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源流なび Sorafull

宗像一族。そして宮地嶽古墳⑴


 

引き続き、N様より頂いたご質問に今回もチャレンジしてみたいと思います。

その前に、N様がご紹介下さった「海の民、宗像」という漫画がありまして、これは宗像市世界遺産登録推進室というところが編集しておられます。発行から2年後に見事登録されました!

本の内容は、弥生時代から現代までの宗像一族をいくつかの時代を取り上げ、ストーリー仕立てにしてわかりやすくまとめられています。最後にコラムとして古代の詳しい解説もついています。

常に西の一大勢力(渡来人のよう)の脅威を感じつつ一線を画し、大和朝廷からも圧力を受けながら対等であることを望み、なんとか協力関係を保ってきた苦しい立場が描かれます。6世紀には朝鮮半島で戦が激化し、宗像を含め九州は直接その影響を受け続けます。そんな中、磐井の乱が起こり、宗像は朝廷か筑紫側かどちらに付くのか選択を迫られる場面もみられます。物語では友好関係にあった大和朝廷に表向きは加担すると決めますが、あくまで宗像の民を守るためであり、筑紫の軍と戦うことはなかったとしています。

先日TV番組を観ていると、宗像の海女の方が海に入る前のお詣りをする場面が映されました。もうほとんど海女となる人はいないそうですね。

小さな神社(恵比須神社だったような)の隅に祠がふたつあり、それが出雲の幸の神の小さな石祠だったのです。周りには黒と白の石がたくさん積まれ、上にアワビの殻が乗せてありました。毎回こうして石を供えて海の安全と豊漁を祈るそうです。丹後風土記には大巳貴命と少名彦命が白と黒の真砂をすくい持って、天火明命に向かい「これらの石は私の分霊であるので、この土地で祀りなさい」と詔りしたとあります。黒の真砂は砂鉄だそうです。

宗像地方はやはり出雲の文化が生活の中でも受け継がれているんだなと見入ってしまいました。でも海女の減少のように、あっけなく途絶えてしまうことも現実味を増しているんですね。

 

さて、「海の民、宗像」の物語の中では、宗像一族が連続しているように描かれていますが、実際にはそうではなさそうだというところもあって、複雑です。

現在の宗像大社では一族に伝わるという「西海道風土記」に記された宗像三女神と天神の御子、大海命との子孫だと言われているそうです。これに関する資料が他にないためになんとも言えません。

古代出雲王国と宗像家、そして徐福との婚姻の時代(宗像三姉妹)があり、次に応神から雄略に至る大和王権との海上の道を巡る関係を保った時代と天武天皇と婚姻関係を結んだ宗像徳善の時代があり、そして平安時代に入ると大宮司職という権力を持って政治的色合いの濃い時代へという変遷があります。

出雲伝承では宗像一族は出雲族が開拓した大和、三輪山の南方(桜井市)へ移住したとありますので、その後分家が残った可能性はありますがわかりません。

また日本書紀には筑紫の水沼君等が宗像三女神を祀るという記述もあって、この水沼君と宗像家との関係は不明です。旧事本紀にはニギハヤヒの子、ウマシマジの14世孫、物部阿遅古連公が水沼君等の祖であると書かれています。筑後川下流域を本拠地としており物部系ということで徐福の后となった市杵島姫と関わるのかもしれませんが、それが後に宗像家とどう関わるのかはわかりません。

折口信夫谷川健一はミヌマという言葉から、水中の女性の蛇や水中の蛇を祀る巫女を指すのではないかと指摘されています。そうであれば出雲の龍蛇神(コブラ⇒海蛇⇒ワニ)にぴったり符合しますが、断定もできません。

沖ノ島祭祀はわかっている範囲で4世紀後半から10世紀初頭までの500年余りとされ、ちょうど大和王権との協調時代にあたりますね。

平安期に大宮司家となった時の初代が宇多天皇の皇子とされており、この辺りから神社としての在り方も変質していったようです。そこから16世紀の79代氏貞を最後に宗像家は断絶しました。

 

次に宮地嶽古墳の被葬者は誰か、というご質問ですが、これはかなり難問です。

宮地嶽神社側の見解としては磐井の子孫(孫)を祀っており、安曇氏であるとの情報がネット上は見られるのですが、神社の正式な発信が見つけられないので保留としています。

今回調べ直すうちに新たに見えてきたこともありますので、長くなりますがそれを含めて考えてみたいと思います。

まず古墳の造営は6世紀末から7世紀前半と言われています。被葬者として名が挙がる宗像徳善ですが、娘の尼子娘と天武天皇との間に高市皇子が654年に生まれていることと、その11年後に胸方君が朝臣八色の姓)を与えられており、宗像徳善の墓はもう少し後の可能性が高いと思いますが、没年不明のため不確定です。

それから宮地嶽古墳は津屋崎古墳群に指定されていますが、宮地嶽古墳の地区だけは宗像一族とは思えないのです。下の地図は福津市古墳群整備指導委員会が平成20年に作成した地図を参照して、津屋崎古墳群の4つのゾーンを書き込みました。名称はそのままにしていますが囲みは大まかです。宮地嶽神社の奥宮が古墳となります。このゾーンだけ向いている方向が博多方面となっていて、一線を画していたという筑紫君一族のほうを向いているというのもおかしな話ですよね。他のゾーンは沖ノ島沖津宮を遥拝する位置にあります。

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宮地嶽神社の「光の道」が最近有名になりましたが、これは古宮から相島がまっすぐに見通せるということです。

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相島には積石塚群という4~7世紀頃に造られた古墳が、100mほどの海岸に254基もあって、この中の1番大きな前方後方墳と古宮が一直線に繋がっているといいます。5世紀中頃までに造られたとされ、長軸が20mあります。でもこの上空からの写真で見ると、前方後方墳というより、方墳に大きめの造出しがついているような。

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円墳と方墳が半分ずつあるそうです。

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相島は新宮町に含まれ、古来より宗像ではなく糟屋と関わりが深かったと、神社ホームページコラムにはありました。そうなると安曇族の領域になりますね。

 

次に筑紫舞についてですが、この古代より継承されてきた謎多き舞の中で、西山村光寿斉さんが最後に伝授されたのが「浮神うきがみ」という舞であり、これが筑紫舞の最も大切なものと教わったそうです。伝授された時点ではそれが何を意味しているのかは一切教えられず、50年の歳月を経て春日大社で安曇磯良を表した「細男舞せいのうまい」を観た時に、「浮神」も安曇磯良の舞だったことを知ったという印象的なエピソードがあります。なので筑紫舞は安曇磯良へと繋がり、それが昭和初期に宮地嶽古墳で奉納されていたことから、素直に考えれば安曇磯良の末裔がそこに埋葬されているのでは、ということになりますが、これについては後程詳しく書くつもりです。

 

まずは隣接する宮地嶽神社の現在の祭神を見てみましょう。戦中までは宗像三女神も祀られていたそうですが今は消されています。

神功皇后

勝村大神

勝頼大神

この勝村、勝頼大神とは三韓征伐で活躍した武人らしいです。

昭和19年の福岡県神社誌に由緒として「宮地嶽大明神安倍相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神藤助麿云々」とあります。神功皇后三韓征伐前に宗像三女神に祈願し勝利したので三女神を奉斎し、「のちに神功皇后を御同座に祀る」とあります。勝村、勝頼大神については、帰還後にこの地の祖神として祀られたということです。同じような内容が筑前国風土記拾遺(江戸時代の地誌)にもあるようです。

宮地嶽大明神⇒安倍相丞(相亟、亟相とも)

勝村大神⇒藤高麿

勝頼大神⇒藤助麿

となりました。藤といえば藤大臣トウノオトド高良玉垂命が浮かびます。大善寺玉垂宮(高良大社の元宮)の社伝によると、藤大臣は三韓征伐で大功があったといいます。

玉垂命が誰かという説はたくさんあって断定できませんが、末裔の所蔵する家系図によれば、初代玉垂命とは物部保連ヤスツラであると。

勝村、勝頼大神は物部か?

