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源流なび Sorafull

倭人に迫る・九州西北部

(2019.3.17.一部改定)

キーワードは「九州西北部」

少し前にNHKの「クローズアップ現代という番組で、マッチョな弥生人の骨について紹介していました。今年8月、人類学者の海部陽介氏が、宮ノ本遺跡(長崎県佐世保市の高島)から弥生時代の全身骨格を発掘されたそうです。一般的な弥生人はひょろっとした体型で、身長は平均162㎝ほど。今回のものは約158㎝で推定77㎏。上半身が異常に発達した筋骨隆々タイプです。

過去に発掘されたものを調べてみると、五島列島宇久島平戸島、下島など九州西北部の島々から同じような人骨が出ていることがわかったそうです。男性の全員が平野部弥生人の平均以上の太さを持っています。

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発達した上腕骨の形から、腕をあらゆる方向に激しく動かす動作を幼い頃から繰り返していたと考えられ、舟の漕ぎ手だったと推測されます。海人族ですね。核DNAの解析を切に望みます!

結論を言うと、彼らは沖縄近海にだけ生息するゴホウラという貝の交易をしていたということです。佐賀や福岡で当時の権力者(稲作を行っていた平野部の支配者)が身につける貝輪と呼ばれる腕輪の材料を、沖縄や奄美仕入れ、薩摩で加工し、北九州の権力者へ売り、農作物と交換したと考えられています。これらの交易ルートをつないだ人々がマッチョな弥生人というわけです。Sorafullとしては彼らを倭人と呼びたいですが。

南さつま市の高橋貝塚から、製造途中の貝輪が出土しています。

大平裕著「卑弥呼以前の倭国500年」によると、ゴホウラの貝輪は男性が、イモガイは女性が身につけたそうです。

ゴホウラ Wikipediaより

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イモガイ Wikipediaより

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この南海産の貝輪の出現は福岡平野より西北九州のほうが古く、

西北九州⇒薩摩半島西部⇒沖縄諸島

という交易ルートの開発は西北九州側の人々によってなされたと、大平氏はみておられます。※貝輪は出雲とも交易されていたようです。

 

明刀銭からみる交易

また沖縄では明刀銭と呼ばれる青銅製の刀型の貨幣が出土しており、これは中国の春秋戦国時代に燕で作られた紀元前5~6世紀のもの。下の写真はWikipediaで刀銭として紹介されていますが、斉、燕、越などで使われたと説明があります。国によって形や刻印が変わるようです。

刀銭 Wikipediaより

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明刀銭の出土地沖縄では那覇市城岳貝塚と具志頭白北東崖下で、この辺りからは弥生式土器が集中して出土しており、中国式の土器はひとつもないそうです。中国と直接交易したのではなく、貝の対価として九州の弥生人によって持ち込まれたのではないかということです。

他にも佐賀県唐津市広島県三原市西野町に出土したという伝承があるようですが、詳細はわかりません。

また丹後の久美浜町からも明刀銭が見つかっています。久美浜町誌によると、函石浜遺跡から2枚発掘されましたが、1枚は発掘の参加者が持ち帰り、もう1枚は現在神谷神社に保管されているそうです。京丹後市教育委員会によると、この遺跡からは明治時代に「王莽の貨幣」と呼ばれる西暦14年頃に造られた中国「新」朝の貨幣が出土したそうですが、明刀銭はそれよりずっと古い時代の貨幣です。ただこの遺跡から出土したという確証がないため、伝承としての扱いとなり、これが事実であれば徐福渡来より前からの交易ということになりますね。香語山が進出したのが丹後半島の東側であり、西側には土着の民が生活していたのかもしれません。

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明刀銭は朝鮮半島の西~南部の海岸沿いからも多く出土し、倭人が交易したと思われる航路にあたります。

門田誠一氏の論文「朝鮮半島琉球諸島における銭貨流通と出土銭」によると、王莽の貨幣や五銖銭(前漢の紀元前118年に作られ隋まで続いた)も朝鮮半島の海岸近くや島嶼からの出土が多く、日本列島、朝鮮半島楽浪郡、中国本土をつなぐ交通の結節点にあることを指摘されています。また近年沖縄諸島での五銖銭(前漢のものも含む)の発掘が相次ぎ、北部九州経由ではなく中国、もしくは媒介者との直接交渉があったのではないかということです。媒介者とは倭人では?

ちょっと話が飛びますが、紀元前20世紀頃のエーゲ海では、大小の島々(島嶼とうしょ)を行き来して交易をする人々が前期エーゲ文明を生みました。エジプトやメソポタミアとの交易も行われ、世界最古の通商航海民と言われているそうです。戦争がないので城壁もなく、開放的で平和な時代だったようです。海洋民族の明るさを感じます。その後、ギリシア本土からギリシア人が侵攻し後期エーゲ文明に変わり、城壁が作られます。こちらは戦闘民族です。やがてこの文明も終わり、紀元前8世紀には大小200もの都市国家ポリスが形成される時代へと移っていきました。貨幣が普及し交易も拡大、急成長を遂げます。

エーゲ海の交易民も倭人も、島々の交易からしだいに遠くの国へ航路を伸ばし、異国の文化文明を取り入れることによって発展していったようですね。現代では陸の移動が容易いですが、古代は海上を行き来するほうが手っ取り早く、より未知のものに触れる機会が多かったでしょう。この頃は自分たちの「領土」といったものはなく、もっと大きな交易する「空間」という認識だったと思いますが、海から陸へ人々の生活圏が移動すると、土地の所有ということへ価値が変わっていったのでしょう。航海民にとっては、それはきっと不自由で窮屈な感覚だったと想像します。

 

なぜ五島列島

弓前文書の継承者であり解読に挑まれた池田秀穂氏は、祖先である倭人天族を次のように想定しています。氷河期の終わりとともに琉球諸島や九州に住み着き、やがて九州西海岸から朝鮮南端に向けて展開。紀元前5世紀頃には、中国や南朝鮮から仕入れた稲籾や鉄の農器具を本土縄文人に貸し与え、収穫を受け取るというシステムを作っていった。1世紀を過ぎると本拠地を五島列島博多とし、広大な交易圏をもっていたと考えておられます。

どうして五島列島に?と思いましたが、安曇族の研究をされている亀山勝氏は、弥生人の航路を次のように導きだしています。

 

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著書「安曇族と徐福」から、掲載された複数の地図と解説をまとめてみました。大きな海流を黄色の太線で、それ以外を青い線で描きました。注)簡略化しています。

青い線は1934年に行われた海流調査の一部を参考にしていますが、現在領海などの制約があってこれほど大規模な調査はできないそうです。還流は季節や潮汐流の方向、月齢などの影響を多少は受けますが、基本的な形が示されています。

亀山氏は博多の志賀島と長江河口を結ぶ航路を考え、海流と風向きによって導き出された航路がピンク色の太線です。赤い小さな印が五島列島です。

まずは対馬海流の影響を避けて志賀島から五島列島へ。そこで対馬海流を一気に横断できる東よりの風を待ちます。五島を出たら済州島を右手に見ながら、黄海暖流に乗って山東半島に向かいます。山東半島から陸沿いに南下して長江河口へ到着。帰路は長江から出る流れや引き潮などの流れに乗って東へ向かい、対馬海流に乗って五島列島へ。さらに対馬壱岐が見えたところから志賀島を目指します。

つまり五島列島で風待ちをしたりと、ここが大事な中継点になっているのです。なので航海民にとっては、博多と五島列島に本拠地を持つということに大きな意味があるわけですね。

この航路で帰路となる長江河口から志賀島までかかる時間を大まかに計算すると、秒速6mの風の中で船速が時速7㎞であれば5日足らずだそうです。現代であればヨットのような帆船でうまく風を利用できた時には、20時間だとか。(緑のアンダーラインは2019.3.17 改定)

私たちには遭難する遣唐使船のイメージが強く、大陸へ渡るのは非常に困難なものと思い込んでいますが、亀山氏によると、当時の船体は風の影響を大きく受けやすい造りであったにもかかわらず、風上に向かう操船術や天文航法、外洋の知識に乏しい乗組員が乗っていたことが原因ではないかと言われています。

船は大きく立派になっていたのでしょうが、古の海人族たちに受け継がれた智慧や技術は、海人族の衰退とともに失われつつあったということかもしれません。マッチョな人骨もしだいに消えていったようですので。

最初に紹介したマッチョな弥生人が九州から沖縄へ海を渡る時も、黒潮が障壁となるはずです。でも1~2月の強い北風が吹く時期は、風と同じ方向に波が立つため九州から沖縄へ進めたと推測されています。

 

最後に文献に記された五島列島を見てみましょう。

まずは古事記から。イザナギイザナミの国生みでは、最初に大八島(淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島対馬佐渡島、本州)を生み、次に6つの小島を生んでいきます。児島半島、小豆島、周防大島、姫島、そして五島列島、その南の男女群島五島列島知訶島ちかのしままたの名を天之忍男と記されています。古くは血鹿とも書いたそうです。こんな西の果ての島が国生みに選ばれることが不思議だったのですが、航海の要所だったわけですね。

肥前国風土記景行天皇巡行時、平戸島から西の海を眺めて「遠いけれどまるで近いように見える、この島を近嶋というがよい」といわれたとあります。第1の島を小近おちか、第2の島を大近おおぢかと呼ぶようになったそうで、現在は小値賀島にその名残があるようです。最初の地図に場所を書き込みました。志賀島と似た名前ですが、関係は?

