そもそもは幻の筑紫舞、古典芸能の源流へ(1)筑紫くぐつと洞窟古墳の舞
こどもの頃、父は日本の古代の歴史をくり返し聞かせてくれました。
歴史といっても弥生から古墳時代の話です。確かなことはわかるはずがありません。つまり仮説です。
歴史に興味のないソラフルは聞いているフリをしながらやり過ごすのが当たり前。いつか終わるとたかを括っていたのですが、結局大人になっても止むことはありませんでした。
父はいわゆる邪馬台国九州説でした。
当時畿内説が主流の時代に、教科書にも載っていない少数派の説など聞かされても胡散臭いだけで、興味のないソラフルには意味不明の呪文に過ぎなかったのです。
ただそんな中でひとつだけ心にひっかかる話がありました。古代から密かに継承されてきたという筑紫舞です。古くはちくしまいと言ったそうです。
筑紫舞の説明に入る前に、この幻の舞を現代に蘇らせたひとりの女性の、不思議な縁に彩られた半生を紹介したいと思います。
筑紫くぐつと菊邑検校、謎めく洞窟の舞
昭和6年、神戸の造り酒屋「山十」のひとり娘、10歳になる山本光子はふとした縁から九州発祥の筑紫舞の稽古を受けることになりました。
家には芸能の人などが出入りしており、その中のひとり、太宰府から来た盲目の琴曲者、菊邑検校(きくむらけんぎょう)が長く滞在していたときのことです。
検校はケイさんという話すことが不自由な男性と共に舞の稽古を歌舞伎役者につけていたのですが、彼は振りがうまく覚えられません。
光子は山村流の地唄舞を習っていたので、そばで真似をしてみることもありました。
ある日検校から光子に稽古をつけさせてもらえないかと両親に申し出がありました。
検校の話によると、以前太宰府近くの寺にいる鼻の欠けた庭男が筑紫舞の伝承者であるとわかり、まだ筑紫くぐつが残っていたことを知った。その庭男が言うには、自分たちには何百年も前から仲間が大勢いて、年に1度高位高官の前で舞えば1年は食べていけたが今日ではそうはいかなくなった。昔からの言い伝えで仲間の誰かに伝えて死ななければ地獄に落ちると言われているのに、伝える者が無い。どうかご縁と思って受け取ってもらえないかと。それで検校は残りの人生を筑紫舞の研究に使うことにしたと言うのです。
くぐつ(傀儡子)というのはプロの芸能集団で、各地を放浪し三味線を弾いて人形芝居をするものから、高貴な人を相手に芸能を教えるものまで様々です。世阿弥もくぐつです。
言葉の起源は、昔海人族(あまぞく)の女たちが海岸のくぐという草で籠(くぐっこ)を編んで使っており、男たちが海に出ている間、くぐっこに物を入れて町に売りに出たり、中には春を売るものもいて、そこからくぐつと呼ばれるようになったそうです。
くぐつから神主、宮司になった人も多く、また能や狂言もそこから生まれました。奥義を極めたものは大夫と呼ばれます。人形使いのくぐつは竹本義太夫と組んで人形浄瑠璃を生み出しました。日本の芸能に欠かせない存在だったのです。
検校の申し出を受けてから12年、光子は検校とケイさんの厳しい稽古によって200曲を超える古代の舞を心身に叩き込んでいきます。
どのようなネットワークがあったのか、全国から次々と伝承者のくぐつたちが光子のもとを訪れ、伝えては消えてゆきました。みんな礼儀正しく品格のある人たちで、戦時中には赤紙が届いたからあと数日しかないと必死に教えてくれた人もいました。
不思議なことにその誰一人としてその後会うことはなかったといいます。まさに気魂の一期一会ですね。
14歳のある日、検校に連れられて光子は北九州へ向かいます。本場の舞を見せるため、そしてこれが最後になるかもしれないとも言われたそうです。昭和の動乱期だったからでしょうか。
連れてゆかれたのは玄界灘に面した洞窟でした。そこに現れた12、3人の中年男性たちは古びた衣装に着替えると、かがり火に照らされた洞窟の中で静かに舞い始めました。
琴や鼓を奏でる者と舞人が次々と入れ替わります。その無我の姿は神そのものであり、灯りに照らされた顔はまるで仏像のように見えたそうです。
舞のあとには神事のような儀式が行われ、光子はわけのわからないままそれに従いました。
すべてが終わってからの男性たちの会話に「去年はあの山の向うでしたな」とあったので、毎年ここで舞っているのではないようだと思ったそうです。
別れ際、「もう親方様(検校のこと)の前で舞うことはないだろう、これだけ揃うこともないかもしれない」と呟く人も。
それから50年近くたって、光子は古代史研究家の古田武彦氏との調査によって、この時の洞窟が宮地嶽神社敷地内にある宮地嶽大塚古墳だったということを突きとめました。
7世紀頃に造られたこの古墳、開口石窟として全国最大規模なんです。横穴式石室で長さが22メートルもあります。奈良の石舞台古墳でさえ20メートルなのに!