では安倍相丞とは誰でしょうか。

相丞しょうじょうを逆に丞相じょうしょうとすれば、古代中国で君主を補佐する最高位の官史のことになります。

そして安倍氏といえば出雲伝承の重要人物、大彦(磯城王朝8代孝元大王の皇子。異母弟に開化大王。記紀ではナガスネヒコとされた)の子孫です。子孫たちは物部勢に北へ追われながらもクナ国、日高見国を築き、朝廷からは蝦夷と呼ばれた大勢力です。

なので安倍といってもこれはちょっと違うのでは?と思っていましたら、斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」に磐井は大彦の子孫であるとサラっと書かれているではないですか。

確かに日本書紀には、孝元天皇の第一子の大彦命は安倍臣など7族の先祖であるとし、そこに筑紫国造も含まれていました。先代旧事本紀の国造本紀にも、大彦の5世孫、日道命(田道命)が初代筑紫国造とあります。筑紫氏の祖が田道命となっています。出雲伝承でも北陸から越後で国造となった大彦の子孫たちを「道の公家みちのきみけ」と呼ばれたといいます。道といえば日本書紀崇神天皇が派遣したという「四道将軍」が大彦、息子の武渟川別命丹波道主命吉備津彦ですが、みんな物部に追いやられた人たちであり、それを隠した作り話となっています。

また日本書紀磐井の乱の中で、磐井が大和王朝側の毛野臣に「昔の仲間ではないか。肩を擦れ合い同じ釜の飯を食った仲だろう」というセリフがあります。斎木氏はこれを、都で同じ大王に仕えた時のことと付け加えておられます。磐井は大彦の子孫であって本来の筑紫の人ではなく、大和王朝から派遣された国造ということでしょうか。つまり筑紫君一族(いわゆる九州王朝の血筋)の入り婿?だとすれば息子の葛子クズコが筑紫君の血筋となりますね。

葛子は糟屋の屯倉を献上するだけで死罪を免れたということですが、糟屋はもと安曇の領域でしょう。安曇物部系統の匂いがします。また日本書紀では磐井は筑紫国造と書かれるの対し、葛子は筑紫君となっています。(書紀を編纂した太安万侶大宰府に勤めていたとの話もあり、筑紫国造については詳しかったからか、それとも朝廷からの派遣だと印象づけるためか。毛野臣へのセリフを敢えて加えた真意とは‥‥)

次は磐井と大彦の繋がりを探ります。

 

※ 丹後の出雲大神宮についてご質問を頂きました。元出雲とも呼ばれるそうで、出雲大社とどちらが先なのかということですが、これまでの伝承の中で出雲大神宮については触れられていないかと思います。元出雲という意味がよくわかりませんが、716年創建の杵築大社(現出雲大社)より古いという意味なのか、元はここに出雲の神を祀っていたということなのか。後者であれば出雲地方のほうが元であるのは明らかかと思います。出雲大神宮については私の見落としがあるかもしれませんので、どなたかご存知の方があれば教えて頂けると有難いです!

【2021.9月追記】

2020年末に出版された富士林雅樹著「仁徳や若タケル大君」のP.170に出雲大神宮について記されています。3世紀、磯城王朝最後の大君といわれる道主御子が丹波国南端の亀山(現在の亀岡)に本拠地を移し、その後第二次物部東征で降伏し磯城王朝は終わります。ヤマトには三輪山の麓に三輪王朝があり、一時期はふたつの王朝が並立していたようです。そして出雲の人々がヤマトへ行く際に途中で宿泊するのが亀山の地であったため、そこに出雲の人が多く住むようになり、クナト大神を祀る神社として丹波国一之宮・出雲大神宮がつくられたということです。最初は出雲の古い形の神社でしたが、のちに出雲系の推古女帝によって社殿も大きくつくり変えられました。(神社では元明天皇和銅二年に初めて社殿を造営したと説明)

出雲の杵築大社が出雲大社と呼ばれるようになったのが明治時代からだったので、先に出雲を名乗った出雲大神宮は「元出雲」と呼ばれているそうです。

 

 

   

 

 

九州王朝説と出雲伝承

以前、N様より次のようなご質問を頂いておりました。

筑紫君一族と宗像一族、そして百済との繋がりはどうなっているのでしょうかと。磐井の乱の真相、継体天皇の没年における百済本記の真意、宮地嶽古墳の被葬者についても尋ねておられます。これらの質問はひとつの大きな問題を孕んでいます。

九州王朝説をどうとらえるか、です。

本ブログは大半が出雲伝承に基づいておりますが、物部東征以前の九州地方については、九州王朝説の古田氏による倭人、邪馬壹国の論証や筑紫舞の存在を重視しています。

九州王朝説といっても派閥があるようで、古田氏は663年の白村江の戦いで敗北するまで王朝が存在したとし、それ以前の倭の五王までとする説や、7世紀末までとする説もあるようです。Sorafullは出雲伝承の大筋を取りつつも、倭の五王に関してはすんなりと大和朝廷側だと言い切れない迷いを感じていました。宋書梁書記紀を読んだ上で判断するなら、倭の五王は九州王朝では?と思うからです。ですが出雲伝承を知ったことと、記紀編集者が中国の属国であろうとした時代を隠蔽するために操作したということであれば、不可解な点を残しながらも頷くしかありません。

倭の五王をどの大王に比定するかという問題は置いておくとして、三韓征服後に日本が潤い、鉄を仕入れ、河内に巨大古墳群が造られていったことをみると、この時期に朝鮮半島で影響を及ぼしていた倭国の中枢は、九州ではなく平群王朝だったのだろうと思えてきました。

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これらの古墳群からは鉄製の武器や甲冑、馬具が多数出土しています。甲冑は年代を追うごとに急速に進化し、5代目の倭王武の頃に完成度を極めますが、なぜかその後ぱたりと途絶えてしまいます。またこれだけ武器が発達したなら国内でその殺傷痕のある骨が増えるかと思いきや、それもないそうです。ということはこれらの武具は海外に向けて準備された可能性が出てきます。進化しているのであれば、飾りではなく使用もされたでしょう。

写真は大阪大学考古学研究室の記事よりお借りしました。古市古墳群の野中古墳から出土したものです。

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倭の五王の5代目武(雄略天皇と比定されています)が宋に奉った上表文は、高句麗の南下による被害を切々と訴え、まさに高句麗討伐へ向かおうとしていると記されています。そして5代目にしてようやく、宋から朝鮮半島百済高句麗を除く)における軍事指導権を得るのですが、その後倭国高句麗を攻めた記録が朝鮮側にありません。日本書紀には筑紫国から500人の兵を遣わせて百済の王を送り届けたことと、筑紫の安致臣と馬飼臣が船軍を率いて高句麗を討ったとだけチラリと書かれています。小規模な戦だったのかもしれませんね。

倭王武の上表文が478年、その翌年に雄略天皇崩御します。その後中国史書の倭国の記載は途絶え、隋書まで120年余りの空白となります。蘇我王朝の継体天皇即位が507年ですので、平群王朝の衰退が始まろうとしていたのかもしれません。

 

一方、九州においては物部東征後も独自の文化が栄えていたでしょうし、その地理的な要因によって平群蘇我王朝のもと、相当な権力を与えられていた豪族もいたはずです。また朝鮮への出兵は長期に渡り、九州の者たちが多く駆り出され疲弊していったことは想像に難くありませんし、朝廷への反感も募っていったことと思われます。その不満が527年に起きた磐井の乱をより拡大させたのではないでしょうか。

Sorafull自身、結論を出したわけではありませんので、今後も九州王朝を頭に置きながら探っていきたいと思っています。

それでは出雲伝承によるこの時代の記録を辿ってみましょう。

注)倭国倭人の「倭」という字についてですが、出雲伝承では倭を卑字、蔑称として避けるため「和」とされています。当ブログは中国がもともとは「倭」を「委」と記していたことから、もとの読みが「わ」「ゐ」のふたつの可能性があると考え、基本的には「倭」とし、出雲伝承に則る流れにある時には「和」と表記します。これまで曖昧に使っている場面もあると思いますが、ご了承ください。

 

出雲伝承より

4世紀に神功皇后三韓征服を行い、新羅百済高句麗から年貢が納められることになりました。神功皇后の母方は辰韓の王子、ヒボコの子孫です。のちに王家が断絶し、家来が新羅国を起こしましたが、王家子孫である神功皇后は自分に新羅の領地と年貢を受け継ぐ権利があることを訴え、新羅出兵が行われたそうです。各地の水軍が援軍として集まったことで、新羅だけでなく百済高句麗まで和国に朝貢する約束を得ることができました。

韓国南岸に新羅百済に属さない任那みまなと呼ばれる地域があり、そこに年貢を集めて和国へ運んでいたそうです。応神天皇の頃から任那に官家が置かれるようになりました。

下は4世紀末の朝鮮半島地図ですが、韓国の教科書に掲載された地図なので任那の表記はありません。半島南端の伽耶を含む海沿いの地域が任那であったようです。

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5世紀末になると高句麗が南下して、百済の首都が移動していきます。

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三国からの年貢が集まり、和国は栄えたといいます。平群王朝になってからの、古市、百舌鳥古墳群といった大阪平野の巨大古墳群は、その潤った財力のお蔭で造られたようです。

ところが平群王朝からオホド王(継体天皇。出雲富家次男)の蘇我王朝へ交代すると、韓国側が新王朝には年貢を受け取る権利がないと訴えてきました。あくまで神功皇后の血筋のものの権利だったからです。(実は応神、仁徳天皇ともに血縁ではなかったようですが)

 

磐井の乱

斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」から要約しますが、大筋は日本書紀に沿っています。

継体6年、百済任那の4県を欲しいと官家を通して言ってきました。和国の重臣たちは相談の上、了承します。大伴連と官家であった穂積守は百済から賄賂をもらったのだと噂されました。

これを知った新羅は和国に任那の割譲を求めますが、和国は断ります。

この頃の和国は邪馬台国時代と同じように、政府が筑紫にある振りをしており、都は太宰府だということになっていました。本当の都を敵国の侵攻から守るためです。朝鮮からの使節は筑紫の迎賓館止まりとなり、百済の人質も迎賓館に住んでいたそうです。中国との外交は敬遠し、皇帝の新任祝いだけ出席するようにしていたといいます。