また、島には土蜘蛛の大耳、垂耳たちが住んでいて、天皇は安曇連百足に捕えさせ誅殺しようとしたけれど、彼らが生かしてもらえればいつまでも食事を造り御前に献じますと誓ったので許された、とあります。

島の西側には合計30余りの船を停泊させられる2ヶ所の港があって、遣唐使船はここから船出して西に向かったということです。

この島の漁民は馬と牛をたくさん飼っていて、顔かたちは隼人に似ており、馬上で弓を射ることを好み、その言葉は土地の人とは異なっている、とあります。土地の人と漁民とは別なのでしょうか。倭人海人族の弥生語が残っているのか、それとも‥‥?

 

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安曇磯良と五十猛⑻ 春日大社若宮と摩氣神社

 

今回、弓前文書を紹介しておりますが、このブログは出雲伝承を踏まえつつ古代史を探求していますので、私Sorafullのフィルターがかかることを避けられません。ですので興味をもたれた方は、前回記事でも紹介した原本を読んで頂くことをお勧めいたします。

弓前文書の神文は、継承者である池田秀穂氏の解読によると、現代でいうところの宇宙物理学を思わせるような内容で、この現象世界の成り立ちが示されており、私たちがイメージする古代の神様の話とは異なります。また神道の根幹ともいえる「祓い」についても解説されています。これらは弥生語という一音一義の独特な表現方法によって記され、少ない字数の中に重層的で哲学的な内容を込めることを可能にしているようです。中身も弥生語もかなり難しいですが、この世界観に触れるだけでもとても興味深いです。

こと歴史についてはいろいろな見方が生じると思います。池田秀穂氏はこれを伝えたのは倭人天族(旧石器時代に渡来、弥生時代には北九州を拠点とした海人族)としてとらえ、いわゆる神武東征は彼らが仕えた大王が遂行し、計算上で360年頃(誤差を数10年から100年とする)に行われたとして、その時の九州の大君景行天皇であり、大和に国を移したのは崇神天皇としています。これは弥生語で天皇の諡おくりな崩御後につけられる贈り名)を読み解いた結果が基になっているようです。東征後しばらくの期間、その王朝は九州と大和との二王朝制であったとも。(天の大君、国の大君という言葉が使われていることから、天が九州、国が大和としている)

そしてこの弓前文書の内容は、紀元前300年頃に凝結曾根コヤネから倭人天族が受けた口伝だとしています。池田氏はこのことを次のように考えておられます。

倭人天族の宇宙自然観は最初は2次元的な世界であったが、ある時から突然理論が発達し、言わば4次元の宇宙自然観へと進歩した。このことは弥生の初め頃、中津と弓前という天才的な霊能家が天族の中に現れ、さらに最高級の巫女さんを得て、自然哲理を語る宇宙霊との交信が可能になったためにハイレベルの自然神学が樹立した。その交信を仲介したのが凝結曾根コヤネという高級霊ではないか。そして記紀はこの難解な哲理を高天原という神話の枠に嵌めたのだと。倭人天族にとって神様とは「変化する大いなる自然の流れ=カムロミチ(神ながらの道)」であり、記紀のいうような神々ではないということです。

弓前文書には大陸からやってきた徐福に該当する人物は登場しませんが、神文の宇宙創成において「アマノィポアカリ」という言葉が出てきます。意味は太陽の炎コロナであり、宇宙で輝きだした太陽を現しています。徐福の和名、天照国照彦天火明命に重なりますね。

これを出雲伝承をふまえて考えると、徐福の渡来は紀元前218年であり、池田氏らの年代推定の誤差を考慮するとコヤネの時期と近いものになります。徐福の渡来によってもたらされた道教的宇宙観が、縄文より続く海人族の自然観と融合され飛躍的に発展した、と考えることもできそうな。

言語についてですが、日本語が大陸の言語とは異なることを考えれば、渡来人がもちこんだ言語が縄文語(下に注釈あり)と入れ替わったというのではなく、縄文語の中に他の言語が混入したとするのが自然です。日本語のベースはほとんどが縄文語であり、そこへ古事記万葉集で使われた弥生語の神の名、祓詞が混ざり、大和言葉となっていったと思われます。渡来人に占領されたり支配されたわけではなく、持ち込まれたものを吸収していったということでしょう。

【注釈】以前の記事で大野晋氏の研究を紹介しましたので、記事の概要を書いておきます。

「日本にはかなり古い時期からの南方系の音韻組織をもった言語があり、そこへ縄文晩期以降にタミル語(インド、ドラビダ人の言語)がかぶさった可能性が高い。かつてはウラル・アルタイ語系(ブリヤート人含む)が文法的には最も近いとされていたが、共通する語彙が少なすぎるという欠点があった。タミル語の文法はウラル・アルタイ語系である。つまり旧石器から縄文にかけて日本列島にやって来た言語は南方系、北方系、そしてタミル語であろう」

これを今回は弥生語に対して縄文語とします。★タミル語出雲族の母国語。

 

池田氏は神武東征については委細心得から、景行や崇神の時と推定されていますが、それは置いておいたとしても、最初に美山(三輪)の大君の姫神に神懸かりしてヒルメ大霊のご神託があった、ということですので、すでに九州から三輪へ大君が来ていたことになります。そこで受けたご神託に従って出雲、三輪、大和、伊勢、常陸へと宮を建て、進んでいくわけです。

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委細心得から進路をまとめてみましたが、このことは見方を変えれば2度の物部東征があったという出雲伝承と重なります。出雲伝承が言うように、1度目は四国南岸を通って紀伊から大和へ、2度目は瀬戸内海を通っていったという内容と齟齬がありません。弓前文書には1度目の東征については記されていないので、中津弓前とは系統の違う者たちが行った可能性も。(1度目がホホデミの後裔である物部五瀬らで、2度目がイニエ王と豊玉姫とすると、イニエ王は中津弓前族に近い存在となる)

ただし2度目の東征は豊国物部連合国の豊玉姫(ヒミコ)に神懸かりがあったとしなければ出雲伝承の筋が通らないですね。三輪のヒメミコは代々登美家(事代主子孫)の娘たちなので。

注)池田氏、萩原氏は東遷して三輪に着いたとたんに再びヒルメ大霊の神勅があり、上にまとめた進路で珠を鎮め祀り、常陸へと向かったとしています。神武東征は1度という前提のようです。

 

さて、ここで再び春日大社の話をします。

祭神は武甕槌命経津主命天児屋根命姫神ですが、天児屋根命姫神の御子である天忍雲根命も若宮として祀られています。もともと母神の御殿内で水徳の神として祀られていましたが、平安期に洪水による飢饉が続いて疫病が流行った時、若宮の御霊威にすがろうと本宮と同じ規模!の神殿を建てて御神霊を迎えました。すると悪天候も治まり、そこからかの盛大な若宮おん祭りが始まったそうです。磯良の細男舞はその祭りの中で奉納されます。他に8人の巫女による八乙女舞の神楽もあるようです。

この天忍雲根命を祀る神社に摩氣神社があります。丹波南丹市園部町にあり、延喜式式内社名神大社(特に格が高い)とされました。今や時代劇、映画の撮影にたびたび使われるほどの風情あるところのようです。

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Wikipediaより摩氣神社

現在の祭神は大御饌津彦オオミケツヒコとなっていますが、これは天児屋根命の御子、天忍雲根命の別称であるということです。御饌の「饌ケ」とは食物の古語です。みけ⇒まけ

創祀年代は不明ですが奈良時代にはすでに祭祀が行われていたようです。しだいに荒廃していきますが白河天皇が神事祭礼の旧式を復興。17世紀には領主代々の祈願所となり、18世紀に火災によって焼失するも再興、近世まで摩氣郷11ヶ村の総鎮守(総氏神)と称されました。今でも古から続くお田植祭を行っているそうです。

「玄松子の記憶」というホームページより平成祭データに収録されている摩氣神社の由緒を参照させて頂きました。

それによると、皇孫に仕える天児屋根命は《皇孫の御食みけの水には現国の水に天津水あまつみずを加えて奉れ》と言って御子の天忍雲根命を天上に行かせました。命は夕方から翌朝まで一心に天津詔詞あまつのりとの太詔詞ふとのりとを申され、ようやく天八井あめのやいの水を乞い受けられ、天より下り天津水を奉りました。これによって《歴朝(代々の朝廷)大嘗祭に奉る悠紀・主基(神饌の新穀、酒科を献上する国郡)の大御酒を始め、皇孫命の大御食の水にはその天津水を奉る例となり》国民の五穀は豊かになりました。天忍雲根命は大御饌津彦命と称えられ、農業、食物主宰の神として祀られたといいます。

