そもそも「君が代」のキミって誰?(3)神々と安曇の君
この日の旅もそろそろ終わりに近づいています。
お昼前に博多駅でレンタカーを借りて糸島半島へ、そしてまた博多へと戻ってそこから志賀島を目指して海の中道へ。半日では少々キツいスケジュールとなりました。
夕暮れが迫っています。
海の中道は10kmほど続く細長い砂州です。写真では見えにくいですが、左手に博多湾、右手に玄界灘が広がっています。
正面にようやく志賀島が見えてきました。一旦ここで車を停めます。
玄界灘は轟音をあげながら荒々しく波を打ちつけています。風がとても強く、大声を出さないと互いの声が聞き取れません。
ところが反対の博多湾はというと、凪いだように静けさを湛えているのです。
小さな能古島をぽっかりと浮かべて、夕暮れの光にきらきらと照らされています。
何度も何度もふたつの海を見比べました。玄界灘からの風に体を揺さぶられながら、激しい波音の中、静かに悠然と輝く博多湾を見るうちに、厳かなものに包まれていくようでした。
博多湾は守られている。神々に守られた海だ‥‥
古代の船に乗って対岸からこちらへやって来る王の姿が見えるようでした。人々はこの地を治める王を神の化身と感じていたのかもしれません。
海と大地と空に満ちる神々の象徴が王であったと、そんな思いが湧いてきました。古代の人々の祈りがここに満ちています。
千代に八千代に、この国は神々に守られてゆく。「君が代」は言霊となってその祈りを伝え続けているのかもしれません。
それではこのいにしえの王、安曇の君とはどんな人だったのでしょう。
山褒め祭を行う志賀海神社は「龍の都」といわれ綿津見三神(海の神)を祀っています。ここは海人族安曇氏の本拠地であり、宮司は代々阿曇氏です。
※ 安曇、阿曇、安積など表記はいろいろで、またアトベ、アト、アド、アドベ、アチメ、アントンも同じ。
関係する氏族は阿曇連、凡海連(オオシアマ)、海犬養連(アマノイヌカイ)、安曇犬養連、八木造(ヤギノミヤツコ)
古事記では「安曇連は綿津見の子、宇都志日金析命(ウツシヒカナサク)の子孫なり」
新撰姓氏録では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見の命の後なり」
志賀海神社には神功皇后が三韓併合のとき志賀島の安曇磯良(アヅミノイソラ)を海底から呼び出し、龍神より干珠満珠を借り受けて皇后へ渡すと、皇后は三韓を平定して無事帰還したという伝説が残っています。磯良は皇后を庇護し導いたようです。
この話は北九州のいくつかの神社にも大筋は同じような内容で伝えられていて、また京都の祇園祭でも船鉾の人形で表されています。
和布刈神社、風浪宮の磯良丸神社、高良大社(玉垂宮)、対馬の和多都美神社など。
三韓併合とは仲哀天皇の皇后である神功皇后が 新羅に出兵し、新羅降伏後、百済、高句麗も日本の支配下に入ったとされます。時期は確定せず、3~4世紀頃といわれています。
高句麗の好太王の石碑(414年建立)に400年前後に倭が新羅に大軍で侵入してきたことが刻まれていますが、日本書紀では神功皇后を170~269年としています)
神功皇后とは息長帯比売(オキナガタラシヒメ)とも言われ、母方は辰韓から渡来した王子、日矛(ヒボコ)の家系です。一説によると三韓併合を行ったのは神功皇后の出自が辰韓の王族であり、辰韓王家断絶の際に家来が起こした新羅国の権利を巡っての争いだったとのことです。
干珠満珠とは潮の満ち引きを司る霊力をもった玉で、海幸山幸の神話にも潮満珠潮干珠(しおみつたま、しおひるたま)として登場します。
この神話はこれから何度か出てくるので、ストーリーを紹介しておきますね。
海幸彦と山幸彦
ニニギの命とコノハナサクヤ姫夫婦の三男、山幸彦(別名、ホオリの命、ヒコホホデミの命)は兄、海幸彦の釣り針を海で落としてしまい探しに出ます。塩土(シオツチ)の神(潮流を司る神)の助言に従うと、海底に住む綿津見の神、豊玉彦の娘、豊玉姫と出会いました。ふたりは夫婦となって3年を共に暮らしますが、やはり釣り針を返さなければと山幸彦は地上に帰ることを決意します。失くした釣り針は綿津見の神が鯛の口にかかっているのを見つけてくれ、さらに潮満珠と潮干珠を土産に持たせてくれます。
潮の満ち引きを操ることができるようになった山幸彦に兄の海幸彦は従うようになりました。(兄は怒りっぽくて厄介な相手として描写されています)
豊玉姫には子どもが宿り、陸に上がって産屋を建てようと鵜の羽を葺き始めますが間に合いません。そして山幸彦に出産するところを見ないでと頼みますが彼は覗き見てしまいます。豊玉姫はワニの姿をしていました。姫は恥じらい海へと帰ってゆきます。
その時生まれた子が鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズの命、別名ヒコナギサタケ)です。のちに豊玉姫の妹、玉依姫と結婚して神武天皇(初代天皇)が生まれます。
民間伝承では豊玉姫の息子、ウガヤフキアエズが磯良であると言われています。初代天皇の父?