筑紫国造は港の管理に留まらず、九州全国の租税徴収権と兵力動員権、外交交渉権も与えられていました。相当な権限をもっていたようです。

新羅筑紫国造の磐井に賄賂を贈り、任那の南加羅とトクコトンを奪います。それに対して朝廷は新羅から2県を取り戻すよう近江の毛野臣に命じました。

21年6月、新羅へ向かう毛野臣の大軍を、磐井が筑紫や豊国から兵を集めて遮ったので、毛野臣は朝廷に援軍を求め、物部連が軍を率いて九州へ向かいました。戦は翌年11月まで及び激戦となりました。日本書紀では物部麁鹿火アラカイに磐井が斬られたことになっていますが、筑後国風土記逸文には、磐井が豊前国上毛野県の山岳に隠れ、その後見つからなかったと記しています。

磐井の息子、葛子クズコ筑紫国糟屋の屯倉を献上して死罪を免れます。

毛野臣軍は任那に到着しますが、毛野臣は病死。後任として上毛野直が赴きます。この人は磐井の乱の時に磐井についた新羅の海岸を征服し、南加羅とトクコトンを奪い返し、任那に戻したそうです。

 

下の写真は福岡県八女市の磐井の墓とされる岩戸山古墳です。九州北部では最大級の前方後円墳。磐井の力を見せつけるようですね。

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写真の石人石馬はレプリカですが、古墳の周りに円筒埴輪を並べる代わりに石人と盾を60個ずつ並べ、古墳の円部先端に四角い造出しを造って裁判の様子を石人で表したとか。筑後国風土記逸文に記されています。また磐井は生前から墓を造っていたけれど戦にやぶれ放棄した、とも。磐井を取り逃がした官軍が石人の手を折り、石馬の首を打ち落としたそうですが、写真でもそのように見えますね。でも子孫はなぜそんな痛々しいものを放置していたのか不思議でした。ここにもし埋葬されなかったのであれば、わからないでもありませんが。

風土記の言うように物部麁鹿火に斬られたのではなく、豊前国に隠れてしまったのが本当であれば、いったいどこへ?

 

百済本記の示すこと

継体天皇扶桑略記によると531年に崩御されました。日本書紀には継体25年(531年)としつつも「ある書によると28年となっているが百済本記には25年となっている」と記されています。百済本記とは百済の歴史書三書のうちの一書で現存はせず、この日本書紀逸文のみ残っています。

百済本記には「日本の天皇、太子、皇子共に没した」という一文もあります。日本書紀はふたつの崩御年を前に、後世に調べ考える人が明らかにするだろうと締めくくっています。継体天皇崩御された年には太子、皇子ともに亡くなってはおらず、これもまた九州王朝の話ではないかと言われる要因のひとつですが、出雲伝承は次のように解説しています。

継体天皇となったオホド王は出雲富家の次男であり、越前国の三国国造、蘇我家の入り婿となりました。やがて北陸や関東方面の中心人物となり、大和朝廷から次の大王として白羽の矢を立てられます。

オホド王は蘇我家と離縁しますが、すでに二人の御子があり大和へ同行します。それが後の安閑と宣化天皇です。オホド大王は大和で平群王朝の血筋である手白香姫を后に迎え、広庭皇子(のちの欽明天皇)をもうけたので、ここに2つの系統、母が蘇我氏系と平群氏系の勢力が生まれてしまいました。 

 

出雲伝承では蘇我氏系の安閑、宣化天皇は暗殺されたと伝えられているそうです。確かに在位期間がふたりとも短く、2年と4年。

継体天皇が亡くなったのは531年であり、2年の空位後に安閑天皇が即位しました。この空位となった2年間とは、前王朝の血筋である広庭皇子が大王になることを求め、重臣がまだ若すぎるとなだめた2年だったといいます。

当時和国には百済王子が人質として住んでいたので、この暗殺事件を母国に知らせた可能性があるとのこと。先ほどの百済本記の引用を要約します。

「高麗軍が531年に任那の安羅を攻めて王の安を殺した。‥‥また聞くところによると、日本の天皇と太子と皇子が共に没した」

同じ年のことではありませんが、日本の皇室内で短い期間に続けて暗殺されたことを匂わしているのでしょうか。

また後日談として、宣化天皇の御子たちがこれを恨み、欽明天皇の古墳に復讐し、家族の墓を壊した跡が残されているそうです。本当に復讐だったかどうかはわかりませんが、そのような言い伝えが残る明らかな確執があったのかもしれませんね。

 

石川家と蘇我家

欽明天皇が即位すると先代の宣化天皇の娘が后となり、さらに石川臣稲目の娘2人を側室としました。こちらのほうがたくさんの子を産んだので、しだいに石川家が力を持つようになります。

この石川家と蘇我家のルーツは武内大田根(初代武内宿祢)の子孫、蘇我臣石河です。もともと河内の石川郡に地盤がありました。ここに残った石川家と、北陸方面に進出した蘇我家に分かれます。

話が前後しますが、継体天皇の大臣を務めた巨勢臣男人(この人もまた武内宿祢の子孫!)は男児に恵まれず、石川臣稲目を養子に迎えました。(宣化天皇の代で大臣となります)

大蔵の仕事も与えられ、租税の管理だけでなく官史の給料、その任命や昇任にも携わっていたそうです。この仕事は石川臣家の世襲となったそうなので、かなりの権力をもつことになったでしょう。

稲目の息子の一人が石川家を継いで石川臣麻古となり、この人が記紀によって蘇我馬子と名を変えられました。

記紀継体天皇応神天皇の子孫だとするために、蘇我家出身(血筋は出雲王家)であることを隠さなければなりません。けれど蘇我家はすでに名家であったため、石川家を蘇我家として誤魔化しました。

越前の蘇我家は斎木雲州氏の実家の親戚だそうで、その家人は「馬子の記事はすべて嘘であり、馬子、蝦夷、入鹿も架空の名前だと代々伝えられている」と言われたそうです。

 

多利思比孤のこと

もうひとつ隠されたことがあります。

推古天皇の両親は稲目(記紀蘇我稲目)の娘、堅塩姫と欽明天皇です。稲目は尾張国にも領地をもっていたので、孫である皇子は「尾治(尾張)皇子」と名付けられました。

604年(推古12年)に尾治大王が即位。冠位十二階や官史訓戒十七条(日本書紀では憲法十七条と変更)を制定した人です。

隋書に記された「倭王、多利思比孤」とは尾治垂彦タラシヒコだと伝承はいいます。隋の煬帝に「日出ずる所の天子が、書を日没する所の天子に送る」と書いた人です。この国書は607年に小野妹子が遣隋使(日本書紀では唐へ派遣)として持参しましたが、この時すでに上宮太子(いわゆる聖徳太子)は斑鳩に引退した後なので、太子が書いた可能性はないとのこと。

尾治大王は蘇我平群の始祖、武内宿祢の血筋であり、もとは紀伊国造家。始祖は高倉下なので父は五十猛。海アマ家です。

600年に隋の文帝に送った書には「姓は阿毎、字あざなは多利思比孤」とありましたよね。

続いて「倭王は天を兄、太陽を弟として、未明のうちに政殿で政治を行い、あぐらをかいて座っている。日が昇ればあとは弟(太陽)に任せる」という使者の説明がありましたが、原文を見ると「天未明時出聽政 跏趺坐」とあって、跏趺坐かふざとは坐禅(瞑想)の姿勢であり、「政マツリゴトを聽く」のこの「聽」の意味は目的をもって何も介さずに直接耳に入れるということなので、未明の天から何かを一心に聴きとろうとしている様子が浮かびます。

徐福は道教の星信仰によって、夜に山に登り天を拝んだといいます。多利思比孤の姿には星信仰と太陽信仰を感じたりもしますが、時代は仏教の流れですので、文帝が「それは道理のないことだ」と倭王を諭して改めさせた、というのも頷けます。

それにしても「尾治大王って誰?!」のレベルですけど‥‥。

推古女帝を中心とした皇位継承の血生臭い策略の果てに、歴史の表には上宮太子が華やかに描かれ、その陰に尾治大王が隠されてしまったようです。上宮太子の御子ふたりが出雲へ赴任したために、都の中枢部の状況が旧出雲王家に詳しく伝わっているということです。とてもややこしい話ですのでまた改めて。

(九州王朝説では、この多利思比孤が大和王朝の大王には当て嵌まらないため、隋と国交を開いたのは大和王朝ではないと指摘されています。)

 

とても長くなりましたので、宗像一族については次回にします。

 

   

古代淡路島と平群王朝

皆さまから頂くコメントが、少しずつ手元に溜まり、何度も読み返しているうちに自分の中の情報やイメージと交錯し、思わぬ扉を開けることがあります。

今回はそのひとつを紹介させて頂きます。

T様は古代の淡路島の情報をよく教えて下さいます。その中で次のようなお話がありました。

地元の伝承として、淡路島の旧津名郡小井には古来、清水が湧き出ており、皇室ではこれを御井おいの冷水(霊水)」と称えて毎日船で乗り付けて樽に組み入れて持ち帰り、天皇の御膳や重要な儀式等に使われていたと伝えられているそうです。調べてみると古事記仁徳紀に記されていました。毎日朝に夕にと汲みに来ていたとあります。大阪(難波)からですよ。ただ事ではないですよね。

