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和国大乱~日矛の渡来と吉備王国

中国の史書にみられる「倭」という漢字は蔑字なので、ここではと書きますが、史書に記された文章の紹介ではそのまま倭という字を使います。卑弥呼なども同様とします。

 

 三国志魏書の倭人によると、

その国(倭国)も、もとは男を王としていた。男が王であったのは7、80年間であったが、国が乱れて攻め合いが何年も続いた。そこで1人の女性を選んで王とし卑弥呼と名付けた。神霊に通じた巫女で、神託により国を治め人々を信服させた。

後漢書東夷伝では、

桓帝霊帝の間(147~188年)、倭国は大いに乱れ、各国が互いに攻め合って、何年もの間統一した君主がいなかった。(略)倭国の人々はともに卑弥呼を立てて王とした。

と和国大乱について記されています。

出雲伝承では男が王であったと書かれたのは海王朝の頃のことで、その後磯城王朝になると豪族同士の覇権争いが始まったといわれます。ヒメ・ヒコ制(王と巫女による政治)も強固になっていき、ここから日本は絶え間ない戦の時代へ突入しました。

おおまかですが、徐福渡来からの2千年は戦いの時代でした。母系家族は庶民の中では長く続きますが、豪族たちは父系家族制へと変わります。3500年前、ドラビダ人が日本列島へ避難してきた時も、父系家族であるアーリア人に母系家族のドラビダ人が太刀打ちできなかったことが要因だったといいます。戦いを前提とすると父系家族の強さが必要なのでしょう。「勝つ」ことが世の価値観の優位である限り、男性性の強さに従うことになるのかもしれません。

現在の世界の状況を見て、さあ、戦いを止めましょうと呼びかけるだけでは無理があります。男性性に偏りすぎた価値観が女性性とのバランスを取り戻していく道が必要になってくるのではないかな、と思います。長く続いた戦いの歴史の余韻のせいか、無意識に男性に力を明け渡す女性の習慣に気づくことも大切だと思います。

と、話があらぬ方向へいってしまいそうですが、今の世の中がどうしてこうなっちゃったのか、ということを無意識レベルまで探るつもりで見ていかないと、どんな手立ても対処療法で終わってしまうなと思うのです。

陰極まれば陽となり。もうすぐ冬至ですが、自然界は陰陽のバランスで成り立っているので、冬(陰)が極まれば春へと転じますし、夏(陽)が極まれば秋へと転じます。自然界の一部である人間社会のバランスも、そろそろ転じる頃と思いたい。北欧圏の男女平等と国民の幸福度の高さを見ると、陰中の陽(冬極まった中の春の芽生え)を感じたりもして。

※補足ですが、男性性は男性の中にだけあるのではなく、男女ともに男性性と女性性が内在しているので、そのバランスを含め意識しておくことも大事かと思います。

 

 古代の国名地図

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さて、倭国大乱に入る少し前の出来事から始めたいと思います。

2世紀の初め、韓国から辰韓の王子、日矛ヒボコが出雲へやって来ました。徐福の時のような大船団ではなかったようです。記紀では新羅の王子とされていますが、出雲の伝承、並びにヒボコの子孫は辰韓だとしています。

船団は出雲の薗の長浜に着きオオナモチと面会します。オオナモチは出雲八重垣(法律)を守ることや先住民の土地を奪わないことなど約束するならと条件を出しましたが、ヒボコは拒否しました。オオナモチは出雲、石見、伯耆国に住むことを禁じます。そこでヒボコは東へ進み但馬国豊岡市の沼地に停泊し船上生活を始めます。そして円山川の河口の狭くなったところの岩石を取り除くと、沼の水が流れ出て豊岡盆地が現れました。そこにヒボコたちは田畑を作って住み始めます。

