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源流なび Sorafull

朱の国⑼十一面観音①起源

 

 

日本の弥生末期から古墳時代にかけて、中国では朱砂、水銀を追い求めていました。徐福が渡来したのも始皇帝が不老不死の仙薬を強く求めたから。

弥生後期の権力者の施朱に中国産の朱が使われ、弥生末期の三国志魏書倭人伝には、日本の山に丹(朱)がでることが報告されています。大陸との間に朱を介した交易があったことは確かでしょう。

続く古墳時代の施朱の最盛期には国産の朱が使われており、日本は朱に溢れていたといえます。神功皇后三韓遠征に始まり、倭の五王の時代には朝鮮半島から鉄を仕入れ、河内に巨大古墳が次々と造られていきましたが、その元手となるのは朱の輸出だったのではないかとみる研究者もおられます。当時の朱の中心地は大和の宇陀です。

考古学の市毛勲氏によると、施朱の最盛期を含む4~5世紀は朱砂の採掘から精製まで丹生氏が掌握して大和政権に貢納。辰砂はそこで保管され、地方豪族に分配されていた。6世紀になると施朱の衰退とともに丹生氏はニウツ姫祭祀に従事し、朱砂管掌から離れ始めた。やがて朱砂採掘も律令官司制に組み込まれていった。つまり朱砂産出地の住民が税として政府に納めるようになった。と、この時期の流れを説明しています。

 

施朱から鍍金の時代へ

さらに市毛氏は、施朱の最盛期には朱砂と水銀が同じ鉱物であることは理解されていなかったが、5世紀後半になるとアマルガム鍍金法の普及によって朱砂を精錬すると水銀が得られることが理解され始めたといわれます。金環と呼ばれる金銅製耳飾りは一般の人でも身に着けることができたそうです。金環の大流行した6世紀半ばには施朱の風習が途絶えました。

6世紀前半には仏教公伝。その後推古天皇の命で606年に止利仏師によって金銅仏が造られ、これが記録上の最古の鍍金となります。

5世紀から6世紀へ移り変わる頃は、日本における価値観の大転換期だったのではないでしょうか。縄文、弥生、古墳時代へと連綿と続いていた朱砂そのものを重んじる精神性が、鍍金と仏教の伝来によって瞬く間に価値を失い、人々の関心は鍍金に必要な水銀へと向かい始めたようです。

 

ここで奈良の郷土史家、田中八郎氏の興味深い説を紹介します。

大和四所水分社は吉野、宇太、都祁、葛城とあり、これら水分みくまり神社は農業用水を配分する神さまとされていますが、田中氏は水ではなく「水銀の神さま」だといわれるのです。

実は松田壽男氏も水分神について指摘されており、古事記に「みくまり」と訓むよう注されるまでは、「みずわけ」と訓んでいただろうと説かれています。「分」には配る意味はなく、別、離の意味しかないからです。水分神社は古代大和に特有で、奈良盆地の南辺に集中していることから、分水嶺と同意の神であり、四つの水分神社大和朝廷の最初期の境域であったと。

一方田中氏は、水分とは水銀抽出技術のことであるといわれます。松田氏のいう「水を分ける」ではなく、こちらは「水銀を分け」て得ることを「みずわけ」と呼んだことになります。

そして古事記にみえる天之水分神国之水分神とは職掌名であり、王権から派遣した冶金技術者の支店長と、地元民の鉱石集荷担当の支店長を表しているのだと。水分事業は6世紀後半に始まり7世紀に拡大。神社となるのは東大寺の大仏完成後で、8世紀後半以降であろうといわれます。

水分神は丹生の神を追い出し、後継に居座ったということですが、先ほどの市毛氏の言われる、丹生氏が施朱の衰退とともに朱砂管掌から離れていった時期と重なりますね。

仏教を推進したのは蘇我氏ですので、水分事業のバックにいたのかもしれません。

朱砂から水銀を分けるには、朱砂を熱して水銀を気化し、その蒸気を冷やせば水銀が得られます。例えば蒸気を水中に導くと水銀は水中でコロコロと粒状になります。

 

鍍金が流行して、やがて東大寺の大仏造立へと至ります。そんな中、新たな信仰が生まれていました。それが十一面観音信仰です。白洲正子氏は著書「十一面観音巡礼」の中で、十一面観音と朱砂、水銀が結びついているのではないかと示唆されています。この本をベースにしながら、出雲との関係をみていこうと思います。

