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源流なび Sorafull

邪馬壹国から邪馬臺国へ⑴

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倭人の源流を探る中で、前回は古田武彦氏の書籍を参照しましたが、もうひとつ、非常に面白い古田説があります。

三国志魏書の倭人伝に書かれているのは邪馬臺(台)ではなく、邪馬ヤマコク、ヤマイッコクだ」

というものです。この説の存在は以前から知っていたのですが、自分で調べるには至りませんでした。

※「壹」という字は「壱」の旧字です。数字の1ですね。日本ではイチ、イツと読みますが、現代の中国ではイー、3世紀の上古音は不明で7世紀頃からの中古音はイ、イッのようです。

 

Sorafullは子どもの頃から邪馬台国ではなく邪馬国だと父から「一方的に」聞かされていたので、頭の中には世間の言う邪馬台国と、父の言う邪馬壹国と、そしてヤマトという名が漠然と存在していました。興味がなかったので、自然と多勢のいう邪馬台国に流れ、ヤマトとは邪馬台国の別名くらいにイメージしていました。台はトと読めるのだろうと。この長年の「曖昧さ」にしだいに気持ち悪さが募り、そろそろ整理しなければと思っていました。

調べ始めると、この曖昧さはSorafullだけのものではなく、実は定説と呼ばれるものにおいてもそうであったことがわかってきました。

邪馬台国が九州か奈良かという問題の前に、そもそも「邪馬台国」という言葉はいったいどこから生じたのか、まずはそれを見直すところからのスタートです。

 

三国志魏書の邪馬壹国

 陳寿が3世紀末に記した三国志はすでに原本がなく、現存する最古のものは12世紀の宋の時代の版本(紹興本と紹煕本)です。※版本は彫った版木で印刷したもので、写本とは違います。

その倭人伝には邪馬国と書かれています。

南至邪馬国、女王之所都

それ以外の版本もすべて同じです。ところが三国志より後に編纂された5世紀の後漢書、唐代の梁書、隋書、北史においては壹の字は使われず、に変わっています。

後漢書 邪馬

梁書  祁馬

隋書  邪靡魏志のいう邪馬臺

北史  邪摩魏志のいう邪馬臺

日本人が見慣れている「邪馬台国」という字面はありませんね。日本では「臺」が当用漢字になかったので「台」を使ったにすぎません。

※当用漢字とは1946年のGHQの国語国字改革のもと、漢字を廃止するまでの当面の間、使用可とされた漢字をいいます。この改革が取りやめとなって代わりに常用漢字となりました。法的強制力はありません。

「壹」は三国志魏書にしかないために誤写だろうとされ、「臺」が正しいというのが定説ですが、それ以上に古代の都はヤマトであるという認識から、ヤマイ⇒ヤマトへの音の変化は無理があり、ヤマタイ⇒ヤマトであれば可能だという意図が働いているようです。日本の研究を遡ると、

南北朝時代北畠親房神皇正統記において、三国志よりも後漢書を優先。

● 江戸時代には松下見林が「邪馬臺国は奈良時代大和国であり、いわゆる倭奴国である。邪馬臺は大和の和訓」「邪馬壹の壹は当に臺に作るべし」異称日本伝志賀島から金印が発見される前に、倭奴国も大和だとしたようです。

● 続く新井白石本居宣長が「邪馬臺=ヤマト」を継承、あとは九州か奈良かの違いとなり現代に至ります。

では松下見林がいうように、邪馬臺がヤマトの和訓なのかどうかですが、漢和辞典を見ても臺をトと読むとはありませんし、万葉仮名でもヤマトのトとして使われたことはありません。中国語音韻論の大家、藤堂明保氏の示した「ヤマトを邪馬臺国と書いてある」という一節について古田氏が本人に確かめてみると、3世紀の音韻資料はないため確定はできないという返答があったそうです。つまり証拠となるようなものはなく、日本の3世紀にあったであろうヤマトという地名に合わせて、邪馬臺をヤマトと読むことにしたというのが事実のようです。

