力男神、という流れがあるようなのですが、その出所がわかりません。後ほど書きますが住吉大社神代記の中に、船木氏の祖先のひとりが「伊勢の船木に在る」と記されていて、船木の地名が残るところは南西の度会わたらい大紀町になります(瀧原宮の近く)。古くは多気郡に属していたようです。

多気町の仁田に鎮座する佐那神社では、天手力男命と曙立王命が祀られています。ヒコイマスは磯城王朝10代大王。曙立王は出雲伝承では第2次物部東征で西出雲王国を倒した将軍の1人であり、登美家の分家だといわれます。

「佐那」の名前の由来は、佐那神社の近辺で銅鐸が出土しており、銅鐸の古語「サナギ」からではないかといわれています。出雲では銅鐸の形が蛹に似ていたからそう呼んでいたと。「サナグ」と変化している地名もあります。

摂津国の三島の話を大田田根子の記事で書きましたが、この三島にも「舟木」の地名が残り佐奈部神社が鎮座しています。中世の水害などで由緒がわからなくなってしまいましたが、周辺の神社の祭神などから一帯は古代鍛冶集団がいたと考えられているようです。(舟木を取り巻く地名を眺めていると、歴史が見えてくるようで面白いです。五十鈴町に鎮座する溝咋神社、玉櫛、砂鉄を採る「真砂」、沢良宜さわらぎ(銅器の村の意)などが密集し銅鐸も出土しています。もう少し北には太田、登美の里、さらに北側には大彦が安倍と名乗る由来となった阿武山も)

丹後国風土記では天の羽衣の話として、竹野郡舟木の里奈具社に鎮座した豊宇賀能売トヨウカノメ命(豊受大神)のことを伝えていて、奈具社は伊勢外宮の元宮となります。奈具社はもしかすると「サナグ」?

伊勢の佐那神社、摂津の佐奈部神社、丹後の奈具社。

 

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一方、平安時代に津守氏によってまとめられた住吉大社神代記には「船木等本記」という項もあり、船木氏は住吉大社の創始に関わったことが読み取れます。住吉大社神職を務め、造船も担っていました。船木氏に関わるところを取り上げます。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖、大田田神なり」とあり、船木氏の祖は天照大神を祭祀する大田田神、つまり大田田根子と考えられます。三輪山は事代主の御霊である大物主神を祀り、また三輪山から昇る朝日を太陽の女神(幸姫命)として参拝してきました。代々磯城家の姫巫女が司祭者(初代はタタラ五十鈴姫)でしたが、物部東征後に男性司祭者、大田田根子に変わります。「出雲王国とヤマト政権」ではタタラ五十鈴姫は太田家の娘で、太田タネヒコ(大田田根子)は弟と考えられると記しています。

さらに「大田田神の作った船二艘を後代の験しるしのために生駒山の墓に納め置く」とあります。(長屋墓に石舟、白木坂の三枝墓に木舟)

まるでクフ王の「太陽の船」みたいですね。こちらは二艘とも木船ですが。

播磨国明石郡に船木村(船木連宇麻呂)、黒田村(船木連鼠緒)、辟田村(船木連弓手)があり、それぞれ船木氏の所領があったようですが、住吉大社に寄進しています。

船木村は現・明石市船上町で淡路島の対岸に位置し、すぐ東には伊弉諾神社、伊弉冉神社、岩屋神社が並んで鎮座しています。黒田村、辟田村は現・垂水区にあったようですが、地図では見つけられませんでした。

垂水のわたつみ神社は、神功皇后三韓からの帰路で住吉三神を祀ったのが始まり。地図を見ていると、五色塚古墳は船木氏と関わりがあるように見えてきますね。

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播磨国賀茂郡椅鹿はしかには大田田命と御子の神田田命の所領が9万8千余町ありました。神功皇后の時住吉大社に寄進し、その後大社の造宮料になったそうです。椅鹿山の材木は東条川から加古川を使って運ばれたのでしょう。(出雲伝承では太田タネヒコの息子は大御食持オオミケモチ神部ミワベ大王と呼ばれていたそうです。)

また三木市は最古の金物の町といわれますが、古くは神功皇后の頃、志染しじみに渡来系鍛冶職人を連れてきたといわれています。丹生山、帝釈山(主に銅の鉱山)で採掘し、志染川明石川は運搬路であったと思われます。

神功皇后熊襲新羅征伐の際に、船木氏が大田田命所領の山の樹を伐って船三艘を造り、神功皇后住吉大神の部類神、日の御子神、大田田命と神田田命を乗せて渡ったとあります。神々を乗せた御船です。

そしてこれらの船を武内宿祢に祀らせ、紀国の志麻社、静火社、伊達社の前身となりました。住吉大社摂社の船玉神社は紀国ではこの三社となるようです。

また船木連宇麻呂等が新羅征伐の時に船を献上したことにより、船木、鳥取の二姓を賜りました。

さらに各地の船司、津司を任命され、但波、粟、伊勢、針間、周芳の五ヶ国の船木連となります。

大田田命から続く系譜も記されています。曾孫の伊勢川比古命イセツヒコ伊勢の船木に在るとしています。瀧原宮の近くの船木村でしょうか。

また兄弟に木西川比古命キセツヒコがいて、子は越の国へ移住、孫たちは越国君となっています。その子孫の中に彦太忍信命ヒコフツオシノマコトの娘(の子孫のことでしょう)を妻とした者も見え、皇族の血筋となったことが記されています。出雲伝承では彦太忍信は磯城王朝8代クニクル(孝元)大王と物部の姫の皇子であり、紀国の山下陰姫(高倉下の娘)との間に初代武内宿祢をもうけています。