このことは第2次大戦中に斎木雲州氏の父、富当雄氏が、ヒボコの直系子孫である神床家(1500年に渡り出石神社の社家を務めた)の方と縁があり、互いの伝承を確かめ合ったそうです。さらに斎木氏もその後神床氏と直接話をされているようです。

神床家の伝承ではヒボコは辰韓王の長男であった。しかし次男を後継者とするため、まだ少年だったヒボコを家来と財宝を持たせて和国に送った。そのためヒボコは父を恨んで反抗的な性格になっていた、ということです。出雲王に反発した結果、家来たちも苦労したのだと。ヒボコは豊岡で亡くなり、出石神社に祀られています。神社裏に禁足地があり、そこがお墓だそうですが、敵が多かったために秘密にしてきたといいます。最後まで苦難の連続だったのですね。

古事記ではヒボコは和人の妻を追いかけてやって来たことになっていますが、実際はそうではなく、父から和人の女性を妻にして早く解け合うようにと言われたことが、和人の妻の話になったようです。

子孫はやがて豪族となり出雲と戦いますが、その後の子孫にかの息長垂姫オキナガタラシヒメ(神功ジングウ皇后)が現れます。母親がヒボコの家系です。ちょうど辰韓の王家が断絶して、家来が新羅を起こした時期にあたります。神功皇后新羅の領土と年貢を自分が受け継ぐ権利を持っていると主張し、そのために三韓遠征が始まるのです。記紀では神功皇后仲哀天皇の后となっていますが、成務大王の后ということです。この神功皇后の男性関係や息子の応神天皇についての驚きの伝承があり、それは出雲と神床家では完全に一致しているそうです。また回を改めて紹介します。

ヒボコの死後、子孫は勢力を増し、出雲王国領である播磨国へと進出を図ります。播磨は出雲とヤマトの連合王国の中継地にあたるので、出雲にとって大事な地域でした。

同じ頃、九州の物部王国も支配地を拡大し筑紫全域から壱岐対馬まで広がり、伊予や土佐も味方になっていきました。物部王はしだいに近畿への進出を企み始めます。しかしまだ出雲とヤマトの連立政権には力が及ばず、そこで物部王は但馬のヒボコの子孫と共謀し、播磨国を南北から挟み撃ちにして占領しようともちかけます。紀元後150年頃、ヒボコの勢力は播磨への侵攻を開始します。狙ったのは良質な鉄の採れる地域でした。戦の様子は播磨国風土記に記されています。

実戦経験のない出雲軍はヤマト磯城王朝のフトニ大王に援軍を頼みましたが無視され、ヒボコ軍に敗北します。出雲王国はヤマトとの中継地を失い、助けてさえもらえなかったことから連立政権は終わりを迎えました。

出雲はヤマトとの共通のシンボルだった銅鐸をやめて、新たなシンボルとして銅剣を造ることにします。出雲両王家は領地の境界である神庭斎谷かんばさいだに斐川町荒神谷)に集まり、旧式の銅鐸6口と物部から貰った銅矛16本を埋納し土で覆いました。他の勢力圏の青銅器は今後出雲国内に配らないことを決めます。

写真は1984年に発見された荒神谷遺跡です。江戸時代以降はここに入ると罰が当たると言われていたそうです。

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下の写真右側がこの時埋納されたものです。(レプリカ)

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本物はすべて古代出雲歴史博物館に保管されています。

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一方、物部王はヒボコ勢を裏切りました。神床家の伝承では播磨侵攻の約束の日、物部王国は動かなかったと伝えています。

のちにヤマトのフトニ大王が播磨に攻め入り、さらに丹波の海部氏が但馬北部を占領します。ヒボコ勢は方々へ離散していきました。

フトニ大王は出雲領の播磨を奪い、続いて息子たち、イサセリ彦(大キビツ彦)とワカタケ彦(若建キビツ彦)に出雲領の吉備を占領させます。フトニの狙いは吉備の鉄だったようです。息子たちは吉備地方のすべてと美作みまさかまで占領しました。その頃ヤマトでは覇権争いが起こり、フトニは大王の地位を失い吉備に移ります。吉備王国の誕生です。

