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源流なび Sorafull

古代海人族たちを結ぶ糸(3)五十猛から徐福へ

 

 

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五十猛がイソラ、タケイタテだったのか?

 

古代史に登場する人物はたとえ同じ名前であっても、実際に一人の人物を指すわけではなく、例えば役職名のように代々同じ名前を受け継ぐ場合もあれば、神となって時空を超えて登場することもあります。(武内宿禰は何百年か生きたことになっていますが、子孫がこの名を継承していたからです)

その可能性を頭において、五十猛に関係する記述をいくつか見てみましょう。

 

日本書紀では一書によるとして、スサノオが天から追放された後、息子の五十猛(イソタケル)とともに新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に天降ったけれどそこを気に入らず、出雲へ至ります。五十猛は天降る時にたくさんの樹木の種を持っていましたが、新羅には植えずにすべて持ち帰り、九州の筑紫国から始めて全国に植えてまわったので、青山の国となりました。その後五十猛は紀伊の国に鎮座しました。

この話はスサノオたちが新羅出身ではなく、他所から来て新羅を経由して日本に到着したことを示唆しています。出身地の天とはどこなのか?

 

播磨国風土記によると、因達イダテの里の名は、神功皇后三韓併合に向かう時、船先に祀った伊太代(イタテ)神がこの里に鎮座されているからとのこと。安曇磯良が重なります。姫路市に射楯兵主(いたてのひょうず)神社があり、このイタテ神とは五十猛です。

 

また住吉大社神代記では船玉神はイタテ神の前身であると記しています。

船玉神=イタテ神=五十猛

五十猛命すなわちイタテ神は木の国であり水軍を率いた紀伊国、紀氏の神です。樹木の神、そして木で作られる船の守護神でもあるというわけです。

 

さらに日本書紀仲哀紀には、筑紫の伊都県主の先祖の五十迹手(イトテ)仲哀天皇神功皇后の夫君)を船で迎えた時、天皇より「伊蘇志」(勤し)と褒められ、五十迹手の本国を伊蘇国(磯?)と呼ぶようになったが、訛って伊都と変化したと記されています。

長門彦島へ迎えに来た船には「五百枝の賢木を抜き取って船の艫舳に立て、上の枝には八坂瓊(勾玉)を掛け、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣を掛けて」これら三種の神器天皇に献上したとあり、潮満珠潮干珠を献上した磯良が重なりますが、大和朝廷に降伏したという意味でしょうか。この三種の神器を枝に掛けていく話は天の岩戸開きの様子にも描かれています。

 

筑紫の国魂、白日別神を祀るという筑紫神社(筑紫野市)は五十猛が祭神です。

筑後国風土記には不思議な話があり、昔この地に麁猛神(アラクタケキカミ)がいて通行人の半分を殺したので、筑紫の君と肥の君が占い、筑紫の君等の祖の甕依姫(ミカヨリヒメ)を巫女にたてて、この荒ぶる神を筑紫神として祀らせたというのです。

向かい合う高良山の神と闘ったという伝承もあります。土着神VS渡来神でしょうか。

筑紫神社後ろの基山は日本植樹発祥の地とされ、木の国である紀伊国造の故地といわれます。

この木の国が九州から和歌山へ移っていった経緯が、大分の宇佐国造家や和歌山の名草戸畔の子孫小野田家に伝承されています。また追々紹介します。

船玉神=イタテ神=五十猛=筑紫神

 

出雲王家の伝承では、紀元前3世紀末、出雲の西隣、石見国の五十猛海岸に秦国からやって来た徐福(のちの火明命)が上陸、その地で長男五十猛が生まれ、やがて五十猛は成人すると丹波に移住し天香語山と名乗ったといいます。なんと、五十猛と天香語山は同一人物ということです。五十猛はその後紀伊へと移住(実際には紀伊国造となった息子の高倉下タカクラジが移住か)。火明命はいったん秦国へもどり、二度目の来日が九州吉野ケ里となります。火明命は饒速日命と名を変えます。