※以前の記事「弥彦神社と伊夜比咩神社」で、越後国弥彦神社にはなぜか天香山命が祀られており、もとの弥彦大神とは大屋彦=五十猛なのか出雲の大彦なのかと疑問が残りましたが、対となる能登の伊夜比咩神社の祭神は大屋津姫となっていて、五十猛と大屋津姫の組み合わせは紀伊の樹木神。キセツヒコの子孫が越国君となっていたわけですし、能登には船木部がいたことも文書にあり(平城京跡の出土木簡)、船木氏が紀伊との繋がりから樹木神(五十猛、大屋津姫)や造船の神(イタテ神=五十猛)を祀ったのだとすれば不思議ではないと思われます。

つまり船木氏は三輪山の太陽神を祀る大田田根子を祖にもちながら、磯城王家と物部の血筋も入り、紀氏とも親戚になるわけです。最強の氏族ですね。そして神功皇后の時代に船を造って献上したことから船木の姓を名乗ったということです。

古事記の記述と併せると、伊勢にはふたつの系統の船木氏がいたことになります。

神八井耳命は海村雲とタタラ五十鈴姫の御子であり、五十猛(香語山)と事代主の血筋。

大田田根子は事代主の御子、天日方奇日方(登美家)の分家。

どちらも事代主の富家ということで、同族として船木氏を名乗ったのでしょうか。

 

伊勢川比古イセツヒコについて出雲伝承では伊勢津彦椿大神社に幸の神を遷した人」といわれています。椿大神社の社家は宇治土公家で祖は大田命(登美家分家)ということなので繋がりますね。

この椿大神社の北東、四日市には神八井耳命を祀る耳常神社、太おおの神社が鎮座。耳利神社(菟上神社に合祀)は舟木大明神と呼ばれていたようで、耳常神社ともに船木直の子孫が長く祀ってきたそうです。銅鐸も出土しています。出雲族の居住地に多い「朝日」という地名もみえます。

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住吉大神を祀る神社の中に「紀伊国伊都郡丹生川上社、天手力男意気続々流住吉大神」と記され、紀伊国神名帳にも「正五位上天手力雄気長足魂住吉神」とあります。息長垂姫(神功皇后)を彷彿とさせる名です。

また播磨国風土記逸文には、神功皇后新羅征伐に向かう際、邇保都ニホツ姫/丹生都姫(丹=朱砂の女神)が現れ、私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろうと言って赤土(朱砂)をお出しになったので、それを武器や船、軍の着衣などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代之峯に祀ったとあります。呪術と船の防水・防腐剤として朱が使われています。※播磨国の丹生神社は地図に記しています。

住吉大社宮司真弓常忠氏は著書「古代の鉄と神々」の中で、藤代の峯を今も丹生神社が複数鎮座する伊都郡高野町大字富貴ふき筒香つつかに比定しています。富貴ふきはタタラ炉の火を吹く「フキ」であり、筒香、管川つつかわはシャフト炉型タタラ炉の筒であると。(シャフト炉とは地形を利用した筒状の炉体が煙突の役目をするもの。)藤代の峯とは、鉄穴かんな流しで砂鉄を採る際に使う筵むしろの材料が藤蔓つるであり、材料としての藤代だろうと。ニホツ姫の鎮座地なのに製鉄の話になっていますね。造船には材木だけでなく、鉄、朱砂が必要ですから。

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真弓氏は「天手力男意気続々流住吉大神」を祀った場所が藤代の峯であるとし、住吉大社神代記にはその後のこととして、住吉大神播磨国に渡り住まんと言われたので、丹生川上から移ったと記されています。(なので現在、住吉大神は祀られていません。紀の川周辺には多いです。)

真弓氏は「この時、船木直が関わっていたと伝えられている」といわれます。また、播磨の加古川から明石にかけての海辺は、中国山地から流れ出た砂鉄の宝庫だったそうですよ。完全に船木氏の領域です。

朱砂の研究家である松田壽男氏の著書「古代の朱」でも、藤代の峯については筒香を比定地としています。古代の朱産地であり、紀の川に入る丹生川の発源地帯でもあります。富貴から東の山筋を越えた五條市にも同名の丹生川があり紀の川(ここでは吉野川)に合流します。つまり藤代の峯は分水嶺でしょう。

8世紀に書かれたとする「丹生大明神告門のりとには、最初に丹生都姫が天降ったのは伊都郡庵太村(現・九度山町慈尊院)とし、その後川上の水分みくまりの峯(藤代の峯でしょう)に移り、さらに大和など転々とした後に天野社(紀伊国一宮丹生都比賣神社)に鎮まったと記しています。この丹生都比賣神社は空海高野山を開く時に、土地の神であるニホツ姫(丹生都姫)から神領を譲られたので、先にここに祀ったと伝えられています。

ニホツ姫が最初に天降ったという庵太村は、現在の高野口にあり、古くは舟木山の麓でした。ここは丹生川が紀の川に注ぐ地点。つまり庵太村と藤代の峯は丹生川で行き来できるということですね。そして紀の川の河口には、静火社、志摩社、伊達社が鎮座しています。新羅征伐の際に船木氏の献上した3艘が武内宿祢によって祀られたところ。

これらの話をまとめてみると、最初はニホツ姫は舟木山の麓に降臨しましたが、住吉大神が来られる際に藤代の峯に上ります。その後住吉大神はさらに砂鉄が豊富な播磨国へと移動。丹生神社だけが残りました。これらすべてに船木氏が関わっていたこととなります。