 

大田田根子と十一面観音 

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写真は奈良県桜井市聖林寺の国宝・十一面観音立像です(木心乾漆造)。やや男性的ですが、衣の波打つ襞が美しく、立ち姿には気品と威厳が溢れていますね。

左手には蓮華を活けた花瓶を持っているのですが、この写真にはなぜかありません。聖林寺のホームページで詳しく見ることができます。760年代に造られたという説が有力とのこと。

この観音像はもとは三輪山大神神社の神宮寺として奈良時代に建てられた大神おおみわ(のちの大御輪寺)の本尊でした。大神寺は初め、成務天皇大田田根子を祀ったと伝えられ、のちに十一面観音が合祀されたということになります。そして明治の廃仏毀釈を逃れるために聖林寺に移され、間もなく岡倉天心フェノロサ秘仏の禁を解いて保護しました。

大御輪寺は神仏分離令によって、大神神社の摂社、大直禰子おおたたねこ神社となりました。社殿は大御輪寺の本堂を使用しています。

繰り返しになりますが、日本書紀では大田田根子は大物主の子孫であり、崇神天皇の世に疫病が大流行した際、三輪山の大物主を祀ることによって疫病を鎮めたとされる人物です。

 

十一面観音の起源

白洲正子著「十一面観音巡礼」には、後藤大用氏の「観世音菩薩の研究」に記された十一面観音の出自が紹介されています。引用します。

《 生れは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、ひと度怒る時は霹靂の矢をもって人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養を行ったのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じて行った。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に千眼を有し、二臂、四臂、八臂など、様々の形象で表された。日本古来の考え方からすれば、荒御魂を和御魂に変じたのが十一面観音ということになり‥ 》

ここではバラモン教となっていますが、ヒンズー教の多面神からきているという説のほうが多くみられます。

バラモン教は、インドへ侵攻しドラビダ人を奴隷化したアーリア人が広めた宗教。バラモン教が衰退するとそれまでインドにあった土着の信仰が復活してヒンズー教となりました。その土着の宗教とはインダス文明に源があるともいわれ、出雲族の信仰する幸の神と起源が同じことになります。

 

観音像の宝冠の上には仏面、菩薩面、忿怒面、牙出面、暴悪大笑面といった柔和な面と荒々しく厳しい面とが混在しています。

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写真は滋賀県向源寺(渡岸寺)の十一面観音の頭部です。(平安初期)

忿怒面は悪を戒め、牙出面とは一見怖そうですが実は行いの清らかな者を励まします。暴悪大笑面は悪行への怒りが極まり大笑いによって悪を滅するそうで、憤怒を超えた姿が表されています。写真では背面になります。

白洲氏は平安初期の仏師は「仏像を作ることが修業であり、信仰の証でもあった」と記しています。

作り手の側を想像してみると、一体の観音像にこれだけの表情をもたせるということは、突き詰めれば作者が己の内面に向き合う行いであったように思えます。人間の内面に潜む悪(弱さ)を見つめ、認め、それをもがくようにして滅していく。そうした末に現れた観音像に人々が信仰心を持って出会った時、観音さまは人々の揺れ動く心に寄り添い、励まし、そして厳しさをもって仏道へと導く存在となったのでしょう。

 

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あまりに美しいお姿なので、全身像も。「湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿」と白洲氏は讃えておられます。

 

さて、先の引用をみると、観音はもとは荒神であり山の神ということです。白洲氏は経験上、十一面観音は必ず山に近い所や山岳信仰と関係のある寺に祀ってあるといわれます。

これらのことから浮かんでくるのは、出雲の幸の神三神です。クナト大神は山の神。出雲の竜神やサルタ彦大神は荒神と呼ばれました。

そして葛木系賀茂家の子孫、役行者修験道の開祖、634-701伝)は幸の神三神を三宝荒神(幸神)として祀りました。三宝荒神三面六臂で、悪を罰する憤怒の表情をもった火の神。

また「霹靂へきれきの矢」とありますが、霹靂とは落雷。出雲では雷神は竜神の荒御魂であるそうです。

 