 

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淡路島はイザナギイザナミの国生み神話の中で、最初に創られた島です。そしてイザナギが余生を過ごした場所でもあります。それが多賀にある伊弉諾いざなぎ神宮とされていますが、元の幽宮かくれみやとして淡路島北端の石屋いわや神社のそばの洞窟(恵比須神社奥の岩樟神社)だという説もあります。神功皇后三韓併合の戦勝祈願に訪れています。

また島からは銅鐸、銅剣がたくさん出土し、鉄器の製造所跡が見つかったりと、なかなか賑やかな場所なのです。2015年に南あわじ市で出土した松帆銅鐸7個は銅鐸の中でも古いタイプであり、最古型がひとつ、そして出雲の加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した銅鐸と同じ鋳型で作られたものが各々ひとつずつあるそうです。年代は紀元前4~2世紀頃。

国生み神話の初めに描かれるだけの理由がありそうに思えますが、ところが出雲伝承では淡路島に関しては、第2次物部東征の後にタジマモリが淡路島へ逃げたという話くらいしか見当たりません。古代出雲の連合国は香川や播磨にも及んでいたので、淡路島が含まれていてもおかしくはないですけれど。

 

記紀で淡路島が描かれるのは、イザナギのあとは応神天皇から允恭天皇の期間です。

応神-仁徳-履中-反正-允恭-安康-雄略

この中から倭の五王とするのが定説となっています。ただし応神と仁徳天皇記紀の中で重なる逸話が多く、同一人物の事績をふたりに分けた可能性もあると言われています。出雲伝承では神功皇后没後の応神天皇は、かろうじて政権を保持していたと伝えています。そしてこの三者に血縁関係はないようです。

 

応神の代で安曇族が海人の統率者となります。淡路島の海人をまとめていたようです。

履中元年、安曇連浜子が住吉仲皇子スミノエノナカツミコのために天皇暗殺を謀ったことでその地位を剥奪されます。その際刺客となった賊が淡路島の野島の漁師でした。

允恭天皇の時、日本書紀に次のような話が描かれます。

天皇が淡路島へ狩りに出掛けましたが獲物が全く獲れません、占うと島の神(イザナギ大神)が現れ、「赤石(明石?)の海の底に真珠があるからそれを私に供えて祀れ」と言われました。海人を集めて潜らせたけれど深すぎて誰も底に着くことができません。そこで阿波国の長邑ながむらの男狭磯おさしという海人に潜らせると、真珠を採ることには成功しましたが、男狭磯は息絶えます。狩りはお告げの通り大猟となり、男狭磯は厚く葬られ、今もその墓は残っているということです。※赤石は徳島(阿波国)の海沿いにもあって、すぐ南に那賀川が流れています。

T様によると地元伝承では、そのお墓が石の寝屋いわのねや古墳だと伝えられているそうです。それから「天皇が狩りに出掛ける」とは、軍事訓練や軍事行動を意味すると言われます。また長邑の男狭磯を「長尾某」とT様は書いておられ、そこから大和大国魂神社の祭主、市磯長尾市イチシノナガオチ倭国造)を連想されています。この長尾某というのがどこに記されているのか見つけられなかったので、長邑の男狭磯として見てみますが、確かに長・男(尾)・磯(市)、男狭おさは長おさと同じです。とても似た名前です。そして淡路島には二宮として大和大国魂神社があります。

市磯長尾市は建位起命タケイタテの子孫であり椎根津彦シイネツヒコ(宇豆彦ウズヒコ。倭氏の祖)の7世孫です。過去記事に何度も書きましたが、建位起命は五十猛命と重なります。椎根津彦は村雲命に。大和大国魂神とは五十猛のことのようです。(日本書紀では天香具山には大和の国魂が宿ると記され、出雲伝承では香語山の御魂が祀られているとのこと。初代大和大王の村雲でもあるように思いますが。)さらに淡路島の海人を統率していた安曇氏とは親族。

また淡路島の地図を見ていると、やたらと大年神が多いことが気になっていました。そして出雲伝承の新刊「出雲王国とヤマト政権」を読んでいると、五十猛は丹波で香語山と名を変える前に、出雲で大年神の信者となり大年彦と名乗ったとあるではないですか!(大年神とは幸の神の正月祭りの神)

住んでいた島根の大屋には大年神社が建てられたそうです。それで調べてみたところ、大年神社は播磨に密集しています。Yahoo!地図で数を調べた方がおられ、全国427社のうち280社が兵庫県にあるそうです。地域性が強いですね。播磨には播磨国総社、射楯兵主イタテヒョウズ神社があります。射楯神は五十猛、兵主神は古代斉国(徐福の故郷)で信仰された八神のうちの蚩尤シユウ、戦の神です。西方を守る武神なので、村雲は三輪山の西方にある穴師の地に射楯兵主神社(現在は穴師坐兵主神社)を建て、父を祀りました。これがのちに播磨国の八丈岩山に分遷されたそうです。現在は移されています。(兵庫の名前はここから来ているのか?)

淡路島には古代出雲との交流と、次に海部氏(倭氏)、安曇氏が深く関わっていたようです。

 

脱線しますが、 大年神について古事記では、スサノオ大山津見神の娘、神大市姫の息子とし、宇迦之御魂神(秦氏の祀る穀物神)とともに生まれています。たくさんの神をもうけますが、系譜しか記されていません。一般にはお正月の神であり穀物の実りの神として祀られています。丹後風土記(残欠)にも、五十猛が丹波地方に稲作を広めた様子が描かれています。

大年神の親神をみると、五十猛の両親である徐福と高照姫が重なります。御子神の中には大国御魂神がいたり、韓神や曽富理ソホリ神といった新羅から来たような名があったり、白日神という筑紫神(白日別神)を思わせる名や、香語山をもじったような香山戸カグヤマト臣神などもみられます。古事記には五十猛はまったく現れませんが、ここにいるぞといわんばかり。それにしても五十猛は変幻自在というか、多方面のご利益がありますね。

木の神、植樹の神、穀物の実りの神、船の守り神(射楯神)、音楽の神、製鉄の神、武神、筑紫神。山も平野も海も芸術も戦も制覇しています‥‥。

地域をみても筑紫地方から石見、丹波紀伊、大和、播磨、淡路。きっとまだ他にもあるでしょうね。

どれだけ日本の発展に貢献した存在なのかと溜息が出そうです。混乱を生んだとはいえ、徐福は大陸の文化を日本へ持ってくるという大きなきっかけを作った人であり、それを実際に広め、定着させた最初の人が五十猛なのではないでしょうか。

 Sorafullはこの「五十猛」という謎めいた人物を探す旅をしているのかなと思うことがあります。

 

平群王朝の皇位争い

話を戻しますが、履中天皇を暗殺しようとしたのが安曇氏であり、その理由が天皇の弟、住吉仲皇子スミノエノナカツミコのためということでした。日本書紀には仲皇子が倭直吾子籠ヤマトノアタイノアゴと親しかったと記され、クーデターの際にも最初は仲皇子を助けようとしたけれど、途中で天皇側に寝返ったことが描かれています。天皇采女を差し出すことで許されました。

香語山-村雲(倭氏の祖)‥市磯長尾市‥倭直吾子籠

仁徳天皇の4人の皇子のうち、仲皇子だけが後継者になれませんでした。記紀では4人とも摂津の住吉大社を建てたソツ彦王の娘の子です。出雲伝承ではソツ彦王とは武内宿祢の子孫であり、もと日向水軍のソツ彦王。神功皇后の実質的な夫であり、三韓併合の最大の功労者です。記紀では武内宿祢として描かれています。

大和へ凱旋し摂津国住吉大社を創建して住吉三神を祀った後、葛城地方へ移って葛城(長江)ソツ彦王となった人です。ところがこの後に権力を握るのがなぜか親戚の平群ツク王なのです。出雲伝承ではツク王もしくはその子孫が仁徳天皇だといいます。このツク王が三韓から得た年貢を保管していた紀伊国の倉庫管理をしていたところ、しだいに力をつけていったようです。

ここでT様が面白いことを指摘されています。以前の記事で仁徳天皇は大雀オオサザキと呼ばれるけれど、サザキの由来はスズメ目の小さな野鳥、ミソサザイ。それに大とつけるなんておかしな名前だと書いたところ、T様より「もとは小者(スズメ)だったのが、倉庫の糧をツツク(横領)うちに肥太り、大きく羽ばたいて大王になった事を暗喩しているのでは?」とありました。なるほどですね。

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この古代大阪湾の地図は国土交通省のものをお借りしています。小さいのでぼやけますが、古代の河内平野は湖のような入海でした。下の図は仁徳天皇が堀江の治水工事をした説明図になります。

住吉大社は住吉浜にあったので、もとは海が目の前となります。このすぐ南に仁徳天皇陵といわれる大仙陵古墳があります。海から見る巨大古墳群は圧巻だったでしょうね。

仁徳天皇の高津宮は堀江のそばにあり、長男の履中天皇オホエノイザホワケの名前から、大江(堀江の近く)に支配地があったと思われます。次男がスミノエ、三男がタジヒノミヅハワケで丹比(住吉浜の東南)、四男がオアサツマワクゴノスクネで朝妻(葛城山の近く)とわかりやすいですね。