そして住吉大社神代記には、播磨国の明石郡、賀茂郡紀伊国伊都郡にすでに船木氏の勢力があり、また伊勢、越にも及んでいたことが書かれているわけです。

 

次回、神功皇后以前の船木氏の足跡を辿ってみたいと思います。

 

※大昔、火山活動によってできた熱水鉱床(銅、鉄、鉛、亜鉛、金、銀など)の中で、熱水が動く過程で水銀や朱砂(硫化水銀)が生成されるそうです。なので鉄と朱砂は隣り合わせともいえるのでしょう。色も似ていてややこしいです。出雲伝承では朱砂については、遺体の防腐剤として使われたことに触れられているだけです。 

 

参考文献及びWebサイト

真弓常忠著「古代の鉄と神々」

松田壽男「古代の朱」

田中巽「住吉大社神代記について」

神奈備にようこそ~布奈木の郷

 

 

 

 

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡

 

地名というのは先人からの貴重な遺産。どのような地形、性質だったのかだけでなく宗教、職種、誰が関わっていたのか等々、多くの情報を未来へ伝え得るものですが、一旦変更されるとそれらの情報とともにあっけなく失われてしまいます。

国内の地名残存率を見てみると、平均で4割。ところが淡路島は8割も残っているというのです。郡や郷だけでみると9.5割!さすが国生みの島ですね。

 

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今回訪ねた淡路島の五斗長垣内ごっさかいと遺跡の「ごっさ」も不思議な名前ですが、由来については残念ながらまだ腑に落ちる説に出会っていません。

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遺跡近くの棚田

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2004年、淡路市黒谷の五斗長ごっさ地区を台風が襲い、ため池が決壊して棚田が土砂に埋まってしまいました。50世帯、高齢化の進むこの地区では若い人がますます減って大きな痛手となりました。それでも立ち上がるしかないと復旧の工事を始めます。ところが土砂を取り除いていくと、水田の下から国内最大級の鉄器生産集落跡(1~2世紀)が現れたのです。

その後住民の方々は自分たちの手で遺跡の施設を整備したり、見学者への説明など地区活性化に向けて活動を続けておられます。施設内では地元食材の手料理でもてなすカフェ(土日のみ)も皆さんで運営され、ほっこりとした心地いい空間となっています。五斗長カレーを頂きましたが、地元産の甘い玉ねぎが丸ごと入っていて、辛さとのバランスが絶妙!とってもおいしかったです。

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播磨灘を見降ろして、広々とした気持ちのいい場所です。海に沈んでゆく夕日がきれいでしょうね。

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海岸から3㎞、標高200mの丘にあり、東西500m、南北50mほどの尾根の上に広がっています。

23棟の竪穴建物跡のうち12棟が鉄器を作る鍛冶作業場です。一番大きな建物では柱を10本使い、直径が10.5m。

100点を超える鉄器や、朝鮮半島製とされる板状鉄斧が出土しています。鉄器の中では鏃やじりが多いです。

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下の写真は一番大きな建物の復元です。中では地元の方による火起こしや鞴ふいごの体験会が行われていました。

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皮袋で風を送ります。

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遺跡入口にある施設では、現在洲本で開催されている「古代淡路島の海人と交流」という展覧会のサテライト展示として、舟木遺跡の一部展示が行われていました。一般の方はまだ舟木遺跡に入ることはできませんので、とても有難い情報です。

舟木遺跡が知られることとなったのは、昭和41年に近所の小学生が土器を発見したことに始まります。海岸から2㎞ほど、標高150~190mの丘に位置し、東西500m、南北800mという広さ。五斗長垣内遺跡の16倍になります。

こちらの遺跡からも大規模な鉄器工房跡が現れ、時期は五斗長垣内遺跡より少し遅く、2世紀後半から3世紀前半までの使用と推定されています。

五斗長垣内が1世紀半ばに現れ2世紀半ばに鉄器生産の最盛期を迎え(建物の巨大化)、間もなく交代するかのようにさらに大きな舟木遺跡が出現、3世紀前半には消滅しました。

出雲伝承の示す年代を考慮すると、五斗長垣内は倭国大乱(147~188年)の時期に重なります。ヒボコの播磨侵攻(150年頃~)、吉備と出雲の戦争(160年頃~)、第1次物部東征(165年頃~)。そしてより大規模な舟木が現れますが、第2次物部東征(246年頃~)が始まるととともに消滅しています。ここで戦乱があったというような痕跡は今のところないようで、捨てて移動した可能性が高いと思われます。

 

遺跡の中心付近には舟木石上神社が鎮座し、周辺から大型の器台型土器(祭祀用と推察)が出土しました。下写真のD地区と書かれた囲みの左下に石上神社とあります。

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淡路市教育委員会 平成30年度の舟木遺跡発掘調査現地説明会資料より

黒い太枠が遺跡の範囲で、黄色や青のかなり小さな長方形が平成27~30年度に調査された場所です。2m幅の溝(調査区)を何ヶ所か定めて発掘します。

平成29年度のわずかな調査区域だけで104点の鉄器が出土し、五斗長垣内遺跡の規模と出土数から考えると、今後どれだけの発見があるのか予想できないほどです。ところが来年度は調査書の作成のため発掘作業はお休みだそうで、全体像が見えてくるのはかなり先のことになりそうですね。

※上の地図には記されていませんが、平成3~6年に調査された区域も少しあります。

下の写真は航空レーザー測量による三次元立体地図です。B地区とD地区を拡大して、竪穴建物の位置と絵画土器が出土した場所を示しています。D地区の南尾根が祭祀場だった可能性が高いそうです。書き込まれてはいませんが、D地区の西側の丘に舟木石上神社があります。