さらに次のような言い伝えも記されています。明治37、8年の時、日本兵満州の戦場ではぐれ飢餓にさ迷っていると、夢に老人が現れて兵士に粥を与え、帰る方角を指し示してくれたのでもとの軍に戻ることができた。その老人に名を訊ねたところ「我は丹波北向きの神なり」とのみ答えて姿を消した。丹波北向きの神はこの摩氣神社が唯一という。

 

最初の天津水の話にとてもよく似た話が丹波の籠神社に伝わっています。鎌倉時代に伊勢の外宮の神主によって書かれた書物によると、天村雲命はニニギノ命の命令によって天御中主神のもとに行き、天忍石の長井の水高天原で神々が使われる水)を汲んで琥珀の鉢に八盛りにし、天照大神の御饌としてお供えするように、また残った水は人間界の水に注ぎ軟らかくして、朝夕の御饌としてお供えするよう命じられました。天村雲命はこの水を日向の高千穂の御井(泉、井戸)に遷し、その後籠神社奥宮の天の真名井の泉に遷され、さらに雄略天皇の御代に伊勢外宮の豊受大神宮御井に遷されたということです。以来この霊水は皇大神宮豊受大神宮の朝夕の大御饌としてお供えされているとのこと。

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籠神社奥宮、真名井の水


もうひとつ、丹後国風土記残欠から「田造の郷」を要約します。

天村雲命と天道姫(村雲の母、高照姫)が豊受大神を祀り、新嘗の準備を始めたところ、井戸の水が変わって神饌を用意することができません。それを泥ひじの真名井と呼びました。そこで天道姫が占いによって天香語山命に矢を放たせて、矢の着いた清いところに大神を移して祀りました。この東南三里ほどの所に霊泉が湧き出たので、天村雲命がその泉水を泥の真名井に注ぎ、荒れ水をやわらげました。その泉を真名井と呼びました。真名井の水を匏ひさごに入れて神に差し上げ、神饌を料理して永く大神に供えました。春秋に田を耕し稲種を撒き、四方の村に広めた結果、人民が豊かになりました。

以上3つの話を紹介しましたが、摩氣神社の天忍雲根命が天の水を持ち降り、地上の水と合わせたものを皇孫の御饌の水とし、そして国民の五穀が豊かになったという話と、籠神社や風土記に伝わる天村雲命が天の水を持ち降り、人間界の水と合わせて豊受大神に供え、農業が広まり人民が豊かになったという話は同じ内容といっていいでしょう。しかも今話題の大嘗祭の起源にまつわる話ですね。

また摩氣神社の言い伝えにあった北向きの神というのは、摩氣神社社殿が北を向いていることによるらしく、これを地図で見てみると、その社殿の向いた彼方には、海部氏の勘注系図に伝わる「天火明命と后神が降臨した冠島」が位置していました。冠島は籠神社の海の奥宮とも呼ばれ、もとは息津嶋だったのですが、701年の大地震によって一夜にして沈んだとの言い伝えがあり、二峯だけが海面に頭を出して残り、そのひとつが冠島と呼ばれています。神祠があるようです。(冠島の周辺は近年ダイバー達の間で海底遺跡があるとして話題になっているそうですよ。専門家は自然現象だろうとみて調査はされていません)

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ただしグーグルアースで社殿の向きを見ると、微妙に北北西に傾いており、それでいくと籠神社、真名井神社の方向を向いていることになります。どちらにしても摩氣神社の天忍雲根命は村雲の祖父母が降臨した地を向いているようです。偶然‥‥?

春日大社の若宮、天忍雲根命も水徳の神として祀られ、名前も似ていますね。名前繋がりでいくと、村雲の息子で尾張氏の祖となったのが天忍人オシヒト命です。この天忍雲根命と天村雲命、同一人物の可能性はないでしょうか。

仮説ではありますが、天忍雲根命が村雲であったとすれば、父である天児屋根命とは香語山・五十猛となります。弓前文書の凝結曾根コヤネ池田氏のいうように霊的な存在としての名であるとすれば、親子というよりもその族の信仰対象であるかもしれません。少しゆるめの解釈として、徐福が大陸から持ち込んだ信仰が香語山、村雲へと伝承されていったとみることもできます。そこに池田氏のいう倭人天族(海人族)との融合があったとは考えられないでしょうか。その場合、可能性が高いのは安曇族だと思います。

香語山もしくは村雲と安曇族の娘との婚姻があり、九州に残った血筋が中津・弓前の一族となっていった。(安曇の男系とは別系統になります)そして丹後では大和国造、尾張氏へと繋がる系統が生まれていった。物部は徐福の後裔だけれども母系始祖が市杵島姫なのでまた別の系統になります。徐福の持ち込んだ信仰が配偶者の信仰の影響を受け、微妙に表現の仕方が変わっていったという可能性も。

そうであれば、古代日本の代表的海人族には徐福の血が流れていることになりますね。宗像、海部、安曇。古代は陸路よりも海路のほうがスピーディーかつ安全だったので、これを制することは大事だったでしょう。余談ですが、血縁によって地盤を揺るぎないものにしてゆくやり方は、藤原不比等が娘たちを皇室に送り込んでいったこととそっくりですね。

 

現在のSorafullの空想の中では五十猛と倭人海人族(安曇族)との間にできた子が磯良だったのでは‥‥? などと展開しておりますが、そこまで限定しなくても村雲は大和の初代大王ですので、どの時点かで親族になっていれば、志賀の神は皇神すめかみと称えられてもおかしくはありません。

春日若宮おん祭で奉納される磯良の細男舞。ここにどんな意味が潜んでいるのでしょうか。

 

 

 

 

安曇磯良と五十猛⑺ 鹿島香取と弓前文書

 

 

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前回の続きです。

弓前文書については今後の検証が必要とは思われますが、まずは現段階で提示された内容をできるだけ偏見なく学び、それから各自がどう受けとめていくかだと思います。このブログにおいては私、Sorafullの研究資料として皆さんと共有したいと思っておりますが、ブログの性質上、個人のフィルター(Sorafulの主観)がかかることは避けられません。ですので興味を持たれた方はご自身で原本を読まれることをお勧め致します。池田氏の本は図書館、大学での閲覧となるようです。

池田秀穂「弥生の言葉と思想が伝承された家」

    「日本曙史話 弥生の言葉と思想」

萩原継男「古事記、祓い言葉の謎を解く」

gooブログ倭人語のすすめ」

 

それでは委細心得の冒頭を紹介します。

 

世々の弓前和ユマニ相伝えし秘聞、誤りなきようここに記す。

神呂美垂神産積カミロミタカミムツ大霊はわが子垂力タチカラの右左の珠、なれが子孫ウミノコに祀らしむと御親ミオヤ凝結會根コヤネの霊事に詔り賜いき。

孫中津と弓前に詔り申す。垂力タチカラの右は御雷ピカ左は布土プツの名あり、御雷は剣、布土は鞘と思え。中津は御雷を祀り大霊の力を現す。剣使わざれば常に鞘あり。故に弓前は布土を祀り常に大霊の力を凝らす可し。即ち中津は常に表に立ち大霊の御心に順う術を修め、弓前は内に在りて我の教うる大霊の力の数々を識り、それが法を修むべし。この分限を誤たば神罰を心得べし。世々の弓前賢み伝えたり。

 

弓前和ユマニとは弓前一族の長です。中津の長は中津身ナカツミ

萩原継男氏の訳では《宇宙神であるタカミムツ大霊オオヒが、中津・弓前一族の祖であるアメノコヤネに「お前の孫の中津・弓前の兄弟に、我が子タヂカラの左右の珠である宇宙の天と地の力、すなわちピカとプツの珠をそれぞれに祀らせてやろう」と言われた》となります。

これが本拠地九州の地で大昔から祀られていたピカとプツの珠であり、のちに鹿島、香取に遷されて祀られることとなります。図にまとめてみました。カタカナが弥生語です。

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こうした祭祀を代々続けていたところ、国(三輪)の大君の姫神に神懸かりがあって、ヒルメ大霊の霊事詔ひことのりが下ります。内容を要約します。※国の大君については後程説明します。

①垂力の珠大八洲の東の果ての島ひとつない所に祀れ。鹿島・香取神宮

厳斎いつさの地(伊勢)に各地に祀った我が生母ウカの珠を集めて宮代に祀れ。さらに新たな宮を造って海より立ち昇る新日の力を凝らしむべし。伊勢神宮の外宮・内宮

日の沈むところを厳結生イツユムの戸として、その国珠を祀り、事代主となしてアオナツ(大国主)の力を与うべし。出雲大社

美山(三輪)の地の国珠をその地に祀れ。大物主の力を与うべし。さらに山人の珠を美山の地に移して祀れ。大神神社大和神社

ここにカムロミタカミムツ大霊の日毎のヒタチは垂力の珠によって日毎に分かち与えられ、大八洲鎮まり治まらん。

 

