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源流なび Sorafull

倭人に迫る・九州西北部

(2019.3.17.一部改定)

キーワードは「九州西北部」

少し前にNHKの「クローズアップ現代という番組で、マッチョな弥生人の骨について紹介していました。今年8月、人類学者の海部陽介氏が、宮ノ本遺跡(長崎県佐世保市の高島)から弥生時代の全身骨格を発掘されたそうです。一般的な弥生人はひょろっとした体型で、身長は平均162㎝ほど。今回のものは約158㎝で推定77㎏。上半身が異常に発達した筋骨隆々タイプです。

過去に発掘されたものを調べてみると、五島列島宇久島平戸島、下島など九州西北部の島々から同じような人骨が出ていることがわかったそうです。男性の全員が平野部弥生人の平均以上の太さを持っています。

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発達した上腕骨の形から、腕をあらゆる方向に激しく動かす動作を幼い頃から繰り返していたと考えられ、舟の漕ぎ手だったと推測されます。海人族ですね。核DNAの解析を切に望みます!

結論を言うと、彼らは沖縄近海にだけ生息するゴホウラという貝の交易をしていたということです。佐賀や福岡で当時の権力者(稲作を行っていた平野部の支配者)が身につける貝輪と呼ばれる腕輪の材料を、沖縄や奄美仕入れ、薩摩で加工し、北九州の権力者へ売り、農作物と交換したと考えられています。これらの交易ルートをつないだ人々がマッチョな弥生人というわけです。Sorafullとしては彼らを倭人と呼びたいですが。

南さつま市の高橋貝塚から、製造途中の貝輪が出土しています。

大平裕著「卑弥呼以前の倭国500年」によると、ゴホウラの貝輪は男性が、イモガイは女性が身につけたそうです。

ゴホウラ Wikipediaより

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イモガイ Wikipediaより

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この南海産の貝輪の出現は福岡平野より西北九州のほうが古く、

西北九州⇒薩摩半島西部⇒沖縄諸島

という交易ルートの開発は西北九州側の人々によってなされたと、大平氏はみておられます。※貝輪は出雲とも交易されていたようです。

 

明刀銭からみる交易

また沖縄では明刀銭と呼ばれる青銅製の刀型の貨幣が出土しており、これは中国の春秋戦国時代に燕で作られた紀元前5~6世紀のもの。下の写真はWikipediaで刀銭として紹介されていますが、斉、燕、越などで使われたと説明があります。国によって形や刻印が変わるようです。

刀銭 Wikipediaより

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明刀銭の出土地沖縄では那覇市城岳貝塚と具志頭白北東崖下で、この辺りからは弥生式土器が集中して出土しており、中国式の土器はひとつもないそうです。中国と直接交易したのではなく、貝の対価として九州の弥生人によって持ち込まれたのではないかということです。

他にも佐賀県唐津市広島県三原市西野町に出土したという伝承があるようですが、詳細はわかりません。

また丹後の久美浜町からも明刀銭が見つかっています。久美浜町誌によると、函石浜遺跡から2枚発掘されましたが、1枚は発掘の参加者が持ち帰り、もう1枚は現在神谷神社に保管されているそうです。京丹後市教育委員会によると、この遺跡からは明治時代に「王莽の貨幣」と呼ばれる西暦14年頃に造られた中国「新」朝の貨幣が出土したそうですが、明刀銭はそれよりずっと古い時代の貨幣です。ただこの遺跡から出土したという確証がないため、伝承としての扱いとなり、これが事実であれば徐福渡来より前からの交易ということになりますね。香語山が進出したのが丹後半島の東側であり、西側には土着の民が生活していたのかもしれません。

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明刀銭は朝鮮半島の西~南部の海岸沿いからも多く出土し、倭人が交易したと思われる航路にあたります。

門田誠一氏の論文「朝鮮半島琉球諸島における銭貨流通と出土銭」によると、王莽の貨幣や五銖銭(前漢の紀元前118年に作られ隋まで続いた)も朝鮮半島の海岸近くや島嶼からの出土が多く、日本列島、朝鮮半島楽浪郡、中国本土をつなぐ交通の結節点にあることを指摘されています。また近年沖縄諸島での五銖銭(前漢のものも含む)の発掘が相次ぎ、北部九州経由ではなく中国、もしくは媒介者との直接交渉があったのではないかということです。媒介者とは倭人では?

ちょっと話が飛びますが、紀元前20世紀頃のエーゲ海では、大小の島々(島嶼とうしょ)を行き来して交易をする人々が前期エーゲ文明を生みました。エジプトやメソポタミアとの交易も行われ、世界最古の通商航海民と言われているそうです。戦争がないので城壁もなく、開放的で平和な時代だったようです。海洋民族の明るさを感じます。その後、ギリシア本土からギリシア人が侵攻し後期エーゲ文明に変わり、城壁が作られます。こちらは戦闘民族です。やがてこの文明も終わり、紀元前8世紀には大小200もの都市国家ポリスが形成される時代へと移っていきました。貨幣が普及し交易も拡大、急成長を遂げます。