もはや頭の中はぐちゃぐちゃかと思いますが、まとめます。

五十猛の父はスサノオですので、スサノオとは天香語山の父である火明命、つまりそれが徐福ということになってしまうのです・・・・

勇気がいりますが、書いてみます。

スサノオ=火明命=徐福

スサノオって出雲の祖じゃなかったのかと思いますが、出雲王家が違うと言っているのですから、理由があるのです。

 

そして、さらりと徐福の名を出しましたが、これって爆弾発言ですよね。

日本各地に徐福上陸の伝承が山のようにある一方で、正史にはいっさい触れられていない人物なのですから。しかも中国の史記には次のような記述があります。

紀元前219年、不老不死の仙薬を探している秦の始皇帝のもとに徐福がやって来て「東海の海中に蓬莱、方丈、瀛洲(えいしゅう)の三神山があり仙人がいるそうなので、子どもたちを連れて探しに行く許可をください」と言った。童男童女数千人とともに旅立ったけれど成果なく徐福は帰ってきた。大きなサメがいたからという言い訳をして。それでも罰されることなく、紀元前210年、徐福は再び童男童女3000人と多くの専門技術者たちを連れ、五穀の種を持って東方に船出し、平原と沼地のある国を得て王となり戻ることはなかったと。

後漢書〈倭〉でも徐福が澶洲で数万家になったとし、そこからの人々が時折り会稽(浙江省)の市へ来るとあります。また会稽の人が海で暴風にあい漂流して澶洲まで行ったことも記されています。この澶洲が日本だという確証はありませんが、行き来する人の話から倭国であると考えたからこそ〈倭〉の項に記したのでしょう。全国各地に残る徐福伝説やそれにちなんだ地名や神社の多さ、そして渡来文化の定着をみると、何もないはずはなかろうにという気持ちになってきます。

徐福の出身地は学者たちの集まる最先端の文化をもった斉国(山東半島)で、徐福は方士(神仙術の使い手、道士)であったことから、医薬や化学(錬金術、煉丹術)、天文学占星術、祈祷、呪術など極めていたようです。

斉国は紀元前221年に始皇帝に滅ばされたところですので、徐福は秦国から脱出しようと謀ったのかもしれませんね。それにしてもかの始皇帝に虚偽の直談判をして巨額の費用を出させるなんて、大胆にもほどがあります。しかも二度の渡航です。

本当にこの徐福が日本に上陸しているのだとすれば、この国の今を築く土台にどれほど徐福の力が及んでいるのでしょう。徐福の持っていた知識、そして連れてきたという専門技術者たちが日本の弥生時代の飛躍的な文化の発展に大きく関与したのは間違いありません。

 

話を五十猛にもどします。 

天、新羅、 筑紫、丹後、紀伊、出雲。五十猛はまさに神出鬼没です。五十猛ひとりの足跡とは限らず、父である火明命や子孫の話が投影されているのかもしれません。

安曇磯良については火明命つまり徐福の2度目の上陸地、北九州での伝承である可能性が高いように思えます。ただそれでもどこか腑に落ちないのです。火明命が徐福だとして、いくら方士でも外洋の航海にまで詳しいとは思えません。徐福とともに海を渡った航海士が日本への航路を知っていなければ、徐福とて何千人もの人々を連れていくことは無謀でしょう。始皇帝に話をもちかけた段階でしっかりと計画されたことだったと思います。もしくは徐福たちを連れてきたのが安曇族である可能性はないのでしょうか。安曇族がもともと日本と大陸を行き来する海人族であったなら、徐福に日本のことを教え、そして船で連れてくることが可能です。

さらに安曇族は志賀の島が本拠地であり、徐福は平原沼地の王、または吉野ケ里に住んだと言われていることからもグループの違いを感じます。

系図を見ていても、安曇の始祖は海神の綿積豊玉彦であり、それは火明命の祖ではありません。また海幸山幸の話を「君が代」のブログで紹介しましたが、海部氏は自分たちの祖が山幸彦(ホホデミとして描かれていると言われており、その山幸彦を籠の船に乗せて海神の竜宮へ導くのが潮流を司る塩土の翁です。日本書紀では神武に東に良い土地があることを教え、東征のきっかけを作っています。さらに安曇族は塩の精製を生業にしていたことも、この塩土の翁の名前に重なります。

そこで、当時日本と大陸を行き来することが可能であった人たちを探ってみました。