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同資料より

 

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平成27年度以降に発見した鉄器以外の主なものは、

中国鏡片(中国南部産の材料を使用した後漢鏡)

絵画土器、器台型土器(祭祀用と推測される)

他地域からの搬入土器(河内、但馬、丹波方面)

鍛冶工房跡

鉄製の漁具

塩土器、イイダコ壺(発掘状況からみて祀りで使われた様子)

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この鉄製ヤスは、弥生時代としては北部九州と山陰地域で少数の出土例があるのみで、他地域では極めて稀な鉄器だそうです。山陰では青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡など、近年鉄器の出土が増えていますが、青谷上寺地遺跡からは上の写真と同じような逆刺かえしがついたヤス、釣針が出土しています。海の民による何らかの交流があったのでしょう。

これらの遺跡も最盛期は淡路島と同じく200年頃となります。

出雲伝承では奥出雲は良質の砂鉄が採れ、ウメガイと呼ばれた両刃の小刀が豪族達に人気だったそうです。他にはフトニ大王が占領した吉備や、ヒボコが狙った播磨からも砂鉄が豊富に採れたといいます。淡路島には野ダタラの跡もないようなので、鉄の加工を行う鍛冶場として機能していたのかもしれません。

 

舟木石上神社

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電柱の左下の小さな看板に「石上神社」とあります。カーナビでは表示されなかったので、この交差点を見落とすと辿りつけません。

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三輪山の真西に鎮座する舟木石上神社です。鳥居の左脇には女人禁制を示す碑が建っていて、女性は右手の小道を進んで稲荷神社からの参拝となります。

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出雲伝承では太陽信仰の司祭者は古来より女性(姫巫女)であり、男性となったのは3世紀半の大田田根子(太田タネヒコ)からです。

ここからは同行者に撮影をお願いしました。

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ご神体の磐座です。その下の空間に小さな祠が祀られています。

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人為的に支え石が置かれているようにも見えます。祠は南向き。

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磐座の右手にまわり横から見ると、下写真のように大きな割れ目があって、ホト岩(女神岩)であることがわかります。ここがちょうど東を向いています。

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祠の背後にはたくさんの巨石が。

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写真では影になってわかりにくいですが、ふたつの巨石が三角の空間を作り(ホト岩)、中に小さめの石が置かれています。人為的なものであれば児玉石=子神石かもしれません。子宝を願って祀られるものです。

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小ぶりの三角の立石のまわりに御幣がたくさん立てられています。ここは鳥居から入ってご神体の磐座に向かい左手になります。

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横から見るとお祀りされていることがわかります。

地元の方は荒神さんと呼ぶそうです。出雲の竜神は怖い顔をしているので荒神とも呼ばれるようになり、それを役の行者が全国に広めました。もとは幸の神(幸神)です。

 

「舟木」という地名にもなった、古代に造船や住吉大社神官として活躍した船木氏について、次回辿ります。

 

 

 

 

 

太陽の道⑵松帆神社、伊弉諾神宮

 

 

ところで淡路島の伊勢久留麻神社は、伊勢の斎宮跡と舟木石上神社を結ぶとされる太陽の道(北緯34度32分)から僅かにずれていて(北緯34度31分)、実際には久留麻神社の真北1㎞に位置する松帆神社が太陽の道にぴったりと重なるんです。

創建が1399年なので古代の信仰とは関係ないと思っていたのですが、実は不思議な縁があったことをT様に教えて頂きました。今回の旅ではこちらへは行かず、残念!

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楠木正成と松帆神社

楠木正成は富田林の美具久留御魂神社(下水分社)、千早赤坂村の建水分神社(上水分社)等を氏神として崇敬していました。千早赤阪村金剛山の西側ですが、東麓にはかつて出雲族の高天村がありました。

楠木公は湊川の戦いで自害する直前、守護神としていた八幡大神の御璽(文殊のようなもの)を家臣の吉川弥六に託します。弥六たちは敵陣を突破してなんとか淡路島へ渡り、楠木村(現在の淡路市楠本)の山中に小さな祠を建てたそうです。ところがそのすぐ南には彼らの氏神様と同じ来馬大明神・久留麻神社が。神のお導きと思わずにはいられなかったでしょう。それから60年経ったのち、幡山に幡山八幡宮として遷座、創建され、それが現在の松帆神社ということです。

神社からは昭和の初めに、名刀「菊一文字」が発見されました。後鳥羽上皇が自ら焼入れをされたといわれる十六弁の菊紋入り小太刀です。吉川弥六の末裔吉川家には「菊一文字は落ち延びた家臣で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」という口伝もあるそうで、楠木公が後醍醐天皇より恩賞として賜った太刀の可能性も‥‥。

松帆神社ブログには、現在地への遷座に尽力したのが正井将監(本名・菊池能平)であると書かれていて、祖父は九州肥後国の菊池家。祖父も湊川の戦い南朝側として参戦し、敗戦後は九州へ単身戻ることができたけれど、何故か孫は淡路島へ。

出雲伝承では楠木正成も菊池家も出身は出雲忍者(出雲散家)であり、両家は親戚同士だといいます。(菊池家は筑紫舞と繋がりがありそうな「山の能」を継承していたことを、以前の記事で紹介しました。)

松帆神社は太陽の道の上にあって三輪山の真西に位置し、山頂とはたった25mの誤差しかないことをT様はGPSで確認しておられます。鬼門は神戸の湊川神社楠木正成殉節の地)~京都であると。

正井将監が楠木公と親戚かつ出雲忍者の家系ということにも頷けてしまいそうです。

 