 

日本の「曖昧な」事情は邪馬壹国をなかったことにしましたが、実際に「壹」の字は12世紀の版本以降、すべての三国志において伝えられています。三国志だけが邪馬壹国を貫いているという不思議なことになっているのです。

古田氏はこの微妙だけれど不可解な現象を見逃しませんでした。そして探求の結果、12世紀の版本だけでなく、陳寿が記したのはそもそも「邪馬壹国」であり、原本ではの字を選んでいたという結論に至りました。

古田氏の数ある論証の中で最も明確なものは、「臺」という字の特異性を発見されたことだと思います。それは三国志が書かれた時代に、天子の宮殿と直属官庁をその字が表していたことと、さらには魏の明帝のことを魏臺と呼ぶことがあった(日本でいうところの殿、殿下)、そのような至高の特殊文字を夷蛮の国名に使うはずがないという理由です。実際倭人伝の終わりにも、使者が魏の都、天子のもとへ挨拶に行くことを「臺に詣る」と表現されています。そこに「邪馬臺国」などと併記されていたら大変なことになります。

ところが4世紀以降は臺の使い方が変化し始め、後漢書が書かれた5世紀には周囲の異民族がこぞって「~臺」という宮殿を建てたそうです。至高文字の解禁です。

ここで時代背景を確認します。

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三国志を記した陳寿(233‐297)西晋に仕え、前代の三国時代を魏を中心にしてまとめました。魏から西晋への交代は戦争ではなく政権の禅譲なので、史料もそのまま受け継いでいるはずです。しかしその後北方の遊牧騎馬民族匈奴西晋を倒し、中国北部(華北)の漢民族は南部(江南)へ逃げました。北部は五胡(匈奴鮮卑、氐、羯、羌)に占領され、五胡十六国の動乱の時代を迎えます。

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南部へ逃げた漢民族西晋の皇族を中心に東晋を建てました。これが宋、斉、梁、陳へと続きます。

北部は鮮卑族によって北魏として統一され、南朝漢民族と争う南北朝時代を迎えます。後漢書范曄(398-445)はこの時代の南朝・宋の人です。倭の五王のことが書かれた宋書は斉の時代に編纂されました。

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やがて異民族集団の北朝が勝利し、隋を建立します。隋、唐の支配者はもともとの漢民族ではないということになります。中国は古来よりずっと漢民族だとしていますが、それは漢民族の文化を受け継いだということであり、民族は複雑になっています。

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ということで、陳寿の時代(西晋)に常識だった知識が、范曄の時代(南北朝)には受け継がれていない可能性は十分にありますし、戦乱の中、大陸北部から南部への民族の大移動が起こっているので、歴史的資料がすべてそのまま残っている可能性は低いでしょう。さらには范曄の時代と、のちの隋唐代では主たる民族自体が変わっていることを念頭に置いておかなければなりません。中国は文章として書き残されたものは古代から統一されていますが、口語、読み(音)に関しては時代や部族、地域によって変化します。日本においては隋唐代以前と以降で、輸入された音韻が呉音から漢音へ変わっています。

 

邪馬に戻ります。下の古字は説文解字という西暦100年に成立した最古の漢字辞典によるものです。(Wiktionaryより)

現代の字よりも違いがわかりやすいですね。

壹-seal.svg=壹(壺中にあるものが発酵して中に満ちる状態)

èº-seal.svg=臺(土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台)

古田氏は3世紀頃の遺物に残された両文字を探し出し比較することを含め、「壹」が「臺」の誤写、誤刻という定説の可能性が限りなくゼロに近いことを、細かく検証されておられますが、ここでは省略させて頂きます。さらに上述の、3世紀の陳寿の時代には至高文字である「臺」を夷蛮には使えなかったという前提で進めます。

 

5世紀の范曄と同時代の学者、裴松之の注釈による論証です。(裴松之が年長ですが范曄のほうが若くして亡くなります。)