ヒボコ勢は物部に裏切られ、出雲は親戚であったヤマトに裏切られ、フトニ王は自国から追い出されたのです。戦の世というのは、人を信じたら負けなのですね。これではたとえ勝ち続けても、幸せは遠のくばかりでは…? なんて言えるのも現代だからですが。

 

160年頃、さらにフトニ大王は息子らに命じて出雲王国を攻撃し始めます。これを第1次出雲戦争と呼びます。吉備は出雲に奥出雲を譲ることとと、すべての銅剣を譲ることを要求しました。神門臣家の領地である奥出雲は、当時の和国で最も良質の砂鉄の産地です。出雲が要求を拒否すると、吉備軍は奥出雲に向かって南から次々と攻めこんできました。出雲兵は山岳に隠れながらゲリラ戦を行って防衛しますが、多くの死傷者がでたそうです。

奥出雲まで吉備軍が近づいてきた頃、出雲両王家は協議します。神門臣家は銅剣を渡すことで休戦を望み、向家は徹底抗戦を主張し、結局妥協点は見いだせず、ここで600年続いた出雲王国は東西に分裂したのです。両家が独自の外交をすることとなりました。

向家はすべての銅剣344本を、神門臣家は14本を、神に守ってもらうために再び神庭斎谷に埋納しました。向家のものにはサイノカミのX印が刻まれています。神門臣家は残りの銅剣を溶かしインゴットにして吉備に渡し、属国となりました。吉備王国は新たなシンボルとして平形銅剣を造り支配地に配ったそうです。

 

荒神谷遺跡から発掘された358本の銅剣です。写真上半分の金色に輝く剣はレプリカです。

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銅剣はマツリゴトに参加した豪族に渡すために用意されたのですが、鉄器を望む人が多かったために余ったといいます。銅剣を持って帰った豪族は、それまで持っていた銅鐸を埋納し、銅剣の祭りに変えたそうです。 

 

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フトニ王は東出雲王国がまだ属国になっていないことを後から知って、攻撃を開始します。出雲両王家は銅鐸をまだ所有していたので、また奪われることを避けるために、今度は神庭斎谷から3.4㎞離れた神原の郷の岩倉の地に埋納しました。吉備軍侵入の最後の防衛線になると予想したからです。境さかいの神(幸の神)に守ってもらう意味もありました。向家の銅鐸は14口で幸の神のX印が刻まれています。神門臣家と合わせて39口の銅鐸です。

岩倉の谷の入口には大きな磐座があったので、その地名がついたそうです。地元の言い伝えに「たくさんの宝を埋めた」とあり、それが出雲風土記、神原の郷の項に「天下を造った大神(オオナモチ)が御宝を積み置きになった場所である。神宝の郷というべきなのに、今の人は間違えて神原の郷と呼んでいる」と書かれました。埋納からおよそ1800年後の1996年、加茂岩倉遺跡の発掘により、言い伝えが事実であることが証明されました。

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吉備軍は伯耆国から侵攻し日野川沿いの溝口が本営となり、のちにそこに楽楽福ささふく神社が建てられます。出雲兵が籠ってゲリラ戦をしていた山は、吉備軍から鬼住山と呼ばれました。出雲兵が鬼です。

これが出雲王国最大の戦いであり、3分の1の兵士が戦死したといいます。古事記大国主が八十神たちに焼いた大岩で殺される場所が、この時の戦場である天万です。

東出雲王国で死闘が繰り広げられている最中に、物部軍が紀ノ川からヤマトに侵攻するとの情報が入ってきました。吉備王国は出雲に休戦を申し出ます。第1次物部東征の始まりです。出雲、吉備、ヤマトの内乱を仕掛け、その隙をついたのでしょう。物部王国が何枚も上手だったようです。