 淡路島のイザナギ大神

以前の記事でも古代淡路島についてT様の情報をもとに紹介しました。 

 

多賀に鎮座する淡路国一宮、伊弉諾神宮は、イザナギ大神が余生を過ごした幽宮かくれみやだとされています。ところが淡路島北端にある石屋いわや神社そばの洞窟(恵比須神社奥の岩樟神社)こそが元幽宮だという説もあるんです。

なんだか大国主や事代主が幽閉されたという出雲の岩屋を思い出してしまいます。(この海辺の洞窟は現在では奥行が3mですが、昔は52mもあったそうです。岩屋城を築城する時に削られたとのこと)

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石屋神社は崇神天皇の御代に三対山の頂上に創建され(築城の際に南方に遷座)、祭神は国常立尊イザナギ尊、イザナミ尊。

成務天皇は石屋神社の分霊を祀れと勅命をだし、対岸の明石に岩屋神社が創建されました。主祭神イザナギ尊。

神功皇后三韓征伐の際に、明石からわざわざ三対山の山頂へ登って戦勝祈願したといいます。

松帆神社裏手にある知賀地神社にはイザナギ尊、イザナミ尊が北向きで古い祭祀方法で祀られているそうです。真北に岩屋神社、真南に伊勢久留麻神社。これはT様によると神霊結界だそうです。

また、神戸市垂水の五色塚古墳(400年頃築造と推定される)の円墳から中心軸を見通した先が、明らかに対岸の三対山を意識した作りだとT様は指摘されています。被葬者はわかっていません。

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兵庫県最大の前方後円墳(復元)です。

上~中段の葺石は淡路島北東岸産と推定されています。日本書紀にも神功皇后の時、亡き仲哀天皇のお墓を作ると偽って、皇后と敵対する皇子らが島の石を運ばせたとあります。

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前方部から淡路島を望む写真ですが、三対山を向いているようですね。

このように崇神天皇の時代から(本来は垂仁天皇でしょう)淡路島北端が重視されていて、第2次物部東征後に淡路島へ遷され祀られた、物部の祖霊神ではない偉大なる(畏れ多い)存在があったのだと思われます。

日本書紀では崇神天皇の御代に、疫病の流行や百姓が反逆したりと国が治まらなくなったので、天皇天照大神(幸姫命)を豊鋤入姫に託して大和の笠縫村に遷し、大物主神(事代主)は大田田根子に祀らせ、大和大国魂神(香語山ー村雲)は市磯長尾市に祀らせることにしたとあります。美具久留御魂神社も崇神天皇大国主命をここに祀らせたのが始まりといいます。

物部東征後、大和方面で祀られていた神々を新朝廷のもと、それぞれの子孫たちに祀らせたということになります。

 

さて、最後は淡路国一宮、伊弉諾神です。鳥居は阪神淡路大震災で倒壊したため再建されました。

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表神門。

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拝殿。Wikipediaより

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中門とその奥にご本殿。
実はずっと禁足地であったイザナギ大神の神陵が、この本殿の下にあるといわれています。明治時代に墳丘を覆うように整地し、その上に本殿を移築したのだと。本殿の床下には墳丘に使われていた数十個の石が格納されています。

T様によると、もともとご神体は円墳で、その前段に本殿が営まれる古い形態の神社だったそうです。明治政府は千数百年にわたって絶対禁足地として守られてきた古墳を破壊して完全な更地にし、石室、石棺を白日の下に曝し学術調査?が行われ、石棺内部には2体のご遺体を認めたと伝承されているとのこと。ご遺体はその後どうなったのでしょうか。そしてその方々は誰なのでしょう。

出雲伝承ではイザナギ大神とはクナト大神のことです。とはいえここにご遺体があったとは考えられません。出雲王家に繋がる方なのでしょうか。

 

この写真は伊弉諾神宮の宮司さんが専門家に計測を依頼して作られた「陽の道しるべ」の石碑です。伊弉諾神宮が中心となっています。

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冬至の日の出の方角を見ると熊野那智大社の大瀧とされていますが、碑文に説明されている「南への角度28度30分」だとすると那智大社ではなく花窟はなのいわや神社がその方角にあたります。日本書紀にはイザナミ尊を紀伊国の熊野の有馬に埋葬し、土地の人が花を供えて祀ったと記され、それが花窟神社とされています。

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中島尚彦氏のサイト「日本とユダヤのハーモニー」を拝見したところ、この角度をさらに正確に調べると、伊弉諾神宮の奥宮ともいわれる岩上神社(巨石信仰)から花窟神社(巨石信仰)への角度にほぼ重なるのだそうです。出雲族の女神を祀る花窟神社のことは少し前の記事「弥彦神社と伊夜比咩神社」で書きましたが、ここから出雲の女神を那智大社へ勧請しています。

夏至冬至ともに朝日を参拝する方角は、出雲族の信仰が伺えます。

 

T様は飛鳥宮を中央に、真東は伊勢内宮(幸姫命/天照大神)、真西は伊弉諾神宮(クナト大神?)にあることから、人為的なものを感じると。このラインは北緯34度27分(飛鳥宮は34度28分)。距離的にも飛鳥宮がほぼ中央にありますね。

もうひとつ、伊勢の佐那神社もこのライン上にあるんです。北緯34度28分。佐那神社は天の岩戸を開いた手力男の神を祀る船木氏の神社といわれます。

一方、淡路島の舟木石上神社は伊勢の斎宮跡とを結ぶ太陽の道(北緯34度32分)にあります。

伊勢と淡路島を結ぶふたつの太陽の道に、船木氏が関わっているのかも。

船木氏は大田田命の子孫。初代大神神社の男性司祭者、大田田根子(太田タネヒコ)です。

次回、舟木遺跡、五斗長垣内遺跡を紹介しながら、舟木氏について考えていきたいと思います。

 