エーゲ海の交易民も倭人も、島々の交易からしだいに遠くの国へ航路を伸ばし、異国の文化文明を取り入れることによって発展していったようですね。現代では陸の移動が容易いですが、古代は海上を行き来するほうが手っ取り早く、より未知のものに触れる機会が多かったでしょう。この頃は自分たちの「領土」といったものはなく、もっと大きな交易する「空間」という認識だったと思いますが、海から陸へ人々の生活圏が移動すると、土地の所有ということへ価値が変わっていったのでしょう。航海民にとっては、それはきっと不自由で窮屈な感覚だったと想像します。

 

なぜ五島列島

弓前文書の継承者であり解読に挑まれた池田秀穂氏は、祖先である倭人天族を次のように想定しています。氷河期の終わりとともに琉球諸島や九州に住み着き、やがて九州西海岸から朝鮮南端に向けて展開。紀元前5世紀頃には、中国や南朝鮮から仕入れた稲籾や鉄の農器具を本土縄文人に貸し与え、収穫を受け取るというシステムを作っていった。1世紀を過ぎると本拠地を五島列島博多とし、広大な交易圏をもっていたと考えておられます。

どうして五島列島に?と思いましたが、安曇族の研究をされている亀山勝氏は、弥生人の航路を次のように導きだしています。

 

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著書「安曇族と徐福」から、掲載された複数の地図と解説をまとめてみました。大きな海流を黄色の太線で、それ以外を青い線で描きました。注)簡略化しています。

青い線は1934年に行われた海流調査の一部を参考にしていますが、現在領海などの制約があってこれほど大規模な調査はできないそうです。還流は季節や潮汐流の方向、月齢などの影響を多少は受けますが、基本的な形が示されています。

亀山氏は博多の志賀島と長江河口を結ぶ航路を考え、海流と風向きによって導き出された航路がピンク色の太線です。赤い小さな印が五島列島です。

まずは対馬海流の影響を避けて志賀島から五島列島へ。そこで対馬海流を一気に横断できる東よりの風を待ちます。五島を出たら済州島を右手に見ながら、黄海暖流に乗って山東半島に向かいます。山東半島から陸沿いに南下して長江河口へ到着。帰路は長江から出る流れや引き潮などの流れに乗って東へ向かい、対馬海流に乗って五島列島へ。さらに対馬壱岐が見えたところから志賀島を目指します。

つまり五島列島で風待ちをしたりと、ここが大事な中継点になっているのです。なので航海民にとっては、博多と五島列島に本拠地を持つということに大きな意味があるわけですね。

この航路で帰路となる長江河口から志賀島までかかる時間を大まかに計算すると、秒速6mの風の中で船速が時速7㎞であれば5日足らずだそうです。現代であればヨットのような帆船でうまく風を利用できた時には、20時間だとか。(緑のアンダーラインは2019.3.17 改定)

私たちには遭難する遣唐使船のイメージが強く、大陸へ渡るのは非常に困難なものと思い込んでいますが、亀山氏によると、当時の船体は風の影響を大きく受けやすい造りであったにもかかわらず、風上に向かう操船術や天文航法、外洋の知識に乏しい乗組員が乗っていたことが原因ではないかと言われています。

船は大きく立派になっていたのでしょうが、古の海人族たちに受け継がれた智慧や技術は、海人族の衰退とともに失われつつあったということかもしれません。マッチョな人骨もしだいに消えていったようですので。

最初に紹介したマッチョな弥生人が九州から沖縄へ海を渡る時も、黒潮が障壁となるはずです。でも1~2月の強い北風が吹く時期は、風と同じ方向に波が立つため九州から沖縄へ進めたと推測されています。

 

最後に文献に記された五島列島を見てみましょう。

まずは古事記から。イザナギイザナミの国生みでは、最初に大八島(淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島対馬佐渡島、本州)を生み、次に6つの小島を生んでいきます。児島半島、小豆島、周防大島、姫島、そして五島列島、その南の男女群島五島列島知訶島ちかのしままたの名を天之忍男と記されています。古くは血鹿とも書いたそうです。こんな西の果ての島が国生みに選ばれることが不思議だったのですが、航海の要所だったわけですね。

肥前国風土記景行天皇巡行時、平戸島から西の海を眺めて「遠いけれどまるで近いように見える、この島を近嶋というがよい」といわれたとあります。第1の島を小近おちか、第2の島を大近おおぢかと呼ぶようになったそうで、現在は小値賀島にその名残があるようです。最初の地図に場所を書き込みました。志賀島と似た名前ですが、関係は?

また、島には土蜘蛛の大耳、垂耳たちが住んでいて、天皇は安曇連百足に捕えさせ誅殺しようとしたけれど、彼らが生かしてもらえればいつまでも食事を造り御前に献じますと誓ったので許された、とあります。

島の西側には合計30余りの船を停泊させられる2ヶ所の港があって、遣唐使船はここから船出して西に向かったということです。

この島の漁民は馬と牛をたくさん飼っていて、顔かたちは隼人に似ており、馬上で弓を射ることを好み、その言葉は土地の人とは異なっている、とあります。土地の人と漁民とは別なのでしょうか。倭人海人族の弥生語が残っているのか、それとも‥‥?

 

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