これなら古墳の中で10数人が舞うこともできそうですね。
しかも副葬品がすごいんです。3メートル近い金銅製の太刀、同じく龍虎模様の透かし彫りを施された冠、馬具、瑠璃(ガラス)玉や瑠璃板など他に例を見ないような超一級のお宝を含めて300点。
被葬者は宗像徳善、磐井の一族など諸説あります。
神事のような舞は祖霊へ捧げていたのでしょうか。
さて、この筑紫舞とはいったい何ものなのでしょう。
文献として最古のものは、続日本紀 (731年) に宮廷舞踊としての記載があります。けれどその後は表舞台から姿を消してしまいます。権力の交代があったのかもしれません。
筑紫とは九州北部の地方を指し、古代より海洋民族として朝鮮半島や中国大陸を行き来する倭人が住んでいました。
中国古典の礼記によると、周の時代(紀元前1000頃~同256年)の天子の礼(君主のあり方として重要な規範)のひとつに「東夷(倭国)の舞楽たる昧(まい)と南蛮の舞楽たる任を廟前に奏せしめ…」とあります。
この昧が筑紫舞だというのは無理があるでしょうが、その起源が繋がっていないとも言い切れません。
能や狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎の源流といわれ、菊邑検校によればアメノウズメの舞(天の岩戸開き)をさして「あれが私たちの筑紫舞のもとです」とのこと。
ただし筑紫舞は神に捧げる舞のためお金儲けはできません。酒席もだめ、神主のお祓いと同じで乾杯の前でないと舞えないのです。
筑紫舞には神舞、神前、宮舞や人々に見せるためのくぐつ舞などがあります。
検校の言葉:
「神舞は上手に舞おうと思ってはいけません。見物人が何人いようと皆、神のお相伴です。神様が満足されればそれでよろしい」
「これは天満系(アマミツケイ)の舞です。天に満ち満ちた神のことです。天の神、海の神、地の神とあるのです」
「アマテラスに感謝してお塩を頂くのです。この場合のアマテラスとは、海を照らすと書きます。つまり月の光、日の光の御余光で海の幸が獲れる。その光、波にキラキラと光る、その光を言うのです」
とてもおおらかな神の気配が伝わってきますね。
古代筑紫地方の海人族(あまぞく)たちの見ていた光、そして感謝の思いが満ちてくるようです。
「筑紫舞はたとえ曲がなくても、風の音、波の音でも舞えないといけない」
ぐっときます。
さらに宮廷舞踊以外にも、庶民の生活に根ざしたくぐつ舞もあって、案山子や蛙や鼠、鳥など様々なものを擬人化して舞います。
「世の中すべてのものは人間と同じです。言葉も喋るでしょうよ」
原始日本のやわらかくおおらかな心に触れたような気がしませんか。
また九州ものだけではなく全国の舞があり、東物(相模、武蔵、陸奥)に尾張、伊勢、畿内物とに分類されます。くぐつ達によってしだいに全国へと広がっていったようです。
光子たちのその後は次回へ続きます。