平群王朝以降、身内の皇位争いが激化し、兄弟間の殺し合いの連続です。さらに仁徳天皇の后も嫉妬深いことから次々と騒ぎを起こしますが、かなり権力ももっているよう。この后はソツ彦王の娘であり、夫への嫉妬とは記紀の見せかけであり、別の意図があるような気もします。

ソツ彦王も平群ツク王も同じ武内宿祢の子孫で、出雲伝承によると皇位を横取りされた感のあるソツ彦王の子孫は、平群王朝にたびたび反乱を繰り返していたと伝えられています。

履中天皇暗殺計画もそのひとつを示しているのでしょう。もしかすると住吉仲皇子だけがソツ彦王の血を受け継いでいたのかも。住吉大社とも関係がありそうです。

仲皇子のクーデターは失敗に終わり、加担した安曇氏も力を失います。仲皇子の配下に安曇氏がいて、水軍を支配していたと思われますが、もともと安曇氏の祖神は綿津見三神(志賀の大神)であり、住吉三神綿津見三神の発展したものと言われています。仲皇子と安曇氏は近い関係だったのかもしれません。水軍同士ですしね。

そして四男の允恭天皇と海人の男狭磯の不思議な話は、平群王朝が海王朝の子孫である倭氏、親族の安曇氏、そして葛城ソツ彦系を従属し、水軍を掌握したことを示すエピソードと読めないでしょうか。

最初に紹介した仁徳紀の「御井の冷水」については、もしかすると平群王朝が淡路島へ勢力を広げようとしていたということなのかな、とまで思ってしまいました。応神(仁徳?)天皇の代から淡路島へ狩り(軍事行動?)に出掛けていたようなので。

 

最後にもうひとつ、T様より教えて頂いた情報を紹介します。

大阪の住吉大社から見て、神戸市東灘の本住吉神社夏至の日の入りの方角のランドマークであり、同様に住吉大社から見て、淡路島の洲本市の古茂江海岸にある住吉神社冬至の日の入りの方角にあたるということです。

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神戸の本住吉神社は大阪の住吉大社の本源だと主張されています。Sorafullも日本書紀に描かれた内容からいくと、こちらが先ではないかと思うのですが、夏至冬至の日の入りに関わるのだとしたら、大阪の住吉大社がもとということになりそうですね。

日本書紀では神功皇后紀伊から難波に向かう途中に船が進まなくなり、武庫の港に還って占いをしたところ、住吉三神が現れ「我が和魂を大津の渟名倉の長峡に祀れ」と告げたので、そのように祀ったとしています。この大津の渟名倉の長峡が不明なのでいろいろな説があるようですが、そもそも難波に行けなかったのだから、すぐそばの大阪の住吉大社に祀るというのは無理な話です。なので武庫に近い東灘の海辺に本住吉神社を建てたと考えるほうがスムーズかなと思っていました。でもこういったエピソードは後付けのこともありますので。

 

それからこの位置関係を調べている時に気づいたのですが、東灘区岡本の山に建つ保久良神社が、淡路島の住吉神社本住吉神社を結んだ線上にあるんです。

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この保久良神社というのはなかなか不思議な神社で、巨大な磐座がたくさん境内外に並んでおり、古代の祭祀場だったようなのです。ストーンサークルとも言われています。石器時代から弥生時代後期の遺物まで出土しています。

神社は椎根津彦(宇豆彦)が主祭神。古代より「灘の一ッ火」と呼ばれる常夜灯が点る灯台で、ヤマトタケルもこの灯火によって難波へ帰ることができたと記されています。

淡路島の住吉神社の社伝によると、白髭の老人が現れ「吾は住吉明神である。此処に永久に鎮座しようと思う。よろしく祀るべし」と告げたそうです。(T様より)

海部氏の椎根津彦(宇豆彦)と安曇氏の綿津見神(のちの住吉三神)の繋がりを思うと、この保久良神社の灯火が淡路島の住吉神社へと、まっすぐに明かりを届けているのかなと、そんな空想も浮かんできます。

 

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 T様より頂いた情報をもとに、今回いろいろと調べたり考えたりすることで、深まるところが多々ありました。ありがとうございました! 

 

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新刊「出雲王国とヤマト政権」と系図について

令和の時代がスタートしましたね。

上皇さまご夫妻のにこやかなお姿も少しだけ拝見でき、今も言葉に尽くせぬ感謝の想いが溢れます。

天皇皇后両陛下はこれまで以上に凛々しいご様子で、新たな時代の瑞々しさを感じずにはいられません。上皇さまご夫妻が繋いでくださった令和の時代が、両陛下のもと、和やかな笑顔に満ち、たくさんの花を咲かせ続けますように。

 

昨日は「斎田点定の儀」が行われ、11月の大嘗祭で神々に献上するお米を育てる地方(東の悠紀と西の主基)が決まりました。栃木県と京都府です。

儀式ではアオウミガメの甲羅を用いる古来の占い、亀卜きぼくが行われました。甲羅を24㎝×15㎝、厚さ1㎜ほどの五角形(駒形)に加工し、表に溝を彫っておきます。それを波波迦木(ウワミズザクラ)の小枝をくべた火にかざし、ヒビの入り具合から地方を決定するそうです。昨夜のNHKニュースの説明では、火にかざしながら少量の水をかけていたようでした。(儀式は非公開です)

この波波迦木は古事記の天の岩戸開きにも記されています。天香具山に棲む男鹿の肩甲骨を、同じく天香具山に生える波波迦木の火で焼いて占うとあります。太占ふとまにですね。日本ではもともとこの太占が行われており、のちに中国、殷の亀卜がそれに替わりました。出雲伝承はこれらの占いについては語られていません。

ちなみに天香具山は記紀では霊山、聖なる山の扱いです。出雲伝承では天香語山命五十猛命)が祀られており、祀ったのは息子、初代大和大王の天村雲命としています。村雲は大和地方で稲作を広めた指導者です。

昨日の亀卜に使われた波波迦木も、天香具山のものでしょうか‥‥。

 

今回、宮内庁は希少なアオウミガメの甲羅の確保に1年半も前から奔走し、保全活動をしている東京都小笠原村に協力を依頼したそうです。一定量の漁が認められている中から確保したとか。さらには甲羅の加工職人の選定も慎重に行われたといいます。今や専門業者などいないのですからね。東京都のべっ甲職人の方に決まりましたが、普段はタイマイという亀を加工しているために苦心なさったようです。

亀卜は現在皇室と、長崎県対馬で地域の1年の吉兆を占うために行われているのみということです。このような遥か古からの占いが、今もって密やかに行われ、そのニュースが手の中のスマホに流れてくる。なんというか、めまいがしそうなほどファンタスティック。

 

さて、「令和」について少し。

国文学者の中西進は次のような話をされています。

大伴旅人大宰府の帥になったのは、藤原氏が一族の光明子聖武天皇の后にするために邪魔な旅人を左遷したからであり、さらに藤原氏左大臣長屋王を自害に追いやったのだと。(藤原不比等の息子らの代です)そんな中、旅人は藤原氏に書状とともに琴を贈りました。書状には「あなた方は私の軍事力を気にしているけれど、私は役に立つつもりもなく、反対にあえて戦いを望んであなたと対峙することもありません」と記されていたそうです。琴とともに送り付けたとは、カッコよすぎではないですか!

この背景を知った上で梅花の宴の序文を読むと、人の世の悲しみの中から静かに立ち上がる覚悟のようなものを感じます。それは決して折れそうな硬さではなく、やわらかで聡明さに満ちた覚悟です。

初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす

対立するふたつの勢力がある時、戦いと屈服のふたつの選択肢以外に、必ず第三の選択肢があるはずだと中西氏は言われます。それを世界に示すことができるのが日本であり、日本の務めであると。

そして万葉集が編まれた天平の時代は多くの渡来人がやってきた時代でもありました。様々な混乱を乗り越えて平和を築こうとする中で、美術や文学などの文化が栄え、平和への祈りや様々な人の偽らざる歌声が万葉集となったのだということです。令和の時代は万葉の祈りを実現する役割があるとも言われます。

万葉の祈りと言われても、少し前の自分ではピンとこなかったと思います。でも古代を自分なりに探る中で、祖先たちの祈りが私の中にも受け継がれていると感じるようになりました。天平の時代よりもずっと昔から、連綿と。この国は特定の宗教を超えた、祈りの国ですね。

 

待ちに待った新刊!

先日S様より大元出版から新刊が出ていることを教えて頂きました。ずっと待っていた本でした!