現在の三国志にはすべての版本に裴松之の校訂(異本との違いを調べること)と注釈が付けられています。序文には本人の言葉として「本文中の矛盾や異本があった場合には両方抄録し、後代の判に待つ」としています。さらに「陳寿のささいな間違いがあれば、私自身の意見を加える」と。つまり勝手に変更はしないということです。結果、邪馬壹国に関しては一切の注記をしていません。ということは范曄と裴松之の生きていた時代に、異本は存在しなかったということになります。

さらに裴松之魏略を参照して倭人伝に引用している箇所もあります。魏略は三国志と同時代に書かれたもので、唐代には散逸して原形をとどめておらず、ほとんどが翰苑という唐代の辞典に付けられた注で、かなり省略した雑な印象を受けます。5世紀の裴松之が参照した時点であれば信頼度が高いです。その魏略を読んで三国志の邪馬壹国に注を加えていないのですから、魏略の中でも邪馬壹国という表記であったと推測されます。

ここから言えることは、5世紀の范曄は「邪馬臺国」と書かれた三国志を参照していない可能性が限りなく高いということです。

 

続いては、唐代に編纂された隋書からなのですが、古田氏はこれには言及されていません。たぶん漢文の読みによる解釈の違いだと思われますが、とても興味深い内容なので紹介します。

隋書では邪馬台国邪靡魏志のいう邪馬臺」と表現されました。(同時代の北史は邪摩堆としています)

隋の裴世清が608年に倭国へ来ていますので、当時の現地音を記したものが邪靡堆だったのでしょう。その報告書を見た隋書の編者魏徴が、これは魏志のいう邪馬臺と同じだと受け取ったと思われます。ふたつは同じような音であったのでしょう。(隋唐代を境に馬、靡、摩の発音はマ⇒バに。臺、堆はダイ⇒タイに変化しているそうです。ヤマダイ⇒ヤバタイ。ややこしいので今はイとタイに絞ってみています)

この隋書から30年ほどして、後漢書に注釈が加えられました。李賢という唐の皇太子によるものです。則天武后の息子で、幼い頃から学問に通じ、676年に学者たちと一緒に後漢書の注釈を完成させました。

「その大倭王は邪馬臺国に居る」という文の後に、

「案今名邪摩惟音之訛也」(今の名を案ずると、邪摩惟という音が変化したものである)

とあります。つまり今の唐の時代の邪靡堆という音からすると、5世紀に書かれた邪馬臺邪靡惟という音が変化していると説明していることになります。惟はユイ(呉音)、ゐ(漢音)ですが当時は漢音なので「ゐ」となります。

この邪摩惟という言葉がどこから来ているのかというと、三国志しかありません。他の史書はすべて臺か堆の字です。ということは注釈が付けられた7世紀には、邪馬と記された三国志が存在していたことになりますね。

隋書では「魏志のいう邪馬臺」とありますが、隋書は後漢書を引用していますので「臺」と書いています。三国志も見たけれど7世紀の現地音から、壹は間違いと判断した可能性が高いです。

注)古田氏は著書「「邪馬台国」はなかった」の中で、李賢の注釈を〈按ずるに、今、邪摩惟と名づくるは、音の訛なり〉と書かれています。これは隋書や北史の邪摩堆の「堆」を「惟」と書き間違えたと見ているように思われます。この場合は邪馬臺ヤマダイと邪摩堆ヤバタイの音の微妙な変化を指していることになります。

漢文の読み方が問題となってしまいますが、Sorafullとしては馬⇒摩、臺⇒堆の字の変化を見て、微妙に音が変わっていることに唐代の人が気づくのだろうかと疑問です。唐代の人にとっては馬も摩もバですし、臺も堆もタイですから。そう考えると、壹から臺タイへの変化なら明らかです。李賢注は字の変化ではなく音の変化を指摘していますので。「堆」を「惟」と間違えたのではなく、昔の音は「堆」ではなくて「惟」だったと書いたのでは。

 

次回は陳寿が何故、倭の女王国に「壹」という字を選んだのかについてです。