垂力の珠の他にも珠がたくさんでてきましたね。

②でヒルメ大霊(天照大神)の言う我が生母ウカの珠とはヒルメ大霊の分霊であり、太陽の分身、地上に注がれた日の熱エネルギーのことです。この生命を育むエネルギーが和御魂であり、豊受大神やワカヒルメとも呼ばれます。伊勢の外宮に祀られた神であり、決して内宮より劣るということはないそうです。内宮より先に外宮を祀ったことから外宮先祭といわれるとのこと。内宮には天の新日、日の荒御魂が祀られています。海人族にとって太陽を祀るとはウカの珠を祀ることであり、元伊勢とはウカの珠を祀っていた場所だということです。

③④の国珠とは、縄文人の祀る日の神をいうそうです。ここでは出雲や三輪ですので、出雲の太陽神のことでしょう。委細心得の続きには、

「大宮代を建ててその国珠を祀り、大八洲の事代主となしアオナツ(大国)の力を封じぬ。これ後の世の出雲大社なり」

「美山の国珠を鎮めて大物の力を封じん。これ後の世の大神(三輪)の宮なり」とあります。やはり封じられていたようです。

④の山人ヤマトの珠とは海人族が九州時代に日本国全体の国珠として祀っていた神のことです。これを三輪の地に移し、大和(倭)大国魂ヤマトオオクニタマ神として大和神社に祀りました。

日本書紀では崇神天皇の時、国内に疫病が流行ったため、大田田根子(登美家)を大物主の祭主にし、市磯長尾市を大国魂神の祭主としたとあり、この人は建位起命の子孫でしたね。それぞれの家の子孫に祀らせたのであれば山人の珠とは建位起命と繋がります!

これらによって、ヒタチの垂力の珠より各地に置かれた珠へ、タカミムツ大霊の日毎のエネルギーが分け注がれ、この国は安泰となる、ということなのでしょう。

 

(次の1節、改訂しました。2018.11.30)

「国の大君の姫神」とはすでに九州から三輪にやってきていた大君の姫神ということであり、出雲伝承でいう第1次物部東征でしょうか。その姫神に神懸かりがあった。そしてヒルメ大霊の霊事詔ひことのりに従って、垂力の珠、ウカの珠、山人の珠を持ち斎重城サエキ(軍隊)を伴い、安芸(広島)、日之(出雲)、玉(岡山)、迎(六甲)へと至り、さらに三輪、大和、伊勢へ。第2次物部東征に重なります。

これまでみてきた東征を、まるで裏側、というより内側から覗き見るような感覚になりませんか。

そして最後に鹿島、香取へ向かいます。

大比古の御事ミコト東するに従いて、中津弓前の族は斎重城サエキの衆と共に東の果ての海辺に至り、霊垂育ヒタチの地を選びて神呂美垂神産積カミロミタカミムツ大霊の垂力タチカラの右左の珠、御雷ピカ布土プツを鎮め祀りぬ。これ後の鹿島香取の宮々なり。

とあります。

ピカとプツの陰陽ともいえる関係が、利根川を挟んで建つ鹿島と香取の伝説「地中を通して要石で繋がっている」という話となって受け継がれているようです。

剣は使わない時は鞘に納めておく。香取(弓前)は剣をいつでも使えるように鞘の中にエネルギーをチャージしておくことが必要。鹿島(中津)は常に表に立って、宇宙の力を行使する技術を錬磨しておかなければならない。弓前は内に在って宇宙の力の理論を究めなければならない。

このコヤネから子孫への教えが委細心得の冒頭で記されています。

 

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ピカは神文の中ではソラピカとされ、東の空から立ち現れるエネルギーを意味し、別名をピタチ(のちの常陸ヒタチ)といいます。九州から三輪(大和)へと東遷を開始した九州王朝勢は、このソラピカの力を最大限に活かすために日本の東の果ての地に祀ることを求め(ヒルメ大霊の神託によって)、鹿島が選ばれたというわけです。これが本来の「鹿島立ち」です。旅立ちや門出という意味ではなかったようです。

斎重城サエキとは中津弓前の祭祀一族を武力で守る海兵隊の軍隊のようなものだそうです。それが物部軍だったといいます。つまり中津弓前一族とは別系統ということになります。

※上の本文の中では大彦命に従ってとありますが、出雲伝承では大彦は物部東征軍によって東へと追いやられていった将軍ですので、解釈が異なります。大彦(の子孫)を追って、であれば矛盾はないのですが。

池田氏昭和16年に弓前文書など遺品をすべて受け継がれましたが、その後戦地へ赴き、その間に実家が空襲で焼け、身内の方と共に弓前の遺品すべて消えてしまったそうです。神文は事前に書き写しておられたそうですが、委細心得は原本がなく、池田氏の記憶によって再現されました。大意においては間違いないけれど、細部の個々の漢字については多分に異同はあるだろうということです。

 

委細心得によると、常陸に来てから13代目の時、弓前和と中津身(それぞれの長)に天の大君から「斎重城の兵を伴って都に出頭せよ」と詔りがあり、中津身は中臣の氏姓を賜り、弓前和の弓前値成ユマアテナは帰って来てから鹿島香取のふたつの宮を司祭することになりました。

池田氏はこの13代目というところから概算して、聖徳太子の時代に合うのではないかと推測されています。太子のブレーンだったかもと。そうであれば聖徳太子国史編纂に参加して、古事記の元となるような情報を記していたかもしれませんね。古事記冒頭の17柱の神々、天之御中主からイザナキ、イザナミまでが神文に記された弥生語とそっくりです。出雲伝承の中で物部東征軍が東出雲を占拠した際、クナト大神と幸姫命をイザナキ、イザナミという夫婦の神に変えられたと伝えていますが、物部軍が考えたのではなく、中津弓前一族に伝わる口承の中から与えられた名だったということになります。

【補足 2019.2.27】弓前値成の時期は推測とのことですが、「後の世の出雲大社」といった表現がされており、出雲伝承では出雲大社(杵築大社)の創建は716年ですので、弓前値成の時期がもっと後だったのか、後世の伝承者が付け加えていったのか。先ほどの大彦のこともそうですが、委細心得前半にある歴史については、記紀に沿っているところがあることは否めません。また出雲大社という表現は近代の名称ですので、これが池田氏の記憶違いによるものなのか、、、

 

続いて春日大社です。委細心得の後半部(14世紀、藤原内実による)から。

不比等御雷ピカの珠を都に招ぎぬ。(省略)春日山の麓なる宮代に御雷布土ピカプツの珠共に鎮め給いき。これよりは中津身の後なる国の表に立ちし藤原の大臣の質しに答えて今に至る。

とあります。藤原不比等がピカツチ(建御雷槌命)の分霊を都に招きたいといい、三笠山の頂上に祀ったという言い伝えもあるそうです。鹿島からやってきたタケミカヅチの分霊が白鹿に乗って現れたところとされ、今は奥宮として本宮神社が祀られています。ここは東に登る太陽を拝することができるそうです。

そらから3代ほど後のこと、再び詔りがあって、プツノチ(布土主命)の分霊を奉じて春日大社の地に鎮めたということです。

萩原氏によると、春日大社には何故か手力雄タヂカラオ神社が3つも祀られており(境外末社を含め)、しかも本殿においてはタケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメ神を見守るように手力雄神社が祀られているそうです。このことは記紀では意味がわかりません。委細心得に記されたタチカラとピカとプツの関係を知れば、タケミカヅチとフツヌシの親神がタヂカラオであることが春日大社で示されているとわかります。

常陸においては、鹿島神宮の氏子区域には近津神社(手力男命を祀る)があり、タケミカヅチ親神様だから鳥居は神宮より大きくなければならないとされ、明治までは巨大な一の鳥居があったそうです。香取神宮の摂社、大戸神社には親子の伝承はありませんが手力男命が祀られています。

ちなみに九州でタヂカラオを祀っている神社を探してみると、下関に近い北九州市の戸明神社に、アメノコヤネとともに祀られていました。志賀島からは少し離れています。

 

出雲伝承のいう鎌足が養子になった中臣家は、常盤ー中臣可多能古ー御食子ー鎌足不比等と続きます。池田氏はこの家系は代々中津身だったといいます。中津身は血縁の親子でなくても世襲できるそうですが、一族のものでなくても可能なのでしょうか。

不比等が中津身であったとすれば、神の声を聞いたり占いによって神意を判断する能力と役目をもった人だったということになります。そうであれば中津弓前一族の秘匿しなければならない伝承を熟知しているので、記紀を作るにあたっては出自も隠そうとしたのかもしれません。深読みしすぎかもしれませんが、藤原氏が武御雷槌命を始祖としたというのは、プツの名に似た名前である登美家の人物の名を借りて、家系を曖昧にしたのかも。

さらに不比等は自分の代で中津弓前のシャーマニズムを封印し、中央集権国家にふさわしい統一された神道体系を作り直したといいます。それが中臣神道です。本来の祓詞も変わり、大祓の詞の中の太祝詞ふとのりとことも封印されたのでしょう。弥生語は一音一義ですので、ひと文字の音が変わるだけでも言霊は変化しそうですね。(先の記事で紹介した物部の「一二三の神言」も原文が変化してしまった伝承であるということです)

 

さて、志賀、鹿島、春日の神が異名同躰であったかどうかを探ってきましたが、この弓前文書によれば、中津弓前一族の祀る海人族の神が博多から鹿島・香取へと遷され、さらに不比等によって春日大社へと遷されたことになります。であれば、この三社に祀られているのは祖神ではなく、宇宙の神だったといえるでしょうか。壮大な話になってきましたね。

今回は磯良から離れてしまいましたが、弓前文書から考えると、志賀の大神とは山人の珠や垂力の珠、ピカとプツの可能性があり、もしかするとこのふたつの陰陽ともいえる珠が、あの竜王のもつ干珠満珠のモデルだったのかも‥‥?!

