SOMoSOMo

源流なび Sorafull

朱の国⑸朱の女神、ニホツ姫とニウツ姫(前編)

 

  

朱について意識し始めたのは、ほんの数年前のこと。古代史に興味がなければ、あまりご存知ない方が多いのではないでしょうか。

三国志魏書の倭人伝に3世紀前半の倭国の風土、風習を記した中で「朱丹を以ってその身体に塗る」「その山には丹あり」とあるものの、記紀ではなぜか一切触れていません。万葉集などの和歌と豊後国風土記にちらりと書き留められているだけです。

 

豊後国風土記、海部の郡、丹生の郷に「この山の砂を採取して丹にあてた。これによって丹生の郷という」とあります。朱の採取が行われている場所を「丹生」と呼ぶことがわかります。

また朱や丹とはっきり書かれてはいませんが、以前の記事でも紹介した播磨国風土記逸文には「朱の女神」らしき話が出てきます。

息長垂姫(神功皇后)の三韓遠征の際に爾保都ニホツが現れ、「私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろう」と言って赤土をお出しになり、武器や船などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代の峯に祀ったと記されています。

ところが実際に紀伊に祀られているのは丹生都ニウツであることから、ニホツ姫とニウツ姫は同神であるということになりました。

また播磨国風土記はニホツ姫を「国を堅めし大神の子」と説明しており、これを後代にイザナギイザナミの子と解釈したため、天照大神の妹神である稚日女ワカヒルメノ尊と同神だと説明されることがあります。ですが「尊」は天孫族を、「命」は国津神を示すことから同一神とすることは無理なようです。

さて、播磨国風土記の話のままに受け取れば、神功皇后の時代にはニホツ姫だったのが、紀伊に祀った際にニウツ姫に変わったことになります。なぜ神名を変える必要があったのでしょうか。何か背景があるはず。

この爾保ニホと丹生ニウについて松田壽男氏は、ニホツヒメ」こそが朱砂の女神の本然の呼び名であったといわれます。しかも神功皇后の時点でニウツ姫に変更されたのではなく、ニホツ姫祭祀は今も存続していると。

注)ここからは氏の著書「丹生の研究」を参照しますが、調査された時とはすでに地名が変わっている場所もあり、その場合は現在の地名を表記します。

 

ニホとニフ

広島市仁保町の邇保姫神社広島県庄原市西城町の爾比都売神社島根県大田市土江町の邇弊姫神は名称や祭神の変化はあれ、すべてニホツ姫を祀っていたことを検証されています。また大和には大仁保神社があったことが三大実録の878年の条に記されており、現在の明日香村入谷と高取町丹生谷に鎮座する大仁保神社のどちらかではないかと言われています。

他に地名としては、

仁保⇒ 周防、安芸、備前、近江

仁尾⇒ 淡路、讃岐、土佐

荷尾杵、荷小野⇒ 豊後

に見られるそうで、上記神社を含めすべての土地が水銀を含有します。

ニホもニウも朱の産出を示す言葉です。ニホとは丹が穂のように吹き出している様子であり、ニフとは丹が生まれる意味であり、ニュアンスの違いですが区別する必要があります。

松田氏の見解では朱砂の産地はニホやニフ(大和と紀伊の国境付近)と呼ばれていたけれど、漢字表記の時代を迎え、「ニフ⇒丹生」という表記が始まり、その辺りで朱砂の採掘に従事していた民が自らの姓を「丹生」とし、祖先神として「丹生都姫」を祀り、彼らが採掘場所を次々と変えていくことで丹生の地名や神社が全国に広まっていったということです。つまりニホという言葉を使っていた民とは別だという話になりますね。ニホが先にあり、ニフが現れ、ニフがより広まった。

「丹」という字の使われ方は特殊で、中国での音は「タン」であり「ニ」という音をもちません。日本語で朱を意味する「に」に対してあえて「丹タン」を選んだのは、水銀朱であることを示すことが重要だったからです。それは中国の「丹」が日本の「に」であることを理解した人たちが、その漢字を選んだということになります。※万葉仮名の最古例は5世紀の稲荷山古墳出土の鉄剣(471年)なので、5~6世紀のことでしょうか。

