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源流なび Sorafull

朱の国⑵ベンガラから水銀朱へ(前編)

 

  

人はなぜ「赤」という色に惹かれるのでしょうか。惹かれるというよりも、実際には鼓動が高まるといったほうがいいのかもしれません。

赤色には警告音のような響きがあります。「血が流れる⇒生命の危険」を瞬時に察知するために、鼓動を上げて生命維持に向かうという進化の方向だったのかも。ですがこの赤色への恐れはやがて「畏怖」という複雑な感情へ変化していきます。

古代において「赤」は汎世界的に生命の色、太陽の色でした。一度死んで、再び生まれる。赤は死と再生の循環を意味する根源的な色と認識されたのです。

 

ベンガラの赤

人類が最初に出会った道具としての赤は酸化鉄=ベンガラです。

南アフリカの南端に「ピナクルポイント」と呼ばれる、初期ホモ・サピエンスの痕跡が残る地域があります。19万年前に始まった長い氷河期に、アフリカ南岸へと逃げた人たちがいました。

ピナクルポイントのブロンボス洞窟では、10万年前の絵具の製作工房が見つかりました。出アフリカ以前のこと。

鮮紅色の粉末が付着したアワビの貝殻が発見されたのです。ベンガラ、油(アザラシ骨粉)、炭、珪岩片、液体を混ぜ合わせた原始的な顔料ですが、色合いを調節していたこともわかっています。貝殻はこれらを混ぜ合わせるパレットでした。用途は不明ですが身体に塗ったのではないかと考えられています。また同じ場所で、7.3万年前に石に描かれた赤い模様も見つかっています。

10数万年前にはここで石器材料の加熱処理を行って細石刃も作られていました。ヨーロッパや日本でこれらの技術が現れるのは10万年ほど後となるので、ピナクルポイントだけの石器時代ですね。すごいです!

 

5~6万年前にはスペインのラパシエガ洞窟など複数の洞窟で、ベンガラで描かれた壁画が見つかっています。当時まだサピエンスがヨーロッパには到着しておらず、ネアンデルタール人が描いたと考えられます。

サピエンスのものとしては3.6万年前のショーベ洞窟や、2万年近く前のラスコーやアルタミラの壁画で、ベンガラが使われています。

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ショーベ洞窟の壁画

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アルタミラ洞窟の壁画(複製)Wikipediaより

日本では北海道で1.5万~2万年前に16遺跡以上のベンガラ製作所がありました。赤鉄鉱を粉砕して粉末化します。この頃は木器や身体への塗布に使われたと考えられますが、旧石器時代が終わる頃になるとベンガラの施朱(赤色顔料を遺体に塗布したり墳墓に敷き詰める風習)が始まりました。

 

ベンガラから水銀朱へ

埋葬儀礼として赤い顔料を使い始めた時、「赤」に霊的な意味合いが生じていたと思われます。死者を守ってもらう、そして血の色、生命の色を施すことによって再生を願う、そんな託す、委ねる気持ちが起こっていたのではないでしょうか。

施朱の最も古い例はネアンデルタール人の遺骸に施されたベンガラだそうです(市毛勲著「朱丹の世界」)。調べてみましたが詳しいことはわかりませんでした。

中国の周口店遺跡では1~1.8万年前の人骨にベンガラの施朱が見つかっています。

日本では旧石器時代末から北海道で始まり、縄文後~晩期に全盛期を迎え東北北部に広がりますが、弥生中期に衰退。一方、北九州では縄文後期に始まり、弥生~古墳時代に渡って継続して施朱が見られ、その間山陰、近畿、関東へと波及しました。

この北方系と九州のふたつのグループの大きな違いは、施朱に使われていたのが前者はベンガラであり、後者は主に水銀朱だったことです。九州でも縄文早期からベンガラは製造されていましたが、死者に使われることはあまりありませんでした。注)遺体に朱、墳墓の壁にベンガラと区別していたり、頭胸部に朱、下半身にベンガラというパターンはあります。

市毛氏は北海道から九州へと伝わったのではなく、別々のルートで入ってきたとみています。

 

北九州グループの最古の施朱は、福岡県遠賀川河口にある山鹿貝塚の人骨(土坑墓)にみられるそうで、およそ3500年ほど前となります。市毛氏は人骨の赤色顔料を出土状況によって水銀朱が使われたと判断されていますので、成分分析はなされていないのでしょう。ただし、この山鹿貝塚の施朱が糸島半島など北九州に流行し、縄文晩期からの墳墓群で水銀朱が検出されており(木棺)、散布法が同じパターンなので、同系統の可能性が高いです。

 

また北九州では弥生前期~中期に甕棺墓の最盛期を迎えます。出雲伝承で徐福が住んだといわれる吉野ヶ里遺跡(紀元前4~前3世紀)には、多量の水銀朱が埋葬された甕棺も見つかっており、副葬品も多く出土しています。被葬者は小国の王と推測されます。

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吉野ヶ里遺跡 甕棺墓埋葬の模型

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 吉野ヶ里遺跡 発掘された場所の真上に同じ向きで再現

福岡平野周辺において、この頃までは小児が甕棺に埋納され、成人は木棺に埋葬されていました。甕棺は中国の周時代には未成年を葬る棺であったそうです。出雲伝承の富士林雅樹氏は、吉野ケ里の甕棺は山東省歴城県出土のものと同じであるといわれています。山東省出身の徐福の渡来によって埋葬方法が変化したのかもしれませんね。ということは、徐福渡来以前にここで勢力をもっていた集団が、周へと往来していた可能性も。それが倭人では。(周の成王の時、倭人朝貢したという話が論衡にあり)

 

世界で水銀朱による施朱をみてみると、エジプトでは紀元前16世紀の墳墓に認められます。中国では殷の遺物にみられますが、それに先立つ二里頭遺跡から朱を敷いた墓穴や玉が見つかっています。3500~3600年前のものだそうです。(岸本文男著「中国史にみる水銀鉱」)

日本、エジプト、中国で同時代に水銀朱による施朱が行われていたことになります。どこから発生したかはわかりませんが、ベンガラではなく朱を埋葬儀礼に使うというところに、赤色顔料というだけではない朱独自の個性が生まれていたということでしょう。

※施朱の文化は朝鮮半島にはなく、わずかにみられるものは倭人の墓であるようです。

 

次回に続きます。