神功皇后三韓併合の守護にと磯良に取りに行かせた珠は、宇宙神の天と地の力、垂力の珠だったのかもしれませんね。

 

次回、弓前文書と徐福、安曇について考察します。

 

 

 

 

 

 

 

安曇磯良と五十猛 ⑹ 鹿島神宮・春日大社

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鹿島神宮

 

中世に書かれた八幡宮御縁起によると「志賀島の明神、鹿島大明神、春日明神、すべて一躰分身、同躰異名」と記されています。八幡愚童訓や太平記では磯良は常陸の鹿島にいたとしています。中世に書かれたということは、記紀や鹿島、春日宮創建などもろもろの影響を受けている可能性もありますが、共通するものがないか辿ってみたいと思います。

それぞれの主祭神をみると、

志賀海神社‥‥綿津見三神

鹿島神宮‥‥‥武甕槌神タケミカヅチ

春日大社‥‥‥武甕槌命経津主命フツヌシ(香取神)、天児屋根命藤原氏祖神)、比売神天児屋根命の妻)順に第1殿から祀られており、藤原氏祖神が下にいます。

 

通説では鹿島神宮藤原氏氏神とされ、のちの768年に創建された奈良の春日社に鹿島神(武甕槌神)を遷して祀ったと言われています。記紀鹿島神宮のことに触れていません。

常陸国風土記では香島の天の大神は天孫の統治以前に天下ったとしており、武甕槌神については触れていません。649年に香島郡が成立し、天智天皇のときに神殿の造営があったとあります。これはいわゆる大化の改新の直後ですね。Wikipediaによると、改新後、東国支配の拠点として朝廷は鹿島社とつながりを強め、その背景に中臣氏があったといわれているようです。東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神だった鹿島社の祭祀を掌握したと。以前の祭祀氏族については明らかではないとのこと。

出雲伝承の「サルタ彦大神と竜」によると、第1次物部東征によって東国へと移っていった大彦の後裔、安倍勢がのちに常陸国鹿島神宮を建てたといいます。そこで出雲の雷神(龍神の化身)を祀りました。その後中臣氏の軍勢が西から攻め、鹿島神宮祭神の武甕槌神(武甕雷神)も奪って自家の氏神に加えたというのです。つまり藤原氏記紀武甕槌神葦原中国を平定させた話を載せ、家の権威を上げたということになります。

谷日佐彦著「事代主の伊豆建国」は、鹿島神宮の神殿の形が出雲神殿と同じ造りだと指摘しています。詳細は省きますが、神魂神社熊野大社本殿と同じ形式に造られているそうです。また景行天皇の時、出雲王家はクヌ国征伐を指示され有志が東国に移住、下総国沖洲神社を建てて出雲井の神(幸の神)を祀りました。主祭神は出雲の祖神、久那戸クナト神です。今は息栖神社と呼ばれ、鹿島、香取とともに東国三社のひとつとなっています。古代には香取海という内海が存在し、両神宮は海に面し、息栖神社も沖洲といったように内海の中に浮かぶ島だったようです。航海の要所だったのでしょう。両神宮は内海の入口を左右から守るかのように建てられていますね。

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現在の東国三社の位置 

斎木氏の古事記の編集室」によると、中臣鎌足中臣御食子ミケコの養子であり、血の繋がりはないそうです。中臣家は辰韓からの渡来人と考えられているといいます。明確ではないようです。宮中祭祀の家系なので、鎌足天皇家に近づくために養子となったともいわれています。

鎌足上総国出身で、その地の国造家の母と鹿島の国造家の父との間に生まれたそうです。両親ともに始祖は神八井耳とされ、天村雲と出雲のタタラ五十鈴姫の子となります。(伝承によっては村雲の子、沼川耳と五十鈴依姫の子)この神八井耳は多臣家の祖であり、後裔は太安万侶です。鎌足の子、不比等太安万侶は親戚だったことになります。記紀の編集では深く関わっており、因縁の相手です。

つまり藤原氏は出雲王家の子孫となります。そして藤原氏が祖神とした武甕槌命は出雲登美家の4代目健瓮槌命です。ちなみに天児屋根命は中臣氏の氏神です。まとめます。

中臣氏 始祖ー天児屋根命(出自はよくわからない)

藤原氏 始祖ー神八井耳(出雲王家)

    祖神ー健瓮槌命(登美家)

不比等は中臣の血を受け継いでいませんので、このふたつの家系は血縁ではないようです。

 

もし志賀島、鹿島、春日の神がすべて一躰分身、同躰異名であれば志賀の神(磯良)と武甕槌神、あるいは天児屋根が同じ神でないとおかしいですよね。出雲伝承でもそこに繋がりがあるとは思えません。

あえて探せば鹿ぐらいでしょうか。

志賀海神社には鹿角堂といって鹿狩りをした際の角が1万本以上も奉納されているお堂があります。山誉祭でも鹿狩りの狩りの安全と豊猟を祈願して矢を射ます。

鹿島神宮では武甕槌命のところへ天照大神の使者が来て、出雲へ行って国譲りの説得をしてくるように言いました。その使者が鹿の神霊だったということから、鹿が神の使いとされました。香島を鹿島と改称したのは723年なので、記紀ができて間もなくのことです。神話に合わせたのでしょう。

春日大社は鹿島から武甕槌命を勧請した時に分霊が白鹿に乗って現れたという伝説から、鹿を神の鹿としています。

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春日大社

このように鹿島、春日は鹿が神ですので狩りをしたり食べたりはしません。ところが志賀島では鹿狩りをするのです。同じ信仰とは思えません。日本では縄文時代から鹿を食べていたわけですので、後から入ってきた信仰や文化によって食べてはならない神の鹿が生まれたのだと思われます。記紀の成立直後に「香島」から「鹿島」へと改称されたことが気になります。

 

ですがそんな鹿だけのつながりでは納得できませんよね。藤原不比等という鬼才が、その程度の策で済ませるだろうかと。もっと何かあるはずです。

不比等が編集の長だった記紀神話を見てみましょう。

タケミカヅチ古事記では建御神、書紀では武甕槌神や武甕男神、建命と書かれており、どれも同じです。古事記では別名を建布都神、豊布都神としています。

タケミカヅチと布津主フツヌシノ神(布津御魂剣)は関係が深いです。タケミカヅチとは猛々しい雷の男神であり、雷は刀剣の象徴でもあるとされています。国譲りの際はタケミカヅチがフツノミタマ剣を持って出雲へ天下り国譲りを成功させ、神武東征でもタケミカヅチがその剣を高倉下に渡し、神武を勝利へと導きます。出雲伝承では藤原氏国譲りの成功を自分の家の手柄として宣伝した、と言います。

鹿島神宮と向かい合って建つ香取神宮では、祭神はフツヌシ大神のみ。鹿島と香取が一対と言われるのも、このペアとなった神様ゆえかもしれません。

フツノミタマと言えば石上神宮のご神体でしたね。物部の祀る神です。(徐福の秦での名前、徐市ジョフツのフツともいわれます)

また徐福の孫である天村雲は父、香語山の御魂をカツラギ国高尾張村の火雷ほのいかづち神社に祀りました。海部氏の極秘伝でも「火明命は別雷命と異名同神である」と伝えられており、この親子はともにに関わります。

雷とフツ、タケミカヅチとフツヌシ。この結びつきは何を表しているのでしょうか。ここでひとつの古文書を紹介してみたいと思います。

 

香取神宮に古来より秘匿されてきたという古文書で、藤原九条今野家に隠されていたものが平成になってから、弓前文書ゆまもんじょとして公開されています。67代当主、池田秀穂氏が時期をみての公開に踏み切られたということなのですが、この方は弓前ゆま一族の末裔になられるそうです。この家系の始祖は天児屋根アメノコヤネ命であり、その子孫が中津・弓前一族、のちの中臣氏です。

中津・弓前一族はもとは九州で大王の側近として祭祀を司り、やがて鹿島・香取の祭祀一族となりました。

この一族には天児屋根命の言葉が代々密かに口承され、7世紀初め(推定)になって弓前値成ユマアテナという香取の幹部宮司が、万葉仮名に似た文字と特殊文字を使ってその口承を9枚の板に書き留め、さらに漢文で一族の歴史を加えました。記紀とは内容が違いますし、古事記冒頭の神代の原典とも考えられ、また祓詞の原文など記されているため、世に出すことはできなかったということです。