T様、今回もたくさんの貴重な情報を教えて頂きありがとうございました。私の理解不足、見当違いなどありましたらご連絡下さい。

 

 

 

 

 

太陽の道⑴伊勢久留麻神社とイザナギ大神の道

淡路島へ行ってきました。

前々から気になっていた五斗長垣内ごっさかいと遺跡と舟木遺跡を目指します。1~3世紀の鉄器工房が現れたというかなり興味深い場所です。

その前に、前回記事の伊勢久留麻神社が近かったので、先にそちらを回ってみました。 

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東向きの拝殿です。昔は来馬大明神と呼ばれていたそうです。

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ご本殿。創祀年代は不詳ですが、社伝によると敏達天皇の頃(572~585)に伊勢国の久留真神社より勧請されたとあります。

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東を向くと鳥居の先に小さく海が見えています。古代は目の前に海が広がっていたでしょう。(昔は少し内陸にあった可能性もあるそう)

実は前回記事で大阪、富田林市の美具久留御魂神社のことを教えて下さったT様より、この旅の後に再び貴重な情報を頂きました。

 

久留麻周辺の神社は愛宕山神奈備/ランドマークとしているように思われるとのこと。以前は山頂に大きな三本松が立っていて、そこに愛宕神社の祠が祀られていたそうです。虫被害で松が伐採され、近年麓のショウキさん(場所がわかりませんでした)の祠の横に遷されたと。

そういえば久留麻神社の境内にも愛宕社の祠がありました。

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久留麻神社からは愛宕山の方角に伊弉諾神宮があります。久留麻神社から見ると、夏至の日没は舟木石上神社の方角に、冬至の日没は伊弉諾神宮の方角になるそうです。反対に舟木石上神社からは冬至の朝日が、伊弉諾神宮からは夏至の朝日が久留麻神社の方角から昇るのだとのこと。

そして伊弉諾神宮から久留麻神社に向かってイザナギさまが延々と鎮座しているそうで、なんとそのずっと先の尼崎市吹田市イザナギ神社等もあって、このライン上の要所要所にお祀りされているようです。

由緒を調べてみましたが、尼崎市伊邪那岐神社はわかりませんでした。

吹田市の伊射奈岐神社は佐井寺と山田の地に並んで鎮座しています。延喜式神名帳には摂津国島下群に伊射奈岐神社二社とあります。

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佐井寺社。

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山田東社。

佐井寺社は、雄略天皇22年に豊受大神丹波国の真名井原より伊勢外宮に遷座した翌年、天照の神託を受けた倭姫の教えによりイザナギイザナミ両大神を「佐井が原」に祀ったのが始まりであるとしています。その後イザナミ大神を東北の地(山田)に遷座し姫宮とし、本社を奥宮としたそうです。山田東社の由緒には後から分かれたということは記されておらず、山田の地名は伊勢山田(外宮の地)から付いたとあります。

「佐井が原」とは幸の神のサイでしょう。すぐそばに「佐井の清水」という泉があったことを示す碑が建っています。東隣は摂津三島。事代主の妃、活玉依姫(玉櫛姫)の実家である大豪族三島の領地です(摂津国から山城国西南端まで)。東奈良遺跡からは銅鐸の鋳型が出土しています。事代主亡き後、活玉依姫と息子のクシヒカタ(天日方奇日方=天の奇しき力を持つ太陽を祭る人。出雲の太陽信仰を象徴するような名前ですね)が出雲の人々を連れて三島に里帰りしたので、そこは富家の領地のようになりました。摂津は出雲連合国に。ここから大和へ最初に移住したクシヒカタは、三島の人々も大勢連れて行ったといいます。

その後も物部勢に追われた大彦や尾張氏も、摂津三島へ避難のため移住したり、さらに後継体天皇(富家次男)も越前から大和の大王になるためやって来た際には三島氏の協力を得ようと、その地に近い淀川と木津川の分岐点に楠葉ノ宮を建てました。高槻市の樟葉です。このように摂津三島の地というのは、古来より出雲王家の富家と深い関わりがあるのです。

また、この夏至の朝日のラインを北東に向かってもっと伸ばしていくと、なんと諏訪大社に行き当たります。富家事代主の御子、建御名方富彦=諏訪大明神です。ここまでくると「まさか~」と苦笑い。ところが、滋賀県多賀大社がこのライン上にあると気づき、多賀大社といえば古事記写本のひとつに「イザナギ大神が坐すのは淡海の多賀」とあって近江を示しています。ただし日本書紀には「淡路の洲くにに幽宮をつくり」とあるため、海と路の誤写であって多賀とは淡路島であろうと考えられています。その多賀大社イザナギ尊、イザナミ尊を祀る)が伊弉諾神宮と夏至の朝日のラインで繋がっています。

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多賀大社 Wikipediaより

古事記以前はこの地の豪族、犬上氏の始祖を祀っていたという説もあるようですが、詳しいことはわかりませんでした。

多賀大社の南方に別宮、胡宮このみや神社が鎮座しており、イザナギ尊、イザナミ尊を祀っています。神体山の青竜山頂上には磐座があって、この巨石信仰が起源といわれています。敏達天皇の勅願所であり、多賀大社奥の院となる聖徳太子創建の敏満寺の鎮守社として栄えたそうです。もし古事記以降に多賀大社の祭神がイザナミ尊、イザナギ尊になったのだとしても、巨石信仰がこの地に根付いていたのであれば、古くは出雲族の存在があったことが伺われます。