2年ほど前になりますが、絶版となっている斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」の再版について出版元に問い合わせたところ、タイトルは変わるけれど同じような内容で新刊を書いている人がいるので、2年ほどお待ちくださいとのお返事を頂いておりました。首を長くして待っておりましたが、このところサイトを調べるのをさぼっておりましたら、すでに発売されていたとのこと。

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 「出雲と大和のあけぼの」よりページ数もかなり増え、内容も詳しくなり、とてもわかりやすいです。第1次物部東征までですが、これまでの大元出版の出雲伝承をまとめた充実感があります。さらに新たな内容も加わっていて、例えば先ほどの大嘗祭で建てられる悠紀殿・主基殿の由来についての解説もあります。字が大きいことも有難い!ぜひ本を取り寄せてご覧になって下さいね。

またこの新刊に掲載されている出雲王家と親族関係の系図では、かねてから疑問であった「高照姫が富家と神門臣家のどちらの出身なのか問題」について、新刊では神門臣家の八千矛(大国主)と多岐津姫の娘であると示されています。「出雲と大和のあけぼの」に掲載された系図では、富家の天冬衣と田心姫の娘となっていました。本文の中でも両方の記述があったため、とりあえず系図をもとに書いてきましたが、今回の「出雲王国とヤマト政権」は斎木氏も確認されていると捉え、今後はこの系図を参考にさせて頂くつもりです。過去記事は順次訂正を加えていきます。

このことについてもご指摘下さったS様、ありがとうございました。

 

参考までに、この記事の後半に高照姫の出身問題について書いています。

 

 

 

三種の神器~出雲伝承より

まもなく平成から令和へ、皇位継承の儀式「剣璽けんじ等承継の儀」が行われます。西欧風に言えばレガリアですね。まるでおとぎ話や映画のような厳かな儀式が2000年を超えて今に受け継がれている、そのことに深い神秘を感じてしまいます。

 

草薙剣くさなぎのつるぎ

八尺瓊勾玉やさかにのまがたま

八咫鏡やたのかがみ

 

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写真はイメージ像ですが、皇位継承の儀式といえばこの三種の神器の継承かと思っていました。ところが剣と勾玉、ふたつの継承なのですね。他に印章の国璽と御璽も。

現在鏡は伊勢神宮内宮にあり、皇居の賢所には形代(レプリカではなく神の依り代として御魂遷しを行った神器)が保管されています。ところが剣も形代であり、実物は名古屋の熱田神宮に祀られています。勾玉は古代のものだということです。どうして鏡だけこの儀式から外されたのかはわかりません。形代とはいえ、皇祖神である天照大神自身とされる鏡ですので、簡単には持ち出せないということでしょうか。

ちなみに皇室の方でさえ神器を目にすることは許されていないので、箱の中身は誰も知らないことになっています‥‥。

さて、この三種の神器について、出雲伝承ではどう伝えているかを紹介したいと思います。

 

天叢雲剣から草薙剣

草薙剣記紀ヤマタノオロチの話に描かれています。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチを斬り刻んでいくと、尾のところで剣の刃が欠け、体内から霊剣が現れます。あまりの神威に驚いたスサノオは、高天原のアマテラスに献上。そしてニニギノ命が天孫降臨する際に三種の神器のひとつとして渡されます。

その後、東方遠征するヤマトタケルの話の中で、大和姫から草薙剣が託されますが、日本書紀では「もとは天叢雲剣あめのむらくものつるぎという」と記されています。中国史書の宋史にも「日本の年代記によると、初めの主は天御中主あめのみなかぬし、次が天村雲尊あめのむらくものみこと」と書かれています。わざわざ記すぐらいですから、かなりの意味があると思われます。けれどどういった存在かについては触れられていません。

ヤマトタケルの死後、剣は妻のミヤズ姫と尾張氏尾張国で祀ることとし、それがのちの熱田神宮であるということです。

 

出雲伝承によると、叢雲剣は海村雲あまのむらくもが大和の初代大王になられたお祝いに、出雲王が贈った銅剣だそうです。村雲は出雲王家の姫を后としました。つまり親族同士です。下図は斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」に掲載された系図をもとに、事代主を中心としてまとめた一部です。文中には向家伝承などによる出雲王家と親族の系図だと説明されています。

【2019.5.18.改定】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」に示された系図等に沿って、高照姫は神門臣家の八千矛王の娘と変更致します。また、海御蔭と神八井耳も変更されています。

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徐福とは火明命でありニギハヤヒノ命です。天村雲は徐福と出雲王家(宗像氏)の血筋の姫たちとの間に生まれていますね。そして后は事代主の娘であるタタラ五十鈴姫です。

ヤマタノオロチの話では、出雲国の始祖となるスサノオが出雲の肥の河(簸の川)でオロチを退治しますが、オロチとは出雲族の神、龍蛇神であり、それを斬り殺すことはあり得ません。記紀の製作者はあえてあり得ない話を書くことで矛盾を示し、スサノオは始祖ではなく侵略者であることを匂わせたのかも?

八岐大蛇ヤマタノオロチとは、砂鉄を産する八つの支流をもった斐伊川を例えていると考えられます。出雲族が出雲に住み着いたのは、そこに黒い川があったからだと伝承は伝えます。川底に溜まった砂鉄が黒く見えるそうです。斐伊川出雲族にとっては鉄を産む聖なる川であり、それをオロチとして侵略者が斬ると、体内から霊剣が現れるという話はこれらを見事に象徴しているように思えませんか。古事記はオロチの描写を「目は赤く燃え、腹は爛れていつも血を流している」とし、スサノオが切り刻んだあとには肥の河は血に変わったと記します。鉄を作る野だたらの燃え上がる火のイメージでしょうか。ちなみに「たたら」とはインド語で「猛烈な火」という意味だそうです。

さて、海王朝が二代で終わり、出雲系の磯城王朝になってからは、叢雲剣は尾張家が持っていて、磯城系の大王には渡さなかったといいます。(村雲は葛城の高尾張村に住んだので、親族は尾張家と呼ばれました。)

その後、剣は熱田神宮に移し、八剣社に神宝として奉納されたそうです。ヤマトタケルとは関係ないとのことです。斎木氏はヤマトタケルが相模の国で国造によって野に火をつけられた時、叢雲剣で草を薙ぎ捨て(草薙剣の由来)焼け死ぬのを防いだ話の中で、地名が焼津となっているけれど、焼津は相模国ではなく駿河国だと指摘しています。古事記の作者はわざと地名を間違え、これが作り話であることを示そうとしたのではないかということです。

668年には叢雲剣は新羅の僧によって盗まれ、その後、天智天皇から天武天皇へと渡りました。ところが天武天皇が病に倒れたため剣の祟りとされ、684年に皇居から熱田神宮に返されます。その時この剣を見た人が、古い出雲型の銅剣だったといったそうです。Wikipediaで調べたところ、熱田神宮に返される前に奈良県天理市の出雲建雄神社に奉斎されたそうなので、その時の話が伝わっているのかもしれません。

また江戸時代に熱田神宮宮司らが盗み見たという記録があり、長さは85㎝ほどの両刃の白銅剣、刃先は菖蒲の葉のようで、中ほどは盛り上がっていて、元から18㎝ほどは魚の脊骨のように節立っていたということです。

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写真は荒神谷遺跡で出土した銅剣ですが、長さは50㎝ほど。魚の脊骨というのはみられませんが、菖蒲の葉というところが出雲の細型銅剣を思わせます。ちなみにこれを盗み見た宮司は流刑となっています。叢雲剣にまつわる歴史的エピソードは他にもたくさんあります。

日本では刀は権威の象徴でもあり、また精神性や芸術性も含まれるように思います。叢雲剣はその大元となる存在ですが、何より宗教性が強いですね。見てはならないということも、よけいに心を揺さぶるのでしょう。2000年という時間の中で、その神威が人々を翻弄し、今もなお謎に包まれた神秘的な存在といえそうです。

 

さて、伝承によると海王朝から叢雲剣をもらえなかった磯城王朝では、勾玉の首飾りを王位継承のシンボルに使ったといいます。この勾玉の首飾りというのは、出雲王国時代、王族と王国内の豪族だけがつける決まりとなっていて、身分を示すものでした。勾玉は胎児の形をしているため、子孫繁栄の象徴でもありました。

 

最後に八咫鏡についてですが、出雲では特に伝承は残っていないようです。鏡は中国の道教の信仰であり、九州の物部勢力が広めたと考えられます。つまり徐福系ですね。

「八咫やた」というのは多い、大きいという意味ですが、実際に長さを推測した一説によると直径46㎝ほどになるとか。国内で最も大きい鏡が、九州糸島半島の平原遺跡(2~3世紀)から出土したもので、直径46.5㎝の大型内行花文鏡(八葉)です。古代の伊都国ですね。三国志の魏書に伊都国の長官として「爾支ニギ」という名が記されていますが、始祖ニギハヤヒの名を使っている可能性が高いです。

神道五部書によると、八咫鏡の模様は八葉八頭花崎形とされていますが、書自体の真偽は不明だそうです。

実際に平原遺跡で写真の内行花文鏡を見たことがあります。大きさにも驚きましたが、それまで目にした鏡とは違って、とてもシンプルでありながらそのデザイン的な美しさに心を奪われたのを覚えています。

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村雲の子孫である丹後の海部氏の伝世鏡二面(前漢後漢時代のもの)も内行花文鏡ではありますが、直径が9.5㎝と17.5㎝なのでかなり小さいです。