弓前文書は980文字の弥生語(記紀万葉集以前の言葉)で記され、板に書かれた神文(御親コヤネの伝えた言葉であり、今でいう自然物理学を内包した哲学書)と委細心得(推定7世紀初めの弓前値成と14世紀の藤原内実が書いた歴史書)から成ります。

67代池田秀穂氏が昭和57年から解読を始め、平成5年に「弥生の言葉と思想が伝承された家」を、平成9年「日本曙史話」を出版されました。その後、池田氏と交流をもたれた元鹿島神宮禰宜の萩原継男氏が平成28年に「古事記、祓い言葉の謎を解く」を出版されています。

池田氏は弥生語を解読するという大変困難な作業から始められ、神文に描かれた自然科学(宇宙及び生命の誕生)を読み取り、それを神の名として記紀が神話の中に当て嵌めていったことを示しています。私たちが馴染んでいる天照大神奈良時代以降の名称であり、弥生語ではアオピルメムチナ。オオヒルメムチの元ですね。弥生語は一音一義であり、現代のようなひとかたまりの語句に対して意味がつけられたものとは違います。ア、オ、ピ、ル、メ、の一音ずつに意味があり、それを合わせることでより複雑で奥行のある本質に近い名称となるようです。

出雲伝承の斎木氏も書かれていましたが、万葉集柿本人麻呂の歌(167)の中に「天照らす 日女ヒルの命」という言葉があり、その影響でヒルメムチという太陽神が天照大神と呼ばれるようになったといいます。この時期が弥生語から大和語への過渡期だったようです。人麻呂は稗田阿礼ではないかともいわれています。

さて、弥生語の解説だけで終わりそうなので、少し本文を紹介します。弓前値成ユマアテナの書いた委細心得の冒頭の一部です(池田秀穂氏の訳)。

もと中津弓前の族は山人の島々に在り。木の実を採り、木肌をすき、畑を耕し水に潜りて漁をなし、大霊の垂力を祀る。時に大君の質しに答うるを以て家の業となすなり。

この短い文章の中にもキーワードがいくつもありますね。Sorafullが素直に読めば、ヤマトの島々に住む海人であった中津弓前の一族は、神を祀り、大王の問われることに対して答えることを家業としていた、となります。これを池田氏が読み解くと、九州の五島列島から博多を本拠地とした倭人天(海人)族は、黄海東シナ海で交易をしていた海洋民族であり、中津弓前の一族は大王の側近として祭祀を司り、占いによって大王の問いに答えていた、ということになります。このふたつの訳の違いは、倭人伝に添いながら弥生語として一語一義を読み解いているかどうかということです。

歴史の読み解きに関しては、委細心得に描かれた古代史に基づく推測であり仮説だとされています。池田氏、萩原氏ともに中国の文献に記された倭人伝や記紀に描かれた神武東征などを参照にし、弥生語で読み解いた大王の名をそこに照らし合わされているようです。本文には大王の名称などは見当たらず(見逃しているのか?)「天の大君」「国の大君」として記されているだけです。なのでこのブログではそこは断定せず、弥生語の示す世界観を受け取ってみたいと思います。

 

長くなりましたので、続きは次回。鹿島、香取の創立の過程や、不比等とは何者かについて紹介したいと思います。

  

 

 

安曇磯良と五十猛⑸ 君が代から磯良舞へ[後半]

 

 

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 5)712年古事記の神話として綿津見神が記される。720年日本書紀では少童タツ命、海神豊玉彦。800年には新撰姓氏録にて安曇氏の始祖を綿積豊玉彦とする。

正史に磯良は登場しませんが、ワタツミ神は安曇連の祖神とされ、新撰姓氏録には安曇氏の始祖として綿積豊玉彦が記されています。このことは安曇宿禰等が自分たちの祖神を大和朝廷の神話の中に組み込んだと考えられます。天武朝の帝紀編集委員には各王朝の子孫が選ばれていますが、安曇連稲敷が入っています。天武天皇の即位前の名は大海人オオアマノ皇子、養育者は安曇連家でした。

安曇氏は地方から中央へ進出し、海人の統率者となっていますので、地方にいる海人とは格が違います。ですので安曇氏にとってはかつての従属者が朝廷の権威の中に入り込むという利点があったのでしょう。

古事記‥‥綿津見三神=安曇連の祖神

日本書紀‥‥少童命三神=安曇連の祀る神

旧事本紀‥‥少童命三神=安曇連が祀る筑紫の斯香神

綿津見はそのまま読めますが、少童命をワタツミとは読めませんね。意味としては小さな子どもでしょう。出雲伝承によると少童命とは徐福とともに渡来してきた海童たちのことだといいます。でも海童たちが志賀神、皇神というのも妙ですよね。気になるのは「出雲と大和のあけぼの」に、出雲に来た海童たちは波に強い構造舟を持っていたから漁業を営むものが多かったとあります。彼らは綿津身の神、海神を信仰していたと。海童たちの祀る綿津見神が安曇連の祀る神であれば、安曇=海童にもなってしまいそうな。

八幡宮御縁起では磯良を磯童と書いており、この少童命から童という字を使ったのか、それとも磯良がまだ少年だった頃のイメージからか。五十猛も丹波で香語山と名を変えるまで少年だったはず。海童と呼ばれてもおかしくはないですね。

⑴から⑸へと変遷していった磯良をまとめると、以下のようになります。

 君が代に歌われた海人族の王 ⇒ 服属儀礼としての磯良舞 ⇒ 祓えの呪力をもった海人族の神

 

さて、磯良舞について最後にもうひとつ、筑紫舞を忘れてはなりません。筑紫舞の記事はこのブログの始まりに取り上げました。

筑紫舞がいつどのように発生したのかはわかっていません。春日大社で伝承されている大和舞のもとになっているそうなので、それよりは古いはずです。

筑紫舞は筑紫傀儡子たちが古来より伝え続けており、それが第2次大戦の頃に途絶えかけた時、九州とは関わりのない神戸に住む1人の少女に奇跡的に伝承されました。筑紫舞にとっては緊急の避難所のような存在だったようです。今は地元九州で再興しています。

少女には歴史的な背景はいっさい伝えられませんでした。昭和7年から11年間で二百数十曲伝承しましたが、最後に教わったのが「浮神うきがみです。最も大事なものだと言われたそうです。これが後年、細男舞と同じものであることがわかりました。浮神も白い敷布を頭からすっぽり被って、青い藻のようなものを頭に下げるそうです。この時の装束だけは少女用に作らず、師がもっているものを着たといいます。これまで習ったものとは全く違って、鳴り物は大皮(大鼓)と笛のみ、琴も歌もなくただ「おー、うー」という唸り声だけ。海から浮かび上がり、はるか彼方を見やるような仕草をするそうです。これが筑紫舞の中で最も大事な舞なのです。実際に見たことはありませんが、春日大社の静かで単調な細男舞とはまた違って、想像するだけでも凄味というか、闇の中に白い光を放って浮かび上がるような、そんな神々しさすら感じてしまいます。

筑紫舞をどの時代も命がけで伝え続けた人々は、表に現れる傀儡子たちの芸とは別に、磯良の本来の魂を秘伝として持ち続け、永続させようとしたのではないかと思います。神戸の少女、のちの西山村光寿斉さんも「浮神」を習う直前に教わった「源流翁」は一生に一回だけ、しかも50歳を過ぎてからでないと舞ってはいけないと言われ、実際に人前で舞ったのは62歳の時だったそうです。「浮神」については教わったあと、あまりにその舞がこれまでとは違う「けったいな舞」だったのでその後存在を忘れてしまい、50年経って春日大社で細男舞を見たときにすべてを思い出したといいます。歴史背景を知らない神戸の少女は「浮神」の背負ったものを理解することはできませんでしたが、結果的に秘伝として継承することになったのかもしれません。

★光寿斉さんに春日大社の細男舞を意図的に見せたのは鈴鹿千代乃氏です。このきっかけがなければ浮神は消えてしまっていたのかも・・・

 

ところで傀儡子くぐつの名の由来は、一説には海人たちが魚介や海草などを入れた籠からきているそうです。この籠はクグと呼ばれる水辺に生えるかやつり草の茎で編みます。くぐの籠なのでくぐつこ⇒くぐつ。

のちにはこの籠に人形を入れるようにもなり、籠は神聖なもので彼らの神でもありました。

丹後の海部氏の籠神社は、奈良時代に真名井社から籠宮へと改名していますが、この名の由来は火明命(ホホデミ)が竹で編んだ籠船に乗って海神の宮に行ったことからだそうです。

海人族=籠

斎木氏著「古事記の編集室」には香語山の「香語」とは「籠」の意味らしいと書かれています。意味はぴったりですが、古くは籠を「こ」と言ったようです。どうなのでしょう。五十猛が海人族(安曇)と関係したことでカゴヤマと名を変えたのだとしたら‥‥。磯タケ⇒籠山?