多賀大社には「御烏喰おとぐい神事」と呼ばれるものが伝わっており、祭りの前には本殿脇の先喰台の上に神饌のお米をお供えし、神饌に穢れがなければカラスが啄むということです。この神事は熱田神宮や広島の厳島神社でも行われるそう。これって東北の農家で収穫を占う「カラス勧請」ですね。以前の記事「お正月の源流」で紹介しましたが、インド(タミル族)のお正月の風習と共通するひとつです。

調べてみると、伊弉諾神宮を基点とする夏至の朝日のラインには、出雲族が関わっているところが多いことが見えてきました。

このライン上ではありませんが、海中の夫婦岩で有名な伊勢の二見浦には、出雲系の二見輿玉おきたま神社が鎮座し、サルタ彦大神が祀られています。

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Wikipediaより

左の三角の岩が女神、右手が男神。しめ縄は縁結びをしています。この神岩を遥拝するために神社が設けられたのが始まり。昔は伊勢神宮の参拝前にこの海で禊(沐浴)をするのが慣わしだったそう。現在も夏至祭では夫婦岩の間から昇る朝日を参拝しながら禊をするようですね。夏至の前後2週間ほどは遠くに見える富士山の頂から朝日が昇るのだと。この写真もよく見るとダイヤモンド富士。まさに神々しいです。

淡路島の伊弉諾神宮から諏訪大社へと続く夏至の太陽の道を見てきましたが、やはり太陽信仰に基づいた意図を感じさせます。まさかとは思いつつも、古代の人々の信仰心を理解するには、遺されたものを拾い上げていくほかありません。

 

長くなりましたので、次回、伊勢久留麻神社の北側に位置する松帆神社と、淡路国一宮、伊弉諾神宮を紹介します。

 

 

 

 

オオタタネコと美具久留御魂神社

中西・秋津遺跡

先日、弥生時代前期最大の水田跡が見つかったとの報道がありました。奈良県御所市の中西・秋津遺跡です。

2009年から調査が始まっていたようで、当初は古墳時代前期(4世紀前後)最大級の祭祀集落跡として発表されました。当時の中心地であった太田村の纏向からは15㎞南西に位置していますが、一豪族のものとは考えにくい規模であり、初期ヤマト政権による宗教都市ではないかという見解だったようです。その後水田跡が徐々に見つかって、今回の調査結果を合わせると43000㎡となり、地形を考慮すると総面積10万㎡以上になる可能性もあるとのことです。東京ドーム2つ分?

緩やかな傾斜地を利用しての灌漑設備を伴う広大な水田が、この時期にはすでに作られていたことがわかりました。

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遺跡の場所を見ると、出雲族と海村雲率いる秦族の連合国が誕生した地域になりますね。村雲は初代ヤマト大王

火雷神社は村雲たちの住んだ笛吹の高尾張村に鎮座しています。鴨都波神社、一言主神社は出雲の富家分家の登美家。御歳神社、高鴨神社は出雲の神門臣家分家が創建したということです。登美家はやがて三輪山磯城地方へ移住し、海王朝が2代続いた後の磯城王朝となっていきます。

大陸からの水稲技術を広めたと考えられる海村雲ですので、ここに広大な水田があったことに繋がりそうです。

ただし発掘調査では水田の時期としては約2400年前と言われています。出雲族が葛城地方に移住してきたのは、伝承によると紀元前200年頃のことです。200年の差を誤差として捉えていいのかどうか。

  

大田田根子は太田タネヒコ

続いて、今回もコメントの紹介をさせて頂きます。

前回の記事に、神社での参拝の作法は通常は2拍手ですが、出雲大社宇佐神宮弥彦神社だけは4拍手だと書きました。

T様より、大阪府富田林市の旭ヶ丘に鎮座する美具久留御魂みぐくるみたま神社も4拍手だという情報を教えて頂きました。この辺りは登美家分家の大田田根子オオタタネコの本拠地であったろうと。

 

富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、記紀大田田根子の本名は「太田タネヒコ」だと出雲旧家では伝承されているそうです。纏向の太田村の地名となった人物です。出身は和泉国の陶村すえむらあたりで、自身が創建した陶荒田すえあらた神社堺市)がそこに鎮座しています。今もそこは「太田の杜」と呼ばれているようです。

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そして斎木雲州氏の著作の中では八咫烏とは登美家本家の賀茂建津乃身だと記されていますが、こちらの伝承では太田タネヒコだとしています。大彦勢が大和から去った後、大和を統一できるのは物部勢だと見抜き、軍を熊野から磐余へと導いたというのです。太田タネヒコは本家の登美姓を名乗ったので、物部軍は太陽信仰を持つ鳶とびとして「黄金色の鳶」と呼んだのだと。(金鵄)

※斉木雲州氏の示す登美家系図とは一部違っています。

物部勢が磐余にやって来ると、登美本家の人々は北方へ逃げ、一部は奈良市の登美ヶ丘や山城国南部へ移住しました。そして代わりに太田タネヒコが三輪山へ進出したということになります。

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美具久留御魂神社の近くには富美ヶ丘、陶荒田神社の近くは登美丘という地名が残っていて、ダンスで話題となった登美丘高校もこちらにあります。富田林の富も?

