古事記と日本書紀~ふたつの影法師⑴
通説では中大兄皇子(天智天皇)の時代、乙巳の変において蘇我入鹿が自宅に火を放ち自害した際に書庫も炎上し、天皇記などの歴史書が焼け、残った国記だけが天皇に献上されたといわれます。その後の壬申の乱によって天武天皇が即位し(673~686年)失われた国史の編纂を命じます。(なぜかその国記も現存しておらず、こんなに何もかも消えてしまうとは不思議です…)
実際に古事記が完成したのは3代後の元明天皇(707~715年)になってからで、712年に献上されたということが古事記序文に書いてあります。
太安万侶が書いたとされるこの序文によると、諸氏族の伝えていることはすでに虚偽が入り交じっているため、天武天皇は自ら選び定めた帝紀(歴代天皇の日継ぎの伝え)と旧事(古の出来事の伝え)を舎人とねりの稗田阿礼(28歳)に誦み習わせ、正しい国史を作ろうとしたが完成には至らなかった。元明天皇の代になって、太安万侶に稗田阿礼の言葉を書きとってまとめるよう命じられ、安万侶は日本語的な漢文で記した全3巻を712年に献上した、と経緯を説明しています。また稗田阿礼は聡明な若者で、目に見たものは即座に言葉に置き換えることができ、耳に触れた言葉は心の中にしっかりと覚えこんで忘れることはないと形容されています。この序文は漢文ですが、本文は漢文をベースにしつつ万葉仮名を取り入れた形式で書かれています。著者が同じなのに文体が違います。
一方720年に完成した日本書紀には製作の経緯は書かれておらず、その後に書かれた続日本紀(797年)に、天武天皇の命によって舎人親王(天武の息子)らが日本紀の編纂に当たり完成させたと記されています。日本書紀は漢文です。この続日本紀に古事記のことは一切書かれていません。
日本書紀の注釈書「弘仁私記」(812年)の序に、日本書紀は舎人親王と太安万侶らが詔勅を受けて編集したと書かれています。さらに稗田阿礼についても古事記序文と同じことが記されています。これを書いたのは太安万侶の子孫の多人長だそうです。古事記に関しての初めての記述です。完成から100年、古事記がどのような状況にあったのかはわかりません。
なぜほぼ同時期にふたつの史書が作られたのかの説明として、通常は、古事記は国内向けの天皇家の正統性を示すもの、日本書紀は外国に向けた大和朝廷の公式な歴史書という顔を持っているからと言われます。
でもこの説明には違和感を覚えます。古事記が天皇家の正統性を示すのであれば、あのような描き方をするかなと思うのです。天孫の神々は内面的にもなんだか軽く描かれていて、反対に出雲の大国主のことを徳のある英雄として細やかに描写を重ねています。この国のもとを一生懸命に造った大国主から、国を譲れといって簡単に奪ってしまった天孫族の好感度は決して高いとはいえません。そして日本書紀は大国主については大幅にカットされ、淡々と皇位継承について話が進められます。結局日本書紀だけが史書としての扱いを受け、古事記は続日本紀にその製作経緯についてすら記されず、完成後から時を経ていつの間にか世の中に現れました。そのため偽書と言われたり神話や伝説の扱いとなっていったことを考えると、同時期に作成されたこのふたつの史書の背景に隠された意図を感じてしまいます。
さて、出雲の伝承にこの時代の驚きのワンシーンが伝えられています。旧出雲王家の向家が716年に杵築大社(現・出雲大社)を創建後、出雲の熊野大社から杵築大社へと移転して間もなくのことです。密使がやってきて、向家当主に国庁近く(松江市竹矢町)の太オウ家の屋敷のほうまで来てほしいと頼みました。当主が行くと、山辺赤人ヤマベノアカヒトと名乗る人物が待っていました。斎木雲州著「古事記の編集室」から抜粋します。
『かれは自分と柿本人麿が、古事記と日本書紀を書いた、と話した。出雲の歴史は書かない予定だったが、自分が書くことを主張して書くことになった、と話した。つまり、出雲王国を出雲神話に変えて出雲国造は隠したが、古事記に17代にわたる出雲王名が書かれたことを、話した。向家の当主は出雲人を代表してお礼の言葉を述べた。また赤人はそのうちに、カズサの国に行く予定だ、とも言った。向家では後で国庁役人に確かめたら、オウの屋敷には太安万侶が住んでいた、と教えられた。それで向家では、太安万侶の屋敷に住んでいた山辺赤人から話を聞いたと考えていた。その屋敷跡にはその後サイノカミの祠ができて、地元の人は「オウ(意宇)の杜」と呼んで祭っている。太安万侶の墓ができた頃、大社町に山辺赤人の供養塔が建てられた。その場所はのちに赤塚という地名になった。同じ頃その北の小土地という所に山辺社が建てられたらしい。出雲国風土記の出雲郡に山辺社の名前が書かれている。それは今、赤人神社の名前となっている。』
伝承では、太安万侶の屋敷に住んでいた山辺赤人と会った、ということになっているようですが、斎木氏はふたりは同一人物だろうと言われます。古事記と日本書紀の編纂に山辺赤人が関わったということは記されていないので、やはり同一人物とするのが妥当かと思います。
※山辺赤人(山部と同じ)は生没年不詳の万葉歌人で、史書には名が記されておらず下級官吏だろうということです。724年から736年に歌人として活動していたようで、柿本人麿を継承する歌人ともいわれました。
ではなぜ太安万侶が偽名を使わなければならなかったのでしょうか。
1979年に太安万侶の墓が奈良市の茶畑で発見されました。墓誌も出土し、723年8月に没したことが記されています。日本書紀の完成から3年後です。当時墓誌というのは極めて珍しいものだったようです。
「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」
一方、山辺赤人は762年6月8日に没し、お墓は千葉県にあります。斎木氏は奈良で発見された太安万侶の墓は偽物ではないかと考えておられます。これは柿本人麿が古事記を書いた後に冤罪によって流刑となったのと同じく、日本書紀を書いた太安万侶も幽閉されたのち、別の人物として生きる道を許されたため、太安万侶は死亡したことにして山辺赤人として後半生を上総かずさの国で生きたという可能性です。
赤人の子孫の方から斎木氏に手紙が届き、そこには「先祖の山辺赤人は、予定より早く政府高官により退職させられたことを、生涯恨んでいた」と書かれていたそうです。
※斎木雲州著「万葉歌の天才」によると、赤人の供養塔を大社町に建てたのは向家であり、赤人への感謝の気持ちだったといいます。でもそうなると先述の「太安万侶の墓ができた頃に赤人の供養塔が建てられた」という文は辻褄が合いません。赤人が亡くなったのはそれより随分あとのことなので。時期が正しいとすれば、ふたりが同一人物と知っていたということでしょうか。
689年 撰善言司を設置(委員の1人は伊予部馬飼)
690年 持統天皇即位
701年 大宝律令制定
710年 平城京遷都
712年 古事記完成
716年 日本書紀の事実上完成か(続日本紀に太安万侶を氏長とする記事あり)
717年頃 山辺赤人が向家当主と会う
723年 太安万侶死去(58歳)
724年 柿本人麿死去(77歳)
762年 山辺赤人死去(97歳)
それでは次回、斎木氏が記紀編纂について書かれていることをまとめてみたいと思います。