もうひとつ荒神と同体とされるのが、密教歓喜天かんぎてん=聖天しょうてんです。聖天の前身は象神ガネーシャ。出雲伝承ではガネーシャはサルタ彦大神です。(インドでも村々の辻にガネーシャ像が祀ってあるそうで、道の神に通じますね)

白洲氏によると、最初に聖天が日本に請来されたのは空海(774~835年)の時で、高野山の奥深くに秘められていましたが、鎌倉時代になって世に現れ始め、それから4、500年経ってようやく一般化しました。なぜこれほど時間がかかったのか。

奈良の興福寺旧蔵の聖天像は、象頭神と十一面観音が抱き合っています。(「十一面観音巡礼」に掲載)

これは観音さまの和合の姿であり、しかも相手は象頭神となると日本ではなかなか受け入れがたいですね。このタイプは非常に稀なものらしく、多くは歓喜双身天といって象の男女神が抱擁する姿となっています。空海が請来したのは歓喜双身天とされ、現在京都の山崎聖天にあるものではないかという説も。)

下の写真は埼玉の妻沼聖天山歓喜院)所蔵の錫杖頭にみられる歓喜双身天。秘仏本尊であり、数十年に一度公開されるそう。聖天宮に祀られていますが、本坊には本尊十一面観音が祀られています。聖天院では十一面観音を本堂に祀り、聖天像を秘仏とするところが多いそうです。聖天は十一面観音の化身と説明されることもあります。

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そもそもヒンズー教では宇宙と人間は同一であるとし、男女の和合は宇宙との合一の境地、つまり解脱(悟り)へ通じるものとされています。ネパールには男女の神が抱き合うミトゥナ像があり、インドでは体の右半分が男神シバ、左半分が妃神パールバティという男女一体像になっています。一般の人々にとっては、解脱というよりも縁結びと子孫繁栄を願う神さまでもあったのでしょう。

それが仏教になるとガネーシャをもとは悪神とし、十一面観音が自らの肉体を与えることでガネーシャ歓喜を得て善神へと転じたということになります。女神の性の力が悪を善へ導くという思想のようです。これも慈悲ということでしょうか。やはり多神教の大らかさは仏教の中では堅苦しくなるような。

ちなみに興福寺旧蔵の双身像は、十一面観音の宝冠の後ろに龍を抱いています。これを水の神とみるか、出雲の竜神か。

妻沼聖天の紋章は二股大根の交差紋で、これは夫婦和合を表します。他の聖天院にもみられますが、出雲の富王家が建てた富神社の神紋も大根の交差紋です。もとは銅剣の交差紋(X印は男女和合)だったのを、後に目立たないように大根に変えたとのこと。どうして大根かと不思議だったのですが、ガネーシャの牙(男性の象徴)がネパールでは小刀に、中国では大根に変わり、それが日本に入って来たそうで、どちらももとはガネーシャだったことになります。またインドではガネーシャのお祭りでモーダカ(歓喜団)というお饅頭を供えます。日本の最中の起源。聖天院でも供えますが、形が巾着と似ていることから巾着の置物(宝袋)として飾られるようになりました。

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浅草の待乳山聖天の神紋

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生駒の宝山寺。巾着と大根の組み合わせは子宝に恵まれそうですね。

聖天については谷戸貞彦著「七福神と聖天さん」に詳しく書かれています。

 

「悪を追い払い善へと化す」力をもった十一面観音。時には疫病の出た町の中を、観音像を車に乗せて練り歩いたそうです。崇神天皇の御代に大流行した疫病を鎮めた三輪山の司祭、大田田根子を祀る神社に十一面観音が祀られていることをみても、疫病と観音信仰には繋がりがあるようです。

あくまで仏教ではありますが、これは仏教よりもずっと古くからこの国に続いていた「祓え」なのではないかと思えてきます。人々の穢れを我が身や人形に受け、そして神にゆだねて流し去ってもらう。古代、諸国を放浪する傀儡子たちの舞や、そして天皇の祈りである、身を差し出して国や民の穢れを祓う尊い行為です。

サルタ彦神の厄払い人形や百太夫信仰にも同じ意味がありますね。

祓えについてはこの記事に。

 

参考文献

田中八郎「大和誕生と水銀」

白洲正子「十一面観音巡礼」

谷戸貞彦「七福神と聖天さん」