太田タネヒコは朝日の昇る三輪山へと向かって出世していったようですね。
 

さて美具久留御魂神社ですが、延喜式内社とされ、境内には裏山古墳群があり4基の古墳が残されています。社伝では崇神天皇の御代にこの地に大蛇が出たため、天皇大国主命を祀らせたことに始まるそうで、主祭神大国主命の荒御魂となっています。(東の三輪山には大物主の和御魂が祀られています)

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ご本殿と上拝殿。

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下拝殿。

大田田根子といえば記紀の中で、崇神天皇の時代に疫病が大流行し、天皇の夢に大物主神が現れ「我を大田田根子に祀らせよ」とのお告げがあったため、大田田根子を探し出して三輪山の祭祀をさせたと記しています。それまで三輪山の司祭者は姫巫女たちでしたが、この時から男性に変わりました。大神神社の初代神主、三輪の大王です。

そして魏志倭人伝に記されたいわゆるヒミコ(伝承ではモモソ姫)の祭祀を補佐し、身の回りの世話をした人物が大田田根子だと伝承は云います。斎木氏はモモソ姫は大彦の妹としていますが、「出雲王国とヤマト政権」では旧家の伝承ではモモソ姫は太田家の娘と伝わっており、タネヒコの姉ではないかと。

以前からどうして突然大田田根子がこのような重要な地位に就いたのかと不思議でしたが、この人こそが物部軍を磐余へ導いた八咫烏なのだとすれば納得です。親戚内の勢力争いがあったというわけです。

注)記紀では崇神天皇の御代としていますが、崇神天皇とされたイニエ王は九州から出たことはないということです。

 

美具久留御魂神社の名前の由来ですが、ご神託の言葉の中の「山河の水泳みくくる御魂」(山から流れ出た水を分配する神様)からつけられたと社伝にはあります。

横道に逸れますが、珍しい名前だったので他の地域にもみられるのかなと調べたところ、少し似た名前の神社が淡路島にありました。伊勢久留麻神社です。敏達天皇の580年頃に伊勢鈴鹿市久留真神社から勧請したと伝えられており、久留真神社は延喜式内社で大国主を祀っています。(伊勢久留麻神社の主祭神は大日孁貴オオヒルメムチ

出雲族は大和地方に移住した際、伊勢にも進出しており、最初に創建したといわれる鈴鹿市伊勢国一宮、椿大神社つばきおおかみやしろは出雲の出雲井社から幸の神を遷し、サルタ彦大神を祀っているということです。遷した人は後に伊勢津彦と呼ばれました。社家は宇治土公ウジトコ家で、皇大神宮儀式帳(804年に提出された伊勢神宮内宮の儀式帳)には「伊勢内宮の大内人(神官)の宇治土公氏の祖は大田命」と記されています。

久留真神社の現在の宮司は太田氏のようですが、子孫の方でしょうか。淡路のほうは継承者が途絶えているとの情報が見られました。

 

 

さて、参拝作法の「4拍手」の話に戻ります。

出雲大社の説明によると、最も大きな祭典である5月の例祭では8拍手をするそうで、8は無限の意味をもち、神様をお讃えする作法だということです。通常はその半分の4拍手となります。8は出雲の聖数ですね。伊勢神宮神職の方が行う祭祀の際には8拍手ということですが、一般の方は2拍手。熱田神宮も8拍手です。

この3社は三種の神器と関わりがあります。出雲の八尺瓊勾玉伊勢神宮八咫鏡熱田神宮の叢雲剣。

伝承によると、もともと出雲では「2礼3拍手、祈りの言葉、4拍手1礼」だったそうで、3拍手は出雲の聖数であり、神霊が目覚める合図だったそう。4は「おしまい」の「終」の意味。

そもそも「2礼2拍手1礼」が広まったのは、明治に制定された神社祭式行事作法に始まります。それまでは多種多様な作法であったそうです。ほとんどの神社が昭和に定められた2拍手に従う中で、8拍手や4拍手にするというのは、それなりの理由があることなのかもしれませんね。

4拍手の出雲大社宇佐神宮弥彦神社、そして美具久留御魂神社。北から越地方、大和地方、出雲地方、北九州地方として見てみると、古代に栄えていた地方を代表しているように思えてきます。そしてそれぞれに出雲の血筋であるようです。宇佐家伝承によると、ウサ族の母系祖神は市杵島姫、つまり出雲の宗像三姉妹。弥彦神社は大彦の子孫の可能性も高いかなと考えています。美具久留御魂神社は太田タネヒコの領地のようなので事代主の子孫となります。

 

太陽の道・レイライン

今回三輪山二上山そして伊勢と話が出たので「太陽の道」について少し。

奈良盆地では春分秋分の日に三輪山から日が昇り、二上山に沈んでいきます。多神社から臨む朝日は三輪山の頂上から昇り、桧原神社から眺める夕日は二上山の雄岳と雌岳の間に沈むそうですよ。大和三山を見渡せる雄岳の頂には、謀反の疑いで自害させられた大津皇子のお墓があるともいわれ、夕景は彼岸への入り口を思わせるとも。

三輪山二上山北緯34度32分の緯度線上にあります。この東西のライン上に多くの神社などパワースポットが並んでいるというミステリー。東の端は伊勢斎宮跡(さらには伊勢湾に浮かぶ神島)、西は淡路島の舟木石上神社へ。(この神社は伊勢久留麻神社の近く)

これが太陽の道・レイラインですが、三輪山の太陽信仰を考えれば、三輪山を中心として自ずとそうなったということだろうと思っていました。二上山はたまたま三輪山と東西に並んでいただけですしね。ただ今回太田タネヒコのことを調べたことで、面白い繋がりが見えてきました。

次回、太陽の道から浮かんでくる太田氏、舟木氏を探ってみたいと思います。