磯良の舞
志賀海神社では磯良の舞である鞨鼓(かっこ)の舞が御神幸祭で奉納されます。
春日大社では細男(せいのう、ほそお)の舞といって、神功皇后が筑紫の浜で老人から「細男の舞を舞えば磯良が出てくる」と聞き、舞わせると磯良が現れたという物語です。
また筑紫舞にも神舞の「浮神」という磯良の舞があります。筑紫舞の宗家、西山村光寿斉さんの師匠である菊邑検校によると、この舞が最も大事なものだそうです。筑紫舞は安曇磯良と深い結びつきがあるということですね。
鞨鼓の舞と細男の舞は白布を顔に垂らして顔を隠し、浮神の稽古では敷布を頭からすっぽりかぶって藻のようなものを頭から下げたそうです。貝殻や海藻が顔に貼りついていて醜いために隠しているということですが、ちょっと違和感を覚えます。あえて醜い者にされているような。
和多都美神社前の海岸には磯良エビスという霊石があって、鱗状の磐が祀られているんです。海底で長い年月を過ごし、牡蠣やアワビや海藻が磐を覆っていく。これを醜いとするか、海の豊かさと見るか、海人であれば決して醜いものには映らないのではないか?
「君が代」で歌われた、細石も巌となりて、という言葉がここに重なるような。
あれ? 細石、細男。関係あるのでしょうか。。。
他、磯良の記述等
・宗像神社「宗像大菩薩御縁起」
・高良大社祭神縁起図、玉垂宮神秘書
・太平記
これら中世の記述より、
志賀大明神、常陸国の鹿嶋大明神、大和の春日大明神、天児屋根命、高良玉垂命、対馬の琴崎大明神、
すべて安曇磯良のことを示唆している可能性があります。もしそうだったとして、これほどの変化を遂げることや、神功皇后の大偉業伝説の重要な存在にもかかわらず古事記や日本書紀(以後、記紀と略します)には磯良の名が登場しないことから、何らかの事情があって正史から消された人物であることが窺えます。
記紀の制作年代のほうが明らかに古いのに、中世になって安曇磯良が復活するというのも不思議です。もしかすると海人族由来のくぐつたちによって磯良は海の精霊もしくは海神と形を変え、全国へと語り継がれていったのかもしれません。
もともとは北九州沿岸から朝鮮半島にかけての荒海を航海することのできる海人族の長であり、博多湾沿岸を治める筑紫の王だったのでしょう。それがのちの子孫の代で権力を奪われ、神功皇后の三韓併合の話の中では朝廷に従属する側に変わっていったようです。実際に安曇族が航海の舵取りをしたかもしれませんよね。
また、記紀では三韓併合は磯良の代わりに住吉三神(海の神)が登場します。安曇と住吉神の関係は?
さらに磯良の名を磯武良(イソタケラ)ということもあり、磯を渚と換えればナギサタケラになります。(ナギサタケはウガヤフキアエズと同じ)
このイソタケラという響き、どこかで聞き覚えがあると思ったら、スサノオの息子、五十猛(イソタケ)に似ています! 関係があるのでしょうか。
参考文献