海部氏には宗像三女神(三姉妹)のうち二人が関わっています。多岐津姫は海香語山の祖母。下の系図にはのっていませんが田心姫の孫娘、タタラ五十鈴姫は海村雲の后となります。

【2019.5.18.改定】高照姫は神門臣家に変更しています。

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もう一人の市杵島姫は徐福(火明命、ニギハヤヒノ命)の后です。徐福は吉野ケ里に住んだということなので、市杵島姫は丹後ではなく九州にいたことになります。筑前国風土記逸文に、宗像大社辺津宮八咫鏡依代としていたと書かれています。内行花文鏡かどうかはわかりませんが、辺津宮といえば現在は市杵島姫を祀っています。(時代によって祀る姉妹が変わるようです)

そして三種の神器八咫鏡が祀られているのが伊勢神宮の内宮。東征を果たした物部イクメ(垂仁)の娘、大和姫が天照大神(そのご神体が八咫鏡)を伊勢に祀ったとされています。物部の祖先は徐福と市杵島姫の子であるホホデミ。なのでその鏡は市杵島姫に繋がる可能性が‥‥。

日本書紀では八咫鏡の別名を真経津鏡まふつのかがみとしています。フツ(経津、布都、布津)といえば布都御魂ふつのみたまの剣。物部氏氏神である石上神宮のご神体です。葦原中国の平定や神武東征を勝利に導いた霊剣です。ここには布都斬魂剣ふつしみたまのけん、別名十握剣とつかのつるぎも祀られています。ヤマタノオロチを退治したスサノオの剣のことですね。なのでフツといえば徐福、物部系を指すようです。

 

ちなみに出雲伝承では伊勢に祀ったのは三輪山の太陽の女神のご神体であるといわれています。このあたり、ほんとにややこしいです。第一次物部東征後、出雲と大和は銅鐸祭祀を止め、三輪山の司祭者であったモモソ姫(ヒミコのひとり)が物部と協調したことで、大和の磯城王朝は物部の道教的祭祀と融合したといいます。鏡を使い始めたわけです。出雲側はそもそも三輪山に籠る太陽の女神を祀っていましたが、それが物部の鏡と融合して、のちの天照大神のご神体となったということでしょうか。ちょっと大雑把な気もしますが。

 

 

さて、あれこれと考察を重ねてきましたが、三種の神器の由来も出雲伝承に従えば、草薙剣(叢雲剣)は出雲王家から海王朝へ贈られたものであり、勾玉は出雲王朝から磯城王朝へ伝統が受け継がれ、そしては物部王朝に始まり磯城王朝と融合。つまり古代日本を形作ったそれぞれの王朝の文化、エッセンスが集まり、皇室の核をなすものとして今なお大切に受け継がれているということになります。まさに和の国ですね。

もちろんそこには戦いの歴史もあります。矛盾を孕みながらも調和を求め続ける人々の営みとともに、これらの神器は沈黙の中で息づいているように思えてきました。

 

いよいよ30日には退位礼正殿の儀、翌1日には剣璽等承継の儀が行われます。すべての人にとって佳き日となりますように。

 

 

 

夫婦像と祈り

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天皇陛下の御退位が近づき、連日のように天皇皇后両陛下のご様子がテレビで報道されています。おふたりの寄り添うお姿を拝見するたびに、Sorafullの胸には道端に静かに佇む石造りの夫婦像が浮かびます。

上の写真は室町時代以降に信州や関東地方でたくさん作られた道の神、さいの神の夫婦神像です。なぜ道端に立っているかというと、村に悪いものが入らないようにと守ってくれているからです。

 

「幸さいの神」は今から3500年ほど前にインドから日本列島に渡来した出雲族の信仰です。信仰といっても、祖先神の集合体を尊び、子孫の幸いを守ってもらう素朴なものです。男女の縁を結び、夫婦円満と子孫繁栄へ導く神さま。クナト大神と幸姫命さいひめのみことと呼ばれました。のちのイザナギイザナミの原型にあたります。日本初の人格神ですね。

紀元前6世紀から700年続いた出雲王国が滅ぼされ(いわゆる神武東征)、のちの記紀に描かれた新しい神さまたちの登場とともに、縄文時代から続く幸の神は忘れられていきました。忘れられたとはいっても、お正月の習わしなど至る所にその名残はみられますので、もとの形、由来を忘れてしまったといったほうがいいかもしれません。

縄文信仰は夫婦が仲睦まじく、子宝に恵まれることを祖先神に願いました。当時の平均寿命は14歳と推定されているので、周産期~乳児死亡率の高さが伺われますし、種の存続に直結することでもありますから、その願いは当然でしょう。ですが現代においても、仲の良い夫婦の姿というものは本当に尊いものに思えます。愛する者同士が互いを尊重し合い、助け合い、長い人生を共に生き抜いていく姿に、私たちは感動を覚えるのかもしれません。今の両陛下のお姿には神々しさすら感じてしまいます。

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出雲王国時代には春と秋の2度、マツリゴトと呼ばれる大祭が開かれ、各地の豪族が集まりました。規則などを決める会議を主催する王と、祖先神を祀る后が司祭を務めます。いわゆるヒミコの時代にみられるヒメ・ヒコ制(政祭一致)の始まりです。古代は母系家族制だったので、男女は対等にそれぞれの役割を果たしていました。やがて男性に権力が集中するようになり、祭祀においても女性から男性へとバトンタッチしていったようです。なので現在、天皇のお仕事の最重要事項が実は祭祀であるというのは、ヒメ・ヒコ制が終わったことによる流れと思われます。

第二次大戦後はGHQによって祭祀は公務から外され、私たちの目に触れることはなくなりましたが、陛下は皇室の私的行事として、日々国民の安寧と幸せを祈って下さっています。このことは御退位を表明されて以降、ようやく取り上げられるようになりましたが、「祈り」によって国を導くというのは、古来より続くこの国の在り方です。陛下は特に古代の祭祀をそのまま継承することに力を尽くしてこられたそうです。その重要性に共感しつつ、お体の負担を思うと胸が詰まります。御退位されたあとにどうかお疲れがでないようにと、今多くの人々が願っていることと思います。

以前の記事で元日の祭祀について紹介しましたので、抜粋します。

 

『祈りの役目といえば日本の天皇と同じですね。天皇のお仕事は本来、祭祀ですから。最近になって天皇陛下の激務がニュースになりましたが、実際は公的なお仕事の他に私たちの目に触れないところで、日々国民のために祈りを捧げておられるのです。元日の早朝より行われる四方拝では「この世で起こる様々な困難、苦しみは、必ず我が身を通過してください。すべてこの身が引き受けます」と天地四方の神々へ祈られます。私たちが新年に互いの幸せを祈っている時に、陛下はすべての苦しみを引き受けると祈っておられます。それが形だけではないことは、御公務の内容を知れば感じられると思います。

民の苦しみを陛下のお体を通して清め祓って頂くというのは、あの大祓詔おおはらえのことばと重なりませんか。祓戸四神の連携によって、すべての地上の罪や穢れは川から海へと持ち運ばれ、それを沖で呑み込んだ神は海底から地底へと吹き払い、それらを地底で受け取った神はいずこへか持ち去って浄化し消滅させて下さる。一神教の神様は人の犯した罪を裁き、許すという上下の関係ですが、八百万の神々は人が生きている以上生み出される罪や穢れ、自然の猛威による苦しみを身をもって引き受けてくれる包容力を感じます。その神々と直接繋がっているとされるのが天皇なのでしょう。』~訂正のお知らせ&安曇磯良と五十猛⑴より~

 

誰かが自分の苦しみを思い、祈ってくれていると知ると、命を人生を大切にする勇気が芽生えます。災害の地で人々が両陛下の慰問によって涙する姿を目にするたびに、心から祈るという行為の重みを感じずにはいられませんでした。

これからの両陛下の過ごされるお時間が、どうか穏やかでありますように。心からの感謝とともにお祈りいたします。

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万葉歌の由来

さて、まもなく令和の時代を迎えますが、この「令和」の出典である万葉集も、インド由来という驚きの説があるんです。 

 

詳しくはこの過去記事を読んで頂ければと思います。

五七五七七という珍しい和歌の形式は、日本と南インドタミル語の古代詩にしか存在しないそうです。しかもその詩集の中で描かれた占いが、万葉集にも「夕占ゆふけ」として繰り返し出てくるんです。室町以降は辻占と呼ばれ、現代ではフォーチュンクッキーとして形を変えています。面白いですね。

出雲族が伝えた占いだとすれば、縄文時代から続く占いだったわけです。

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それと万葉集には恋の歌がたくさんありますが、当時の母系家族制を知らなければ、歌の意味がわからないようです。古代の庶民たちは現代のように夫の家に妻が入るのではなく、女性が実家を継ぐ形なので、男性は通い婚です。例えば月夜の明るい夜にしか通えないために、夫を待つ妻の切なさが月とともに歌われたりするわけです。他にも男性を選ぶのは女性なので、売れ残ることを悩むのは男性であるとか、さらには子ができなければ女性は離縁して若い男性と再婚するというのも日常的にあったようで、白髪になるまで添い遂げる夫婦は珍しいために、縁起ものとして高砂の翁と姥の話や人形が人気になったといいます。時代背景や当時の暮らしを知るというのは大切ですね。