妄想が止まりません!

 

 昭和11年に西山村光寿斉さんが目にしたという宮地嶽古墳内での筑紫舞と神事のようなものは、光寿斉さんがその時に聞いた話によると、毎年この古墳で行われるものではなく、いろいろ違うところで集まって舞っていたようだったということです。微妙な言葉の違いが、時間が経てば大きく変化してしまうこともあるので、当時のまま伝えることも大事ですね。

 

 

 

 

 

安曇磯良と五十猛⑷ 君が代から磯良舞へ[前半]


 

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 初めに磯良の舞を紹介します。磯良舞については鈴鹿千代乃著「神道民俗芸能の源流」を参照します。

 

細男せいのう舞:春日大社、手向山八幡宮(奈良)

五十良舞:柞原八幡宮(大分)

鞨鼓かっこの舞:志賀海神社

傀儡舞(人形)の細男舞:古表神社(福岡)古要神社(大分)

 

すべて磯良舞のことです。代表的なところを挙げていますが、どれも白装束に顔を白布で覆い首に鼓を掛けて舞います。

中世に書かれた八幡宮の縁起(由来)や本地物(本地垂迹に基づく縁起などの語り物)、八幡愚童訓(八幡神の神徳を説いたもの)などによる磯良の出現する様子はどれも同じように記されています。

三韓出兵のために香椎に赴かれた神功皇后は、住吉大神より「志賀島の海中に住む安曇磯良は海の案内者なのでこれを竜宮へ遣わし、竜王から干珠満珠を借りて、この珠の威力によって攻めれば勝利するだろう」と教わります。磯良は「せいのう」という舞を好むというので、海中に舞台を据えてこの舞を奏すと、磯良が首に鼓をかけ、浄衣の舞姿となって亀に乗り、海中から浮かび上がってきます。けれど長く海中にいたために顔には牡蠣やアワビなどがぎっしりとついていて醜かったため、磯良は浄衣の袖をといて顔に覆い垂れて舞った、というものです。

海の案内者だという磯良が亀に乗って登場するモチーフは、神武を案内するウズ彦と重なります。顔に牡蠣やアワビなどついて醜かったというのは、海人にしてみれば海の幸の豊かさでもあります。醜いといえばニニギノ命に追い返された磐長姫もそうでした。こちらも永遠なる生命力に結びついていました。磯良が袖で顔を覆ったというのは、鈴鹿氏によれば磯良が「この世のものならぬ」精霊であったからにほかならないと言われます。でも磯良を追い続けるSorafullにとっては、やはり隠された存在だからだと思えてしまいます。

柞原八幡宮の五十良舞の歌詞は、

「八幡すの色は浜のまさごのかずよりも 久しきものはつるの毛衣 栄ゆれば国もたのしさ 栄ゆれば宮もたのしさ 栄ゆれば我が君は誰にぞ 千代まで栄えまします」

という征服者へ捧げる祝福の寿詞です。

かつて「君が代」に歌われた安曇の君、海人族の王とは立場が逆転していますね。この落差を生み出したものは何か、年代を追って探ってみたいと思います。

 

1)海人族、安曇氏が君が代に歌われた時代。

後漢書に記された57年の漢倭奴国王印後漢光武帝から受けた金印)は江戸時代に志賀島から出土しましたが、時代と場所から安曇氏のものではないかと思われます。そうであれば後漢との交易権を得たわけです。220年に後漢が滅び、間もなく魏とヒミコが結びついたので、安曇氏は交易権を失うことになります。

万葉集には「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神すめかみ」という歌もあって、皇室の祖先ともとれる表現です。航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、航海を守って下さる志賀の神様を忘れませんという歌ですが、後の時代になってもこのように崇敬されているということが伝わってきます。

 

2)仲哀天皇8年、筑紫の伊都県主の先祖、五十迹手イトテ天皇を出迎え、天皇は褒められて「伊蘇志いそし」と言ったことから、この国は伊蘇国と呼ばれ、変化して伊都国となった。(日本書紀

このイトテが安曇族かは明らかではありませんが、糸島平野の遺跡群を見ると長く支配力を維持した存在がいて、安曇族の可能性は高いと思われます。

このイトテが大きな賢木を根ごと引き抜き船の舳先に立て、そこに八尺瓊、白銅鏡、十握剣を掛けて天皇を出迎えたとあり、三種の神器天皇に献上したともとれます。それを天皇は褒めたのです。この土地の支配権を渡したのは確かでしょう。

翌年の神功皇后新羅出兵において、志賀島の海人に西の海に出て様子を見させた。そして神の教えによって、荒魂を招き寄せて軍の先鋒にし、和魂を請じて船のお守りとされた。(日本書紀

磯良を呼び寄せて、その荒魂、和魂を祭ったということでしょう。実際に船団の先頭で舵をとったのも安曇族だった可能性もあります。

 

3)応神天皇3年、各地の漁民が騒ぐため、安曇連の先祖大浜宿禰を遣わして平定し、漁民の統率者とした。同5年、海人部、山守部を定めた。(日本書紀

出雲伝承で考えると5世紀に入る頃でしょうか。統率者といえば聞こえはいいですが、部民になるということは中央に服従し貢献する側になるということです。服属儀礼が必要となったきっかけかもしれません。

★「阿知女作法」はこの応神以降のはずで、平安中期には完成していたといわれています。

ではどうして海人族はこの時代に中央に服従することになったのでしょう。

下図は大和での物部王朝と次の王朝を示したものですが、右側のヤマトタケルから仲哀へと続くのが記紀の話に添ったもの。左が出雲伝承によるものです。(神功皇后の祖先ヒボコの直系子孫の伝承とも同じ)

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神功皇后は仲哀ではなく成務天皇の皇后であり、子はいません。成務天皇が亡くなると神功皇后が摂政ではなく実質的に大王となります。物部王朝の終わりです。そして日向の武内宿禰(ソツ彦)との間に子をもうけるも幼くして亡くし、同い年で豊来入彦の子孫である竹葉瀬君を養子に迎え、それが応神天皇です。宇佐神宮に祀られるのは当然ですね。後年、本殿に祀っていた豊玉姫(ヒミコ)を二ノ御殿とし、新たに一ノ御殿を建て応神天皇を祀り、三ノ御殿には御蔭の神(宇佐の月神)を信仰していた神功皇后を祀りました。

次の仁徳天皇応神天皇と血の繋がりがなく、初代武内宿禰の子のようです。ここから平群氏の王朝が始まります。

王朝が交代する時、それまでの権力者は力を奪われます。新しい支配者に服従を誓うのです。竹葉瀬君がイニエ王の血筋だとはいえ、その時代はすでに辰韓系の神功皇后が成功をおさめた時代です。出雲伝承の「親魏和王の都」には「物部東征が宇佐の月神を旗ジルシとして磯城王朝を滅ぼし、神功皇后月神を旗ジルシにして、物部の残党を追討したので、大和の王朝では月神を毛嫌いする風潮ができた」とあります。神功皇后は物部を排除しようとしたようです。

安曇も物部とともに力を失っていったという可能性はないでしょうか。

 

4)宇佐神宮では571年より八幡大神応神天皇の神霊)を祀る。八幡三神として応神天皇姫神神功皇后が祀られる。八幡信仰の始まり。

磯良舞は明らかに神功皇后への服従の誓いを示す舞です。そして八幡信仰に隷属する精霊(神ではない)としての磯良となっています。八幡宮の縁起譚ではどれも舞の最後に「舞台は海中に石と成りて今に侍り」といった言葉が添えられています。舞台が石に成るというのは磯良が石に成ったことと同じです。地主神というのは石や岩であることが多く、もともとの土地の精霊が支配者に服従した姿でもあるといいます。

ただし八幡宮の縁起譚は中世期の頃のものですので、八幡信仰が誕生してからかなり後になります。

舞となって蘇った磯良の姿は、海人族にとっては屈辱的なものですが、それでも自分たちの祖神が朝廷の重要な役割を担い、さらに八幡信仰と結びつくということには利点があったのかもしれません。やがて神楽歌の阿知女作法は宮中の鎮魂歌として取り入れられました。

このような形でもいいから祖神を蘇らせ、語り継ぎたい。海人族の誇りはこんなことでは揺らがないんだと、そんな矜持に支えられた傀儡子たちの舞が八幡信仰とともに各地へと広まり、その技がやがて能楽人形浄瑠璃といった日本の芸能へと昇華していったのかもしれません。

神道民俗芸能の源流」から要約します。

《人形(傀儡子)の発生は人間の雛形・人形ひとがたで、それは人間の罪・けがれを移しつけて海や川に流されたり焼かれたりしたひとつの呪物であった。けがれのついたものだから恐れられ、それゆえにこれをまつり、信仰の対象としてきた。人形使い(傀儡子)たちは、けがれを一身に受けた人形を持ち歩き、舞わすがゆえに蔑視された。こうした仕事は大和朝廷服従した部族が行った。

海人族の神々は海の神として本質的に祓えの呪力を持っていた。陸の民よりはるかに神に近い存在であり、神を演じうる人々であったに違いない。

服従の芸は、すなわち祝福の芸にほかならない。神事において祓えと鎮魂の芸を演じ続け、けがれを背負い、代わりにあふれる魂を人々に与えて去ってゆく俳優人わざおぎびとの存在こそ、社会の秩序を保った神ととらえることができよう。》

 

つづく!