 

ニウツ姫の変化

ところでこの丹生氏の祀ったニウツ姫は、やがて更なる変化を迎えます。もともと朱の採掘は掘り尽くせば放棄され、新たな産地へと移動します。丹生氏はニウツ姫祭祀を伴いながら全国に広がっていきましたが、移動して時が経てば忘れ去られてしまいます。残された祠には、その土地の暮らしに即した新たな神が迎えられたり、中央から政策として別の神を送り込まれました。

松田氏はまず大和系変化として、水田農耕の発展とともに水の神であるミズハノメ神にニウツ姫は交替させられたといいます。(奈良時代丹生川上神社創建後。日本書紀の神武紀にニウツ姫ではなくミズハノメ神が現れます)

さらに平安期に入ると降雨を支配する中国的な雨師、オカミ神へと転化されました。

また紀伊系変化としては、高野山真言宗が、衰えていたニウツ姫祭祀を結果的に守ったことになると。空海は丹生氏の地盤であった和歌山県伊都郡に、地主神であるニウツ姫を祀り(丹生都比売神社)、高野山金剛峰寺を開きました。密教が水銀を扱うためこの地を選んだといえそうです。丹生神社は全国に160社あり、そのうち和歌山の78社が丹生明神と高野明神を合祀したものだそうです。高野山の勢力拡大とともに丹生神社は各地に進出していきました。

 

丹生氏

丹生氏の出自について松田氏は、家系図を信用しない立場をとられています。一方蒲池明弘氏は、丹生都比売神社の元宮司である丹生廣良氏の著作「丹生神社と丹生氏の研究」に示されたルーツを取り上げておられます。それによると、丹生氏の祖先は伊都国の王族であり、その後主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり、九州に残った一派が大分県の丹生郷(豊後国風土記の)に進出したということです。ただし根拠は不明で、一族の伝承でもあるのだろうかと疑問が残るようですが、興味深い話ですね。

伊都国といえば平原遺跡の王墓から国内最大の銅鏡が5枚も出土、また施朱もみられます。平原以外の墳墓でも施朱や朱の入った壺が出土しています。紀伊伊都郡と同じ「いと」つながり。この話に添うとすれば、丹生氏が紀伊にやって来たのは物部東征の時。2世紀後半か3世紀後半になります。

  

出雲のニホ

さて、ニホツ姫を祀っていたのはどういう人たちでしょうか。手掛かりは先ほど示したニホツ姫を祀っていた神社とニホ(ニオ)の地名です。まずは出雲から。

f:id:sorafull:20200324141521p:plain

地図の左上、延喜式神名帳石見国安濃郡邇弊姫神は、今は「弊」から「幣」へと字が変わっています。祭神もハニヤス姫に変化。松田氏の調査ではこの辺りの土地は水銀を含有しており、実際に静間駅から大田駅の山地は列車の窓からも、水銀鉱染の赤土が見受けられたそうです。

西へ行くと徐福らが初めて上陸したという五十猛海岸があります。これまでなぜ五十猛の地を選んだのかと思っていましたが、出雲は他に朱の産地がないようなので、赤土の存在するこの地を選んだのでしょうか。

地図の右下には佐毘売山(現・三瓶山)がみえ、ここは出雲の幸姫命が籠るとされる霊山です。その山麓に浮布池があり、畔に迩幣姫神が鎮座しています。(松田氏の著書にこちらについての記載はありません。)

祭神は迩幣姫命、配神は宗像三女神。684年の大地震で池ができたと伝わり、静間川の源流となって集落を潤しているそうです。神社は774年に創祀され、土地の産土神として迩幣姫を祀り、また水の神としても崇敬されているといいます。神社の伝承では、長者の娘の迩幣姫が、若者に変身した大蛇に恋をして池に身を投げたのだとか。朱と長者伝説はセットのようですね。蛇は出雲の竜神信仰。

 

次回に続きます。

  

f:id:sorafull:20200330103022j:plain