令和をきっかけに万葉集が見直されているようです。Sorafullもこれから少しずつ学んでいきたいなと思っています。

 

 

会稽東治の重み

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会稽東治 ⇒ 東冶 
三国志の各版本には、倭の位置を「その道里を計るに、当まさに会稽東の東に在るべし」となっていますが、後漢書では「会稽東の東」と改定されています。その後の隋書、梁書は「会稽の東」、晋書は「会稽東冶の東」となっていて、三国志の「会稽東」は邪馬壹国と同じく意味不明のため、会稽郡の東冶の間違いだろうと判断されました。だとしても、地図で見ると東冶の東というには無理がありますね。

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ところが、三国志を書いた陳寿の時代には東冶は会稽郡ではなく建安郡に属していたことに気づいた人がいます。またまた古田武彦です。

永安3年(260年)を境に東冶は分郡されて、そこは建安郡と命名されたそうです。陳寿はそのことを呉志に記し、三国志ではきっちりと書き分けているようです。つまり陳寿が現在(280~290年頃)のこととして「会稽東」と書くはずはなかったのです。ではなぜ後漢書の范曄は改定したのでしょうか。

260年以前の後漢、魏の時代‥‥会稽郡東冶

260年以後の魏、晋の時代‥‥建安郡東冶

5世紀南朝宋の范曄の時代‥‥会稽郡東冶、建安郡の消滅

このように魏末期と晋の時代だけが建安郡だったために、范曄は錯覚してしまったのではないかということです。自分が調べている後漢代も今も、東冶は会稽郡だったので。

では范曄にも後の学者にもわからなかった「東治」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか。

下の過去記事で魏略と三国志を比較した際の繰り返しになりますが、もう一度陳寿の文章を見直してみたいと思います。

 

(帯方)郡より女王国に至るまで万二千余里。男子は大小と無く、皆黥面文身す。古より以来、其の使いが中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚・水禽を厭う。後稍々以て飾りと為す。諸国の文身各々異なり、或は左にし或は右にし、或は大に或は小に、尊卑差有り。其の道理を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。

 

古田氏はこの文脈の中に、二度も会稽が出てきていることに注目しました。このブログでも魏略と三国志の違いとして取り上げてきたところですが、どうしても腑に落ちなかったところを解決する糸口がここにあるようです。

これまで定説となっている解釈は夏王朝六代王、少康の子(越の始祖)が会稽の王に封ぜられた時、髪を短くして体に入墨し、水害から身を守った」というものです。ところが古田氏はこれでは風変りな王になってしまうというのです。夏王朝の王子には水中で魚を獲る趣味でもあったのかと。

おさらいですが、史記によると周の王子である呉の太伯は、同じように会稽の地で文身断髪しましたが、この場合は周の王位継承を弟に譲るため自ら辞退し、しかも都の貴族階級に復帰することを永久に断ち切るために、水辺の民(被統治民)と同じ入墨を体に刻みこみました。そのような太伯を会稽の民は慕ったということなのです。

さて、これまでは「以避蚊龍之害一」を「以て蚊龍の害を避く」と読むのが定説でしたが、「以て蚊龍の害を避けしむ」と使役の用法で読むほうが筋が通ることを古田氏は指摘されています。つまり「避けた」ではなく「避けさせた」となります。原文には使役の助動詞はありませんが文法上はどちらで読むことも可能なので、文脈から適切なほうを選択することになります。また三国志全体の中では「以」をもつ文形によって「以て‥‥せしむ」という使役の用法を表しているところが多いそうです。

では「避けさせた」で読んでみると、

夏の少康の子が会稽王になり統治を布いていた頃、水辺の民が蚊龍の害に悩んでいたので、王は断髪文身すれば害を避けられることを民に教えた。その教化を倭の海人も学び、今に伝えている。

といった内容に変わります。知識そのものは長老たちの知恵なのでしょうが、夏王朝の教化が会稽の水辺の民に浸透し、のちに周の太伯がその地(のちの呉)へやって来た時にはしっかりと根付いていて、今また倭人もその教えを守り伝えているようだ、と。これが陳寿の見た会稽における教化であるということになります。

また、三国志東夷伝序文の書き出しは、

書に称す、「東、海に漸いたり、西、流沙に被およぶ」と。其の九服の制、得て言ふべきなり。

書(書経尚書)の引用は、夏王朝の始祖、禹王の治績をしめくくった有名な句であるそうです。禹王は会稽山に諸侯を集め、五服の制を布き、夷蛮が中国の天子に対して朝貢すべき礼の基準を定めたといいます。史記漢書ともに禹王の治政を締めくくる時、この句を受け継いで書かれているようです。

史記には「帝禹東巡し、会稽に至りて崩ず」とあって、著者司馬遷の付記として「禹、諸侯を江南(会稽山周辺)に会し、計功して崩ず、因りてここに葬る」とあります。

夏の都は長安のあたりで、会稽山の位置はその東方です。

夏王朝の始祖が東巡し、最期に会稽山で夷蛮統治の基準となる五服を打ち立て、それを周王朝が引き継いで六服、九服と発展させ、今なお倭人の中に受け継がれていることを、陳寿三国志の中にしっかりとした縦糸として組み込んでいます。以前の記事「倭人⑴」の時にはどこかぎくしゃくとして思えた陳寿の文章が、この縦糸を理解して読めばすんなりと入ってきます。

倭人の忠実に朝献する姿や黥面文身、大夫(周代の身分)と自称することなど、ここに東夷の教化の成功が明らかに見られ、その倭の位置を計ったところ、まさにあの禹王の東巡した最期の地、禹王の眠る会稽の東に在る、と読み取れます。筋が通っています。であれば「会稽東治」は史記の「帝禹東巡」に始まる東夷の統治から創られた語と思われます。

※ もし陳寿倭人を呉の後裔だと考えているなら、魏略にあったように倭人が「自らを太伯の後という」の一文を挿入すればよかったわけです。そこをあえて省き「自称大夫」と入れたのであれば、夏王朝からの教化を東夷である倭人が素直に受け継いでいることを強調したのだと思います。倭人の出自は非常にわかりにくいけれど、大陸側にあるとはどうしても言い切れず、中国の影響を受けている民だというところで留めているのではないでしょうか。もちろんこれらは陳寿がどう解釈したかの推論ですが。

最後に東夷伝序文を、古田氏の大意で紹介します。

 

書経に禹の五服の制をしめくくる言葉として、「東は海に漸そそぎ、西は流れ(原文は流沙。砂漠地帯を指すと思われます)に被およぶ」という。この五服の拡充としての九服の制。それは夷蛮朝貢の変わりなき典範である。我々は実地に蛮位の地に至り得てこそ、その実質を言うことができるのである。

舜より周までは西域、東夷の朝貢は絶えなかった。ところがその後、西域の場合は、漢の張騫が異域の実地に遠く使した働きによって、漢・魏に至るまでこれらの国々の朝貢は続いている。これに反して東夷の場合は、遼東の公孫淵の反乱により朝貢の道が断たれた。

景初年間、魏の明帝は軍を発して公孫淵を討った。(略。前回記事参照)さらに魏の軍は高句麗等を追って東の大海を臨むところに至った。ところが長老説くに「異面の人がいる。彼らは日の出る所に近い」と。

そこで東夷の諸国を見渡すと、夷狄の国であっても礼儀を保っている。「中国が天子に対する礼を失っても、四夷の方がなお天子への信を抱いている」と聖人が言った通りである。故にこの国々のことを述べ、前史(史記漢書)の欠けている所に続かせようとしたのである。》

 

「聖人の言葉」は漢書にも「孔子の言葉」としてありました。漢書の班固はそれに対して「楽浪海中倭人有り」と結論しています。けれど班固の時代にはまだよくわからなかった倭人のことを、陳寿三国志の中で詳細に記し、前史を補っていくと言っているのです。

三国志の中心といえる魏書において、東夷伝は30巻の最後に収められており、倭人伝はそのラストに置かれています。倭人伝の文字数は他よりも多く、特に朝貢記事においては際立って詳細で、内容共にボリュームがあります。さらに魏の明帝による女王ヒミコへの言葉は驚くほど親密で細やか…。そして倭人伝ラストはヒミコの宗女、壹與による豪華な貢物を披露して締めくくられています。これは魏書における結びの一文でもあります。古田氏はこのことを夏、周から続く魏、晋朝の正統性を示す表現であるとみています。禹王の教化を引き継ぎ成功していることを、倭人の忠実なる朝貢によって示そうとしていると。

前回記事にありましたが、魏の時代、公孫淵を誅したことで東夷の支配も復活し、それは晋王朝始祖である司馬炎の祖父、司馬懿の功績です。晋は魏帝からの禅譲(血縁者でない有徳者に譲ること)です。陳寿は先代である魏の歴史を記しながら、我が晋王朝を称える立場にあります。

遥か遠い倭国からの品々は、東夷伝序文の文頭に掲げられた偉大なる禹王の治政が、2000年という時の中で花開いた証であるとして、陳寿は魏書を結んだのではないかと思えてきました。

 

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 参考図書:古田武彦著「「邪馬台国」はなかった」