  

 

 

安曇磯良と五十猛⑶ 鎮魂祭の神楽歌・あちめわざ

 

 

宇佐家に伝わるシャーマニズムについて、宇佐公康著「古伝が語る古代史」を参照しながら紹介します。

 

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宇佐神宮 南中楼門

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1928年撮影の本殿
 

「振る毎に一種ひとくさに拍手一ッ、息都鏡一ッ、辺都鏡一ッ、八握劔一ッ、生玉いくたま一ッ、足玉たるたま一ッ、死反玉まかるかへしのたま一ッ、道反玉みちかへしのたま一ッ、蛇比禮おろちのひれ一ッ、蜂比禮はちのひれ一ッ、品物比禮くさぐさのもののひれ一ッ、一いつむゆなな九十ここのたりや

 

これは石上神宮の十種神宝の行事(振魂の清祓行事)の口伝です。18世紀に縁あって宇佐家に口伝書が伝わったそうです。十種神宝が紹介されていますね。息津鏡と辺津鏡は籠神社(海部氏)の神宝です。

 

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Wikipediaより 石上神宮

奈良県天理市にある石上神宮は布留社とも呼ばれ、布津御魂フツノミタマの剣をご神体とする物部氏氏神です。

フツノミタマのフツとは、徐福の秦国での名前、徐市ジョフツが由来とも。

前回紹介した旧事本紀に記された、ニギハヤヒが十種神宝を授かって天下る話は、石上神宮の「十種祓詞」の中でも述べられます。

石上神宮は物部王朝時代の政治の中心地にあり、大量の武器を保管する蔵があったそうです。

 

阿知女作法 あちめわざ

宇佐家が自家の家伝として行っていた鎮魂祭たましづめのまつりは「あちめわざ」と呼ばれる神楽歌であり、今も宇佐八幡宮の分霊社である石清水八幡宮に伝承されているそうです。

この鎮魂の神楽には韓神カラノカミの舞があって、その前後にあちめわざと呼ばれる呪詞が唱えられ、最初に「あちめ」といい、次いで「おお おお おお」と呼び答えるのが決まりだそうです。アチメとは阿度部アドメノ磯良を呼んでおり、「おお おお おお」とはそれに答える神の声なのです。

宇佐氏によるとアチメとは朝鮮語が由来だそうで、嬰児を孕む水辺の女という意味があるそうです。三韓併合をした神功皇后はすでに子を宿しており、通説では後の応神天皇とされています。(宇佐家、出雲両伝承ともにそれは否定されていますが)

宇佐神宮八幡大神として応神天皇の神霊を571年より御祭神とし、比売大神(宗像三女神)ととともに神功皇后も祀られました。なので「あちめわざ」は応神天皇神功皇后に関係のある神楽であったことに注目しなければならないと宇佐氏は言われます。

宮中における鎮魂祭では笛師や琴師が演奏し、歌人が歌い、御巫の歌舞があり、空桶を伏せてその上に立ち、矛をもって10回桶を突きます。突くたびに中臣は御魂緒の木綿ゆうをひとつひとつ結び、女蔵人(宮中の女官)は天皇の御魂代としての衣を納める箱を振り動かします。そして「阿知女の神楽歌」と呼ばれる鎮魂歌を唱えます。

宇佐家の口伝としての神楽歌を紹介します。「あちめ おお おお おお」を分節の前に毎回挿入しますが、それを端折って紹介します。

 

「天地あめつちに きゆらかすは さゆらかす 神わがも 神こそはきねきこう きゆらいかすならば」

石の上 振の社の 大刀もがも 願ふ其の児に その奉る」

「さつをらが 持有木もたきの真弓 奥山に 御狩みかりすらしも 弓の珥はず見ゆ」

「登り坐す 豊日霎とよひるめが 御魂欲みたまほす 本は金矛かなほこ末は木矛きほこ

三輪山に 在り立てるちかさを 今栄えでは いつか栄えむ」

「吾妹子わがいもこが 穴師の山の 山のやまも 人もみるがに 深山縵みやまかづらせよ」

「魂筥たまばこに 木綿ゆふとりしでて たまちとらせよ御魂上り 魂上りましし神は 今ぞ来ませる」

「御魂上り 去坐いまし神は今ぞ来ませる 魂筥持ちて 去りたる御魂みたま魂返たまがへしすなや」

最後は「一二三四五六七八九十百千万、かんながら、すめみおや、たまちはやませ」と十度読む。

 

この内容を知った時は驚きました。海の磯良を呼ぶのに何故山なのでしょう。しかも石上神社の剣(徐福の御魂ともいえる)三輪山、穴師も出てきました。穴師といえば穴師坐(射楯)兵主神社です。五十猛ではないですか!

注)この神社や他の兵主神社を調べても、祭神がよくわからないらしく、大和国魂神とはあっても五十猛神を祀っていると説明しているところは見当たりません。出雲伝承では兵主神社とは射楯神を祀るとしています。

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Wikipediaより 穴師坐兵主神社

村雲は大和にカツラギ王国を作り、宮は笛吹にあってその辺りは高尾張村と呼ばれていました。のちの尾張氏の名の由来です。笛吹連とも同族です。村雲は火雷ほのいかづち神社を建て父の香語山を祀りました。尾張氏の一部は穴師に移住します。穴師とは金属精錬者のことです。香語山は音楽(笛)と製鉄の神でした。

兵主というのは中国山東半島方面の古代信仰で、徐福がその八神を持ち込んだようです。兵主は蚩尤しゆうという西方を守る武の神です。古代中国の黄帝と戦った軍神です。村雲は三輪山を守るために西麓の穴師で兵主の神を祀ったようです。なんとも猛々しい神様ですね。

石上神社は刀で有名ですが、神功皇后応神天皇を考えると、御神体布都御魂剣ではなく、この大刀とは国宝である七枝刀ななさやのたちでしょうか。石上神社によると剣の銘文より369年に百済で製造されたようです。これが書紀に記された、神功皇后摂政52年に百済より献上された七枝刀であろうといわれています。(この年代が正しければ三韓併合の年代も見えてきます)

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七支刀の実測図と銘文

歌には他に「御狩みかり」や「弓」という言葉もあります。神功皇后対馬で鹿狩りをしたという話からでしょうか。

どれも海人の磯良とは結びつきにくいですが、この「あちめわざ」が本当に磯良を呼ぶ歌であるなら、磯良と五十猛がまた近づきました。

 

本文より抜粋。

《このあちめわざは、古の菟狭国から邪馬台国へ、邪馬台国から応神王朝へと伝わった宇佐シャーマニズムと、崇神王朝に盛んであった鎮魂のシャーマニズムとが、混交融合して宮中祭祀として統一されたものに他ならない》

邪馬台国時代に盛んであった鎮魂のシャーマニズム(原始宗教の一形態)は、応神王朝の成立に伴って、原大和王朝以来、崇神王朝に最も盛んに行われた物部氏シャーマニズムをはじめ、和邇氏や大神氏のシャーマニズムと混交し、宮中祭儀として統一された》

混交したから磯良と結びつかないのかもしれませんが。とはいえ、今に繋がる神道の成立過程の一端がここにあるのでしょう。

 

安曇磯良と朝鮮半島の関わりは、船で行き来することもあったでしょうし、磯良が五十猛であれば、五十猛は日本書紀旧事本紀新羅の曽尸茂梨そしもりに天下ったという話があります。そのあたりに由来するのかと思っていましたが、宇佐氏の話によると、のちの神功皇后の影響という可能性も出てきました。

神功皇后朝鮮半島から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫であり、辰韓新羅の前身です。五十猛を祀った射楯兵主神社のある播磨国はヒボコが渡来した土地であり、新羅しらくにと呼ばれた場所には広峯神社や白国神社があります。

出雲伝承では150年頃に播磨へ海部勢力が攻めてきたとき、新羅系の人々が淡路島や福岡の糸島半島志賀島や古代伊都国の地)へ船で移住し、残った広峯神社には海部軍側がスサノオと五十猛を祀り、その後ヒボコの後裔である息長垂姫(神功皇后)が牛頭天王を祀り、新羅国明神と尊称したそうです。それが後代に祇園へと移されたといいます。この複雑な経緯によって秦国系渡来人と新羅系渡来人との混同が始まったようです。スサノオ牛頭天王の融合もここにあったのかもしれませんね。ということから、新羅系の人々が志賀島へ移住し、その後神功皇后三韓出兵があり、磯良と神功皇后新羅が融合したのかもしれません。

ただし、アチメという言葉が子を宿した女性のことであれば、磯良への呼びかけとしては疑問が残りますが。ということで、磯良と朝鮮の関りは後世に起きたという可能性がでてきました。